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僕は小学五年生の二学期開始早々に不登校児となった。
もはやすべてがどうでもよくなってしまったのだ。
天春 の誇りだの家族がこうむるだろう恥だの、彼らが悲しむかもしれない、傷つくかもしれないだの――大好きだった母と祖父も、本当は早く死んでほしいと思っているくらい自分のことを嫌っているのだとわかった以上、もうどうだってよかった。
僕は結局愛する家族である二人のためにこれまで耐え忍んできたのだ。――しかしこれまでせめても信じていた愛が幻想だとわかったなり、もう二人のことさえどうでもよく思えてしまった。
ましてやあの日、僕は決死の覚悟で担任の先生にいじめを告発したのだ。
それをああしてかわされてしまったどころか、「あなたも悪かったでしょう」なんて言われて傷つけられた僕は、いよいよ大人というものにも失望したし――何より翌朝いつも通り学校へ行けば、いつも以上のいじめ、告発の報復をうけるとわかっていて、もう平然と学校に行く勇気も気力も全く残っていなかった。
しかし翌朝――いやその前に、実はその夜のうちからほんのちょっとした事件が起きたのだった。
僕が道ばたにランドセルを捨て置いて帰ったせいである。――警察が落とし物としてそれを我が家に届けてくれたが、しかし、ランドセルが道ばたに置かれているなんて、ひょっとすると只事 ではないかもしれないと見るのが普通だった。
突然、暗闇が満ち満ちていた僕の部屋がパッと明るくなった。
……僕が帰宅している姿はじいやが見ていたが、しかしだからといっても、いつの間にか僕が失踪してしまっている可能性を不安がった家族…母が、僕の部屋の扉の鍵を外側からあけ、そして出入り口そばの壁にある照明のスイッチをパチンと押したのだ。――なお我が家のどの部屋にも、有事に備え、外側からも扉の鍵を開けられるギミックが取り付けられている。
もちろん僕は部屋の中にいた。
部屋の隅で三角座りをし、かかえている膝に顔を伏せて、そうして小さくなっている僕を認めた母は「いました!」と、おそらく階下の玄関で警察と話している祖父かじいやかに大声で報 せる。
「…どうしたのウエちゃん、…どうしたの…?」
それからそう心配そうに声をかけながら、母が僕のもとに駆け寄ってきた。僕は何も言わなかった。
彼女は僕の肩をそっとつかみ、「大丈夫…? どうしたの…?」と鈴を転がすようなやさしい声で何度も尋ねてきたが、それでも僕は顔も上げず何も応えない。
――ややあって祖父とじいやも僕の部屋に来た。
「どうした…?」
それは祖父のいつもののんびりとした、しかし心配げな声だった。
僕はやっと二人に「どうしたの、大丈夫?」と心配された。しかし――今さら……今さら、もう遅い、…
「…出て行ってよ…」
僕は顔を伏せたままそう小さい声で言った。
「え?」――母が聞き返す。
「みんな出て行ってよ!!」
と僕は泣きそうな声で叫んだ。
するとその場に剣呑 な沈黙がただよい、ピシピシ、と何かがひび割れたような小さい音がやけによく聞こえた。…それは僕の部屋の窓辺にある花瓶 だった。
「みんな大嫌い…っ、嫌い、嫌い…っ! 顔も見たくない! ……っ!」
みんな死んじゃえ、…そう喉元まで出かかった言葉はしかし、それでも僕は彼らにはとても言えなかった。…ただ…――バキン、バチャバチャ…花瓶が割れ、なかの水があふれた濁 った音がした。
……ドカドカと誰かが慌てて入ってくる足音がある。この一歩一歩がどっしりとした足音はじいやだ。彼はおそらく割れた花瓶を片づけている。
「……、…」
ふとその様子だけ確かめて見た。
大きな黒い背中を丸めて、やはりじいやはガラスの花瓶のかけらを拾い集めているようだった。
