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                「ママは昨日…あなたにあれほど言ったでしょう……?」   「…ぁえ、えーっと…、…、…、…」    と僕はそばに立つ母から目をあらぬ方へそらす。  しかし、それでもなお母が放つその恐ろしい重圧の雰囲気は(漫画だったならおどろおどろしい書体で「オオオオォ…」と記されるだろうその雰囲気は)、縁側に寝そべる僕の全身をも上から押さえつけてくるようだ。指一本動かしただけで()られる、…この母の怒りのオーラ、子どもならとてもじゃないが無視できない、いま彼女がその上品で華奢(きゃしゃ)な全身から放っているある種()()()()()()()は、早いところ思い出さねば殺される、と僕を焦らせる。――だが、…困ったことにさっぱり思い出せない、…   「……、…、…」    原稿のことだろうか? ……いや、編集者じゃあるまいに、母は僕の仕事には口出ししない。  何か頼まれ事でもしていただろうか? ……いや、我が家にはじいやがいるので、大概の雑用なら彼がやってくれる(たまに彼に手伝いを頼まれてやることはあるが)。  縁側で寝っ転がってだらだらしているせいか? ……いや、それは「まさか貴様忘れたのか(しばくどおんどれ)」と詰められるようなことじゃない。そもそも風邪を引きかねない冬ならばまだしものこと、あたたかい春の日の縁側にのんびり寝そべっているくらい、そう責められるようなことでもない(実際母はそれくらいのことなら全く責めない)。   「…ん、…ん〜〜……」    駄目ださっぱり思い出せない、もはや「わからない」という程度である…――といってこの()()()()()()のいら立った母に対し、今すぐに「なんだっけ…?」と率直に聞く勇気もない。聞くにしても、まずは今イライラしているこの母をもうちょっとなだめすかしてから……。  ということで、ここは必殺……僕は顎を引く。上目遣いで母を見る。   「あれ…? ママ…いつも綺麗だけど、今日はまたやけにいつもより綺麗だね…?」    窮地に立たされている僕はそう彼女におべっかを使った。が――事実我が母ながら、彼女は(怒っていても)相当な美人である。  二十代前半に僕を産んでくれた僕の母は、今五十代前半にして、いまだ三十代とも四十代とも見える若々しい美人だ。  そのシワ一つないハリのある澄みわたるような白い肌、たるみのない小さい卵型の輪郭、そして可愛い感じの猫顔、ただし猫っぽいちょっとツンとした感じのクールな要素も持ち合わせている。奥二重の大きな目をした美人だ。その小さい桃色の唇も猫っぽい曲線を描いている。上の歯には左右に八重歯(やえば)があって、笑うとより猫っぽい(今は笑うどころか恐ろしい顔をしているが)。    そして彼女の瞳は――実はChiHaRuさんとよく似た、赤味のつよいオレンジ色なのだ。  めずらしい色の瞳の人を二人、いや()()()知っているとは、なかなか僕も稀有(けう)な人生を歩んでいるのかもしれないが、…それにしても……よく男の子は自分の母親に似た人を好きになりがちだ、というが、…するとゲイの僕でもやっぱりそんなもんなんだろうか?    またその華奢な158センチの細身は実より小柄と見える。――今日は藤色に鴛鴦(おしどり)檜扇(ひおうぎ)がえがかれた着物を着ている。彼女はなで肩なので着物がよく似合う。帯はクリームイエローのシンプルなものだが、それの糸は上品にちらちらと微細(びさい)なきらめきが時々見られる素材のもので、遠巻きに見れば優美(ゆうび)ななめらかな(きぬ)の艶もある。  そして本来はお尻まで届くほど長い彼女の黒い直毛の髪は、今日も楚々(そそ)としたまとめ髪になっている。彼女は常日ごろから着物を身につけていることが多いので、こうしたまとめ髪にしていることも多い。  ――で、…母は僕が上目遣いで「今日はいつもより綺麗だね」なんておべっかを使ったなり、   「あらそう?」とパッと機嫌よさげな微笑をうかべ、着物の藤色の衿もとをその白魚(しらうお)のような手でおさえる。   「うんうんうん。とっても綺麗だよ。」   「……そうかしら、どうもありがとう」――母が嬉しそうに目を伏せながら、その白い細い首筋を逸らし、(はす)へ顎を伏せる。日本美人の所作だ。   「…いやいや、いつも綺麗だけど……」    よかった、ご機嫌とり大成功…――母はその美貌を褒められると、こうしてすぐに機嫌がよくなってくれる人である。   「…ところで…」    と僕は頃合い「なんだっけ」と、僕が忘れているらしい何事かを尋ねようとした。  しかしその前に母が「それはともかく」と厳しい顔を取り戻す。…いや、それはそれ、これはこれ…そうだった、母はそういう切り替えの早い人でもある……。   「ねえウエちゃん?」と母が叱るような声で僕に呼びかける。  ……ちなみに僕はなぜか母と祖父(およびその二人の友人たち)、またじいやに小さい頃から、ハヅキという名に一文字もかすめない「ウエ」というあだ名で呼ばれている。