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ChiHaRuさんに恋をしたということを、実はこの時点では僕はまだよくわかっていなかったのである。
たしかに僕はひと目で彼に「救われた」と思うほど、ある意味で惚れこんだ自覚はあったが――その「惚れこんだ」というのはあくまでも彼の天賦 の才能に、その心根の崇高な清らかさに、…すなわち歌手・ChiHaRuという「神」への敬愛に近いものだと認識していた。
翌朝になってリリカが我が家に訪れた。
ちょうど土曜日だった。僕は朝一番彼女に、ChiHaRuさんのファンになった、なんて素晴らしい歌手だろう、というような、興奮気味にChiHaRuさんを褒めちぎる内容のメッセージを送った。
……すぐに返事がきた。リリカは『わーい布教大成功!』と喜んだのち、『ところで今から遊びに行ってよき?』と僕にうかがった。僕は承諾した。この頃にはもう、それくらい突然のアポでも許されるくらい気のおけない仲になっていた。
そしてリリカは朝の十時ごろ我が家に来た。
じいやに我が家のひろい洋風なリビングに通された彼女は、
「おはようございま〜す」
とそこに入ってきた。
手にはおみやげらしい紙袋――オタク行きつけのアニメ専門店の紙袋――を持っているが(多分この前僕が彼女に頼んだ同人誌が入っている)、しかし今日はいつになくお洒落だな、と思った。
……僕はお互いにまだ中学生のとき、初めて彼女とビデオ通話をしたときのことを思い出す。――僕は醜形恐怖症からビデオ通話は…と渋ったのだが、彼女は『私もすごいデブだから、絶対かすみんの見た目に悪口とか言わないから』と言って、なかば彼女に押しきられた形でビデオ通話をする流れになった。
そうして僕のノートPCに映った中学生の彼女は、ふっくらとした白い頬をもつ赤い眼鏡の大人しそうな少女だった。服もよれよれの白いTシャツに紺のカーディガンを着ていた。『初めまして』とお互いに緊張しながら小さい震え声で挨拶した。
――しかし、その初めてのビデオ通話においても僕たちは驚くほど早く打ち解け、いつの間にかお喋 りが止まらなくなっていった。
……リリカは太っていることを理由にいじめられたんだ、と言っていた。そしてそのいじめのストレスから、余計に食べてしまって…とも言っていた。
このときもそうだが、今もリリカはかなりふくよかな体型をしている。
――ただ…僕は決して彼女を醜いとは思わない。
なんなら彼女は案外可愛い顔立ちをしている。
今も彼女は細ぶちの赤眼鏡をかけている。その眼鏡の奥にある目はよくみると大きく、その丸顔がより彼女の愛らしさを引き立てている。色白の彼女の小さい鼻から頬にかけてはそばかすがある。――よく見ると彼女の胸までとどくおさげの髪は、黄色みのないグレーっぽい暗い茶色に染められている。
……そして今日はパステルカラーの青紫色の、襟がハイネックのように少し立っている上着を着て、下には色あせた茶色いチェック柄のスカートを穿いている。それから黒いタイツだ。
これはオフィスカジュアルというやつだろうか。
彼女は社会人になってから途端にお洒落になったような気がする。…大学生の頃までの彼女のファッションはTシャツに前開きパーカにジーンズ、という感じの、無難なものばかりだったのだが。…やはり社会に出ると人は変わるものなのかもしれない。
黒タイツの足に紺のスリッパを履いてリビングにやってきたリリカは、たまたま仕事に出かける直前の母とすれ違った。青味がかった生地に蝶が描かれている着物を着ている母は、リリカを見るなりパッと親しげに目を輝かせた。
「まあ〜リリカちゃんおはよう、いらっしゃい」
リリカは「ママさんおはようございます」と微笑んでぺこと頭を下げる。
