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〖〜 天春 春月の人生(は終了しました) 〜〗4

           ――君の歌声が聞こえる。      僕の唇に何かがちょんと触れたそのこそばゆさに、僕は閉ざしていたおもたい上まぶたをゆっくりと上げていった。   「……、…」    僕の長く黒い前髪のすきまから見えた――昼間のやや薄暗い縁側(えんがわ)の古びた屋根、左から射しこむ春の陽光に照らされてキラキラと輝きながら舞う(ほこり)、…ひらひらと飛びたった一匹の青い蝶は、縁側に仰向けになって寝ころぶ僕の左側にある、小さい日本庭園のほうへその翅をはためかせて行った…――アコースティックギターの悲しげな旋律に合わせて聞こえてくる――『君は僕を忘れたか 愛しい人よ』とこの切ない歌声は君、…いや、…僕の「推し」である大人気シンガーソングライター・ChiHaRuさんの歌声だ。   『風は春を運び 春風となって届けられる 春の日を』……僕は胸板のうえに置いていた自分のスマートフォンを取り、顔の前に持ち上げる。  その縦長の画面のなかではもちろんChiHaRuさん――銀髪にエキゾチックなあめ色肌、彫りの深い、完璧というほど端整な顔立ちの美青年――がその銀色の長いまつげを伏せて床にあぐらをかき、その(もも)のうえにのせた茶色いアコースティックギターを()きながら、切ない声で自作の曲を歌っている。      『 君は春を忘れたか 愛しい春よ      伸ばした手 春風 まだ君に届かない      花の香りなくして 風は 春風になれない 』     「……へへ、…」    やっぱりいいなぁChiHaRuさんの歌……。  それにビジュも良すぎる。…ほんと大好き――。    ちなみにChiHaRuさんはまだ二十八歳なのだ。容姿もその年齢の男性相応に色っぽさと若々しさとが混在していてビジュ最高である。  さらにちなみに、彼の誕生日は五月五日(くしくも子どもの日生まれ)なのだが、実はなんと僕と一日違いなのだ――僕は五月四日生まれである――。  まあ惜しくも一緒の誕生日ではないものの(ましてや彼は三十二歳の僕より四歳年下だし)、しかし、推しと誕生日が極近いというのはそれだけでも結構嬉しい。   「……、…」    それにしても…――と僕は小首を傾げる。  ChiHaRuさんは目を伏せたまま弾き語りを続けている…『僕がもし君の名前を忘れても 僕は君を 祈りを込めて 愛します』…――やっぱり彼、…僕のあの夢の中に出てくる銀髪の美青年と瓜ふたつだ。   「……、…」    いや、あの夢を見た直後にこうして改めて見てみると、もはやほとんど同一人物というか…――。  ……この外国人とさえ見まがうような彫りの深い顔は、その艶のある若々しいあめ色の肌のその色が、よりエキゾチックな印象を深めている。長いまつ毛も夢の美青年と同じ輝くような銀色、その凛々しい濃い灰色の眉の色や形まで同じと見える。また彼のつやのある愛らしい珊瑚色の唇も、自然と少し口角が上がっているところまでよく似ている…――というかもはや、顔立ちは「完全に」といっていいほど同じかもしれない。    そしてChiHaRuさんの、このうっすらと薄紫がかった銀髪は、そのゆるいウェーブの癖と色、また完全な真ん中わけの前髪こそ夢の美青年と同じようだが、後ろ髪の長さが違う。――美青年の後ろ髪は腰の下ほどまでも長さがあったが――ChiHaRuさんの後ろ髪はおそらくうなじよりやや下くらいまでの長さであり、彼は今その後ろ髪をゴムで一つにちょこんとまとめている。    ――目を伏せて『僕がもし 神の名前を 忘れても』と切なげなメロディーで歌うChiHaRuさんが、『僕は神に 祈りを込めて 思い出す』との一節の瞬間、その両目を上げてカメラを見る。   「……、…」    ChiHaRuさんのその浅い二重のまぶたは、その目尻が甘やかに垂れている。  そして彼のその二つの瞳の赤味がかったオレンジ色は、しかし陰れば真紅に、光が当たれば澄明(ちょうめい)なオレンジ色にと神秘的に色を変える――目の色に関してはいささか判断が難しい。  