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〖「五つの真実」〗16
――なぜかはわからない。
僕を含めたこの六人とプラスじいやで、この場に揃うべき面子 は全員そろったのだろう。ほどなくして料理が運ばれてきた。
今日の先付 ――いわゆる日本料理の前菜――は車えびとイカのだしジュレあえ、ゆり根ともずくの酢の物、豆腐のウニのせだった。それらは長方形の黒い皿の上、それぞれ小鉢に少しずつ美しく盛りつけられている。
「……、…、…」
なぜかはわからない。僕は今うつむいている。
伏せている僕の視界に映るのは、三つ並んでいる有田焼の小鉢の中央、五センチほどの白い豆腐の上にのったウニの、その黒ずみのない新鮮そうな黄土色と三つ葉の緑である。
しかし僕はいまだ箸を握っておらず、僕の震えがおさまらない左手は――僕の利き手は左である――あたたかい緑茶の入った湯のみをつかんでいる。やたら冷えきった僕の震える指先を、そのつるつるとした熱いくらいの湯のみはせめても正気に戻してくれる。
「……、…、…」
まず今日は何かがおかしい。
――いや…今僕の左隣に座っている母、そして母の対面に座っているコトノハさんが、お互いに微笑みあいながら、お互いの仕事のことなどの近況報告をしあっているのは尋常だ。
そして更に母の左隣、春の陽光差しこむ縁側ちかくの席で向かい合っている祖父とロクライさんが、早速楽しげに日本酒を酌 み交 わしはじめたのも、尋常である。――その四人は先付を楽しんでいる。平然と…。
しかしなぜか、なぜか僕の右隣に推し、…
……いや待ってくれ、待ってくれその前に…――さっき起こった「十年憧れてきた推しが自分の隣にいるよりも尋常ではないこと」を、一旦整理したい。
こうして先付が僕たちのもとに運ばれてくる前、実はこの『藤の間』にはもう一人来訪者があった。
それは…――じ い や だ っ た 。
あ…ありのまま、今起こったことを話すぜ…!
まったく理解を超えていたのだが……、
――僕は今、出入り口付近に正座しているじいやはそのままに、「もう一人じいやがこの『藤の間』に訪れた」のを、たしかに見た……。
な…何を言っているのかわからねーと思うが、
僕も…この目で何を見たのか、わからなかった…。
しかもその二人のじいやが、お互いに目を見かわしあい、『お勤めご苦労』とお互いにねぎらいあったあと、
すーー…っとその二人のじいやの巨体は重なり、
――やがて一 人 の じ い や に な っ た んだ……!
頭がどうにかなりそうだった…催眠術だとか怪奇現象だとか、そんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
もっと恐ろしいものの片鱗 を味わったぜ…――。
ということで……(四方八方から怒られそうなんだが…)、…そうなのである。
――ちなみにChiHaRuさんはあのあとすぐ、おそらく僕の対面の席に座らなければならなかったところを、僕の右斜めうしろの部屋の隅に積まれている座布団 を一枚、僕の右隣に置いて、そこにあぐらをかいて座った。
彼はそのときコトノハさんに「こら、ちゃんとこっちに座りなさい」とその人の隣の座椅子に着するよう叱られたものの、「やだ」と言って、今もなお僕の右隣にいるのである。
もちろん僕はその近距離に推しが座っていることに、口から心臓がとび出そうなほど緊張していたのだが、…――そのとき、…黒スーツにそのガタイの良い体型もオールバックの髪型も、もちろん雄々しい雄牛のような顔立ちもなにもかもが同じも う 一 人 の じ い や が、開かれたままだった出入り口の襖から現れ、「すぐお料理を運んでいただけるよう手配して参りました」と報告しながら後ろ手に襖を閉め、…そして僕の祖父も母も、…というかこの場にいる僕以外の誰もが平然と、その彼に「ありがとう」と答えていたのだが……。
『……、…、…』
僕だけは愕然 としていた。
両目をかっぴらき、口をあんぐり開けて固まっていた僕だったが、…しかしふとすぐ思い直した。
いやいや落ち着けよハヅキ――あれじゃないか。
一卵性双生児、つまりじいやは双子だったのではないか…――と、僕が安堵したのもつかの間、しかし出入り口付近に正座しているじいやがすっくと立ち上がり、その二 人 の じ い や は向かい合って『長年のお勤めご苦労だった』とお互いねぎらいあって…――そしてすーー…っと透けながら重なりあい、たちまち「一人のじいや」になったのである……。
ちなみに今「一人のじいや」になったその人は、出入り口付近にやはり正座し、その前に置かれたお膳 から先付を食べている。ポッと染まった頬をつやつや、ほっこり顔でもぐもぐ、やはり平然と……。
「……、…、…」
え、…あれ……なに、なん…え……?
