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                 僕はガチ恋している推し――ChiHaRuさんのことだけは、どうしても腐男子的な目線で見られない。    あれほどの絶世の美青年を見てもなお、僕の第三の目(腐男子センサー)がそっと目を逸らしてしまう訳にはまず、僕がChiHaRuさんのことを神というほど神聖視しているためというのがある(ただし彼の「そっくりさん」である夢の美青年には、僕の第三の目(腐男子センサー)は血走るほどかっぴらかれてしまうのだが)。    また端的にいって、僕はChiHaRuさんに「一目惚れ」したといって差し支えない。    十年前のあの日――僕が初めてChiHaRuさんをこの目で見たその日は、十二月の鋭い寒さが厳しい真夜中のことだった。    あのときは僕がまだ二十二歳、そして彼はまだ十八歳――ChiHaRuさんはちょうどその年の春ごろ、華々しくメジャーデビューしたばかりだった。  また彼はデビュー直後から「若き天才」として世間から大注目をあつめており、デビューをしたその年にすぐ有名な音楽番組に出演していた。    しかし僕はちっともChiHaRuさんのことを知らなかった。――それくらいの頃までJ‑POPというものが大嫌いだったからである。  というのも、(特にその当時の)J‑POPのイメージといえばキラキラとした青春、恋愛、結婚、そうした普遍(ふへん)的な人間関係にかんする幸福を歌っているものが多かった。  ――今ならばそれだってまあ素敵だな、と思えるだけの余裕はあるが――いじめられて不登校児を経たのちに通信制高校を卒業、そこから「漫画家になる」という夢を追いかけるため進学もせず、漫画は描いていてもいまいちパッとせず、働きもせずのほとんどニート状態だった二十二歳の僕にとっては、そうしたキラッキラのJ‑POPは実に「耳障りな」、あるいは「耳が痛い」存在でしかなかったのである。    ましてやJ‑POPなんざ結局はどれも同じ、量産されまくっている鋳型(いがた)製造の個性のない有象(うぞう)無象(むぞう)の曲ども、もう耳にタコ……んあぁ゛?    青春だぁ……? 恋愛だぁ……?  BLでしか知らんその(僕にとっては)夢幻のような「青春」とやら、汗と涙と笑顔をキラキラッと輝かせ? 恋愛いちゃコラ乳繰(ちちく)りあい? 夏! 海! スイカ割り! 花火デート! 隣の彼女あるいは彼氏の横顔! ブレーキ握りしめて二人乗り自転車で下り坂!    文化祭だの体育祭だの修学旅行だの、…まあ通信制高校にも一応体育祭に近いものはあったが、そんな年に四日しか会わんクラスメイト同士で汗涙笑顔をキラキラッ……なーんてまーさかそんな青春展開になどなるはずもなく……――三十二の今となっちゃ青春BL漫画を描きまくっているくせ…――すなわちこの頃の僕は、世の青春とやらを謳歌(おうか)していやがるキラッキラなリア充どもを(ねた)んでいたのである…、パン(くわ)えて走ってたらなんか知らんけど運命のイケメンにぶつかる女子高生を、…クソが…(ひが)んでいたのである…、文化祭で手が触れ合ってトゥンクと恋に落ちやがる若き男女を、…クソがよぉ、…    ん゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!    そうした憎きリア充どもを歌ったJ‑POPとやら、(にっく)きリア充どもしか感情移入なんぞできないJ‑POPとやら、青春だぁ恋愛だぁ結婚だぁのキラッキラ成分の濃縮還元汁たるJ‑POPとやら、もはやキラキラッキラキラッと輝く若者の汗の結晶たるJ‑POPとやらが、…大嫌(だいっきら)いだったのである。ええぃよそでやってろ視界に入るな僕の鼓膜をジャックするなああああぁ!!    つまり、…光り輝くリア充どもの結晶(J‑POP)がまぶっしくって目が潰れそうだったのである……!    ちなみに恋愛および結婚とやらに関してはいまだに目が潰れそうなんだが、現実、…痛っ…――リアルはほんとクソだ。まあでも別に仕事においては同世代よりもうんと成功しているし、僕、か、()だし?  ――痛みがすさまじいのでまあそれは(わき)に置いておくとして……――するとまぁ当然感情移入なんぞできないどころか、(これは偏見ともいえる浅慮(せんりょ)なイメージに過ぎないが)当時の僕はそれらの曲を「綺麗事を歌っている」と決めつけて、嫉妬まじりにも憎らしく思い、聴くまでもなく(はな)から忌み嫌っていた(いや、もはや怨念(おんねん)を抱くほど(うら)みに怨んでいた)。      しかしあるとき、僕の親友のリリカからあるメッセージが届く。――なおこの頃になると僕たちはもうメールではなく、有名なメッセージアプリを使って連絡を取り合っていた。  僕は昼間の自室のゲーミングチェアに座ってそのメッセージを開いた。   『かすみ〜〜ん!』――なお「かすみん」とは僕のあだ名だ。  ただリリカはこのときもうすでに僕の本名を知ってはいるのだが、出会った当時に「かすみん」と僕を呼んでからそのまま今にいたっているのだ。 『最近ChiHaRuくんにめちゃハマってて!  ワシ仕事の休憩中ChiHaRuくんの動画みてなんとか生きてるわ…w』――さらにちなみに、彼女はこのとき二十三歳、元不登校児だった彼女はしかしとても立派かつ賢い人で、(高校に通うのではなく)家で自主学習にはげんだのち、自力でいわゆる高卒認定資格を取得した。そのあと晴れて大学に進学、大学卒業後は新卒で、ある建築会社の事務員に就職したのだ(今はまた別の建築会社の事務員をやっているが)。    ただし、リリカもまた根っからの腐女子である(僕も人のことは言えないが)。    彼女は『ほんとヤバいんだが、顔面整いすぎてて見るたび死にそうになるwww』と言った次の段落で、   『ちなかすみんはChiHaRuくん攻めだと思う…? 受けだと思う…? ごめん、私は絶対攻めだと思ってるwww 総攻めwww(いうてかすみん受け派だったら戦争起こってまうー…www)』  と抜かした。  ……やはりこいつとんでもない女だ(褒め言葉)。    そしてリリカは『動画貼っとくからかすみんも観て…! せめて受けか攻めかだけ聞かせて! じゃありりかは仕事もどるお(´ ・ω・`)』と書いたのち、トボトボ…と肩を落としながら去りゆく背中を見せるパンダのスタンプを送って、…そうして戦場(仕事)へと帰っていった…――。    ので、僕はひとまずは「おつかれさま〜」と「了解♡」、「がんばって!」の(当時二人でハマっていた)アニメのスタンプを送っておいた。    しかし内心は『えーどうしよっかなぁ…』とてんでのり気ではなかった。もちろんリリカにそんなこと送りはしなかったが。  なぜって、このときの僕はJ‑POPが大嫌いだったからである。添付されていた動画のサムネイルは明らかに有名音楽番組のそれだった。――いやだが…いくらJ‑POPというものを馬鹿にしているとはいえ、さすがに親友からのおすすめ(布教)を無下にはできない。   「……、…」    ……まあ一曲歌っているだけならせいぜい五、六分の長さである。いや、なんなら僕はこの折、そのChiHaRuとやらが受けか攻めかのジャッジ(決めつけ)さえすればいいわけだ。するとその五、六分すべてを律儀に観てやる必要もない。――チラッと見ててきとうに話を合わせておくか、と、…    ……思ったのだが――ここでちょうど母が「ウエちゃ〜ん? お昼ご飯ですよ〜!」と階下から僕を呼んだ。   「……はーい! ……――。」  僕は椅子から立ち上がる。――まああとでいっか。  そう考えた僕は、結局その動画を夜に視聴することになる。      そしてその日の深夜――母に深夜起きていると怒られるため――電気を消した真っ暗な自室にて、僕はあらためてChiHaRuさんのその動画を自ら検索し、それを自分のデスクトップPCで視聴することにした。  ……別にリリカが転送してきた動画をスマートフォンで観てもよかったのだが、BL漫画家を目指していた僕は謎の(くだらない)プロ意識から、『でもどうせ(攻めか受けかを)ジャッジす(決め付け)るなら、BLのプロを目指している身としてしっかり見極めないと』と、細部まで見える大きなPC画面でそれを観ることにしたのだ。  