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僕は今しがた『今日のお昼は何を食べましたか?』と打ちこんだコメントをChiHaRuさんの元へ送ろうとした…が、結局またいつものように勇気が出なくてあきらめ、そのコメントを送信するまでもなく消してしまった。――だというのに、…
『あ、そういえば僕今日ねぇー…? お昼にすごくおいしいラーメン食べたんですよー、それがー……』
とChiHaRuさんが、まるで僕の質問に答えてくれたかのような発言をしたのである。――え…と少しおどろいた僕は、スマホの下部、その空欄になったコメント入力欄から目を上げる。
ChiHaRuさんは目を伏せてニコニコしている顔を、かいたあぐらの上にのせているアコースティックギターへと伏せ、そしてそれのネック(弦 の張られた細長い部分)をやさしくつかんで少し持ち上げていた。そのまま横へ運ばれるギターに彼のその笑顔の向きはともなう。
『トマトラーメンだったんですけど…スープがね、真っ赤で…麺がなんか草の色してて…あの…なんか真緑…真緑だったの…、バジル…? バジル練りこんでるんだって。…わ〜変な色〜って思ったけど、でも味はほんとおいしかった…うん、なんかすっごいおいしくってー…――』
そして彼はそうのんびりした口調で言いながら、愛用のアコースティックギターを丁重に横のスタンドへと退かしてゆく――すると今日の彼の服装がより確かに明らかになる。彼はU字襟のグレーのタンクトップの上にぶかっとした黒い前開きパーカを着、下には派手なエスニック柄のサルエルパンツ(股の部分が膝くらいの位置にある、ふっくらと布の豊かなズボン)を穿いている。また、そのあめ色の綺麗な首には銀のネックレスの鎖がかかっているが、それの先はタンクトップの下に隠されていて見えない――。
『なんか…』と言いながら、ギターを隣のスタンドにそっと立てかけたChiHaRuさんは、
『…でも女性におすすめって書かれてたんですよ、トマトラーメン…』――顔を真っ正面(カメラレンズ)へ向け、あぐらをかいている脚の空白にゆるい両手を置きながら、わざとらしく驚いた顔をする。
『…ぇえっでも、男だって別にトマト好きじゃない? 僕は好きだけど…あれ、あの…だからちょっと頼みにくかったのー…そうそうそう。ねー…』
そして彼は『それにさぁ…』とあどけない無邪気な笑顔を浮かべ、やや舌っ足らずな調子でこう続ける。
『女の人だってさぁ…みんながトマト好きなわけでもない…、え…わかんないけど…、でも、多分嫌いな人もいるんじゃない…? てか女性だって、がっつり背脂 浮いた豚骨 ラーメンとか食べたいときもあるよねぇ。…ねーきっと、ね…。うん、だからみんな…男性におすすめとか、女性におすすめとか…気にしない。恥ずかしくないから。みんな食べたいもの食べよ。…ね…?』――ゆらぁと腰から上半身を傾けて首をかしげるChiHaRuさんは、しかし照れくさそうに『へへへ…』と笑う。
『…そう…だから…なんで、僕としてはみんなにおすすめ。老若男女 におすすめです。おいしかったです、トマトラーメン。みんなに食べてほしい』
そして彼は愛嬌たっぷりににこっとしながら『ごちそうさまでしたぁ』と両手を合わせ、ぺこと軽く頭を下げる。
「……、…」
ゆるんだ僕の頬がじわ…と熱くなる。
可愛すぎ…老若男女 が言えていないし、…コメ欄でも指摘されているがChiHaRuさん、トマトラーメンをおすすめしているわりにその店名を言い忘れている。
……可愛すぎるし、嬉しすぎる…――また奇跡が起きてしまった…!
「……、…――へへ、…」
今にも手足をバタバタさせて身悶 えそうなほどの歓喜 に、――しかしさすがに三十二の男がそれをするわけにもいかないとの自制心から、――僕は笑顔のままぎゅーっと強く目をつむった。はぁ…と自然に、僕の口から満足げなため息がもれる。
……ちなみに「また」というのは――実はChiHaRuさんの生配信中、時折こういったことが起きるのだ。
彼の生配信中、僕は何度かああしてコメントを書きこもうと勇気をだすが、打ちこむまではしても結局いつも送信には至らない。――しかしChiHaRuさんはなぜか、その彼には見えざるはずの僕のコメントの内容に、ときどきこうして言及する…いや、言及しているかのような発言をすることがある。
また特にこの現象が起きやすいのは、たとえば『大好きです』などの感想を打ちこんだときより、ああした質問系のときが多い。
……とはいえ、もちろんこんなのはたまたま、単なる偶然に他ならない。
この不思議な現象は「現実」ではない。
それこそきちんと僕がコメントを残しているのならまだしも――僕が書いたコメントをきちんと送信し、それが(奇跡的にも)ChiHaRuさんの目に留まり、そうして彼が僕のそのコメントを認知してくれてのことならばまだしも――、送ってもいないコメントにChiHaRuさんが反応してくれる、なんて、まず現実には起こり得ないことである。
しかし、…わかっていても――やっぱり嬉しい!
