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第26話 あなたの隣に

 ◆第53章 沈黙の会議、揺れる指先  総の原稿打ち合わせは、  まるで儀式のように緊張した空気で始まった。  久々すぎる天才作家の復帰。  業界がざわつくほどの出来事だ。  しかし、  彩芽にとって緊張の理由はまったく別だった。 (……総さんの横顔……)  三年ぶりに見る紫の瞳は、  大人びて、どこか影があった。  資料を指でなぞりながら、  総は落ち着いた声で話す。 「……この章の展開は、もっと緩やかでも――」  声は昔と変わらない。  少し低く、静かで、  なのに心の奥を掴んで離さない。  彩芽は、震える指先を必死に抑えていた。  総に会いたかった。  本当に、心から、ずっと。  だけど──。  総もまた、  資料を持つ手が微かに震えていた。  誰も気づかないような、小さな揺れ。  彩芽だけが見つけることのできた震え。  (……やっぱり。   総さんも……動揺してる)  胸が熱くなる。  涙がでそうになる。  総は、無表情を保とうとしていた。  だが、時折、呼吸が乱れる。  ――自分を避けた人の顔じゃない。  三年連絡を絶った人の目じゃない。  こんなふうに揺れるなら、  どうして離れたんだ――。  そう思いながら、  彩芽はプロの顔を保ち続ける。 「こちらの展開は……非常に読者が求めていた方向性だと思います」  静かに、落ち着いた声で。  総の視線が、わずかに彩芽に向く。  すぐに逸らす。 (逃げてる……)  そう感じた瞬間、  胸の奥に熱いものが込み上げた。  数時間の会議は淡々と進んだ。  総の筆致に皆が感嘆し、  編集方針を決める。  会議が終わる頃には、  他の編集者たちは興奮しながら退室していった。  そして廊下に、  彩芽と総だけが残された。  沈黙。  長い沈黙。  総は壁にもたれ、  うつむいたまま言葉を探していた。 「……なんで、ここに?」  静かな声。  震えていた。  彩芽は一歩、近づく。 「総さんが……書く場所に、いたかったからです」 「…………」 「あなたの隣に……もう一度、戻りたかった」  総はゆっくり顔を上げる。  紫の瞳が揺れていた。  痛いほどに、寂しげに。 「……俺は、彩芽を……巻き込みたくなくて」  その言葉が胸に刺さる。  あの日の突然の転勤  連絡を絶った三年  すべて、その一言に繋がるのか。 「……そんなの、勝手ですよ」  声が掠れる。  「俺は……あなたが離れた日から、  一日だって……忘れたこと、なかったのに」  総は息を呑んだ。  そして──  気づけば、彩芽の手首を掴んでいた。  弱い力で。  すぐに離れそうな、震えた指で。 「……俺も……忘れられるわけ、なかった……」  その言葉が胸に落ちた瞬間、  彩芽の視界がじんわり滲む。 「だったら……なんで……」  総は唇を噛む。  「怖かったんだ。   彩芽を……好きになりすぎることが」  息が止まる。  総の頬はわずかに赤く、  紫の瞳は脆いほど揺れていた。 「お前を失うことが……怖くて……」  彩芽は耐えられなかった。  胸が、張り裂けそうだった。  だから、  静かに一歩近づき、  総を抱きしめた。  何も言わない。  言葉はいらなかった。  総の肩が震え、  掴む手が強くなる。 (……もう離さない)  彩芽の腕が、総を包み込んだ。  愛が、再び重なり始めた。      編集部を出た夕方の空は、  薄紫色に沈みつつあった。  ビルを抜けた道は静かで、  街灯がぽつりぽつりと灯り始めている。  総は歩幅の小さな歩き方で、  彩芽の前を行くでもなく、  後ろを歩くでもなく、  横に並ぶでもなく――  “寄り添う距離”を保っていた。 (……この距離感、三年前と同じだ)  息が苦しくなるほど懐かしい。  ずっと会いたかった。  ずっと触れたかった。  けれど触れた瞬間、  また離れていく気がして怖い。  だから彩芽は、  ポケットの中で手を握りしめた。  総の肩越しに見える横顔は、  どこか言いたげで、  どこか戸惑っていて、  それでも彩芽より少しだけ前を歩いている。  沈黙が、二人の間を揺れた。  どちらからも声が出ない。  駅の方へ向かって歩きながら、  ふいに総が立ち止まった。 「……彩芽」  振り返らず、  それでも声だけは彩芽のほうへ向く。 「今日……話したいことがある」 「……はい」  喉が震えていた。  総は小さく息をついた。  自分の気持ちに触れるような、  慎重な呼吸。  「俺は、三年前……   逃げたんだ」 「……逃げた?」  「お前から。   お前の想いから。   ……そして、自分の気持ちから」  彩芽は胸を掴んだ。  痛いほどに。  総は続ける。  