……母はリリカと向かい合い、
「まあ、まあ〜今日のお洋服素敵よ、よく似合っているわ、可愛いわ、ねぇ…ゆっくりしていってちょうだいねぇ」と早口で言いながら、彼女をぎゅうっと抱きしめる。
――これはいつものことである。ちなみにリリカが来る前に僕も母にハグされ済みだ(今日も大好きよ〜ウエちゃ〜〜ん、と)。リリカも慣れているので笑いながら彼女を抱きしめかえす。
「ありがとうママ〜」
「…こちらこそ、いつもうちの子と仲良くしてくれてありがとう。…あぁいけないわ、遅れちゃう。ママこれからお仕事に行くところだから、じゃあね」
「すみませんお忙しい時間に、行ってらっしゃい」
そう気を遣うリリカから母はさっと離れると、そばに控えているじいやに「あとでね」と目配せしながら声をかけて――要するに僕たちの世話を粗方してから、あとで職場に来てちょうだいね、と彼に声をかけて――から、
「はーい行ってきます。楽しんでね〜」
とニコニコして玄関へ向かって行った。
……僕はリビングのソファから「行ってらっしゃーい」と声をかけ、それから僕のほうへ歩いてくるリリカを見た。…やっぱり今日はやけにお洒落だな…。
「ねえかすみ〜んっ」
とリリカが愛嬌たっぷりに、僕の隣にぼすんっと腰かけ、僕の二の腕をきゅっとつかみながら寄りかかってくる。――彼女は不登校児だったときより随分あかるい性格になった。いや、それはきっと僕もそうだろう。
いやしかし…普段うすいメイクしかしない彼女が、今日は眉を書いて、キラキラの茶色いアイシャドウまで塗っている。どうしてこんなに可愛い彼女に、この可愛い所作ができる彼女に彼氏ができないんだろうか? もちろんゲイの僕のこの疑問には他意はないのだが。
「いいよねChiHaRuくーん」とリリカが愛らしい笑顔をうかべる。
「…いい。布教ありがとね、無事僕も…」
沼 りおおせまして、なんて僕が言おうとした矢先、リリカは「んで?」とにんまりした。
「…かすみん的には? 受け? 攻め?」
「……ぅえ、? ぁ、あーー……」
僕は目を伏せる。
ここでじいやがお菓子とジュースを持ってきた。「ごゆっくりお楽しみくださいませ」とそれをソファ前のガラスのローテーブルに置いてゆくじいやに、リリカが「ありがとうございまーす」と明るい声で礼をいう。
……じいやが立ち去るのを待ってから、僕は再び口を開いた。
「…あのさぁリリカ、…僕…」
「…ん?」
「こ、こんなこと初めてなんだが、その、…」
「何?」
僕はいくら親友相手とはいえ、これを言うのにはいささかの勇気が要 った。――だから思い切ってこう、小さい声で言った。
「…なんでだろその…ChiHaRuさんに対してだけは正直…――そ う い う 目 で見られないんだよね…」
ChiHaRuさんが攻めか? 受けか?
それへの僕の回答は、『神聖すぎてChiHaRuさんだけは腐男子目線で見られない』だった。
「…ほお?」
と彼女は興味深そうな反応をしたが、「えーでも私は〜」と嫌味のない朗 らかな声でいう。
「絶対ChiHaRuくんは総攻めだと思う〜。まー確かになんか、めっちゃ優しそうだし穏やかそうではあるけどさ。でも十八の癖にヤンデレ攻めみたいな目ぇしてるであの男。ある意味将来有望?」
「…えぇ? そうかな……」
……ちなみに彼女はメッセージで『カプ戦争起こるかもw』とは言っていたが、これだけ長い付き合いともなれば、僕たちはカプ違いくらい幾度となく経験してきた。
といって別に喧嘩 になったことなどない。お互いカプ違いとわかるなりその話題にはあまり触れなくなるが、ただ時折お互いにその違いを理解し合った上でからかいあったり、気を遣って話すようになるだけだ。――要するに彼女のあれは冗談である。
リリカはこう続ける。
