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ちなみに、なぜ今やたらとまだ未熟な鶯のホーホケ、ケキョ…ケッケキョケキョ…なんて鳴き声がこの『藤の間』になり響いたか、というと――タイミングがいいんだか悪いんだか――あ の 瞬 間 、ちょうどこの場にいる全員が「無言のすき間」にあったからである。
するとChiHaRuさんのあの唐突なプロポーズのセリフは、ここにいる全員の耳朶 に触れたのだろう。
「……、…」
今母はその白魚 のような右手に黒い箸を握ったまま、何か静かに怒っているような厳しい横顔で固まり、
「……ふぅ……」
と母の向かいで、かすかな呆れたようなため息を鼻からもらすコトノハさんも、左手に箸を握ったまま、何か息子の失態を嘆いているかのように眉を曇らせて目をつむり、
「…………」
……僕の祖父に至ってはもはや我関せず、とでもいいたげに、日が傾いてきては橙 色が濃くなりつつある日本庭園へ顔を向けている。
「……、…」
そして祖父の対面のロクライさんは、きまり悪そうな真顔で目を伏せ、白いお猪口 からくいっと清酒を飲み、
「…………」
じいやに至っては脂汗をだらだらかきながら真っ赤な困り顔をお膳へ伏せ、小鉢に残っているのだろうもずくか何かを箸でつまもうとしている(というか多分それで誤魔化している)。
「……、…、…」
あれか……と僕はぼんやり、食べおわった先付の三つの小鉢を見下ろしながら動揺しつつも考える。
あの〜〜…――多分、一難去ってまた一難…(二人はプリキュ…いや、二人が一人なじいやの幻覚…? にひき続き)…――これはー…幻聴…?
しかし僕の右手を取ったままのChiHaRuさんは、
「へへ、びっくりしたー…?」とこのやたら重苦しい沈黙のなかにあっても何ら億せず、普段どおりののんびりぃ…ゆるふぁぁ…な声で、楽しそうな子どもらしく言う。
「そうそう…実は配信中にも言ってたお れ の 結 婚 相 手 は 、ハ ヅ キ なんだよぉ…? …だってハヅキは、おれの〝運命 られた夫〟だから…」
「……、…、…」
いや何…どういう、何がどうなって、ッは…?
な、なんで僕が推しの、…すなわち天才シンガーソングライター・ChiHaRuさんの婚約Sy…、
「ねぇもうハルヒって呼んでぇ…? 〝チハル〟はここに三人いるんだってばぁー……」
「……、…、…――。」
ああああ゛ちょっと待て。待てよほんとに待てよなんだこれなんだこれなんだこれ、――は゛…ッ?
「……? ……っ?? ……ッ???」
え? はっ?? はあッ???
……これ絶対聞き間違いか幻聴か何らかの策略かいやほんと夢小説じゃないんだから妄想も大概にし、…ああ! ――そうだ、夢だ!
「…わかった、これ夢だあああ!!!」
と僕は叫びながらすっくと座椅子の座面のうえに立ち上がった。
「夢じゃありません。」
しかし母がピシャリとそう断ずる。
……僕は腰を両手でつかみ天をあおぐ。
「……あーーそっか…っ! 今日ママがやっと結婚するんだもんなーーっ!」
だが今日に至るまで(自分でいうなって感じだが)愛息 の僕に何一つ報告してくれなかった母に、僕は『え〜もっと早く言ってくれたらよかったのにぃ〜』とか寂しく思わないでもない。
思春期じゃあるまいに、まさか三十二にもなって複雑になるだとか『ママが他の誰かに取られちゃうかも』だなんてまさか思うわけがない。
それこそ僕はまだ実家にいるが、僕という子の子育てを終えてくれた母だ、これからは母にも第二の人生を思いっきり楽しんでもらうため、そろそろ僕もひとり暮らしでもしようかな…? う〜ん僕きっと二人の邪魔だろうし……?
……あるいは息子に言うのが気恥ずかしかったのかもしれないが…――やだなぁまったく、…
「…水臭いなぁまったく、ママったら…、まさか僕が大好きなママが幸せになるための結婚を許さない、とでも思っていたの? あはははっ反対なんかするわけないじゃないかあぁあ…もお〜〜…っ」
仮にも僕が反対するかもしれない、だとか思っていたのなら、それは母らしくない見当はずれだ。
僕は母のことをこれでもかなり信頼している。
彼女は我が母ながら大変聡明な人だ。――危ない男に騙されるようなタチの女性ではない。
ましてやお相手はコトノハさんだし?
