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そう…僕は十年前、ChiHaRuさんにガチ恋してしまった――。
「――…、……」
僕は今もなおChiHaRuさんが配信をつづけているスマホの画面を見られず、それを胸板の上において、仰向けになっている縁側から、そのうす明るい細長い屋根をぼんやりと見上げる。
……あたたかい日射しのなか、埃がきらめきながら舞い踊っている。――『え、最近ハマってる…ルアー? いや僕、釣りとかしないんですけど〜』とChiHaRuさんが笑っている。彼はあれからこうしてファンの質問に答えつづけていた。
「……、…」
昔はどうだろう、これは本当に恋なんだろうかどうか、と迷っていたが――今となっては確信している。…これは恋だった。
――彼相手だと大した妄想すらできないのだ。
それはもちろんBL的な意味じゃない。
……僕はChiHaRuさんと恋人になりたい、とは確かに思うのだが、たとえば……彼の隣に座り、あるいは彼の隣に立ち…――彼の指の長い大きなあめ色の手が、そっと僕の白い手を上からゆるく握る。
僕はふと隣の彼にふり向く。
彼はいつものようにやさしげに微笑んでいる。
『俺が思ってたよりは…ちょっと綺麗かも』
「……、…」
……現実の僕の頬は熱くなる。
――しかしこれ以上は妄想できない。
キスはおろか更にその先なんてまさか…とてもおこがましくて、とてもこれ以上は妄想できないのだ。
不釣り合いにもほどがある。
現実ではあんなに美しい人の隣に並ぶ自信もない。
叶うはずもない。申し訳ない…――そもそもChiHaRuさんがゲイかバイかもわからない。
しかし大概の男性の恋愛対象は女性だ。
人のセクシュアリティを決めつけるのはいずれにしてもよくないことだが、といって彼も大多数の異性愛者に属すると見ておいたほうがよいのは――期待なんかしないでおいたほうがよいのは――当然といえば当然である。
いくら近年この日本でも同性婚がみとめられ、ゲイたちの堂々とした露出も増えてきたとはいえ――同性婚が法で認められたのを契機として、当事者としてはありがたいことに、カミングアウトしやすい雰囲気にもなったのだ――、…そうして同性愛者への差別の目線が緩和されたこの日本であってもなお、やっぱり異性愛者の男性が男にこんな妄想をされているだなんて知ったら、きっと恐怖するか、嫌悪するに違いない。
……ましてやこんな顔をした僕に、…いよいよ恐怖も嫌悪も当然だろう。
そもそもChiHaRuさんの恋人になりたいだなんだと言ったって、僕は彼を画面越しに観ているだけで、彼とは一度も会ったことがない。
他の行動派のガチ恋ファンなら、確率宝くじ一等ほどとはいえまだチャンスはある。ところが僕はライブにさえ行った試しはないし、きっとこれからも行くことはない――ひいては、これからも僕はChiHaRuさんと会うことはない。
そうして彼は僕の容姿から性別から何から何まで、何ひとつとして知らない、…ChiHaRuさんは当然、僕という人のことなど微塵 も知らない。――だというのに、どうして彼と僕とが恋人関係になんか発展するのか。宝くじを一枚も購入していない僕には、それの一等当選なんて起こりえない。
それなのに…知れば知るほど好きになってしまう。
――人らしからぬほど清らかで、こんなに身も心も美しくて神聖な人が、この世に存在してくれている。
神様が肉体をもってこの世に顕現 した。
彼はちっぽけな僕一人だけではなく、もっと多くの人を救うためにこの世に降り立った神様なんだろう。
一生応援します。
たとえ貴方が、誰か素敵な人と結婚しても――。
僕だけに微笑みかけてほしいだなんて、そんな欲張りなことは言わない。
でも――叶うのなら……。
「……、…」
僕は縁側の屋根へむけて、おもむろに片腕を伸ばした。――左から射し込む陽光が、僕のその腕を驚くほどまっ白に照らし、薄ぼんやりと輝かせる。
