15 / 40
14
「……、ひ、…っ」
憂鬱な気分、…を通りこして完全なる悲嘆 からメソメソ泣いている僕は今、――なんでか知らんけど、もう正直全部どーーでもいいんだが、――ある高級日本料亭の『藤 の間』にいた。
都内も都心部からは離れた場所にあるこの日本料亭は、僕ら家族いきつけのうちの一軒である。
ここは二階建ての小規模なほうの店だが、僕の祖父や母のような著名人のプライバシー保護は徹底されている、…というよりかほとんど著名人向けの一見 さんお断り系、いわば隠れ家的な日本料亭だ。
門構えからわびさびを意識した日本庭園的である。
灰色の砂利の上にうかんだ飛び石は、店の引き戸の玄関口へとつづいている。
母は十五時から出かけると言っていた。この店に来る予定だったのだ。ましてや常連客の僕と母と祖父の三人を、この店の女将 さんは玄関前でお出迎えしてくれた。
そして僕たちはこの『藤の間』に通された。
常連とはいえ、僕はこの『藤の間』には初めて訪れた。
――八畳ほどの新しめな畳敷きの個室である。
出入り口の藤と胡蝶 がえがかれた襖 を開けたなり、ふわりと畳の草らしい落ちつく青臭い匂いにまじって、あでやかな甘い花の匂い――藤の花の匂いがした。その匂いは僕の探求心をそそった。
……その花の匂いはこの出入り口から対面、八畳の距離を越えた先にある日本庭園に植えられた、立派な藤の木から香っていた。――その日本庭園とこの座敷のさかい目には、絶妙な風雅 なぐあいに開かれた障子 がある。障子の奥には縁側 もある。
その昼下がりの小砂利の敷きつめられた雅 な日本庭園には、苔 むした石灯籠 が点々と三基ある。それの一つの近くに水の透きとおった小さい池がある。その池にむけて、竹の筧 ――半分に割られた竹のそのくぼみに水を伝わせて流しおとす装置――からチョロチョロ…と清らかな細い一筋の水が流れ落ちていて、とても風流だ。
……そして、昼下がりの陽光に透かされている水のきらめきが優雅な、その流れおちる水に波紋が生じている池の水面には、近くに植えられた立派な藤の木から舞いおりたのだろう藤の花びらが浮かび、ゆら…ゆら…と揺れている。
今は五月上旬ともあって、その『藤の間』の名に似つかわしく、この部屋からは見事なおおきな藤の木――そのしなった木の枝からたっぷりとたれ下がっている薄紫の花が満開に咲きほこっているのがよく眺められた。
そして上から黄金の陽光に照らされている藤の花は、時折いたずら程度にふわ…と吹く春風にしばしばゆらゆらとその花の房 の先を優雅にゆらし、そうして甘い香りを匂わせながら、はらはらと薄紫の花びらを下へ落とす。
――その湿っぽそうに苔むして陰った太い木の根本には、たくさんの藤の花びらが散らばっている。
またその藤の木の対面には、横にひろがる幹 の湾曲 が雅 びやかな、威厳のある大きな松も植えられている。なおこの日本庭園は高い木の柵で囲われており、外からは見えない。
――さて、この八畳の畳敷きの『藤の間』の中央には、こげ茶の艶のある低い長方形のテーブルがある。それの四角 の脚のつけ根には優雅な木彫りが成されている。――またそのテーブルの左右に三脚ずつ、赤紫いろの座椅子が置かれているが、下は掘りごたつになっている。
そしてその計六脚の座椅子の前にはそれぞれ、半月型の黒いお盆が六人の来客を待ち設けている――そのフチが赤いお盆の上には、白い袋になかば入った漆塗 りの黒い箸、円柱型にまるめられた白いおしぼりがある――。
またこの座敷には床の間もあり、そこには風神雷神の掛け軸がかかっている。それの下、大きな青ねずみ色の花瓶に、花を咲かせた高雅 な藤の枝と、それを引き立てる多少の小花が活 けられている――ただしこれらは大変精巧な造花である――。
「……、…、…」
……で、僕は共にここへ来た祖父と母にうながされるまま、その『藤の間』の床の間側の下座――出入り口ちかくの最下座ではなく、微妙に接待される側の、その最下座の対面の席――に座り、ずっとメソメソしている。
しかし多分、これから僕はなんか偉い人と会うんだろう。
少なくとも今日は、家族で日本料理を楽しみにきたというわけでもないはずだ。――僕の隣に母、母の隣には祖父が座っている。しかし対面に用意されている三席にはまだ誰も着いていない。