え…? なんか僕、見ちゃいけないもん見…え?
え…? あ、あれって何だったん…――は…?
冷や汗がとまらない。――もしや僕、いよいよヤバい幻覚でも見ちゃった…のか……?
「……、ね、ねぇママ…?」
僕はいよいよ自分の頭がおかしくなった可能性を認めたくない気持ちなかば、この「恐怖体験」を一人で抱えこむプレッシャーに耐えきれなくなったのなかばで、今も僕の隣、コトノハさんとの話が弾んでいるらしい母に話しかける。――「なぁにウエちゃん」と彼女は右手に箸を握ったまま、もう片手で口もとを隠しながら僕に振り向く。
「…なんかさっき…じいやが二人いて…というかもう一人じいやが来て…? それで、その…ひ、一人にならなかった…? じいやが……」
マジで自分でも何言ってんだかわからないが……。
すると母は、
「…あぁ……」
とその可愛い感じの猫目を丸くし、ぱちくりとまばたきをする。僕を見るそのオレンジの瞳は落ち着いている。
「そうね…。けれど、その話をするには色々と前置きが……」
「ねぇねぇ…」とここで(いいところで)僕の肩をとんとんと叩く指先がある。
……僕の右隣に座っている推し、ChiHaRuさんだ。僕は、まってくれママのこの反応、てことはじゃあマ ジ で じ い や 人 間 じ ゃ な か っ た の、と後ろ髪は引かれながらも、…推しを無視はできないと彼にふり返った。僕を見るそのオレンジ色の瞳は太陽のように純然 と輝いている。
「名前はなんていうのー…? おれ、まだハヅキとしか聞いてないから…――ハヅキさんの口から聞かせて…?」
「……、…、…」
ほんと、…なぜかはわからない。
僕は殺される間際かというほどの動悸を感じながらうつむいた。…人生いつ何が起きるか、というのも、ほんとにわからない…――。
……ただこうして僕のよく知っているロクライさん、コトノハさんに加えて、ChiHaRuさんの三人が揃っている理由には、すさまじい緊張のなかにあってもふと今に直感するものがあった。おそらく彼らは「仕事柄の縁故」によってここにいるのだろう。
芸能人の歌手、その歌手と幾度となく仕事をしてきた作詞家、そして芸能事務所の社長…――。
「…ねぇ…、聞いてる……?」
と艶 やかなかすれ声で言いながら、ChiHaRuさんはその良すぎる顔面を、僕のうつむいている片頬にす…と寄せてきたので、僕の頬にふぁ…とかすかな生あたたかい「そよ風」が、…
「…ッ! はあぁぁあぁ…ッ!」
僕は思わずビクッとしながら顔を横にそむけた。
――僕が顔をそむけた先、隣の母が可哀想なものを見るような眼差しで僕を見ていた。
「…………」
「……、…」
気まず……。
「んぉ…っ!」――僕はChiHaRuさんに肩を掴まれ、ぐいんっと無理やり彼のほうに腰から上を向けさせられる。
……その先のすこしそり上がった銀の長いまつ毛の下、ChiHaRuさんの瞳が暗い真紅に染まり、彼は何か少し恐ろしいような妖しいようなその目つきで、じっ…と僕の目を見つめてくる。
「…ねぇ…俺の話、ちゃんと聞いてるの…?」――そしてそののんびりとした調子の声は、しかしその割に何か冷ややかなものを帯びている。…僕の肩甲骨のまん中あたりがひやっとし、そこの肌にぞわわ…と粟 が生じる。
「…ぇ、あ、な…名前、でしたっけ、…ぼ、僕の…?」
僕は焦りながら目を伏せた。
な…なんでそんな僕の名前なんか、…なぜそんな、なんでちょっとキレるくらい僕の名前なんか知りたいんだ、?
