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                 僕が小学五年生の頃の一学期、ある転校生の男の子が僕のクラスメイトになった。――彼は佐々島(ササジマ) 大輝(ダイキ)くんといった。    彼は色の白い、二重まぶたのくっきりとした大きな目をもつ、いかにも優しげな顔立ちの少年だった。細身で背は低かったが、その卵型の顔はすっきりと小さかったので体型のバランスは整っており、言ってしまえば彼はなかなかの美少年だった。    その佐々島(ササジマ)くんは転校生であったぶんか、いじめられている僕のこともフラットな目で見てくれた。  彼の席は僕の真後ろだった。僕のことを「ハヅキくん」と呼んでくれ、そう話をしたり一緒にいるわけでもなかったが、彼は十分に僕を「クラスメイト」として扱ってくれた。  たとえば先生に配られたプリントを前の席の子から後ろの席の子に、とまわす作業の際にも、僕が触ったプリントなんか誰も触りたがらないのを、佐々島(ササジマ)くんは普通に受けとって「ありがとう」と言ってくれたり、体育の時間にも僕と普通にペアを組んでくれたり――佐々島(ササジマ)くんが消しゴムを忘れたときにも、「ハヅキくん、消しゴム貸してくれない?」と普通に僕に話しかけてくれた。    もちろん佐々島(ササジマ)くんは僕がいじめられていたことも知っていたはずだ。休み時間にはいじめてくるクラスメイトたちが僕の席に集まり、悪口を言ったり、僕の筆箱をひっくり返して床に筆記用具をぶちまけたり、僕の教科書に「ブス」だのなんだのと落書きしていた。――佐々島(ササジマ)くんは僕の真後ろの席であったため、彼もそこからその光景を見ていたはずである。  しかし――佐々島(ササジマ)くんは止めに入ってくれることこそなかったものの、といっていじめられている僕なんかにも、他のクラスメイトと分けへだてなく接してくれた。ましてや佐々島(ササジマ)くんは、僕の悪口は言わなかった。  ……僕はその「普通」が十分に嬉しかった。      佐々島(ササジマ)くんは、学校における僕の唯一の希望の光だった。      しかし、あるとき…――。      授業合間の休み時間、僕の真後ろの席にすわる佐々島(ササジマ)くんのもとに、クラスメイトの男子の一人がやってきた。そしてその男子は彼にこう言った。   「ねえ佐々島(ササジマ)さー、こいつと話すのやめたほうがいいよ」 「…え…」    佐々島(ササジマ)くんは困惑しているようだった。   「だってこのブスと話したらキモいのうつるよ。…てか、佐々島(ササジマ)もこいつキモいと思わね?」    クラスメイトの男子はそう(さげす)むような声でそそのかした。すると佐々島(ササジマ)くんは、   「……、…うん…キモいよね……」    と小さい声で言った。   「……、…、…」    その一連の会話を盗み聞きしていた僕は、ひそかにショックを受けていた。  友だちとまではいかないにしろ、唯一の救いであった優しい佐々島くんが、僕を「キモい」と言ったのが、泣きそうになるほどショックだった。  彼の「キモいよね」という言葉は、かすかな希望さえも絶たれたように感じた。      しかもさらに悪いことに――この出来事を皮切りに、佐々島(ササジマ)くんも僕へのいじめに加担するようになってしまったのだ。    自発的にではないにせよ、佐々島(ササジマ)くんは僕をいじめてくるクラスメイトに「ダイキ、お前もやれよ」と言われたなら僕の背中を蹴り、僕の筆記用具をバラバラと三階の窓から校庭に捨て――それを拾いに行ったなら授業開始時刻に間に合わず、そして担任の先生には僕だけが叱られ――、また他のクラスメイトと一緒に僕の悪口も言うようになった。    ただ…――僕はそれでも耐えた。    正直にいうと、ああして佐々島(ササジマ)くんが「キモい」と言ったその瞬間から、僕は彼にはもう期待などしていなかった。――結局君も他のやつらと同じなんだね。