……またじいやも今日は最下座(出入り口)近くの、部屋の隅っこのざぶとんに正座して控えている。家族で料理を楽しむときには、彼はきちんと席に着いているのだ。
まあ要は、あと誰かしらなんか偉い感じの人が三人はここに来るんだろ。しかも接待側のくせにまだ来ていないあたり、それが許されるくらいには母か祖父かそのどちらともかと親しい間柄の人たちが。……まあだからといっても、僕 ぁ別にどーでもいいんですけどね……。
ましてや僕は今、(じいやに用意してもらった)黒いスーツを着ている。もちろん上等なもの、冠婚葬祭用のオーダーメイドスーツだ。なおネクタイはワインレッド、ロイヤルブルームーンストーンのネクタイピンもつけている。
この服装は、まあ要するに何かしらおめでたいこと用のそれである。…なぁにが「おめでたい」だふざけんな、…それすらも今は腹立たしいが…――こっちは「世界の終わり」を迎えてんだボケ! ――更に今日は例の赤い組み紐の耳飾りもつけてね、と母に言われたのでそれも左耳につけている。
またじいやにヘアセットされるまま、今日僕は長い黒髪を右わけにして耳のほうに流しており、特に右側の僕の前髪は根本から少し立ちあげられている。
つまり僕は(とてもそんな気分じゃないってのに…)バッチリキメこんでいるばかりか、今日は両目を出しているのだが、この白い瞳には使いすての茶色いカラーコンタクトレンズをはめている。
なお間違っても僕はおしゃれのために茶色いカラコンをはめているわけではない(ちなみに視力もすこぶるよいので度も入っていない)。――そもそもカラコンは、視界を確保するために瞳孔 まわりには色が入っていない(クリアである)ため、僕の白い瞳に黒いカラコンをつけてしまうと、黒い瞳のまん中あたりだけ白、そして黒い瞳孔、なんて余計不気味な黒・白・黒の三層のサークルができてしまう。
……したがって茶色いカラコンで、白い瞳をせめても明るい自然な茶色に見せているのである。
「……、…、…」
だが、…今はそのカラコンもずれまくっている。ときどき煩 わしい茶色い何かが僕の視界にチラチラとあらわれるのだ。――僕がメソメソメソメソ、ひっくひっくと泣きまくっているせいである。
ちなみに、ここまではじいやが運転してくれる自家用車で来たが、その車中でも僕はずっと忍び泣いていた。後部座席、僕の左右に座る祖父と母は「どうした」と僕を心配してくれたが、なぜ泣いているのかを彼らに打ち明けようにも、それを言語化するなり「真新しい傷」をえぐり散らかすため(あと普通にそれを言葉にしようとすると余計号泣しそうになったため)、…母にわたされたハンカチで涙を拭きつつ、ここまでの道すがらも僕はただひたすら声を殺して泣くことしかできなかった。
――〝『結婚は…します。近々。えへ…』〟
「……ッぅ、…、…、…――。」
えへっ☆ じゃあねえ〜〜んだわおいChiHaRuぅうううぅうぅ!!!!
……ChiHaRuさんが生配信中、唐突にしたあの衝撃発言 は早速、『シンガーソングライター・ChiHaRu 生配信中にまさかの結婚宣言か』とかなんとかとネットニュースになっていた。当然彼のファンたちもSNS上で騒然としている――。
ChiHaRuさん、…結婚するんだ……。
「……ゥぐ、……ッ」
僕の目にはまた涙がのぼってくる。
結婚…――あれから十年も、僕はただChiHaRuさんのことだけを一途に想って生きてきた。
もちろん彼と結ばれたいなどとは少しも考えていなかった。――そもそも絶対に叶えようもない恋である。
何なら僕は相手がChiHaRuさんだろうがそうじゃなかろうが、自分の人生において恋愛および結婚の幸せ、なんていう高望みなものは求めてはいないのだ。…こんな顔じゃ到底欲しがるだけ無駄である。
まず僕の前には未来永劫、あえて僕なんかと恋人になりたいと思うような奇矯 な人など現れようもない。
不細工なら不細工なりに身の程をわきまえて生きてゆく、というある種の諦めは、それこそ一つ、僕が幸せに生きてゆくために必要なものであった。
――つまり僕は過去も現在も未来も、恋人やら夫やらを望まないで潔 く生きてゆくつもりだったし、今もなおそのつもりでいるのだ。
……といっても僕は、大好きな人を遠くからただ想っているだけですごく幸せだった。