「俺は……怖かった。   好きになったら、   全部壊れる気がした。   お前の人生を台無しにするんじゃないかって……   ──ずっと思ってた」 「……総さん」  「だから距離を取った。   電話も……返せなくなった。   会えば余計に、   離れられなくなると思ったから」  総の声は小さく震えていた。  「それなのに……今日会って……   自分でも驚くくらい……   安心した」  その言葉は、  彩芽の胸に深く沈んだ。 (……安心してくれたんだ)  胸の奥が熱くなり、  息が詰まる。  総はゆっくり振り向き、  ほんの少しだけ手を伸ばした。  触れるか触れないか、  迷いに満ちた指先。  彩芽の指先も震えた。  触れたら、  きっともう離れられない。  総はそれを分かっているからこそ――  手を、伸ばせない。 「……総さんの家、どっちですか?」 「……え?」  少しだけ笑って、彩芽は言った。 「送って行きます」  その言い方が優しすぎて、  胸がまた熱くなる。  (……そうやって、   優しくする……) 「……総さんの家、行かせてください」  彩芽が一歩近づくと、  総も少しだけ近づいてくれた。  駅へ向かう道を、  肩が触れそうで触れない距離で歩く。  言葉がないのに、  ずっと話しているみたいな時間。  そして家の前に着いたとき、  総は小さく息を吐いた。  「……三年ぶりですね。   総さんの……家、行くの」 「あぁ」  彩芽は、  総の紫の瞳をまっすぐ見つめたまま言う。 「もう少し、あなたと居たい」  総は目を伏せた。  その肩が寂しげに震える。 「…すまん…今日は帰ってくれ…また今度な、」  その言葉は、拒絶ではなかった。  ――総は逃げていない。  向き合おうとしている。  その一歩が嬉しくて、  彩芽は小さく笑った。  「分かりました。   ……でも今度は逃がしませんよ」  総が驚いて目を見開く。  彩芽のその顔が、  あまりにも愛おしそうに見つめるから。  そのまま2人見つめ合う数秒の沈黙が、  夜の風より甘かった。 「……おやすみなさい、総さん」 「おやすみ。彩芽」  彩芽は帰っていった。  背中を見送りながら、  総は胸の奥で囁いた。 (逃げれないな……ほんとに)  ————     総が自宅のドアを閉めたとき、  部屋の静けさが耳に重く響いた。  何も変わらないモノトーンの部屋。  何も置かないようにしてきた空間。  人が寄りつかないように整えた生活。  ――近づけば、壊れると思っていた。  けれど今日、  玄関に立つ彩芽の姿を見た瞬間、  総の胸の奥で何かがほどけた。  靴を脱いで、  ソファに腰を下ろす。  視界の端に、  湯気の消えかけたマグカップと、  好んで読んでいた昔の文学書が積まれている。  その上には、一冊のノート。  総が三年間書けなかった、  書こうとすると胸が痛んだ“未完成の物語”。  彩芽に話したことは一度もないけれど、  あの頃、  そばにいた少年をモデルにした──  総が守れなかった“光”の物語。  総はゆっくりとノートに指を触れた。 (……彩芽が、目の前にいた)  それだけで呼吸が乱れた。  手が震えた。  逃げた三年間の重さが、  一気に胸に戻ってくる。 「……あや……め……」  名前を呼んだ瞬間、  喉が詰まり、目頭が熱くなる。 (忘れるわけ、ないだろ……)  どれだけ離れても、  どれだけ距離を置いても。  今日、再会したあの瞬間、  総の世界は鮮やかに塗り替えられた。  優しく笑った顔が浮かぶ。  名前を呼ぶ声が蘇る。  触れそうで触れない距離のぬくもりが残っている。  ――手を伸ばせば、届いた。  その“当たり前のこと”に、  総は膝に顔を伏せて震えた。  (……好きだ。   ずっと。   ずっとずっと……好きだった)  胸が痛い。  苦しい。  どうしようもないほどに。  逃げる理由なんて、  もうどこにもなかった。  ノートが静かに落ちる。  総は立ち上がり、玄関へ向かう。  靴は履かない。  ドアチェーンだけをかけ、  深く息を吸った。 「……向き合わなきゃ、だめだ」  逃げてきた感情を、  逃げてはいけない。  彩芽が“迎えに来てくれた”ように。  今度は自分が歩き出す番だ。  明日――  どうしても伝えたいことがある。  胸の奥で震える言葉を、  やっと形にできそうだった。 (……もう、隠せない)  総はスマホを手に取る。  メッセージ画面に指を滑らせ、  たった一文だけ打ち込んだ。   「明日、話がしたい。時間あるか?」    送信ボタンを押した瞬間、  胸の奥が強く跳ねる。  あとは、  あの金髪の青年の返事を待つだけ──。

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