「…あの、えー…僕は、天春 …、……」
「…………」
じーー…――なぜかChiHaRuさんの刺さるようなガン見視線を、僕は顔中にめちゃくちゃ感じている。
「……、…、…」
いや自意識過剰か、まさか僕ごときが推しにガン見されているわけ…と上目遣いに見やる――彼の据 わった紅 い瞳と目が合う。――さっと目を伏せた僕は今、なぜかリリカのこの言葉を思い出していた。
「……、…、…、…」
――『絶対ChiHaRuくんは総攻めだと思う〜。まー確かになんか、めっちゃ優しそうだし穏やかそうではあるけどさ。でも十八の癖にヤンデレ攻めみたいな目ぇしてるであの男。……』――『……。この男こんな優しそうな顔して、裏は絶対ヤンデレ執着攻めだなって思ったもんな』
いや、…いや〜〜ま…まさかな、聖人君子たるChiHaRuさんに限って……?
……というか、そもそも仮に攻めだの受けだのをリアルに当てはめたとて、僕は彼にとっての受けでも攻めでもない――僕は彼の恋人はおろか結婚相手ではない――ので、まぁこんな疑惑やら不安やらは考えるだけ無駄なことである。
つまり、たとえChiHaRuさんが(あのいろんな意味で鋭い腐女子リリカの推察どおり)「ヤンデレ執着攻め」だったとて、彼にとっての「受け」ではない僕には関係のないことだ。
とにかく…――と僕は目を伏せたまま小さい声で、
「…そのぼ、僕は…天春 春月 、とい…」
しかしここでChiHaRuさんが、鷹揚 とした妖しいささやき声でこうつけ加える。
「ねぇ待って…ちゃんと〝字〟も教えてね…?」
「……、…へ…? ……、…」
字…――要するに名前の「漢字」のことだろう。
この日本にはまだ、平安時代からひき続く「下の名前の字(漢字)」を隠す文化がある。
その文化の起源は――まず個人を特定する名前というものにも「言霊 」、という魔法の力が宿っていると考えていた昔の日本人が、漢字と読みの合わさった「完全な名前」を不用意に他者(特に呪術 を使える陰陽師 )に知られると、それを用いられて誰かしらに呪 い殺されたり操 られたりするかもしれない、…なんて恐れたことが始まりだった。
まあそれも現代人の、ことオタクの僕にしてみれば何とも夢のある話だな、とは思うのだ。ただのまことしやかな幻の文化ではなく、現実に今の日本にもその文化が残っているあたり、案外昔は本当に……なんていうロマンを感じられるからだ。――しかしそんな呪いだのなんだの、ましてや言霊だののファンタジーな力が、この現実、現代に存在しているはずはない。
……だのになぜChiHaRuさんがあえて僕の「名前の字(漢字)」まで知りたいと思ったのかは謎だが、…それを聞くのも教えるのもほとんど禁忌 だった平安時代じゃあるまいし、別に現代人の僕にはそれを出し惜しみする理由もない。
「…えっと、はい…――天 の春で天春 …、春の月で春月 …です……」
ちなみに僕が人生を通して一番多く書く漢字はおよそ「春」で間違いない。ペンネームの『つきよ春霞 』のほうにまで「春」を入れてしまったからである。
「はは…やたら名前に〝春〟が多いですよね…? ましてや僕漫画家なんですが、ペンネームの方 にまで〝春〟を入れてしまったものだから、…もう〝春〟ばっかり書いてます、人生で…」
「…そうなんだぁ…――でも…実はおれの名前にも、〝春〟が多いんだよぉ…」
と言うChiHaRuさんの声には、おだやかな微笑が含まれているように聞こえた。彼はこう続ける。
「おれの名前はぁ…ちはr…」
「ぁハッハイ存じ上げておりますChiHaRuさん僕ChiHaRuさんの大ファンで……」
思わずオタク特有の早口でそう返す僕に、…ChiHaRuさんがボソッと「元 、でしょ…」と不機嫌そうな低い声で言った…ような気がして、僕はふと彼を見た――僕はまさか我知らず、口に出して「卒業」やら「元 推しの」だなんて失礼なことを、彼本人に言ってしまったんだろうか…? ――いや…気のせいだったようだ。
「えーほんとぉ?」とChiHaRuさんは僕のよく知っている、ゆるふわぁな柔らかい態度と微笑をうかべていた。――いや相変わらず顔面整いすぎでは…?