ちなみにその夜はとても冷え込んでいたので、僕はゲーミングチェアの上で両膝をかかえ、さらにその脚にはグレーのもこもことした膝かけをかけて準備万端、そして――その暗がりのなか発光するPC画面上で、動画を再生した。   『次は今大注目のシンガーソングライター・ChiHaRuさんで…』――と女性アナウンサーが明るい声で取りしきり、パッと深い青みの暗闇のなか、青白いスポットライトに照らされたChiHaRuさんの画面に切り替わる。    神妙(しんみょう)な面持ちで丸椅子にすわり、茶色いアコースティックギターを抱えてもつChiHaRuさんの全身が引きで映っている。  ChiHaRuさんはカーキ色のダウンジャケットを着て、それの深い茶色のフェイクファーに縁どられたフードをかぶり――またそのぴたっとした黒いチノパンを穿く長細い脚を組んで、その腿の上に茶色いアコースティックギターを置き、それを抱えていた。    パッともう少しカメラが彼に寄り、ギターから上の画角で、……彼の透きとおった深いオレンジ色の瞳は、やさしげな眼差しでじっとカメラを見つめ――頭にかぶっているフードの茶色いファーからは、まん中わけにした彼の銀髪が頬のあたりにすこしはみ出て覗いている――その端整な彫りの深いあめ色の顔には、うっすらと慈しみの微笑みがたたえられている。   『今日も俺は祈るために歌います。世界のために、誰かのために…――貴方のために……』    と彼は歌いだすまえに、白いおぼろげな息を吐きながら厳かにそう言った。――その声は緊張しているのか、あるいは寒さからか震え、またギターの弦にそっと置かれた彼のあめ色の大きな手もふるふると震えていた。   「……、…」    僕はまず、…なんて美しい少年だ…と思った。  そのなめらかなエキゾチックなあめ色の肌、彫りの深い凛々しい顔立ち、銀色の長いまつ毛、その切れ長の目のあまやかなまなじりの下がり具合、その僕の母とよく似た澄明なオレンジ色の瞳、そのつややかな無邪気そうな若々しい珊瑚色の唇…――彼の輝く銀のまつ毛は斜め下へ伏せられ、はぁ…とそのうすく開かれた唇から、もの憂げな白いため息がもれる。  ジャン…やがてギターの弦を撫でるようにして奏ではじめたChiHaRuさんは、ギターのネックあたりを見下ろしながら、歌を歌いはじめる。    『 あなたは夢を見てるか どんな夢を見てるか 悲しい夢なんか見てないか 』   「……、…」    僕はそっと息を()んだ。  そうして歌うChiHaRuさんの全身は何かおぼろげな、儚げな、幻想的な白い光をまとっていた。  いや、ふんわりと白く彼自身が発光しているかのように見えた。まるで地上に降り立ったばかりの神様のように――その伏せられた長い銀色のまつ毛が、上からの青白い光に照らされて震えるようにまたたいている。    『 あなたを見ていたよ あなたの夢を 僕はずっとあなたを見ていた 』    そう祈るように丁寧な声で歌うその珊瑚色の唇は、神聖なやさしい微笑をうかべている。   「…………」    僕はたちまち見入った。  人間らしくないほどに美しい少年だった。神々しいその美しい伏し目と微笑みは、十八歳にしてはやけに落ち着いていて大人びている。何か若年らしからぬ大人っぽいしっとりとした色気さえあった。  しかしその微笑みは、少し中性的なふうにも見えるほど柔らかい。月並みな表現をすれば天使のような微笑みだった。そして、その何かを見ているような見ていないような伏し目は、慈愛に満ちあふれた菩薩(ぼさつ)のそれのようでもあった。    しかしその美しい顔からは微笑みが消え、切ない表情になる。    『 僕はここにいるよ そう祈るけど あなたにはまだ届かない まだ届かないの? 僕のこの歌も まだ届かないの? 僕のこの夢も 君にはまだ届かない ――。』   「……ちゃんと、届いているよ……」    僕はなぜか、思わずそうつぶやいていた。  ……しかし大人びた神聖な美少年は目を伏せたまま、切実な祈りを歌にして続けた。    『 君はどこにいるの 僕はそう祈るけど 君はまた答えない 聞こえない答え なくなる居場所 あなたと過ごした(そこ)だけが僕の居場所だったのに 』    彼の珊瑚色の唇からは伸びやかな歌声とともに、ふわ…と幻想的な白い息がはき出される。    