大好きな推しとのことで、こんな嬉しくてたまらない奇跡のシンクロが起こると――僕はその度とても嬉しくなって、ついいつもニンマリとしてしまうのだ。
『そうだったそうだった、質問…――これさぁ、わかった。過去のログ? で見れば…』とChiHaRuさんが木の床に両手をついて四つんばいになって、おそらく彼はカメラ下にある何か(パット類だろう)を見下ろしているようなのだが、…するとこの縦長の画面には、俯瞰 的なアングルでの彼の銀の後頭部と、その黒パーカの背中しか映らなくなってしまっている。
『…えーと…あ、見れ…お。…ん…? こうかな…? これか…?』
「…ふふ……」
夢中になっているあまり、ほとんど自分の姿が映っていないことにすら気がついていないが、それすらもすごく愛おしい…――しかし……、
「……、…」
僕は目を伏せた。
いつかはこのChiHaRuさんも…素敵な人とお付き合いして、結婚…するんだろうな…――。
およそ十年前――僕はデビューしたてのChiHaRuさんに、恋をした。
つまり僕は彼の「ガチ恋ファン」だ。
なお「ガチ恋」とは、手の届かない存在(芸能人やネット配信者、二次元のキャラクターなど)に「本気 で」恋してしまうことをいう。
したがって僕もまた、このChiHaRuさんに本気で恋をしてしまったファン――その一人だ、ということである。
だが僕は、この恋を叶えようとしている――とは、とてもじゃないがいえない。
いやいや、そもそも叶いようもないガチ恋を叶えようとしている人なんか存在するのか?
……僕も以前はそう疑問に思っていたが、そうしたファンは案外多く存在するものである。
なお、もちろんChiHaRuさんのファンは老若男女問わず多いが、僕の印象としては若干女性ファンのほうが多いように思う――これだけ凄 まじい才能を持つ容姿端麗な男性の上、放っておけなくなるような愛嬌もある彼の数々の魅力は、やはり異性愛者の女性たちのほうがより目ざとく見つけられるものなのだろう――。
となれば自然、僕のほかにも彼にガチ恋しているファンはかなり多いようなのだ。
そして案外、そうしてChiHaRuさんにガチ恋しているファンの女性たちの中には、実際に彼との距離を縮めよう――ひいてはその恋を現実のものとして叶えようと、積極的に働きかけている人たちも多い。
たとえば積極的にChiHaRuさんのライブに行って、なるべく目立つ最前列の席を取り、彼の視界に自分が入るようにする。
たとえば握手会やサイン会には意地でも行き、ChiHaRuさんと近距離で目を見てお話しする。
それから出待ちする、SNSのファンアカウントで熱烈なアピールをする、だとか、ChiHaRuさんのSNSアカウントに直接DMを送る、ファンレターを送る。だとか…――。
さらにもっと熱意と行動力のある人は、自分の才能を活かしてSNSで活動をはじめる(注目されたらワンチャンあるからだ)、人脈をひろげて芸能人との繋がり を作る、なんらかの形で芸能界入りする(必ずしも芸能人になるばかりではなく、たとえばメイクさんやカメラマンになるなど)――など、とにかくChiHaRuさんとの物理的な距離から縮めようと熱心に頑張っている人たちもいる。
ちなみに今あげ連ねたそのすべてに「自分磨き」、すなわち「美しくなる努力」――というものが、当然のように付いて回っているのだが。
しかしそうしたガチ恋ファンに対する世間の目はかなり冷ややかである。
およそ宝くじ当選より低い確率では叶うはずもない恋を、人生をかけてまで追いかけている愚か者たち、酷ければ迷惑ファンとまで言われ、ChiHaRuファンの民度が下がるからやめろ、引っ込んでろ、いい加減現実を見ろ…――。
だが僕はそうして努力し、実際に行動し、自らの手で夢を掴もう――ChiHaRuさんの恋人になろう――と一生懸命になっている彼女たちを、『どうせそんな夢叶うはずもないのに馬鹿だ』とは、とても思っていない。…思えない…むしろそうして夢を叶えようと必死に努力している彼女たちのことを、僕はなかば羨望 の眼差しで見ながらも尊敬している。いや、といってたしかに僕も、ChiHaRuさんはじめ多方に迷惑がかかるような行為自体はまるで肯定できないが。
どれほど勇気がいることか。どれだけの労力をかけてのことか。時間、お金、努力、ましてや世の人に傷つけられるリスクを負ってまでも、世の人にどれほど馬鹿にされようが、それでも一心にChiHaRuさんの恋人になろうと積極的に行動し、血の滲 むような努力している彼女たちは本当に凄い。――そうした努力もなしにただ指をくわえて見ているだけの僕にとっては、彼女たちもまた非常に眩しい存在なのである。
それに気持ちは痛いほどわかる。僕にもその気持ちはよくわかるからだ…――ChiHaRuさんの恋人になれたらどんなにいいだろう。…どんなに素敵だろう…どんなに幸せだろう…どんなに愛おしい日々を送れることだろう。