床に散らばっている花々、活けられていた花束ほどの数がある源平小菊 のその花々が、いつの間にかすっかり枯れて茶色くなっている。――普段その花がどうかなんて見ないので、およそ僕が世話しわすれているうちに枯れたんだろう。
みんながその様子をただ不安げに見守っている。
……僕はまた拒絶のために膝に顔を伏せた――なぜ花瓶が落ちたかなんてどうでもよかった、きっと風か何かの仕業 だろう――。やはり他の三人も沈黙している。
「……、…」
「…………」
「……、ウエ様…」とじいやが気遣わしげに僕を呼ぶ。
「ならば、せめてお食事を運んで…」
「いらない。もう僕の分は二度と作らなくていいから」
僕は餓死 しようと腹を決めていたのだ。
「……、今は一人になりたいのね。わかりました」
そう凛とした声で言った母はすっと静かに立ち上がり、「お食事は冷蔵庫の中に入れておきますから、お腹が空 いたらお食べなさいね」とだけ言いおいて、ほかの二人を引き連れ、そして僕の部屋の扉をしめて出て行った。
しかし僕は翌朝になっても、自分の部屋から出てゆくことはしなかった。
「…ウエちゃん? 起きていますの?」
朝、母が三度ノックしながらそう扉の外で呼びかけた。
起きてはいたが、僕はベッドの上、かけ布団の中にこもってその母の呼びかけをわざと無視した。
正直ものすごい罪悪感だった。
が――その日から僕は登校拒否するようになる。
のみならず、それをきっかけに自分の部屋に引きこもるようにもなった。
罪悪感もそのうちに薄れた。
食事は摂 るようになった。
僕の部屋の前にじいやが毎食置いてくれるので、隙を見てそれを部屋のなかに引き込んで食べた。
結局一番の絶望が過ぎ去ってしまうと、餓死するという決意はうすれた。今死ぬより今の空腹のほうがまさった。――トイレも隙をみて行っていた。
また風呂にもきちんと入っていた。
昼ごろになると家には誰もいなくなる。
母も祖父も仕事に出かけるし、じいやもその二人に着いてゆくからだ。なのでその時間に、僕は自分の部屋から着替えをもって浴室に行き、入浴するようになったのだ。が…――上着を脱いだときに見えた、自分の首からさがった紫のお守り袋、肌身離さず身につけておかねばならない、そうでなきゃ死ぬ、とさえ言われたアクセサリーたちが入っているそのお守りを見たとき、…僕はふとこう思った。
「……、…」
このお守りを捨てるかして身に着けなければ、それこそ飛び降りるだ首を吊るだよりもうんと簡単に、僕は死ねるんじゃないか…――?
……そう思うと僕は鳥肌が立つほどぞっとした。
「……、…、…」
いや、いやまさかアクセサリーを身につけなかったごときで、…とも思い直しはしたが、しかしなぜか、首を吊るやらの恐ろしい想像をしたときよりもうんと寒心 したのである。
結局それに関しても実行することはなかった。
しかし、もちろん登校拒否する理由さえ何一つ告げず、突然自室にこもりきりになった僕に対し、僕の母と祖父、じいやは何を思っていたのか――。
家には何度も担任の先生が来ていたようだし、電話も毎日かかってきていたようだった。また扉越しに「ママたち、ちょっと学校に行ってくるわね」と声をかけられたことも数度ではなく、そうして母や祖父は学校にもしばしば呼び出されていたようだ。
ただ僕の家族は一度も僕に「学校に行きなさい」とは言わなかった。…毎日僕の部屋の前まできて「おはよう」だの「おやすみ」だの、「いってきます」だの「ただいま」だのなんだのという挨拶は欠かさず――僕が何も返さずとも、毎日欠かさず――そしていつも少しだけそれぞれ、「今日はこんな天気で…」だとか、「こんなことがあってね…」なんてその日の報告をしてから、「気が向いたら出ておいで」とやさしく言って去ってゆく。
……だが一度固く閉ざされた僕の心はドアと共に開かれないまま――そうして僕は、学校に行かないまま六年生になろうとしていた。
しかしそうした春のはじめの、まだ冬っぽい乾いた寒さの残るある夜のこと――。