抱きしめてほしい…――それさえ欲張りだろうから…――貴方のその綺麗な手で、僕にちょっとだけ触れてほしい。
僕に恋をしてほしいだなんて贅沢は言わない…そんなこと言えやしない。だから、ただ僕の手をそっと握って、できるなら笑って、僕の目を見て、「これまでよく頑張ってきましたね」と言ってほしい。
それだけでいい…――。
ただ…もし願いが叶うのなら、本当に僕なんかでも、夢を見てもいいというのなら…――僕は貴方に、一度だけ少しでも「綺麗だね」と言われてみたい。
「…………」
無理だ。わかっている。
……――忘れてしまいたい。と僕は目を瞑 った。
こんな恋、こんな恋心、もう忘れてしまいたい。
つらいだけだからだ。――親友のリリカだってもう結婚した。
別にこれは彼女を妬んでいるのではなく、ただ…時間を無駄にしている自分に失望しているのだ。
――十年も一体何をやっているんだ。
いい年した男が叶うはずのない恋をして――こんな恋、こんな恥ずかしい恋、こんなみじめな恋、…こんな恋…――もう忘れたい。
そもそも…――僕はふと思うときがある。
――たしかにChiHaRuさんは、本当にとても魅力的な人だ。
常におだやかで心やさしい人――老成しているというほど思慮深い人だというのに、その反面ときどき少年のように純粋で無邪気で、ちょっと天然ボケが入っていて――人に放っておけないと思わせ――しかもとても甘え上手で、誰かをメロメロにしてしまうような「可愛い年下しぐさ」を自然とするような、天性の人たらしというような、…彼はとにかく人好きする性格をしている。
彼のその話し声はいつものんびりと誰かに可愛く甘えているようだが、どこかしっとりとつややかな深い色気を帯びてもいる。
そして彼のその歌声は、全身を優しく包み込むやわらかい神聖な陽光のようなときもあり、ドキッとする色っぽい黒とワインレッドの妖艶なアクセサリーのようなときもあり、あるいは、お神輿 を担 ぐ人たちの地鳴りするほど力強いかけ声のように、エネルギッシュなときもある。
――また誰か、最愛の人に愛を囁くように甘くてやさしいときの、まるで透きとおった美しい月光のような彼のその歌声を聴くと、僕はもう何もかもどうでもよくなってしまうほど恍惚 としてしまうし、とろけそうなほどおだやかな気持ちになれる。
もちろん容姿も驚くほど美しい人だ。
そのエキゾチックな色気のあるあめ色の肌の艶とハリ、銀色に輝くゆるいくせっ毛の髪とまつげ、常に少し両端が上がっている珊瑚色の唇のその若々しい柔軟性、あまやかなタレ目、透きとおった赤味の強いオレンジ色の瞳、手脚の長いスタイル抜群の188センチの体…――そのあめ色の美貌から放たれるまばゆい光のような「美しい若さ」は、恐ろしいほど純然 としている――そのにこっと無邪気に笑った笑顔には、何かその「美しい若さ」が溌剌 とはじけるあどけない少年らしさを感じる。
それなのにパフォーマンス中はぞっとするほど色っぽかったり、ドキッとするほど目付きが暗く妖しく鋭かったり、はたまた神のように神々しかったり、天使のような微笑みをたたえていたり…――彼の美しい姿を見ると、僕はそれだけでいつもトクトクと胸が高鳴る。
二十八歳男性、身長188センチ、誕生日は五月五日のおうし座、血液型はO型、学生の頃はスポーツが大好きで、のんびりしているようでかなりの努力家で、美容にも詳しくて、ファン思いで…――。
……だが――所詮僕は、ChiHaRuさんのある一面しか知らない。
どれほど彼についての情報を集め、どれほど彼の映像を観て、どれほど彼について詳しくなっていっても――どれほど「歌手・ChiHaRu」について知らないことなどない、というレベルのオタクになっていっても――僕が知っているのは所詮、アーティストとして表舞台に立っている彼、彼がシンガーソングライター・ChiHaRuとしてファンに見せているその一面、僕は彼の極限られたそのたった一面しか知らない。
だというのに、僕は何をもってChiHaRuさんを「好きだ」と言っているんだ――?
