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第20話 約束の言葉

今日は静かな雨が降っていた。  朝から一度も部屋のドアは開かない。  ノックしても返事がない。  俺が怒鳴ったせいだ。  「……怒りたくて怒ったわけじゃないんだぞ」  呟いても、ドアの向こうには沈黙しか返ってこない。 ⸻  昼を過ぎても、物音がしなかった。  リビングには、昨日のままのマグカップ。  冷めたコーヒーの表面に、  小さな埃が浮かんでいる。  それを見ていると、胸が詰まった。  彩芽は繊細だ。  叱られたことよりも、  “総に嫌われたかもしれない”と思って  自分を責めているはずだ。  そういう子だ。  誰よりも愛を信じ、  誰よりも自分を疑う。 ⸻  夕方、意を決してドアを開けた。  鍵はかかっていなかった。  中は暗く、カーテンも閉まっている。  机の上にはノートが開いたまま。  その上に、彩芽が突っ伏して眠っていた。  総が肩を揺らすと、ゆっくりと目を開ける。  「……総さん?」  かすれた声。  泣き腫らした目。  胸が痛くなる。  「飯、食ってないだろ」  「食欲、なくて……」  「……バカ」  総は深く息をつき、  その髪を軽く撫でた。 ⸻  「怒ってごめんな。   でも、俺は……お前が壊れていくのを見るのが嫌だった」  彩芽は俯いたまま、  唇を噛みしめている。  「総さんが、離れていく気がして……   俺、怖くなって……」  その言葉を聞いた瞬間、  何かが胸の奥でほどけた。  彼は俺に依存しているのではなく、  “生きること”そのものを俺と重ねている。  だから、俺が怒れば世界が崩れる。 ⸻  「彩芽」  「……はい」  「約束しよう」  「……約束?」  「大学、ちゃんと卒業したら――   その時に、俺と付き合って欲しい」 彩芽の瞳が大きく見開かれる。  「……え?」  「今のままじゃダメだ。   お前には、まだ自分の未来を作る時間がある。   それを全部投げ出して俺の隣に来ても、   きっと後で苦しくなる」  「……でも」  「“でも”は言うな。   俺もお前が好きだよ。   だけど、お前がちゃんと前に進んでから、   その手を取らせてくれ」 ⸻  彩芽の目から、  ぽろりと涙がこぼれた。  「……卒業したら、本当に?」  「ああ」 「俺のこと、待ってくれる?」 「待つ。何年でも」  その言葉に、  彼の顔がふっと緩んだ。  泣き笑いのような顔。  まっすぐな心だけがそこにあった。 ⸻  「……約束、ですよ」  「約束だ」  差し出された指に、自分の指を絡める。  その瞬間、  どちらの指先も微かに震えていた。  「……頑張ります、総さん」  「頑張れ。   お前の言葉で、お前の人生を描け」  彩芽は静かにうなずき、  小さな笑みを浮かべた。  その笑顔が、  曇り空の向こうで光って見えた。

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