…そう諦めたなら、一人や二人いじめてくるクラスメイトが増えたところで、何も変わらない。    ……と、僕は思い込もうとしていたのだろう。  しかし現実にはそう簡単なことではなかった。  ひょっとすると僕は佐々島(ササジマ)くんのことを唯一の友だちだ、と思っていたのかもしれない。表面的には『僕なんかの友だちだと思われたら可哀想だ』という気持ちはあったが、それでも僕にまで優しくしてくれる彼に、僕はきっと友だちとして心を許しはじめていた。    だからなのだろう。  僕は優しかった佐々島(ササジマ)くんにまでいじめられるようになって、やっと(つら)い、もう耐えられない、という気持ちになった。    そして僕はいよいよ勇気をだし、その学期末のアンケートに『クラスメイトたちにいじめられている』との(むね)を書いた。名指しまでした。            二学期になった。――何も変わらなかった。  学期はじめの朝礼のときに「いじめのようなことをしている人がいたら、やめましょうね」と担任の中年女性の先生は言ったが、それっきりだった。――当然それでいじめが無くなるようなこともなかった。    しかし僕は諦めず、その朝礼から二週間ほど過ぎたあと、さらに勇気を振りしぼった。  そのあるときの放課後、僕はいじめてくるクラスメイトたちから走って逃げ――そして一目散に職員室に駆け込んだ。  決死の覚悟だった。クラスメイトたちが「天春(アマカス)、先生に言うつもりなんだろ!」と僕の黒いランドセルの背中に叫んでいた。――これで先生に助けてもらえなければ、僕はきっと明日からもっと酷いいじめを受けることだろうと、僕にはそれがよくわかっていた。    だから決死の覚悟であった。  しかしそうしたリスクを負ってまでも、僕はもういい加減誰かに助けてほしかった。――そうした最後の頼みの(つな)が、自分のクラスを受けもつ担任の先生だった。    ……失礼しますとも無しに勢いよく職員室に入ってきた僕に、そこにいた先生たちはみんな驚いて「どうした」「天春(アマカス)さん、何かあった?」と聞いてきた。職員室はインスタントコーヒーの香りが漂っていた。  僕はすさまじい緊張から胸をドキドキさせながら、自分の席についていた担任の先生のもとへまっすぐ行った。緊張から頬が燃えるように熱く、しかし指先は冷え切っていた。   「どうしたの?」    と中年にさしかかった教師の彼女はいぶかしそうに尋ねる。僕を見る彼女の表情には、ただならぬ事態を察した深刻さが漂っている。  僕はうつむき、蚊の鳴くような声でこう告げた。   「僕…アンケートにも書いたんですけど…あの…いじめられてて……」    それでもせい一杯声を振りしぼったが、僕のその声はか細く震えていた。  そして僕はつたない、まとまりのない調子で、誰と誰と誰と…それから佐々島(ササジマ)くんと…と、誰にどういったいじめを受けているのか、これまでのいじめの内容をつぶさに先生に話した。――先生は「そう…あらそう…」と時折深刻そうな相づちをうって、ひとまず僕が話し終えるまで何も言わずに僕の話を聞いてくれた。   「それはつらかったね…」   「……っはい、…」    つらかったね――彼女のその言葉に、僕はこれまでの五年間、必死に耐えてきた涙があふれてきた。  ……やっと助けてもらえる、そうホッとしたのもあって、顔をゆがめた僕の目からは、ポロポロといくつもの涙がこぼれ落ちた。                      ――彼女は「でもね」                 「天春(アマカス)さんにも悪いところがあるんじゃないのかな?」       「……え…」    僕は呆然とした。涙までふっと止まった。  彼女は少し笑いながらこう言った。   「先生が見てると、天春(アマカス)さんさぁ、いつも(うつむ)いて黙っているでしょう。…だからみんな、天春(アマカス)さんが嫌がってるのわかってないんじゃない? きっとみんなあなたと遊んでるつもりなのよ。