――それの由来は、いわく僕が「高い高い」が大好きな子どもだったから(もっと「(うえ)」にもち上げて! もっと上! とみんなにせがむような子だったから)、らしい。    母は腕を組み、じとーっと細めた両目で僕を見下ろす。   「…ママ、今日はこれからお出かけすると言ったわよね。十五(さん)時のお約束なんですから、いい加減お支度(したく)なさい。」   「……、…」    あ、そうだった…――僕はスマホ画面の左上、現在時刻を確認する。  ところがまだ十三時三十三分だ。――どうして母親という存在は、まだまだ時間の余裕があるうちに(ときに告げる現在時刻の嘘をついてまで)子どもを急かすような生き物なのだろうか……?   「…えー…? でも、まだ十四()時にもなってな…」   「天春(アマカス) 春月(ハヅキ)…」と母がじっとりと細めた目で僕を見下ろしながら、   「今すぐにお支度なさい。」    と僕を「(のろ)うように」命じてくる。   「……あぁ、あはは…、……」    僕は母のその「呪い」を笑ってかわす。  ちなみに「呪い」というのは……まず言うまでもないことだが、もちろん「天春(アマカス) 春月(ハヅキ)」とは僕の本名である。――そしてこの日本では、基本的に名前をカタカナ表記する決まりがあるのだ。ただしそれは下の名前だけのことである(例えば僕なら「ハヅキ」の部分だけということだ)。    そしてそうした文化の始まりというのは――なんと平安時代にまでさかのぼる。  まず昔の日本人たちは、「言葉」というものには「言霊(ことだま)」という、いわば「魔法」が込められているものと考えていた。更にいえば、その人個人を特定するための「名前」にも、その言霊の力が込められているものと考えていたようである。    そして平安時代は、ちょうど呪術師(じゅじゅつし)ともいえる陰陽師がさかんに活躍していた時代だった。――その平安時代……当時覇権争いの激しかった氏姓(しせい)(今でいう名字)をもつ貴族たちは、個人的に陰陽師をやとい入れ、敵方の貴族を呪ったり(呪い殺したり)、傀儡(かいらい)――操り人形――にして意のままに操ったりと、そうした呪術をも駆使して敵方を潰そうと試みていた。  そして人を呪う際に用いられたのが「名前」、個人を特定する――呪いたい個人を特定する――「名前」だった。    つまり貴族にやとわれた陰陽師たちは、呪いたい人物の名前を指定した上で、その恐ろしい呪術を使っていたらしい。  それはたとえば「〇〇、何をせよ」だとか「〇〇、こうなれ」だとか…(今母が僕に呼びかけたような)そんな感じだったのだろうか。――しかし、もちろんそう簡単に呪われたり操られたりしてはたまったもんじゃない。    ということでその呪いを恐れた貴族たちは、「下の名前の字(漢字)」だけを隠そうと考えた。    なおなぜ「下の名前だけ」かというと、そもそも「氏姓」は家柄や身分、地位などをあらわすものだった――社会的地位をあらわすものだった――ために、そもそも氏姓の字にかんしては隠しようがなかったからだそうだ。  そして下の名前は「読み」だけならば、同じ読みの名前の人は少なかろうとも存在するから、呪いの矛先(ほこさき)を向けられても個人の特定とまではいたらない(つまり呪われない、呪われても空振りする)、と考えたためらしい――なお呪いを避けるため、わざわざ親族と同じ読みの名を子供につける貴族もいたそうである――。    そうして陰陽師の呪いをおそれた昔の貴族たちによって、限られた親族以外の存在には下の名前の「字(漢字)」を隠し、下の名前の「読み」だけを世に明らかにする文化が生まれ――やがてはその文化が庶民へもひろまって――そしてその文化は今日(こんにち)の日本にも残っている、というわけだ。  ……ただ現代においてはそう徹底されているものでもない。――たとえば名簿などには誰しもの名前が普通に漢字表記で記載されているし、別に漢字表記の名前を知られることが禁忌(きんき)…とか今はそういうわけでもない。昔はそうだったみたいだが。  ではどこでそのカタカナ表記が用いられているか、というと、例えばニュース記事などや小説、作文などである。一応は文章のルールとして残っているという感じで、下の名前をカタカナ表記することは一種のマナー、敬意の表れ――昔の貴族たちは「名の字を知ろうとしない者」イコール「自分を呪う気がない者」としていた。そうした由来のある敬意の表れ――とされている。     「聞こえませんでしたの…?」――母がいよいよその柳眉(りゅうび)を怒りにくもらせる。   「天春(アマカス) 春月(ハヅキ)…今すぐに。…お支度、なさい。」   「…んーー…」    しかし僕はそう更にごまかし、胸に隠したままだったスマホをまた顔の上にかかげる。  ――もちろん母のその「呪い」、当然僕の名前の漢字まで知っている彼女の、その言霊を使った呪いはしかし、僕に効いている様子はまるでない。    いやいや、まさか効くはずはないのだ。  