ところが僕というのは――何 も し て い な い 。
何もだ。全て、という意味の「何も」だ。
つまり僕はChiHaRuさんのサイン会や握手会はおろか、ライブにさえ一度も行った試しがない。
もちろん毎日彼の曲を聴き、彼のライブ配信や過去の動画を欠かさず観て、そして彼の情報はどんなに小さいものでも追いかけ、つぶさに収集してはいる。CDやグッズ類だって保管用と使用用で揃えて二つずつ買っているくらいだ。
僕は我ながら熱心なほうのファン、ひいてはガチ恋ファンであるとは思う。だから彼の情報に一喜 一憂 してしてしまう――たとえばあの女優と付き合っているんじゃないかとか、単なる噂レベル、酷ければこじつけの程度のそれでも、…それでも…一喜一憂してしまう――。
ただ実は…本当は、一度でいいから――せめてChiHaRuさんのライブに行ってみたい。
それはガチ恋がどうのとかはもはや関係なく、大好きなChiHaRuさんのライブに行って、彼の素晴らしい歌声を生で聴いてみたいのだ。
でも…――僕は抽選にすら申し込んだことがない。
それは…――、
「……、…」
僕が大好きなChiHaRuさんのライブにさえ行かない、その理由は――、
僕が――、
僕が、…酷い不細工 だからだ。
僕の顔を一言で説明するなら「猫顔」だろう。
ただ、それは僕の夢に出てくる白皙の美青年や、僕の母のようなポジティブな意味合いのそれではない。もちろん本物の可愛い猫をその意味に含めてもいない。
僕の顔は、いうなれば――まるで人を襲っておぞましい顔でほくそ笑む、陰湿で不気味な化け猫のようだ。
髪は陰気な紫がかった黒で、肌の色も死人のように青ざめていて生白い。
いつも根暗な内面があらわれている僕の黒い眉は、眉尻が卑屈に下がりがちだ。またこの両目は酷いツリ目で、端的にいって「ムカつく目つき」をしている。僕はこれでも分 をわきまえて謙虚に過ごしているつもりだが、目もとばかりは傲慢 そうで気が強そうで、いやにいけ好かない高飛車っぽい印象がある。
そしてこの青ざめた唇も猫の口のような曲線を描いているが、笑うと尖った犬歯が目立って下品、いっそ人を喰 いそうなおぞましい感じだ。
背も175センチと平均身長よりはやや高いが、それだって「やや」であり、また正確に測ったことはないが、手脚は平均より短い。…漫画を描きつづけるための体力づくりを目的に定期的な運動はしているものの、だからといって美々 しい筋肉がついているわけでもない。
何よりも僕のこの瞳――僕が知っているめずらしい瞳をもつ人のうち、三人目はそう…――僕 自 身 だ。
僕の瞳は「不気味な色」をしている。
白だ。――白をベースに、やや黄ばんだ光がぬらぬらと角度や明暗の調子で変わりながら不気味に光る。
ムーンストーンとよく似た瞳である。ただもちろん天然石のムーンストーンなら美しいが、人間の瞳となるとそうもいかない。――たとえば白い虹彩にちょんと黒い瞳孔がある瞳というのは、それこそハロウィンなんかでゾンビの仮装をした人々が、よくそのようなカラーコンタクトをつけるが、その不気味な瞳を僕は生まれつきもっているのである。
また夢の美青年はそれこそ白っぽくとも、ロイヤルブルームーンストーンのように青みがかった瞳をもっていたので、ああして不気味どころか神秘的で美しかったが――もちろん彼はその顔立ちだって僕とは似ても似つかないほど美しいが――僕の瞳はほとんどが白で、彼の瞳のような青味はなく、とにかくひどく不気味でおぞましい。
……母と祖父は僕のこの禍々 しい瞳をあたかも綺麗なふうに「月の瞳」というが、よっぽどあの美青年の美しい瞳こそ「月の瞳」だと、僕はそう思っている。――それだから僕は前髪を鼻先に届かないくらいまで伸ばし、外出するときは極力その前髪でこの両目を隠している。…ただし、会う相手によってはそれも失礼にあたるので、そのときばかりは茶色いカラーコンタクトをつけてやり過ごしてはいるのだが。
醜 い化け物…――ひと目で嫌悪され、あざ笑われ、時に好奇の目でじろじろと見られるこの容姿、犬も食わないこの自分の容姿が…――僕は、大嫌いだ。
虫唾 が走る。鏡を見るたびにムカムカしてきて、僕はいつも鏡の中の自分に『このブス』と言ってしまう。
どうして僕の家族はみんなあんなに美しいのに、僕だけこんなに醜いんだろう…――妬 みたくない、僻 みたくない、恨 みたくない、なのに大好きな家族のことさえ憎みそうになる…――僕はどうしてこんな救いようのない不細工に生まれてしまったんだろう。
このブス…――ブス、ブス、ブス、ブス、ブス、…
誰かにこの不細工な顔を見られるのが怖い。
……そうして僕が、自分に向けられる人の目に怯えながら過ごすようになった原因は――小学生の頃に受けた、いじめのせいである。
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