「なんか眼力? 強くない? 目がオレンジだからかなー、…でもなんかさー、なんかちょっと狂気感じるっていうか……あ、この男こんな優しそうな顔して、裏は絶対ヤンデレ執着攻めだなって思ったもんな」
「えぇっいやそんなことないよ!」
しかし僕は即座リリカを見て、
「あんなに清らかな目僕見たことない! あんなに透き通ってて綺麗で、清らかって感じで、…神聖っていうか絶対めっちゃ優しい人だってChiHaRuさんは、何なら清純派王子様キャラっていうか、…そんな狂気とかないよChiHaRuさんに限って、絶対心に一点の曇りもない神様みたいな人だよあの人、…」
と熱弁した。
「……むふふ……」
リリカはにやにやしながら僕のこれをうむうむ、とうなずきつつ聞いている。僕はこうまくし立て続ける。
「いや、いや、僕昨日泣いたくらいだからねリリカ、だってすごい声も綺麗で、格好良くて、だって歌いながら綺麗な涙流すような人だもん、そんな狂気だなんて、そんな、そんなまさか、…」
しかし彼女は途中で「うむ」と何もかもを覚 ったふうに一度深くうなずきつつ、僕の両肩をがしっと掴むと、僕の目をまっすぐに見据えた。
「お主、惚れたな。」
「…あ…? ほ、惚れ…?」
僕は眉を寄せる。惚れたって…そりゃあChiHaRuさんの才能には惚れ込んだが…――。
リリカは目をつむり、しかしその口もとをにやけさせたまま、こうおどけがちに言う。
「おほほほ…ハヅキさん、それは恋ですわよ。」
「…こい…?」
「ああ恋だぜ青年。それを恋と呼ぶんだぜ。」
「いや呼ぶかよ、ちが……」
と僕は否定しかかったが、「お〜〜」と目を開けたリリカは、突然興奮気味に笑いだした。
「あ〜やばいやばいやばい、おほほ、…お〜待って萌える…!」
「な…、なんで…?」
「え?」――リリカはにやにやしながらとぼける。
「?」
僕はさっぱり理解できない。
彼女は「初心 受けかよ」と冗談っぽく呆れたふりをし、「だからさー」と上体を前のめらせ、ローテーブルに置かれたオレンジジュースの入ったコップを手に取りながら、
「まさかのカプ成立しちゃってワイ歓喜& 涙目。切ない片想い受けかー…、芸能人イケメン年下攻めに惚れちゃった一般人美人受けねー…――も〜アタイあんたらで同人誌描こっかな。お幸せに〜〜」
「いやっ、いやいやいや! これ恋とかじゃないから!」
あと僕は「美人受け」なんかじゃないし、と反論するなり、リリカは「はいはい、無 自 覚 美人年 上 受けね」と微妙な訂正をしたのち――しかも僕、いずれにしても「受け」認定されているし…――、取ったコップにささる赤いストローから、ちゅーっとオレンジジュースを飲む。
それから「だってあれじゃん」と今度は、やや真剣な目をして僕を見る。
「…ズブズブの腐男子が、例外的にChiHaRuくんだけは腐った目で見られない…なんてさぁ、恋としか言えなくない?」
「いやこれは恋というか、どちらかというと神聖視? 崇拝で…」
「でもかすみん、ブッダは頑張ればイケるでしょ。イエスキリストとかも。」――と言ってから彼女は目を伏せ、またストローからオレンジジュースを飲む。
「…いッ………」
別に無宗教だが畏 れ多い…――とは思うが、…
「…い、…ッイケるね…、なんか畏れ多いけど……」
……イケるわ。がんばったらイケちゃうわ。どっちも案外イケメンだし。
「でっでも、イエスキリストとかは僕、別に崇拝はしてないし…」
「でも畏れ多いみたいな罪悪感はあるんでしょ。」とリリカが目を伏せたまま言う。
「でもイケるんでしょ。」
「……、…」
まぁたしかに…――僕は無宗教とはいえ、一応イエスキリストやブッダを神聖視しているからこそ「畏れ多い」わけだが、…イケてしまう…がんばれば……。
しかしなぜだかChiHaRuさんだけはイケない…――嘘だ、まさかこれが本当に…恋、なのか…?