――格好いいChiHaRuさんの姿を見るだけで、彼の甘い声がささやくように歌うそのラブソングを聴いているだけで、彼のことをたったの一面でも知ってゆけるだけで、――ドキドキした。…ときめいた。
あぁ今日もすごく格好いいな、可愛いな、愛おしいな、素敵だなと思い、彼の幸せを、繁栄を心から願えるだけで、僕はこれまで本当に幸せな十年間を過ごすことができた。
――それだけでよかった。
いや――じゃあなぜ、
……それなのになぜ、「それだけでよかった」と心から思っているはずなのになぜ――なぜ僕は今、こんなにも辛 いんだろう。
「……、…、…」
そうか…――わかった。
僕はわかっていた。いつかChiHaRuさんが誰か素敵な人と出逢い、その人と晴れて結ばれ、そしていつかは彼も結婚し、その人と幸せな家庭を築くということを…――僕はちゃんとわかっていた。
ただ、自分勝手だが――それこそ大好きなChiHaRuさんの幸せを本当に想っている、とはとてもいえない身勝手さだが――、…もし彼に恋人なり伴侶 なりができてしまったなら、そうして彼を想うことさえ許されなくなってしまうから、僕はこうしてつらいのだ。
……迷惑な横恋慕 でしかなくなってしまう。もちろん僕のそれに何かしらの迷惑な実行など伴 いやしないが、明確に誰かのものになったChiHaRuさんを想いつづけるということは、きっと今よりももっと許されないことになってしまうからだ。
ついさっきは「もうこんな恋は忘れてしまいたい」なんて思ったが、そんなのは真っ赤な嘘だった。彼への恋心を失うということは、僕の人生にとって大きな幸せを失うということでもあったのだ。
きっと推しにガチ恋していない人はまた大げさな、と思うことだろう。しかし事実、この十年間の幸せとときめきが天に届くほど堆積 されたこの恋心を、丸ごと壊して捨てなければならない今に直面すると、僕は誇張でも今はそう思えてしまって仕方がない。
絶望だ。
が、いずれにしても、もうこの恋心を廃棄しなきゃいけない現実がそこにある。…卒業だ…それこそこれまで命の次に大切にしてきたChiHaRuさんのCDやグッズ類も、断腸の思いだが、この機会に捨てなきゃな……つらいのでSNSのフォローも外して…彼の動画を集めたリストも消して…――。
「……、…」
でも、…と悲観的になっていた僕は、しかしふと思う。――恋人がいないのにいきなり結婚…?
何かおかしいよな、やけに含みがある言い方というか…いや――まあたまに芸能人は「交際0日婚」なんて突飛な結婚をする人もいるし、なんならもう「恋人」という段階をこえた「婚約者」だから、「今は恋人はいないよ(もう婚約者になった人だから)」と言ったのかもしれない。
「……ぅ、……」
でもつら、…やっぱりつらすぎ…っ!
……これはあれか――天の思し召しなのか…?
神『さあーそろそろ目を覚ますのだーハヅキ。お前もう三十二ではないか? もうおじさんに差し掛かってるんだぞーお前はー、ほ〜らもう、いい加減現実を見なさ〜い☆』
「……うぅ゛、…っくゥ゛〜〜〜……」
っいや無理だよ神様今はChiHaRuさんしか考えられないもん僕、そりゃあいつかはこうなることくらいわかっていたがさすがにいきなりすぎ、…ってそりゃあいきなりこうなるのは当然なんだが…、…でもちょっと早すぎる、もうちょっと、もうちょっとだけ夢を見ていたかったって〜…っ!! いや……十年も夢を見せてもらっておいて「もうちょっと」はさすがに欲深すぎるか……。
でも酷い人だなChiHaRuさん、…
まさか配信中にあんな匂わせみたいなこと言うだなんて、せめて公式発表にしてほしかった、…誰、貴方と結婚できる世界一幸せな人って一体誰なの!?
あとはもう僕らガチ恋勢は死ぬしかないじゃん!
だってあんなの「死刑宣告」だからなっ! ガチ恋勢としてはもう公式発表 を待つしかない状況じゃん、…あとはもう死ぬだけだ僕らガチ恋勢は、…みんなで死ねば怖くな……いややっぱり嫌だよ、怖いよ、嘘だとか冗談だとかその場のノリでつい、とか言ってくれよ、そう言えよなあChiHaRuぅーー!!!
「……はーーー……」
もう終わりだ…全部終わり…――終わった…――世界が終わった…完、…終、…了、…おしまい、…
俺たちの戦いはまだまだこれからだ!!
☆ 天春 春月 先生の次の人生にご期待ください ☆
〜 Fin.〜
ともだちにシェアしよう!