その一面もたしかにChiHaRuさんという人の一部だ。しかし「一部」でしかないのだ。
その人、ではない。僕はもちろんアーティストとしてのChiHaRuさんも心から応援し、敬愛している。だが、恋もしてしまっている。――しかし彼のその一部に恋したところで、僕が恋人になりたいのは結局「シンガーソングライター・ChiHaRu」、世界的に活躍している有名な芸能人のChiHaRu、でしかないんじゃないのか。
僕のこの気持ちは、本当にChiHaRuという人を「好き」なのだと言えるのか、いや、本当にそう言ってしまってもいいのか――?
……三十二にもなって、こんな馬鹿らしい恋をしている自分が恥ずかしい。
これまで身の程をわきまえて生きてきたつもりだが、よりにもよって初恋が画面向こうの芸能人とは、なんという…――これから先自分が幸せに生きるためにも、僕はここらでいい加減現実を見なければ。
そもそもChiHaRuさんを本当に想うなら、それこそ僕は、そろそろこの恋に終止符をうつべきである。
彼は絶対僕なんかではなく――といって僕が彼と付き合える可能性なんかゼロなんだが――、芸能人の彼の近くにいる人、美貌の、かつ芸能にも詳細な理解のある誰か、たとえば同じ芸能人の誰かとむすばれたほうが絶対に幸せになれる。
……もちろん僕がそう思わずとも、彼のような素晴らしい人はそのうち、彼にふさわしい素晴らしい人と付き合って結婚するのだ。――これから彼は今日にも完璧というほど素敵なパートナーと出逢い、(ひょっとすると衝撃的な)恋に落ち、そしてめでたく幸せな結婚をするに間違いない。
しかしそう思うと、それだけで胸がチクッとする。
……上に伸ばしていた僕の片腕は、真横へばたんっと力尽きた。
「もう諦めよ……」
……とそうつぶやいた矢先――僕の胸に置かれたスマホから、ChiHaRuさんのこの言葉が聞こえてくる。
『…はい次。――えー…、…〝彼女いますか?〟』
「……っ」
いや、…諦める?
僕の胸がズキッと警戒に痛んだ。
ま、…まだ、今すぐには無理らしい、な……。
「…は、…は、…」
僕の呼吸がドクドクと速まる動悸 にともない短くなる。苦しい…! いない、いないと言って、お願い今はまだ無理、だって僕十年もChiHaRuさんのこと一途に、…
『彼女かー…彼女、いません。…はい…へへ…今はお付き合いしている人とか全然いません。僕恋人はいません…』
「……、…っはぁ……!」
よかったよかったよかったよかったよかったよかったよかった――!
まあ「今は」っていうのが引っかかりはするが、少なくとも今はいない、と。今はね…過去はじゃあ、…いやもう「今は」でも満足しろオタク!!
『…でもー、あのー…多分…――』
「……えっ?」
えっえっ…っで、…でも、?
僕は慌ててスマホを顔の上にかざした。――ChiHaRuさんはカメラ目線、にこっといつもの明るく輝くような笑顔を浮かべる。
『結婚は…します。近々。えへ…』
「…んぶぐっ!」
ショックのあまり手から力が抜け、僕の顔に硬いスマホ が落ちてきた。――だがもうどこが痛いんだか全然わかんねぇんだ、顔か心か心臓か魂かどれか!!
……僕は顔にスマホをのせたまま春の縁側で大の字になる。ChiHaRuさんはまだ何かしら言っている。チーチョロロロ…と何だかも知らん鳥が遠くで鳴いた。
「……………………」
もう終わりだ…――この世の終わり…………。
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