リリカはオレンジジュースの入ったコップをテーブルに戻しながらこう言う。
「んね。唯 一 の 例 外 ってのは大概恋なんだぜ、ハヅキくんや。知らんけど」
そしてにやっとしながら僕にふり返る。その細ぶちの赤眼鏡の奥、彼女の大きな目はすーっと細められているが、そのまぶたの奥の茶色い瞳は今日の彼女のアイシャドウよりキラキラと輝いている。
「…ねえかすみん…ほら、ChiHaRuくんにキスされたらとか考えてみ?」
「…は、…キッきス、? ……、…………」
声が裏返った…――、…一瞬考えてしまった。
ChiHaRuさんと、キス、…ざわつく胸のほうからかーっと上ってきた熱に、僕の顔どころか頭頂まで熱くなる。
「あ〜ほら真っ赤になってるー!」とリリカが僕をからかうので、僕はさっとうつむいた。
「ちが、それは…ただ僕が童貞だから…」
「むふふふ…で。キス想像したら気持ち悪かった…?」
「……、き…気持ち悪、くは……」
……ない。ただよくわからないが、今もなおドキドキしている。――ちらと隣を見ると、リリカはほら見ろ、と勝ち誇った笑みをうかべている。
「それはなー恋なんだよ。なぁかすみん…恋なんだぜ。…それが恋なんだぜ…?」
「……はぁ…、そうは言うが、リリカだって恋なんかしたこと…」
ないだろ、とせめてもの嫌味を言おうとした僕を、リリカが「悪いけど?」
「…私、彼氏出来ましたー!」
「…へ゛っ? …嘘、っは? 誰、ど、どんな人、?」
僕は眉を寄せて彼女に詰め寄る。
リリカは照れくさそうに白い頬を赤らめてにんまりと笑い、ソファの対面にある大きなテレビの、朝のニュース番組へ横目を向けている。
「作業通話で出逢ったオタク。アニメの話でめっちゃ盛り上がってさー、腐にも理解ある人だったから……でね、彼氏がChiHaRuくん好きで、私も彼氏に布教されてハマったんだよね。」
「……は、…はっ初耳なんですが、?」
また水くさい!
そうならそうと早く言ってよ、と僕は少しすねたが、リリカはきょとんとして僕を見る。
「え? でもかすみんも話したことある人だよ?」
「えー誰…?」
「〝住職の固まり侍〟。」
「……あ…? あぁ…あの人か……」
通称「住職さん」だ。
僕も作業通話でなんどか話したことがある。…ちなみに「作業通話」というのは読んで字の通り、みんなでイラスト制作などの作業中に通話することである。
まあ住職さんならいいか、と僕は思った。
実家がお寺らしい二十八歳の会社員、寺を継ぐ気はない次男――めちゃくちゃ腰が低くて優しい感じの人だった。ただめちゃくちゃギャルゲーエロゲー好きのオタクだが。
「てことは、…会ったの?」
「会った会った、」リリカは笑いながら雑にうんうんうなずく。
「向こうわざわざ栃木から来てくれて。坊主じゃない癖に坊主頭でめっちゃウケた。もちろんChiHaRuくんほどイケメンじゃなかったよ。でもまあ、まあまあ?」
とリリカが可笑 しそうに破顔して笑う。
ただ単に面白そうに笑っているだけのようだが、なんだか彼女のその笑顔は幸せそうに見えた。
「えーそっか、おめでとうリリカ。僕応援するよ」
「んーありがと、私も応援するぞい。お互いがんばろ〜」
彼女はにこっとして親指を立てる。
「うん…、まあ…まだ恋かどうかわからないけど、自分では……――。」
と自信なく目を伏せた僕に、まだ言ってんの、とリリカは笑ったが、…
手が届くはずもない芸能人に馬鹿な恋をしてしまった……ましてやいくら大人びているとはいえ、相手は十八歳の少年だった。――恋を叶えようなんて欲深な気持ちなどないにせよ、十八歳とは二十二歳の自分が恋をして許される年齢だろうか?
――しかしなるほど、たしかに僕は恋に落ちてしまったとのちのちに思い直すのだった。
たしかに神様とおもうほど神聖視はしていた が、少なくとも僕はあのときもChiHaRuさんに「抱きしめられたい」と思っていたからである。
ちなみに僕のJ‑POP嫌いはこれを機にみるみる緩和され、やがて推しや親友やに絆 されてゆくうちに解消された。
……またもう一つちなみに、今三十三になったリリカは今や、このときの彼氏(住職さん)の妻となったのだった。
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