コンコンコンと僕の部屋のドアがノックされた。
母だった。
彼女は「ねえウエちゃん、ママクッキーを焼いたの。すごく上手に焼けたものだから……」と遠慮がちにそこから僕に声をかけてきた。
そのとき僕はベッドの上で漫画を読んでいたのだが、すると反抗したいきもち半分、何か子として母という存在にすがりたいきもち半分、そして少しの『僕の好きなクッキーかも』という誘惑、そうした葛藤がたちまち僕の中に生まれた。――しかし…そうして僕が逡巡 しているうちにも、…母はカチャンと鍵を外側からあけ(彼女はおっとりしているようで割にせっかちである)、ドアもキィとあけ、
「ほら」とピンクのパジャマ姿の母は微笑み、チョコチップクッキーが十枚くらいのった白い平皿のふちを片手でもっていた。そうして本当に焼きたての、シナモン、砂糖とチョコレートが少し焦げたようなその甘い香りとともに、彼女は部屋の中に入ってきた。今はお尻まで届くまっすぐな黒髪を下ろしている。
「ママと久しぶりにお茶しましょうね」
とやさしく僕に微笑みかけながら、彼女は僕のいるベッドの上に乗りあがり、そうして僕の隣に座った。
僕は困惑しながら開いている漫画本のページをじっと見つめる。繊細なタッチで描かれた美少年が何かしらを叫んでいる。しかし内容など頭に入ってこない。
隣の母がそれをのぞき込んでくる。
「あ…ママもこのお話大好きよ。というかこれ…ママの…」
「……、…」
僕はさっと漫画を閉ざして脇に置いた。
僕が読んでいたのは少女漫画、…もっというと、少女漫画の月刊誌で連載している、唯一の男の子同士の恋愛物語――つまりBL漫画だった。そしてそれは、母の部屋から勝手に借りてきたものだった。
ちなみにこのときの僕はまだ目 覚 め て いない。たまたまそれを読んでいたというだけだ(とはいえ、このときから既 に面白くってたまらなかったが)。――我が家には母の趣味で少女漫画がそれはもうたくさんあったのだが、僕はあんまり暇なので、彼女たちがいない昼間のうちに、勝手に借りてきたそれを部屋で読みあさっていたのである。
「…………」
膝を抱えてまた顔を伏せた僕に、母は「いいのよ、好きに読んで」と言ってから…――。
「……、…ごめんなさい」
と僕に感傷的な声で謝ってきた。
「この間、学校の先生から聞きました。…わたくし…正直に言って、失望しましたわ。」
「…………」
やっぱり僕に失望したんだ、と僕は思った。
僕がいじめられっ子だったことも、僕が醜い化け物であることも、あまつさえ不登校児になってしまったことも…――母はやっぱり恥ずかしく思っているんだ。
天春 家唯一の出来損ない、その誇らしい名前に泥を塗ってしまった恥ずかしい息子――。
僕はまた死にたくなった。
「……っ、…」
今にも消えてなくなりたい、と思ったのと同時、母にも傷つけられることを覚悟して、ぎゅっと目をつむった。
……母はその声を低く震わせて、
「先生…とも言いたくはありませんけれど、とにかくあの教師や学校には失望しました。――今更…」
彼女は「今更…」とくり返すその低い声に、そのとおり深い失望を漂わせていた。
「……、…」
僕は予想外なことに思わず隣の母を見た。
彼女は僕を見ていない。その僕が見なれた白い端整な横顔は、しかし僕が見たこともないほどに険しい。彼女の瞳が怒りに真紅に燃えている。白目は赤らみ、その目尻は恐ろしいほどつり上がっている。――母は憤怒 というほど怒っていた。
「あなたが不登校になった途端に焦って、今更…〝実はこんなことがあったみたいなんです。実はこんなアンケートがあったみたいなんです。実は一度だけ相談は受けていたんです。でもちょっとした生徒同士のトラブルだと思ってしまい、まさかそこまでハヅキさんが傷付いていただなんて思わず……〟――果てには、〝ご家庭でどうにかサポートしてあげてください〟…――巫山戯 ている。」