そんな魔法だ呪いだなんてファンタジー作品ならばともかく、この現代にはそんなもの存在しない。個人的にはちょっと残念だが。   「天春(あぁまかす)! 春月(ハヅキ)!!」   「……ッ!」    しかし、やっぱりフルネームを大声で呼ばれるとさすがにビクッとしてしまう。これが言霊の力か……なんてね。――ていうか(ペンダント紛失事件のあのときに)「母に怒鳴られたのはこれが最初で最後」はさすがにオーバーだったな、こういうときには僕はわりかし彼女に怒鳴られている。    『 君がもし 神の名前を 忘れても      君は神を 願いを込めて 愛します 』――と順調に曲の終盤まできたChiHaRuさんは、目を伏せたまま小さくんん、と咳払いをした。  …大丈夫かな…頑張れ、あともうちょっと……。   「お支度なさってから観ればいいでしょう。」と母がやはり僕を急かす。 「…んんん〜…推しの配信終わったらね…」   「…観ながらだってお支度は出来ますわ」   「…出来るわけないだろ〜もう、…推しの姿は一秒たりとも見逃したくないもん……」    それでなくとも今の母との掛け合いで、ちょっと見のがしてしまったというのに……まあさっき配信中に寝ておいてなんだが。  ここでChiHaRuさんがそのオレンジの瞳でカメラレンズを――ファンの僕たち――を見つめてほほえむ。      『 忘れても 忘れても ――藤 咲き誇る      風が吹く 春が、来る ――。』     「……は…、……」    よかった、無事最後まで歌いきった。  スマホ画面の右下からぶわわわわわ〜っと四つ葉のクローバーがあふれて上ってゆく。この四つ葉のクローバーは、無料で送れるいわば「いいね」みたいなもの、もっというと拍手みたいなものだ。…僕も右下のクローバーマークを連打する。   「もうっ…!」と母がすねたような声を出す。   「ママは知りませんからね、…今日はウエちゃんもたくさん時間をかけて、とびっきりお洒落(しゃれ)したほうがいい日なのに…!」   「…えー、なんで? ……」    と聞きながら僕は、ほっとした笑顔でペコペコ頭を下げているChiHaRuさんに目が釘付けだ。母は「もう知らない」と言って理由を明かさずに去っていった。  ……ChiHaRuさんは『ありがと〜、ごめんね途中…』と喉をおさえて苦笑してから、『お水飲みますねー』とそばに置いているペットボトルの(ふた)をまわし開け、そのミネラルウォーターを一口ふた口と飲む。    そしてChiHaRuさんは、その澄明なオレンジの瞳でカメラレンズ――画面越しの僕ら――を見つめ、愛らしくにこっと笑うと、少し気だるげにかすれた、ゆるふわぁとした甘えん坊の調子でこう言う。   『ちょっと休憩…にしよっかなーと思います。…ということで、何か質問ありますか…? えへ、でもあのー…僕がこまるような質問はやめてくださいね…? いじめないでよ…?』  その上目遣いは非常にあざとい……これをメロい、というのか…(きゅん、)。  なお彼が話しているときの、この甘ったれた気だるげなかすれ声は不調どうこうではなく、十八歳のころからの通常運転である。    そうして彼が質問をつのると、たちまち――おおよそChiHaRuさんが読めないだろうというほど――コメント欄がズラズラズラと上に素早くスクロールされてゆく。この配信を視聴している彼のファンが、一斉にコメント――彼への質問――を書き込みはじめたのだ。  ……そして、案の定ChiHaRuさんは顔をやや突き出し、目を伏せてコメントを読もうとはしているようだが、『あー読めない…うわはやい…速すぎて……』と困惑気味の笑顔を浮かべている。   「……、…」    僕の口角が勝手にゆるまり、ドキドキと緊張から鼓動が速くなる。  ――僕の途端に冷えこんできた指もコメントを打ち込む。   『名無し:質問です。今日のお昼は何を食べまし…』僕が打ちこんだコメントがすーーっと消されていく。もちろん僕が消しているのだ。   「……、はぁ……」    やっぱり駄目だ、できない…胸がドクドクと痛む。  ……僕は結局、これまで一度たりともChiHaRuさんにコメントを送れた試しがない。時には今のように勇気をだして送ろうとはするのだが、結局いつもこうして送れないのだ。  まあ…どうせこの速さじゃコメントしてもChiHaRuさんは読めないことだろうし、それじゃ結局コメントしていないのも同然なのだから、結果は何も変わらないのだから…――平日昼間の配信にして視聴者数二万人弱、その全員がコメントしているわけではないにせよ、この星の数ほどのコメントのなか、まさか僕のちっぽけなコメントを彼に読んでもらえるはずもないのだから…(質問だって面白さのかけらもない月並なものだったし)――。     『あ、そういえば僕今日ねぇー…? お昼にすごくおいしいラーメン食べたんですよー、それがー……』   「……、…」      ……え…――?      

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