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第21話 約束のために
駅前の街路樹が、薄桃色に蕾を膨らませている。
人々が笑いながら行き交うその景色の中で、俺の胸の奥は、妙に静まり返っていた。
転勤の話が出たのは、ほんの数日前だった。
上司が告げた言葉。
「来月から、関西支社へ異動になるかもしれん」
数秒の間に、いくつもの考えが頭を駆け抜けた。
──仕事。
──新しい環境。
──そして、彩芽。
あの子の笑顔が、一瞬で脳裏に浮かぶ。
だが、同時に理解していた。
俺がここに居続けたら、
彩芽は“俺の隣で生きること”に慣れてしまう。
それでは、彼の未来を奪う。
⸻
「転勤……行くの?」
リビングで書類を整理していると、
背後から小さな声が聞こえた。
振り向くと、彩芽が立っていた。
指先でTシャツの裾を握りしめて、
まるで叱られるのを待つ子どものように。
「誰に聞いた?」
「……部長さんが電話してきてました」
少し苦笑が漏れる。
「早いな、噂が回るの」
「……行くんですか」
「行くよ」
総がその言葉を口にした瞬間、
彩芽の瞳が揺れた。
「どうして……」
「お前を、ちゃんと自分で立たせるためだ」
⸻
「そんなの……そんなの、俺、望んでません」
声が震えていた。
握り拳が白くなる。
「俺は、ここにいてほしいだけなのに。
総さんがいない場所で、どうやって頑張れって言うんですか」
その言葉が痛いほど胸に刺さった。
「彩芽。
“俺のいない場所”で頑張れなきゃ、
本当の意味で“俺の隣”には立てない」
「……そんなの、ずるい」
「ずるいくらいで、ちょうどいい」
笑いながらも、
喉の奥が締めつけられていた。
⸻
「お前が大学を出るまで、あと一年だな」
「……はい」
「その間、俺は向こうで仕事に集中する。
お前は勉強して、卒業して、胸を張って俺に会いに来い」
沈黙の中で、彩芽の目が滲む。
「……それで、本当に……迎えに来てくれますか」
「約束しただろ」
「……俺、待てるかな」
「待てるさ。だって、お前は強い」
そう言って、総は
彩芽の頭に手を置く。
小さく震えている。
それでも、その瞳には涙の奥に確かな光があった。
⸻
「総さん、俺……」
「ん?」
「俺、きっと、総さんがいなくても生きていけるように、なります」
その言葉に、総は胸が痛くなった。
本当は、“俺の中でずっと生きていて欲しい”と思っている
けれど、彼がそう言ってくれることが、
何よりの救いでもあった。
「……いい子だ」
撫でた髪の感触が、
離れる現実を突きつけてくる。
⸻
「行ってきます、彩芽」
「……いってらっしゃい」
その声を聞いた瞬間、
総は振り返れなくなった。
背中越しに、彼の視線が刺さる。
扉を閉めたあとも、しばらく動けなかった。
“離れる”ことが、
こんなにも愛しい痛みだと知ったのは、
このときが初めてだった。
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