…でも嫌なんだったら、そういうのやめて、嫌だよって、天春(アマカス)さんから言ってみたらどう?」   「……、…」    途端に僕の頭がぼーっとしだした。  虚無感なのか、絶望感なのか…――。  その女性の先生の、少し呆れたような笑いをふくんだ声はさらに、こうつづけた。   「あのね。ふふ…人とのコミュニケーションってそういうものなんですね。嫌なことは嫌って言わないとわからないの。…ね…だからみんな、きっといじめてるつもりはないんじゃないかな? ――みんなきっと天春(アマカス)さんと仲良くなりたいだけよ。確かにちょっとやり過ぎたかもしれないけど、きっとあなたに構ってほしいだけなのよ。…でも天春(アマカス)さんが黙ってばっかりだから、どんどん過激になっちゃったんじゃない? ね。先生、きっとみんなあなたとの仲良くなり方がわからないだけだと思うんだ。」   「…………」    なるほど、と思った。  僕はうつむいて黙り込んでいた。彼女はさらに断定的にこう言った。   「だからね。あなたがいじめられてるって考えるから、そう感じるの。――天春(アマカス)さんが、みんなとのコミュニケーションが下手なのも悪いのよ。――ねえ天春(アマカス)さん、社会に出たらこんなことばっかりよ。今は先生たちがいるけど、社会に出たら誰も助けてなんかくれないのよ? 自分で何とかしなきゃいけないの。全部。ね。だから、今の内にどんな人とも上手に付き合えるようになっておかないと。」   「…………」    ……僕は抗議もせずうつむいて黙り込んでいた。  もうこの人のことを見限っていたのである。するとその先生は「ほらね」と勝ち誇った笑みをふくませ、最後に、あたかも鋭い指摘をしているような調子でこう言った。   「あなたがそうやって暗い顔して黙り込んじゃうからでしょ? 明日からは、朝教室に入るとき、クラスメイトのみんなに笑顔でおはようって挨拶してみてね。……はい、さようなら」   「…さようなら…、いままでお世話になりました」   「え?」   「…………」    僕はそのまま家に帰った。      いや…思えば僕が馬鹿だったんだ、とその帰り道に考えていた。    僕が醜い子どもであったばかりか、大金持ちの家に生まれた名家のボンボンだったので、きっと鼻についたのだろう。――おそらくあの先生は()()()()()()ああ言ったのである。    そうだった…――。    僕の頬に太い黒い文字で「ブス」と書かれていた姿を、その先生はたしかに見ていたはずだった。  教室の隅で僕に(たか)っていたクラスメイトたちに、彼女は「早く帰りなさい」と声をかけた。彼らはさっと散って帰路についた。――僕も廊下に出た。  ……そのとき彼女はまだ廊下にいた。    僕はうつむいて小走りだったとはいえ、はっきりとした黒い太い文字で「ブス」と書かれた顔で、彼女とすれ違っている。    しかし彼女に言われた言葉は「気を付けて帰るのよ」だけだった。  いや、思えば――そもそもその先生は、廊下で僕がいじめられている場面に出くわしても、そのときも僕を助けもせずに見てみぬふりをして、僕とクラスメイトの隣を平然と通りすぎていった。  ……それも…これは僕のネガティブな思いこみかもしれないが、その時前を向いていた先生の横顔は、少しほくそ笑んでいたような気がする。    それ以前に「いじめ」に気が付けるだけの要素など、これまでにいくらでもあった。休み時間にはほとんど毎回寄ってたかっていじめられていた、一人だけびしょ濡れの体操着を着ていた、掃除の時間に埃まみれの床でリコーダーを蹴りとばされ、遊ばれていた。      つまり…――僕は唯一の頼みの綱だった先生にまで嫌われていたのだ。      もうひと欠片の希望も残っていなかった。    本当は誰にも愛されていない子供だったんだと、僕はそう思った。  ――誰も僕のことなんか見ていない。    この頃は母も祖父も仕事で忙しそうで、褒めてもくれない、抱きしめてもくれない…――最近じゃ一緒に食事もできない彼らに「助けて」と言えるタイミングなんかなかった。      