というのも、夢の美青年の瞳は見るにほとんど真紅だった。しかしChiHaRuさんの瞳も、基本はオレンジっぽいとはいえ、その瞳に影が差すと真紅になる瞳をもっている。    ただ――あるいは夢の美青年も彼と同じ目をもっていたとすれば、その美青年は夢のなかで終始日陰の藤棚の下にいたため、その陰りにその瞳も真紅に見えていた…ということなのかもしれない。    ちなみにChiHaRuさんのこの美しい瞳の色は、黒や茶色が普通の日本人たちの目には、かなりめずらしいと同時に特別神秘的と映り――いや世界の人々も、彼のその神秘的な瞳になかなかメロメロになっているようだが――、そうして彼の瞳に魅了されたファンの一人があるとき、何気なくSNSで『ChiHaRuくんの目って見れば見るほど吸い込まれそう…サンストーンみたい』とつぶやいた。  ……するとそれに共感したファンたちがその発言をひろくSNS上で拡散した結果、今やChiHaRuのファンの間では彼のその瞳イコール「奇跡のサンストーンの瞳」との共通認識があったりもする。    いずれにしても、やっぱりChiHaRuさんと夢の美青年は似ている――これってひょっとするとひょっとして何かしらの運命…、なのか、…やっぱり単なる僕の(ある種どこまでも()()()()()()()()僕の)願望(執念)なのか…。  まあどっちだっていい…――ChiHaRuさんはアコースティックギターを弾いている手もとを見下ろしながら、のびやかながら切ない声でこう歌う。    『 僕がもし 神の名前を 忘れても    僕は神に 祈りを込めて 思い出す 』   「……、…」    ほんと一生推す……と、そこまで僕はこのChiHaRuさんが大好き(もはや愛している)というのに、…不覚だった。――推しの生配信中にまでうっかり眠ってしまうとは……。    実をいうと、最近僕はなんとなくずっと調子が悪いのだ。  なんだかずっと気だるくて体が重たいし、頭もぼーっとするし、寝不足なのかというほど四六時中眠くて眠くてたまらない。それこそ大事な時にさえ(今も最推しの生配信中にまで…!)居眠りをしてしまうくらいなのだが――しかし、僕はこれでも人より健康的な生活をしているとの自負がある。    まあたしかに(重度の)引きこもりではあるのだが、僕は小学生の頃から早寝早起き毎日きっかり八時間睡眠、栄養バランスが完璧な食事を日に三回毎度完食(好き嫌いしない)、週三回以上の筋トレと毎日の軽い有酸素運動(家にあるランニングマシンでのウォーキング)と、…我ながらかなり規則正しい生活を送っている。――というか…僕は三十二歳にしてまだ実家暮らしなので、自主的にしている運動はともかくとしても、そのあたり子どもの頃から小うるさい母が、そうした僕の健康的な生活を支えて(管理して)くれているのである。  ……まあ時折(ネトゲに熱中しすぎて)()()かしをすることはあるが、それだって近ごろは徹夜なんて無理はしないようになっている。    しかし…なぜかこのところは、とにかく体が重くてだるくて、眠たくってたまらない。  それこそ頭も酷くぼーっとしてしまう、酷ければ先ほどのように気がついたら居眠りしている…なんてことが続いているせいで、僕は漫画家なのだが、実は仕事のほうにも結構支障が出ている。…病院にも行ってみたが、しかし精密検査の結果は至って健康体そのもの、疲労に効くビタミン剤を出されて終わりだった(なお心因性(しんいんせい)かも、と心療(しんりょう)内科も勧められたが、心のほうは体よりよっぽど元気なので行っていない)。    だのに……僕は実際今その体調不良のせいか、生まれて初めてスランプというものを経験している。  以前はあれほどポンポンと(さか)んに出ていたアイディアも今や上手く出てこないばかりか、漫画を描いているときにまでうっかり居眠りしてしまうこともあるくらいなのだ。――しかも更に悪いことに、月刊誌の連載のほうはそれでも何とか脱稿(だっこう)したものの、今かかえている読み切り二本のうち一本の締切が一週間後に迫っている。…いや、もう一本もまあまあ余裕のない二週間後なのだが…。  