現に、今彼女の対面に座っているコトノハさんは常識のある上品な優しい人ではないか。絶対僕の母を大切してくれるとの見込み大アリ、最良物件である。
なんならコトノハさん、すでに何かとママを大切にしてくれてるし?
昔からずっと…――。
「…あはははははは……ていうかぁ…! 何ならぁ? 多分だけどぉ…! ――僕の本物のパパって、コトノハさんなんじゃあないのおおぉ〜〜っ?!」
さすがの僕だって?
うすうすそれっくらいわかってましたけどぉお?
――息子も連れずに運動会など行事には必ず来てくれていたコトノハさん、息子も連れずによく我が家に来て僕を気にかけてくれたコトノハさん、…もはや離れて暮らす実父のように僕を育ててくれたコトノハさんが、…ママが前に言っていた「訳あって籍は入れなかったパパ」なんじゃあないかって、…それっくらいの予想、僕だってついてましたけど〜〜っ!?!?!?
「いやそれは…半 ばは当たっているが、半ばは外 れて…」とコトノハさんの声が聞こえたような気がするが、
「わあーー今日は天気がいいなあーー!!」
……と僕はこの部屋の木の天井を見て喜ぶ。
「…あーーーすっごい何、何だこの夢!? ぁそうか夢なら推しが結婚するも何も全部夢か夢だったんだ…よかったよかった、いゃあ〜〜でもなぁ、ママの結婚だけは夢じゃないほうが嬉しいなぁ僕、あれ〜何だろう、ねぇ僕欲張り?」
「ねぇ夢じゃなくて、おれはほんとうにハヅキと結婚するよ…?」
「いやだわこの子、正気を失っている…」
「…いや何故 もう言ってしまったんだいハルヒ…? 順序というものが…」
「ほほほ…元気だ元気だ…、藤もちょうちょも元気だ元気だ…」
「ん゛ー可哀想にのぉ。酒でも飲んで忘れるかぁ…のおウエ、酒はいいぞぉ酒は! ということでもう一本…」
「…失礼します」と関西なまりの女将さんが襖越しに声をかけてくる。「はーい、どうぞ」と元気よく答えたのはChiHaRuさんだ。
……ふと見やった先、藤と胡蝶がえがかれた襖がすーー…と鷹揚にしずかに開く。
そこに正座しているのはこのお店の女将さん――桃色の着物を着た、白髪の老年ながらお上品で綺麗な顔立ちの女性――だ。
「八寸 のほうお持ちしました」と彼女は言った。
そして女将さんは上品な所作で立ち上がり――彼女に連れられた仲居 さん一人とじいやとでテキパキ先付の器を片づけながら、八寸――八寸(約二十四センチ)のお重の一段ような木製のお盆に、数種類の料理が華やかに少量盛り付けられている和のオードブル――を、僕たちの前に配膳してゆく。僕は失礼なので座る。
たちまち六人分の配膳が済んだ。女将さんは僕の、というか厳密にいうと僕の右隣にいるChiHaRuさんの近くに正座し、桃色の着物の袖を片手で押さえながら、今日の八寸のメニューを一つ一つ指し示してゆく。
「まず山の物からご説明いたします…。こちら〝鴨 ロースの手まり寿司〟…上にお醤油のジュレがのっておりますので、そのまんまお召し上がりいただけます…――そしてこちらが〝和栗の栗きんとん〟…。そのお隣が〝松茸の白焼 き〟…これはお好みでこちらの粗塩か、こちらの……」
と、一つ一つ説明してくれる女将さんだが、…僕は隣の母にこそこそとこう耳打ちする。
「あのさぁママ…僕、いやーやっぱり夢を見ているんじゃない…?」
「…いいえ。」母は八寸を見下ろす真顔をふる、と小さく横を振る。
「ほんと…? 疑わしいなぁ…ねえママ、ちょっと僕のこと思いっ切り引っぱたnぶグッ、!」
間髪入れずにバチンッと思いっ切り引っぱたかれた。もちろん母に、頬を。――僕はその強い衝撃にどた、とChiHaRuさんのほうの床に手をつき、
「……、…、…」
え、…えーー……。
僕はヒリヒリする左頬を押さえながら母に上半身を向け、信じられない気持ちで母を見る。母は取り澄ました横顔で八寸のお皿を見下ろしている。
「こちらが〝黒毛和牛のローストビーフ、柚子 胡椒 仕立て〟…、お塩が効いております。そのままお召し上がりください…」
「…あら、まあ美味しそう」
「……、…、…」
初めてぶたれた…父さんにもぶたれたことないのに…まあ僕には父さんいないんですけど(いや今から正 式 に できる予定です)……僕、実はママに愛されていなかったのかも…――今ママには何ら一切の迷いや躊躇 がなかった…、これはもしや日ごろの恨 み…知らなかったが、僕ひょっとしてママに恨まれていたの…?
