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第12話 連れて行って

 窓の外で、朝の光がカーテンを透かしていた。  鳥の声が聞こえる。  ――こんなにも静かなのに、胸の奥では何かがざわめいていた。  スーツケースのチャックを閉める音が、  部屋に響く。  「三日間だけ。……三日だけ離れよう。」  自分に言い聞かせるように呟く。  ただの出張だ。 俺が言った距離をおくだけだ。  ほんの少し、呼吸を整えるための時間。  でも、その小さな「逃げ」の選択が、  取り返しのつかないことを呼ぶ気がしていた。 ⸻  会社に連絡を入れると、  部下が「あ、課長、出張の件了解しました」と軽く答えた。  その言葉の裏に安堵があった。  玲奈にも簡単なメモを残す。  〈数日不在にします。緊急案件はメールで。〉  それだけ書いて、  総はため息をついた。  頭の中では、昨夜の彩芽の顔が離れない。  泣きそうで、笑っていた。  愛しているのに、脅すように近づいてきた。  あの目が脳に焼き付いて離れない。 ⸻  玄関の靴を履いたとき、  ドアの外に影が落ちた。  心臓が跳ねる。  覗き穴の向こう、  見慣れた金髪が、陽の光の中で揺れていた。  ――どうして。  ドアを開けるより先に、彩芽の声が聞こえた。  「総さん、どこ行くんですか?」  その問いは、あまりに自然だった。  まるで“出張”という言葉を聞いていたかのように。  総はゆっくりとドアを開けた。  「……お前、なんでここに」  「なんでって、心配だからに決まってるじゃないですか」  彩芽は笑っていた。  けれど、その目は少しも笑っていなかった。 ⸻  「出張です。ほんの数日、仕事で」  「へえ……どこまで?」  「長野」  「俺も行きます」  「は?」  「俺、授業ないですし。……総さん、放っといたらまた倒れるでしょ」  「彩芽、これは仕事だ。遊びじゃない」  「俺にとっては、“生きること”が仕事なんですよ。   あなたの隣で息することが」  声が低く、穏やか。  なのに、逃げ道を与えない。  総はスーツケースを握りしめた。  「頼む、少しだけ距離を置かせてくれ」  「距離、ねぇ……」  彩芽が一歩近づく。  その距離が、総の心臓を叩いた。  「俺、あなたに触れないように頑張ってるのに。   それでも“距離”が欲しいなんて……ずるいですよ」  「俺は――」  「何ですか?」  「……お前を、怖いと思ってる」  その言葉に、彩芽の瞳が揺れた。  でも、次の瞬間、ふっと微笑んだ。  「なら、俺は勝ちですね」  「勝ち?」  「だって、“怖いほど”愛してるってことでしょう?」  その歪んだ論理に、  総の言葉は喉の奥で止まった。 ⸻  彩芽はそっとスーツケースに手を伸ばした。  指先が、総の手の上に重なる。  「ねぇ、総さん。   もし本当に行くなら、俺も連れてってください」  「……だめだ」  「じゃあ、俺はここで待ちます。   でも約束してください。   “戻ってくる”って。」  その声には、  まるで幼い子が母親にしがみつくような脆さがあった。  総は、息を詰まらせたまま頷いた。  「……帰るよ。必ず。」  彩芽が微笑む。  その笑顔の奥で、  何かがゆっくりと蠢いていた。 ⸻  電車のホーム。  発車ベルが鳴る。  ホームの端で、彩芽が手を振っていた。  穏やかで、優しい笑顔。  けれど、その視線が――  列車のガラス越しに、  まるで“監視”のように感じられた。  扉が閉まる。  総は、背中に冷たい汗を感じながら、  自分の胸の奥で小さく呟いた。  「……俺は、逃げられないんだな。」

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