まあそれもネームさえ完成してしまえば、清書となる原稿完成は五十数ページも三十数ページもかかわりなく、()()()()()()()()()のだが…――僕は我ながら()()()()()()速筆(そうひつ)らしいのである――そのネームがなかなか…居眠りしてしまうわ頭はぼーっとするわで……。    したがって…それこそ本当は今、僕は(一応責任ある社会人として)推しの生配信を観ている場合でもないのだろう…――いやしかし、やっぱり締切より優先すべきは推しだろうな…? みんなそうだよな…?? まあなんとかなるよなーー。    僕のスマホ画面の中では、相変わらずChiHaRuさんがアコースティックギターを弾きながら歌っている――が、…    『 思い出した記憶は どれもこれもが 僕のもの…、…』    …彼のその歌声は震え、かすれ始めて不安定になってきた。   「……、…」    僕の胸に重苦しい心配がよぎる。    『 僕のもの 君の記憶も 僕のもの ――思い出した記憶は どれもこれもが 神の…ッ、…ッ』    ChiHaRuさんが顔をしかめてぐっと詰まり、…しかし彼はすぐ「ごめん」というようにカメラを見てにこっと笑うと、ボリュームを抑えた無理のない声で――しかし風邪を引いている人のようにかすれた声で――歌を続ける。  ……画面の左端にある縦長のコメント欄には、『大丈夫?』とか『無理しないで…!』などなど、ChiHaRuさんを心配するあたたかいコメントが次々と投稿されて上に流れてゆく。    実はChiHaRuさんは最近こういったことが増えていた。  ただそうした彼に対して、『歌手なのに喉のコンディションも整えられないのかよ(自己管理しろよ)』というような意見を言うような人は、少なくともこの場にはいない。かえって心配の声ばかりだ。――それは以前、ChiHaRuさんは全く声が出なくなってしまったことがあり、その際に無期限の活動休止をしていたときがあったためである。  ……しかも、そのときは歌えないという以前に、話すことさえできなかったそうなのだ。    天才シンガーソングライター・ChiHaRuは弱冠(じゃっかん)十八歳にして、その年の春ごろメジャーデビューした。  するとそのデビュー曲がまたたく間に大ヒット――またその後に彼が発表する曲においてもどれもがメガヒットをとばし、たちまち彼は「千年に一人の若き天才歌手・ChiHaRu」として世に名を()せることとなった。  そして今から数年前には世界デビューも果たし、今や彼は二十八歳にして「世界のChiHaRu」なんて称されるほどの、大人気シンガーソングライターとなったのである。    ChiHaRuさんの天才性はすさまじかった。  ……曲の出来の良さはもちろん、胸に直接届くようなその素晴らしい歌声――彼の歌声には「魔法」がかかっているとよく言われる。聴くだけで彼の曲に描かれた情景がなぜか頭に映像として流れる。そしてその曲に込められた感情がなぜかふしぎと聴く者の心にインプットされ、共感どころかその曲に容易に自己投影させる。美しい別世界に連れてゆく歌声、我知らぬ魂の奥底の記憶を呼び起こさせる歌声、魂を震わせて感動させるその歌声――、  その上絶世の美青年というほどの完璧な美貌をもち、さらには歌を披露しているときのその人とは思えぬほどの神々しさ――あたかも後光が、いや、彼自身があわく発光して光り輝いているかのようなその神々しさ――、つけ加え、(人生何周目? と言われるほど)優しく思慮(しりょ)深く慈悲(じひ)深い、が、一方おちゃめで甘えん坊で可愛いところもある彼の好青年ぶりも相まって、ChiHaRuさんを「神様の生まれ変わり」と称するファンもかなり多い。    しかし――そうした何百万人のファンの賞賛の声は反面、まだ二十代の青年を押しつぶさんばかりの多大なプレッシャーともなり得るものなのではないか、…と、僕はそう推察(すいさつ)している。  ChiHaRuさんは活動休止を宣言したとき、話すことを含めた「声」というものが全く出なくなってしまった理由を、『バーンアウトしてしまった』と発表していた。