「…続きまして海の物…こちらが〝若鮎 の南蛮 漬け〟…」――しかもこの状況でこの女将さん、ぶたれた僕に一瞥 もくれず平然と説明つづけてるんですけど、…
「…おー…」と祖父とロクライさんが声を揃える。
「ハルヒ、南蛮漬け苦手だったよね?」とコトノハさんは、息子のChiHaRuさんを見て心配している。
「……、…、…」
えっていうか誰も僕の心配してくれないんですけど!! ChiHaRuさんが南蛮漬け苦手かどうかより心配されるべき(ぶたれた)人がここにいます!!
……とか思っていたら、後ろからふわ…とChiHaRuさんに抱きしめられる。
「っぎゃ、んむぐっ…!」
ぎゃああ! と(歓喜の)悲鳴をあげかけた僕の口を、ChiHaRuさんの手のひらがふさぐ。――待って待って推しなんか良い匂いするっ、なんか白檀 みたいなこっくり甘い匂いする、ヤバいヤバいヤバい、推しの綺麗な手が僕の唇に、いやっていうか僕いま推しに抱きしめられて、――しかも彼は僕の耳に、こう色っぽいかすれ声でささやいてくる。
「おれは心配してるよー…だいじょうぶハヅキ…? おれの可愛いハヅキのほっぺ、腫れないといいねぇ……」
そしてちゅ…ちゅ…と僕の(まだ熱い)頬に彼はキスをしてくる。推しの唇やわらかしっとり、…
「……、…、…」
え、えーーこれなんていう夢小説……?
「…ん…? 夢小説ってなぁに…?」
「……、…、…」
て、いうかやっぱり彼、……
……いやその前に何者だこの女将さん、…
「……以上になります。」
「……、…、…」
今あきらかに僕は不穏かつ異常な状態――見方によれば暴漢(※しかし推し)に後ろから羽交 い締 めにされ、口を塞 がれているようにも見える状態――なのだが、…彼女自分の仕事だけはきっちりとこなして、「どうぞごゆっくり…」と襖を閉めてしとやかに去っていったんだが、…何者だあの女…っ!?
なんでそんな肝が据わっているというか緊急事態(っちゃあ緊急事態)に鈍感なんだよ!? 僕今母に生まれて初めてぶたれたし、僕今推しに抱きすくめられながら口ふさがれてるんですけど!? これ客観的に見たらなかなかのとんちきな修羅場くない?!
「うふふ…」と僕の耳もとでChiHaRuさんが笑う。
「あの人ぉ…? ――あの人はぁ…保食神 だよ…?」
「……んむ…?」
保食 、神 …――って、…日本神話の……――僕は次に決まっている月刊誌の連載のため、今ちょうど日本神話について調べているところだった。
そしてその「ウケモチノカミ」は、いわば「食べ物の神様」である。葦原中国 ――端的にいうと地上――に住んでいた彼女は、一説によると天から偵察にきた月夜見尊 に切り殺されたらしい…――というのも、ウケモチノカミは口からあらゆる食べ物を吐き出して生み出す神様だったので、彼女に口から出されたものをふるまわれたツクヨミノミコトは、『私にお前のゲロなんか食わせる気か貴様、こん…の無礼者めがーっ!』と、…ウケモチノカミを切り殺してしまったのだという。
「そそそ…」――ChiHaRuさんが僕の耳もとで同意する。
「でも神様ってぇ…本当の意味では死なないんだよね…。葦原中国…地上では、人間の子たちと同じように寿命が設けられてたってだけで……」
「……?」
はぁ…?