『 地球(ここ)には僕の居場所がないんだ みんな誰かと居場所を奪い合うけど 叶うのならば この歌が君の居場所になりますように 叶うのならば この歌が君を傷付けませんように 』    そしてカメラは彼の顔をアップで映す。その美少年の澄みきったオレンジ色の潤んだ瞳が、カメラを――僕を――今にも泣きだしそうな目で見つめる。    『 どうかみんなが幸せでありますように    どうか君が幸せでありますように      僕には祈ることしかできないの?      叶うなら 壊れそうな君のその傷を 僕にも分けて    叶うなら 僕は今すぐ行きたいんだよ あなたのもとへ 』    小刻みに震えているその二つの瞳、吸いこまれそうなほど澄明なオレンジ色は深く、その赤味がぞっとするほどにやさしげで、呼吸さえ忘れるほどに美しい。   「……、…」    ――今すぐに貴方の元へ行きたい。  僕はそっと震えている片手を画面に伸ばした。  こつん、…PC画面に僕の指先がぶつかった。  ……でも…行けない、…    『 どうか一人で(たたか)わないで 』と切ない顔をした彼の泣き出しそうな声が歌う。    『 僕を呼んで 僕の名を 今すぐ駆け付けるから    叶うなら 僕は君を助けたいんだよ 大切なものを差し出してでも      助けてと言って 何度でも 今すぐ駆け付けるから    叶うなら 僕は君を抱きしめたいんだよ 光や夢を捨ててでも      お願い つらいなら君の綺麗な目で見て 僕の目を     お願い 泣いてるなら君の綺麗な目で見て 僕の夢を 』    その切なく潤んだオレンジ色の瞳から、ほろ、と輝く涙がこぼれ落ちる。    『 わかって 誰よりも愛してる    誰もが愛すべき君に わかってほしい 』    そして――美しいあめ色肌の少年が、涙目で、あまりにも清らかな天使のように微笑む。  『 僕はいつもあなたを探してる 愛してる    愛していると 叫べば君に 届くのかな      愛してる 愛してる 愛してる      この夢が 叶いますように    僕のあなたに あなたの夢に届け 僕のこの祈りの歌 ――。』    ……アコースティックギターの演奏がやむ。  その珊瑚色の唇がとざされ、カメラをそのたっぷりと潤んだオレンジの瞳でじっと見つめるあめ色肌の美少年は、涙のあとを頬に光らせながら儚げな真顔をうかべ、胸で息をしている。――数秒のその間ののち、『ChiHaRuさん、ありがとうございました』とささやくような女性アナウンサーの声がし、…動画はそこで終わった。 「……、…」    ――僕の片目からぽろ、と涙がこぼれた。  僕の胸板はこらえる涙にふるふると震えていた。    あり得ないことだが、…まるでChiHaRuさんが、僕に向けてそう歌ってくれているような気がしてしまったのだ。  まるで彼が僕のために泣き、僕に微笑みかけてくれていたような――僕に「助けてと言って」と言ってくれているような、そんな気がしてしまったのだ。  僕は声を殺して泣きながら、抱えている膝に顔をうずめ、小さくなった。僕の顔はあたたかいふわふわの膝かけに触れ、それが僕の熱い涙をぬぐってくれる。    ランドセルを捨てたあの日――この部屋の隅で、僕はこうしてひとりぼっちで小さくなっていた。    あの日、誰しもに「死ねばいいのに」と思われていると思い込んでいた僕は、誰しもに嫌われていると思い込んでいた小さい僕は――世界中の人に死を望まれている、ひとりぼっちの少年だった。    僕はあの日、担任の先生に「辛かったね」と言われたあと、「もう大丈夫、助けてあげるからね」と言ってもらえていれば、不登校児にはならなかったのかもしれない。――いや、もう(うら)んでなんかいないのだ。    もちろん昔はあの担任の先生が恨めしかった。  ただ彼女たちは報復を受けたようだった。    噂によると、彼女はあのあと、僕が通っていた都内の私立小学校から、周りを見渡せば山ばかりの田舎の公立に左遷(させん)されかけ拒否、しかし悪評からそこ以外どこも彼女を受け入れないので、結局は教師を辞めることになってしまったらしい。――おそらく怒り狂っていた母の仕業である。