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第18話 言葉に溺れる

春が過ぎ、部屋が少しだけ暑くなった。  窓の外では、風が新しい葉を揺らしている。  最近、彩芽はよく机に向かっている。  ペンの走る音が、いつもより長く、深く続くようになった。  初めは大学の課題かと思っていた。  けれど、覗けばいつもノートの上には、  物語の断片が並んでいる。  「……また書いてるのか」  そう声をかけると、  彩芽は顔を上げて笑う。  「はい。今度は“愛”の話を書いてみたくて」  「愛、ね」  「総さん見つめてると、瞳の奥に“想い”がある気がするんです。   俺も、それを……ちゃんと書けるようになりたくて」  その真剣な瞳を見て、  少しだけ胸がざわめいた。 ⸻  彩芽が俺の言葉に憧れてくれていることは、  嬉しい。  けれど、その“熱”があまりにも真っすぐすぎて、  ときどき怖くなる。  自分の過去を、  この子が辿っていくような気がしてならない。 ⸻  その日、  彩芽がリビングの机にノートを広げていた。  視線を向けると、  机の端に放り出された大学の課題プリントが目に入る。  締切の赤い印が、もうすぐそこに迫っていた。  「……課題は?」  「あとでやります。今、ちょうどいいところなんで」  「ちょうどいいところ?」  「主人公が、自分の想いを言葉にできるようになってきたんです」  楽しそうに話すその声に、  何も言えなくなった。  止めたい気持ちと、  見守りたい気持ちが、  胸の奥でせめぎ合う。 ⸻  夜になっても、彼はペンを握っていた。  寝る時間になっても、灯りが消えない。  「彩芽、もう寝ろ」  「あと少し……あと三行だけ」  「昨日もそれ言ってた」  「だって、総さんが“面白い”って言ってくれたから……   もっと頑張りたくなるんです」  苦笑しながらも、  その言葉が心に刺さる。  “あの時のひとこと”が、  この子をここまで動かしてしまったのか。 ⸻  総の言葉は、  彩芽を救ったのか、それとも縛ったのか。  ふとそんな考えが頭をよぎる。  総の小説を読み、総の言葉に憧れ、  そして今、総の真似をして筆を取る。  それが“才能の芽”であることは間違いない。  けれど、  このまま彼が自分の世界を失ってしまうのではないかと、  小さな不安が消えなかった。 ⸻  「……彩芽」  「はい?」  「書くのはいい。けど、課題もちゃんとやれ」  「……わかってます」  そう言いながらも、  彼の視線はノートから離れなかった。  ページをめくる指先は震えていて、  その震えが、まるで“恋”みたいに熱を持っていた。 ⸻  総は静かにため息をつき、  窓の外を見上げた。  ――この子の未来を、  どこまで導いていいのだろう。  “褒める”ことが正しいのか、  それとも“止める”べきなのか。  答えは出ないまま、  キーボードの打鍵音と、彩芽のペンの音が、  夜の部屋に静かに響き続けた。

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