母の華奢な体は怒りにわなないていた。彼女が持ったままの茶色いクッキーののった白い皿が、カチカチとまるで怯えているかのような音を立てている。
「うちの子が出したそのアンケートを見せろと要求しました。担任の女は渋りましたが、〝やましいことがあるからお隠しになるのね〟と詰めましたら、見せていただけましたわ。――……、…」
しかしここで泣きそうな顔でふり返った母は、さっと皿をベッドに置き、すぐ僕のことをぎゅっと抱きしめた。
「…ごめんなさい、ごめんなさいハヅキ、…五年間も、あんな……なんて酷い、餓鬼 とはいえ碌 でもない、…あんなのはまともな人間のすることではありません、――うちの可愛い〝お花ちゃん〟が〝醜い化け物〟ですって、? こんなに美しくて可愛い、誰よりも可愛いわたくしの子が、…〝醜い化け物〟はその糞 餓鬼共でしょう、――人を残酷に傷付けても平然と暮らしている、…本物の〝醜い化け物〟はあいつらでしょう…っ!」
「……、…」
僕の代わりに怒ってくれている――いや、母は単純に怒っていたのだろう。
彼女は泣きながらも怒ってこうつづける。
「〝いじめ〟ですって? 馬鹿おっしゃい、…殺人だわ、…裁かれるべき罪だわ、子供だからって決して赦 されることではない、…赦されてはならない罪だわ、…――ごめんなさいハヅキ、守れなくて本当にごめんなさい、…――どうにかわたくしが守ってあげたかった、…悔やんでも悔やんでも悔やみきれません、…ごめんね、ごめんねハヅキ…ほんとうにごめんなさい、…」
「……、…、…」
ちなみに…僕は呆然としていた。
母が怒り、そして母に泣きながら何度もごめんなさいと謝られ、たしかに心の傷がじわじわと癒えてゆく感覚はあったのだが――ただ、なぜかこの瞬間は呆然としてしまっていたのだ。
……ここで母は僕に顔を見せた。涙に濡れた鋭い目をして、彼女は僕を見据えた。
「ハヅキちゃん、もうあんな学校 には行かなくて構いません。――いいえ、もう行くんじゃありません。よくってね。」
「……、…ぇ…?」
僕は拍子抜けした。
母は厳しい顔をして僕を見据えたまま、こう固い声でつづける。
「あの教師には子どもに何を教える権利もありません。あの女は教師はおろか先生なんかではありません。…そしてあの学校は、子どもを健全に育てられるような場所でもありません。――つまりあのような場所、学校でさえないのです。」
「いいこと」…彼女は真剣な顔をする。
「学校という場所は〝お勉強をするところ〟です。…けれど、国語や算数なんかのお勉強は、言ってしまえばどこでだって出来ますわ。――学校で子どもたちが一番学ばなければならないこと…それは、人と人との関わりの中で学ぶべき…――〝人として大切なこと〟です。」
「……、…」
人として…大切なこと…――。
僕は母の怒り混じりの潤んだ赤い目をぼんやりと見つめた。彼女のその瞳の芯には、僕がよく知っているやさしげな慈しみの柔らかさがあった。
「そしてその中にはもちろん、〝いじめを許さない、いじめをしてはならない〟というものがあります。」
さらに母は聡明な女性らしい落ちついた声で続ける。
「子どもたちは多様なクラスメイトがいる学校という場所、そして教師という大人から、自分が受け付けられない相手との折り合いをつける方法を学ばなければならない。――学校、教師というものは、嫌いな相手を短絡 的に排除してはならない、攻撃してはならない、それではならない…いじめをしてはならない…と、子どもたちに学ばせるべき場所、環境、そして、そういったことを徹頭徹尾 教えられる大人たちでなければならないのです。」
母がここで目を伏せる。その恐ろしい伏し目は怒りにあまりにも鋭い。ぶわぁ…と彼女の長い黒髪がみるみる逆だってゆく。
「それがあの体 たらくよ…教育の場に身を置く者としての役目さえも放棄した者の何が教師か…、子供の精神を健全に育てられない場所の何が学校か…――大人の見てみぬふりこそは、分別も付かぬ愚かな糞猿共の仕出かしたことより幾らも罪が重い…」