家族さえ僕のことなんか見ていない。  誰も僕のことなんか気にかけてくれない。      ひとりぼっちだ。  頑張ってきたのに…――二人の、ために……。      褒められたかった、…助けてほしかった…。      誰も僕のことなんか助けてくれない。  ――誰も僕のことなんか、愛してくれない。    僕のことなんか、誰も愛してない……。  ううん、どうして僕なんかを愛してくれるの…?      僕、…こんなに醜い化け物なのに…――。      ほんとうは僕、誰かに気がついてほしかった。  家族に気がついてほしかった。僕の背中のあざ…膝のすり傷…――こすり過ぎた頬の赤らみ…――教科書の落書き、濡れた生臭い体操着、泥まみれの僕のお気に入りの靴…――言わなくても、平気そうに笑っていても、…でもいつか気がついてくれるかもって、…助けてくれるかもって…本当はずっと、期待していた。    でも…本当は二人だって、ブスの僕なんか愛していないから、どうでもいいから…誰も、みんな…ママも、じいじも、みんな――不細工な僕のことなんか、みんな大嫌いだから、…だから、ふたりだってきっと見ないふりしてたんだ。        僕…本当は誰にも愛されてなんかなかったんだ…。        〝「お前なんか死ねば?」〟――死ねば…いいの…。      〝「そうだよ。誰もお前のことなんか好きにならないんだから。みんな天春(アマカス)のこと嫌いだって言ってるよ?」〟――みんなが嫌いな僕なんか、死んじゃえば……。    〝「早く死んだほうがいいよ天春(アマカス)」〟――こんな不細工な僕なんか、早く死んだほうが……。      〝「お前の母親もお前なんか早く死ねと思ってんじゃね? だってお前人間じゃなくて、〝醜い化け物〟なんだからさぁ…――。」〟        大好きなママやじいじにも嫌われてる…醜い化け物…――。      ママも、僕に早く死んでほしいと思ってるんだ…、だから助けてくれなかったんだ…――だから、見ないふりしたんだ……。        ――死にたい…もう死んじゃいたい……。        みんなのために…――僕、死んだほうがいいんだ……。  夕陽に染まった帰り道、僕の脳裏におぼろげな母や祖父、僕を愛してくれた大人たちの笑顔が、そのだいだい色に照らされて立ちあらわれた。      死ねば……せめて悲しんでくれる、かな…――それとも…大好きなみんなが、喜んでくれるの……?      大嫌いな僕が、死んだら…――。  僕は帰り道の高架橋の上から、ふと下を覗きこんだ。――無数の車が道路の上で渋滞していた。都心部のこの道路は、夕方の帰りの時間になると渋滞することがしばしばある。…これじゃきっと死ねない…。  ……じゃあ川……屋上…? 首を()る…――。    僕はにわかに生きる気力をなくしていた。  ただ、実際に死ぬ勇気まではなかった。何よりそれを実行するだけの気力もなかった。  家族にさえ嫌気がさし、もう歩くのだけでせい一杯だった。もうお気に入りとも思わなくなった黒く傷だらけのランドセルが重たくて重たくて、それも道ばたに捨てた。――ふとこのままどこかへ行ってしまおうかとも思ったが、知らない道を進む気力さえなかった。    結局家に帰ったその日、出迎えてくれたじいやに「ただいま」とも言わず――僕は風呂にもはいらず自室に鍵をかけて引きこもった。  電気も付けない自分の部屋の隅、冷たいフローリングの床の上で膝を抱えて小さくなってすわり、朝がくるまでそうしていた。    そして、翌朝になっても僕は自室から出ていくことはなかった。それどころか…――僕はその日をきっかけにして、小学五年生のころから、自室に鍵をかけて引きこもるようになった。        ――すなわち僕は、不登校児になってしまったのである。          

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