12 / 26
第12話 連れて行って
窓の外で、朝の光がカーテンを透かしていた。
鳥の声が聞こえる。
――こんなにも静かなのに、胸の奥では何かがざわめいていた。
スーツケースのチャックを閉める音が、
部屋に響く。
「三日間だけ。……三日だけ離れよう。」
自分に言い聞かせるように呟く。
ただの出張だ。
俺が言った距離をおくだけだ。
ほんの少し、呼吸を整えるための時間。
でも、その小さな「逃げ」の選択が、
取り返しのつかないことを呼ぶ気がしていた。
⸻
会社に連絡を入れると、
部下が「あ、課長、出張の件了解しました」と軽く答えた。
その言葉の裏に安堵があった。
玲奈にも簡単なメモを残す。
〈数日不在にします。緊急案件はメールで。〉
それだけ書いて、
総はため息をついた。
頭の中では、昨夜の彩芽の顔が離れない。
泣きそうで、笑っていた。
愛しているのに、脅すように近づいてきた。
あの目が脳に焼き付いて離れない。
⸻
玄関の靴を履いたとき、
ドアの外に影が落ちた。
心臓が跳ねる。
覗き穴の向こう、
見慣れた金髪が、陽の光の中で揺れていた。
――どうして。
ドアを開けるより先に、彩芽の声が聞こえた。
「総さん、どこ行くんですか?」
その問いは、あまりに自然だった。
まるで“出張”という言葉を聞いていたかのように。
総はゆっくりとドアを開けた。
「……お前、なんでここに」
「なんでって、心配だからに決まってるじゃないですか」
彩芽は笑っていた。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
⸻
「出張です。ほんの数日、仕事で」
「へえ……どこまで?」
「長野」
「俺も行きます」
「は?」
「俺、授業ないですし。……総さん、放っといたらまた倒れるでしょ」
「彩芽、これは仕事だ。遊びじゃない」
「俺にとっては、“生きること”が仕事なんですよ。
あなたの隣で息することが」
声が低く、穏やか。
なのに、逃げ道を与えない。
総はスーツケースを握りしめた。
「頼む、少しだけ距離を置かせてくれ」
「距離、ねぇ……」
彩芽が一歩近づく。
その距離が、総の心臓を叩いた。
「俺、あなたに触れないように頑張ってるのに。
それでも“距離”が欲しいなんて……ずるいですよ」
「俺は――」
「何ですか?」
「……お前を、怖いと思ってる」
その言葉に、彩芽の瞳が揺れた。
でも、次の瞬間、ふっと微笑んだ。
「なら、俺は勝ちですね」
「勝ち?」
「だって、“怖いほど”愛してるってことでしょう?」
その歪んだ論理に、
総の言葉は喉の奥で止まった。
⸻
彩芽はそっとスーツケースに手を伸ばした。
指先が、総の手の上に重なる。
「ねぇ、総さん。
もし本当に行くなら、俺も連れてってください」
「……だめだ」
「じゃあ、俺はここで待ちます。
でも約束してください。
“戻ってくる”って。」
その声には、
まるで幼い子が母親にしがみつくような脆さがあった。
総は、息を詰まらせたまま頷いた。
「……帰るよ。必ず。」
彩芽が微笑む。
その笑顔の奥で、
何かがゆっくりと蠢いていた。
⸻
電車のホーム。
発車ベルが鳴る。
ホームの端で、彩芽が手を振っていた。
穏やかで、優しい笑顔。
けれど、その視線が――
列車のガラス越しに、
まるで“監視”のように感じられた。
扉が閉まる。
総は、背中に冷たい汗を感じながら、
自分の胸の奥で小さく呟いた。
「……俺は、逃げられないんだな。」
ともだちにシェアしよう!