突然母は鬼のような顔をして「もう赦さぬ!!」と怒鳴った。
「……ッ!」
僕はビクッと驚いた。
地鳴りするような大声だったのだ。それこそ、その細い体のどこから出ているんだ、というほど。
しかし彼女はふと目を上げ、いつもの美しい聡明な顔をして僕を見た。すと、と彼女の髪も落ちた。
「そう…そうなの…。ですから、もはや教師でさえない、そのへんによくいるような愚かで狡 い大人からあなたが学ぶべきことなど何もありません。…そしてわたくし、もはや学校とさえ呼べない、子どもを育てるということに信念さえももたない場所へ、わたくしの大切なあなたをもう行かせたくはありませんの。……けれど……」
母は申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「もっと早く気が付いてあげられなくて…ほんとうにごめんなさい……」
「……、…、…」
僕は、…涙をこらえてうつむいた。
僕は大好きな母からも愛されていないんだ、嫌われているんだ、という悪いまぼろしがたちまち解けてゆくのを感じた。その涙だった。
彼女は「ごめんなさい」ともう一度僕に謝ると、そっと僕のことを抱きしめてくれた。香った安心する母の甘い匂いに、僕は彼女の背中に両腕をまわして抱きついた。
「可哀想に、…」と母は涙声でいう。
「辛かったわね、…苦しかったわね、すごく痛かったでしょう、…ほんとうにごめんね、ごめんね、…代われるものなら代わってあげたかった、…」
「っ出来損ないの息子でごめんなさい、…」
僕は泣きながら母にそう謝った。
「恥ずかしい思いをさせてしまってごめんなさい、…僕、不細工でごめんなさい、…」
「いいえ。」
と母が少し潤んだ優しい声で、しかし断固として言った。
「不登校の子どもがいる母親としての不名誉なんかより、我が子を助けられなかった母親としての不名誉の方が、わたくしはよっぽど恥ずかしい。…あなたは決して恥ずかしい存在なんかじゃありません。」
彼女は僕を抱きしめている両腕を震わせながらも、ぎゅうっともっとその腕に力を込め、僕を抱きすくめた。
「それに…あなたは不細工なんかじゃありません。ハヅキはわたくしの可愛い可愛いお花ちゃんよ。…馬鹿で野蛮な糞餓鬼共にちょっと手折 られたからってなんですか、あなたは間違いなく世界一美しくて可愛い、可愛い…ママの可愛いお花ちゃんだわ」
母の優しくて冷たい手が、僕の後ろ頭やうなじを撫でてくれる。すると僕はもう涙が止まらなくなり、彼女のいい匂いのするやわらかな胸に顔をうずめ、声を殺して泣いた。
「ねえハヅキちゃん…」――母はやさしい声で僕の名を呼ぶ。
「あなたはね…もっとも正しい選択をしました。…あなたがどう思ってのことであれ…ほんとうは生きようと思ったから、あなたは逃げる選択をしたんですわ。…あなたはもっとも正しい選択をした。――あなたは今は不幸かもしれません。けれど生きていれば、これから絶対に幸せになれるのよ。――もちろん今すぐにでも…ママとじいじと、それからじいやと一緒に、これからも幸せに生きてゆきましょう。ね…?」
「――うん、…〜〜っ」
僕は母の腕の中でわんわん泣いた。
――生きる希望が、また見えた。
そして――。
僕はひとしきり泣いたあと、母と彼女の手作りのクッキーを食べていた。――ちなみに母は「あらいけない、ホットミルクを作ったのに忘れちゃったわ」と、先にそれを取りに行ってくれたのだが。
そうして母とクッキーを食べながら、少女漫画のどれが面白いとか、どれがおすすめだとかの話もしたし、「夜に秘密でクッキーを食べるだなんて、なんだかわたくしたち、いけないことをしているみたいね」と笑った母に、僕も久しぶりに笑うことができた。