となったらあの女将さん、神様ってことに、…
ここで母が箸を握りなおしながら「とにかく」
「ウエちゃん。これは決して夢なんかではなくってよ」
と、いつものように優しく僕に微笑みかける。
僕は口もとにあるChiHaRuさんの手を掴み下げてから、
「…うんゆっゆ、夢では、…なさそうだ…」
今もほっぺ熱いし…いろんな意味で……。
ただ、…と僕は遠い目をする。
「ただ別件でちょっとママの愛は疑っているが……」
何のためらいもなく食い気味コンマ何秒で思いっきりビンタされるとは思いもよらなかった……。
「あらいやだ、ごめんなさいねウエちゃん、痛かったかしら…?」――母が今さら慌てはじめる。
「……、…」
いや思いっきりぶっておいて痛くないはずはないじゃん……僕が望んだとはいえコンマ何秒は何より心が痛いよ…。
「…だってウエちゃんが思いっ切り引っぱたけと言うから…、それにあなたどうも正気を失っていると思って、ちょっと強い衝撃があったほうがいいかしらと思ったのよぉ…」と困り笑顔をうかべる母は、ぺし…と空 で何かをはたく動作をする。
「うん…まあ、確かに…、…確かに……」
たしかに、あくまでもママは僕の要望に食い気味0.何秒で応えてくれただけだし…たしかに僕は、あの「(いろんな意味で)強い衝撃」を受けたことによって、今にさっぱりと目が覚めた…――うん…まあ…うん……。
これは夢じゃない…――。
てぇことは、…ChiHaRuさんに今「結婚してください」なんてプロポーズされたのも、…――夢じゃない……っ!?
「っあ、あの…ち、ChiHaRuさ…」
と言いかけた僕だったが、ふとその瞬間僕のほうを振り向いたコトノハさんとロクライさんに、…たしかにこれは紛らわしいなと目を伏せる。――「チハル」と呼ばれて彼ら二人も振り返るのは当然だ、だってそれは彼らの名字でもあるんだから……。
これは…大変恐縮だが、…と僕は目を伏せたまま緊張からこうまくし立てる。
「あ、あの、あのChiHaRu…いや、すっすみません紛らわしいのでハ、…はっ…る、ひさんって…よ、よよよよよ呼んで、呼んでも、…」
「いいよぉ…?」と僕の耳もとで彼がのんびり言う。
「いっいい、ですか、呼んでもいいですか、…すみません下心は全然ないんですけどほんとただ今この場には多分祁春 さんが三人いらっしゃると思うのでその区別のためというかあの、…す、すみませんいやな、何てお呼び…」
「うん…? ハルヒって呼んでぇ…?」
「…ヘェ!? えええーいいんですか、! いいんですか!?」
推しの本名、しかも下の名前で呼ばせていただけるこの光栄…っ!
「うんうん…おれもさっきからハルヒって呼んでって言ってるじゃん…、ふふ…かわいいなぁハヅキ…」
「……はあああぁぁぁ……」
なんだこれー、なんだこれほんっと…――今日、ほんとに何なんだ…?
僕、やっぱり多分死んだかそろそろ死ぬんじゃないか…?
幸せすぎて逆に怖いんだが……推しの未公開の本名を知ってしまったばかりか、推しの下の名前を呼ぶお許しまでいただけてしまった(しかもさっきから推しに「かわいい」と言われまくってる)、…いやーきっと今日が僕の人生のピークだな…、ひょっとすると今日で一生分の運を使い果たしてしまったかもわからない…――。
「うん…、おれにとっても今日はすっごい幸せな日…。だって…ずっと探し求めてきたハヅキをやっと捕まえたんだもん…。もちろん…おれたちの人生のピークはぁ、まだまだこれからだけど…――これからみんなで、幸せになろ……?」
「……、…」
ところで僕はさっきから「気のせいだろうな」と思おうとしているのだが…何だろうなーこれ――ほんと…僕、さっきから口に出しているつもりは全然ないんだが、…なぜかハルヒさん、さっきから僕の心の声に返答しているような気がするんだよな。
「えぇーそうだよぉ…? 当たり前じゃん…。だっておれとハヅキは……」
「んんっ」――コトノハさんが諌めるような咳払いをする。…彼はふと僕の祖父、ロクライさんの二人に真剣な眼差しで目配 せをする。
「お父さんたち…、少々早いかもしれませんが、もう限界かと思われます…――そろそろ……」
「…そうさなぁ…」――僕の祖父が神妙 に天をあおぐ。
祖父の向かいに座るロクライさんがぐっとお猪口をあおってから、それをカンッとテーブルに置き、
「じゃあおっぱじめるとするかのお!」
「……へ……?」
お、おっぱじめるって、…何を…?
そしてロクライさんは僕へ顔を向け、満面の笑みを浮かべる。その酔いに赤らんだ無骨な頬がつやつやとしている。
――僕の祖父もおもむろに僕のほうを向き、コトノハさん、僕の母も、みんな神妙な面持ちで一斉に僕を見る。…そしてコトノハさんが慎重な調子で、僕にこう告げた。
「ハヅキくん…。私たちは君に、どうしても伝えなければならないある〝五つの真実〟を、ここで告げようと思う――。」
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