どうやったのかなんて僕にはわからないが。  また実はあの学校自体も、僕のいじめの件で第三者委員会が入り…いじめをしていたクラスメイトたちも吊るし上げられ…世には悪評が広まり……と、どうも母と祖父はあのあと「徹底的に色々と」やってくれたようなのだが、…僕は聞くのも辛かったので、あまりよくは知らないのだ。ただいずれにしても良い末路ではなかったようだが。    ……しかし、僕はこの二十二歳頃になってその話を小耳に挟んだときにも、ざまあみろ、とは思わなかった。そうなんだ、と関心もなく思っただけだ。それくらいどうでもよくなっていたのである。    また醜形恐怖症はいまだどうともならないままだったが、希死(きし)念慮(ねんりょ)などの症状がみられ、すなわちうつ病を併発してしまっていた僕は、小学生の頃から高校卒業くらいまでのあいだ、しばらく心療内科に通っていた。――ただこの二十二歳ごろにはもうとうにうつ病はほとんど寛解(かんかい)しており、病院の先生にも「これからは経過観察で半年に一回の通院でいいよ」と言ってもらえていた。    とはいっても…――薄々わかっていた。    いくら病院の先生に「もうほとんど大丈夫だよ」と言われても、いくらもうあの担任の先生への恨みも、また僕をいじめてきたあの子たちへの恨みも「どうでもよく」なっていたとしても…――しかし僕の心の傷は、まだ癒えきってはいない。  ……僕の中にはどうしてか、まだ「ひとりぼっちのハヅキ」がこうして小さくうずくまっている。    もう前を向ける。もう過去とは決別して幸せになれる。いや、もう今すでに十分僕は幸せだ、僕はもう前を向いて幸せに生きている。  もう十分に癒やされたと思っていても、もう癒やされなきゃよっぽど欲張りだと思うくらい今は家族や友人たちに愛されていても、…頭ではそうわかっているというのに…――今はもう冷たい床に座っているわけでもなければ、今僕の膝にはふわふわのあたたかい膝かけがあるというのに…――それでもまだ僕の中には、暗闇の中でうずくまっている小さなハヅキがいる。  ……しかし、そのハヅキはふと顔を上げた。    真っ暗闇の中で顔を上げ、光り輝いている画面をじっと見た。  その画面のなかで光り輝いている美しい神様が、「あなたをずっと見守っていましたよ」とひとりぼっちの少年に語りかけた。  そして神様は傷だらけの少年を(あわ)れんで泣いた。「今すぐに君を助けてあげたいのに」と――「今すぐに君を抱きしめてあげたいのに」と、神様は美しい神聖な涙をそのオレンジ色の瞳からぽろぽろこぼした。   「君の瞳は綺麗だよ、それなのにどうして……」    少年は息を呑んで神様の瞳の美しさに見入った。  そして少年は、神様のその深い慈愛に自分も涙をぽろりとこぼした。  神様は少年にやさしく微笑みかけた。「誰よりも君を愛しているよ」と…――少年はその小さい白い手を神様へ伸ばした。    神様はふわりとその画面のなかから出てきて、ひとりぼっちの少年を抱きしめてくれた。     「…は、…っ、…――。」    ……違ったのだ。  僕は「どうでもいい」と思いこもうとしているだけだった。――思い出すと自分の傷が痛むので、極力もう過去に関わらないようにしているだけだった。僕は自分の傷から目を背けているだけだった。  幸せになるためにもう前を向かなきゃ、いつまでも過去に(とら)われているべきじゃない、もう前を向かなきゃ、前を向かなきゃ、幸せにならなきゃ、もう前を向かなきゃ…――そう必死に前を見つづけて、しかしまだ僕の中で小さなハヅキが泣いているのを、僕は無視、…酷ければ「彼」を「まだメソメソ泣いているのか、もういい加減にしろよ」と怒鳴りつけていた。      しかしChiHaRuさんは、まだ傷ついてうずくまっている小さいハヅキを、そっとやさしく抱きしめてくれた。      これは…――「救い」だった。  神聖な救いだった。彼は…――ChiHaRuという人は、僕のことを救ってくれた神様だった。        ただ…――僕はまだわかっていなかった。          

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