十枚ほどのクッキーは楽しく順調に減っていった。このチョコチップが嫌というほど入っている母手作りのクッキーは、僕の大好物だった。少しだけシナモンが入っていて、それがまたたまらないのだ。
そして母はホットミルクをひと口飲んだあと、クッキーにかじりついている僕を見守りながらこう言った。
「ねえウエちゃん。…学校のことで、ママ、あなたに確かめておきたいことがありますの」
「……、…」
僕はドキっとした。
正直、もう学校には行きたくない。おそらくは「何かしらの方法をもって学校に行きなさい」という話だと直感していた。――それだから僕は母が見られなかった。口の中の美味しいクッキーの味も薄れてゆき、ただもったりとした不快な感触だけが僕の舌に絡みついて取れない。
「あなたが転校するという手もあります。あるいはあの糞餓鬼共をまとめてどこか別の学校に追いやることだって、我が天春 家の力があれば訳ないことですわ。」
「……、…」
僕は黙っていた。
転校、…学校やクラスメイトが変わったところで、きっと同じことだ。僕はまたいじめられるに決まっている。――なぜなら僕の容姿は何も変わらないからである。
もう行きたくない――それが僕の本音だった。
「それにね…先ほどはあんなことを言ってしまったけれど、あなたが行きたくなったのなら、もちろんあの学校にだって行っていいのよ。たとえばあの学校には、〝相談室〟という不登校の子が通える場所もあるそうなの。…それに…保健室通い、という方法もあるんですって…――どちらにしても、クラスメイトとは顔を合わせずに学校に通えるそうですよ」
「……、…、…僕……」
泣いたせいだろうか。母の愛を再確認できたからだろうか。――僕はか細い声でこう言った。
「もう学校に行きたくない」
「わかりました。じゃあ行かなくて構いませんわ。」
「……、…」
え。
あんまりあっさりと即答「いいよ」と言われた僕は拍子抜けし、ふっと隣の母を見た。彼女は僕に向けたその顔に、優しげな微笑をうかべていた。
「けれど…」
と彼女は微笑んだまま言った。
「ママと三つお約束してね、ウエちゃん。――きちんとお家でもお勉強をすること。」
彼女の白く細い人差し指が立つ。
「なんらかの形で社会との繋がりを保つ…決して人との繋がりを断ち切らないこと。」――彼女の中指が立つ。
「そして、学校に行かない間にあなたのやりたいこと、好きなことをきちんと見つけて、それに打ち込むこと。…」
最後に薬指が立つ。
「よくって?」――と母はその三本指の隣で、やさしい微笑をふかめる。
「……うん」
僕はとにかく学校に行かなくて済むのなら、とそれに頷いた。母は「いい子ね」と目尻を下げて笑うが、立てていた三本指をくつろげて太ももの上に置きながら、すぐに聡明な目つきで僕を見る。
「ママはね…あなたが本来、学校という場所で学ばなければならないことも最低限学んでほしいの。…けれどその上で、不登校であるからこそ学べることも、たくさん学んでほしい。――ウエちゃんはきっと恵まれているわね。だってそのどちらも学べるんですから」
そして彼女は静かな目色で僕を見ながら、その美しい微笑をそっと少しかたむけた。
「人は〝学生〟でいる時間よりも、〝社会人〟として過ごす時間のほうがよっぽど長いものです。――あなたはこれから何者にもなれ、どんな夢でも叶えられる…――自分がこれからどういった社会人になり、どんな夢を叶えたいか。…今すぐにでなくとも…あなたの幸せな将来のビジョンを描 くことだけは、どうぞおやめにならないでね。」
「……、…」
僕は彼女を見てこくんと頷いた。
母はふっと花がほころぶような微笑を浮かべ、そしてこう言った。
「だって…――それが子どもであるあなたの、唯一のお役目なんですもの。」
天春 たるもの…――それも僕の悪い幻想だった。
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