「……、…」
僕はまたさっとうつむきながら目を伏せるが、ChiHaRuさんはご機嫌なゆるいかすれ声でこう言う。
「うれしぃ…ありがとー。…でもおれ…今は歌手のChiHaRuじゃなくてぇ……」
「ぁは、はい、あぁ、あーそ、っそうですよね、今多分ぷっ…プライベートで、…すみません、…」
プライベートの推しにオタク丸出しで話しかけるだなんて迷惑行為だよな、…反省…――ってちょっと待て冷静に考えたら僕、…
もはや推しと同じ空間にいる、推しと同じ空気を吸っている、推しのいる空間の空気を吸っている、…ただそれだけでもう人生最高の幸せに違いないというのに、――それこそプライベートの推しがなぜかここにいる、しかも推しが自分の真隣に座っている、更にはこの近距離で推しの綺麗な目と目が合っていた、…名前まで聞かれて、名前を呼ばれて、こんな親しげに話をして、…
「……、…、…」
あ…?
え…もしかして本当に僕の世界 、あれで(文字通り)終わった …――?
いつの間に……ひょっとしてひょっとすると、これ…あれ…ん…? え…? ここ死後の世界か……?
だとすると…ここ、天国…? まあ現実だったとてある意味「天国」には間違いないんだが……あぁ、だからじいやが二人で一人……??
「それで…おれの本名は祁春 春日 ですー…。よろしくねぇ、ハヅキさ…」
「ァ…? アァぼ、っ僕は天春 春月 と申し、ッは?」
つい気が動転して再度名乗ってしまったが、…今ChiHaRuさん――本名は「チハル ハルヒ」って言ったか…?
「そうそう…字はちょっと難しいんだけどぉ……」
と彼はさりげなく僕の片手を取り、――「はぁあ…っ!」と僕はまた発狂しているが、――僕の白い手のひらの上に、あめ色の人差し指の先で「祁」と「春」の字をゆっくりと書いてみせてくれる。…その歓喜をもよおすこそばゆさに僕の手はガタガタと震えている。
「こういう祁 …春 …、で、祁春 …。これがおれの名字ね…? はは、すごい手ふるえてる…かわいー。…でぇ…――」
「え゛っ!? あっあのじゃ、じゃあChiHaRuって、…みょっ名字なん、ですか、…下の名前じゃなくて、?」
「うん」と彼は僕の手のひらを見下ろしながら平然とうなずく。…ていうか今しれっと「かわいい」って、いやそれをちゃんと認識したらそれこそ死ぬ、…いやもう僕は死んでるのか…?
「…下の名前は…春…の…日 …で…」と彼は僕の震えている手のひらに、下の名前の漢字(春と日)もゆっくりと書いて教えてくれる(いやそれはさすがに書かれなくともわかるが、なんという神対応、)。
「…春日 …」
「えーーー!! か、完全に勘違いしてました僕、…あはは、…」
と僕は推しの綺麗な手にちょっと触れてもらう、という夢が叶ったその歓喜からテンションの高いリアクションをした。
しかし勘違いは本当である。なんとなく「チハル」って下の名前っぽいじゃないか?
それこそ字を当てたなら「千春」なり「千晴」なり、といった漢字を僕は勝手に予想していたのだが、へーー名字だったのか、…
「うんうんうん…、よく勘違いされるー…」
と彼は僕の顔を見て、ふわぁとやわらかく目を細めて笑う。うあぁかわいい……。
「…でもChiHaRuは名字から取ったの…、だから、さっきハヅキに〝ChiHaRuさん〟って呼ばれたとき、おれ笑いそうになった…へへへ…――いやいや、ここに〝祁春 さん〟は三 人 い る んですけど〜〜ってぇ…」
「…ほぁあぁ…っ!」
思わぬところで、とんでもない推しの非公開情報を得てしまった…――ていうか今しれっと「ハヅキ」って呼び捨てにされ、…いやご褒美でしかないんだが!
今日はなんて幸せな、…ん?
……と、いうことは……いやそうだった、…
「……、…」
僕はふと左斜め前に座るコトノハさんを見やった。――彼は対面にすわる母とおだやかに談笑している。
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