――なお「バーンアウト」というのは、脇目(わきめ)もふらずというほど非常に熱心に仕事をしていた人が、その過程でどうしてもつのる過度の精神的・肉体的な疲労から、あるときふっと虚無(きょむ)感におそわれて燃え尽きてしまう(無気力になってしまったり、遅れて心身の不調が一気に()き出してしまう)症状のことをいう。    そして僕はその発表をうけたとき、そりゃあ推しの活動休止をちょっと寂しくは思ったが、それより何よりもChiHaRuさんが心配でたまらなかった。一瞬、彼の身に起こってはならない悪い想像さえしてしまったくらいだ。  とにかく今はゆっくり休んでほしいと思った。むしろこれまで若い青年としてできなかったあらゆることを、この機会に目一杯楽しめたらいいのにな、とも思った。    僕がこう考えていたからだ。  何百万人の期待を一身に背負っている二十代の若き一人の青年――デビュー当時の十八歳から歌手として売れてしまったばかりに、ChiHaRuさんはきっとまだまだ未熟を許されてしかるべきその十代のころから――完璧なパフォーマンス、完璧な表情、完璧な性格、完璧な所作、完璧な態度、完璧な言動…その何百万人にいつなん時も「完璧な姿」を見せなければならない、また、いつなん時も誰かの目があることを意識して過ごさねばならない――いつも完璧でいなければならない――そうした、どこに行ったって気の休まるところがない緊張、かかる多大なるプレッシャーと、ChiHaRuさんは何年もの期間四六時中(たたか)ってきたはずだ。と。    そしてそのあまりにも重たすぎるプレッシャーは、ChiHaRuさんの喉をも潰してしまったのではないか――僕はそう推察していたので、この活動休止の機会に、ぜひ彼のやりたかったができなかったことを楽しめたらいいのにな…と、…きっと普通の十代や二十代の青少年がいくらでも自由にやれることだって、有名な芸能人の彼はそのほとんどを我慢してきたのだろうし……などと僕は思ってはいたが、しかし、これは現実的には難しいことだったろうが(活動休止したからといって、多くの人の目が彼に向かないなんてことはない)。    まあいずれにしても…――ChiHaRuさんは以前そうして活動休止をしたことがあるために、ましてやその理由も理由だったので――こうして彼の喉が最近また不調と見ると、僕たちファンは以前のそれをみんな思い出すばかりに、『また(ChiHaRuさんが)がんばりすぎているんじゃないか、無理しないで』という感じで、みんな心配になるのだった。    『 君がもし 僕の名前を 忘れても 』    弾いているギターの手もとを見下ろし、やはりおさえ気味で歌っているChiHaRuさんだが――今のところは()き込んでしまう、なんてことはない。前に一度だけ咳きこんでしまったことがあったのだ。    『 君は僕を 願いを込めて 思い出す 』   「……、…」    僕はハラハラしながら、スマホ画面に映るChiHaRuさんを見つめている。――頑張れ…!   「……ちゃん…、…エちゃん……」   「…あともうちょっとで一曲終わる…、頑張れChiHaRさ…」   「天春(アマカス) 春月(ハヅキ)!」   「…ッぅあ゛、!?」    驚いた僕はビクッとしながらすぐ右側を見上げ、持っていたスマホもあわてて胸板に伏せた。いずれも単なる子どもらしい条件反射だ。  今僕の名前を大声で呼んだ、この藤色の着物を着ている細身の女性…――クリームイエローの上品な帯がまかれた腰に両方の拳をあてて僕を見下げ、怒った顔をしている彼女は――僕の母・天春(アマカス) 玉妃(タマキ)だ。   「な、何…?」    まだ僕の心臓がバックンバックンいっている(びっくりしすぎたのだ)。――すると母は、僕を見下ろすその目をすーっと細め…、   「何…ですって…? まさかあなた、忘れているんじゃないでしょうね…?」    と恐ろしい小声で言うのである。     「……、…」      え、やば…な…なんだっけ…――?        

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