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コトノハさんは(あいかわらず後ろからハルヒさんに抱きしめられているままの)僕のほうへその端整な顔を向け、そしてその真っ黒な瞳におだやかなぬくもりを宿し、じっと僕の目を見据えた。
「それではハヅキくん…そろそろ本題に入ろう。――君に告げなければならない真実、その一つ目はね……」
「……、…」
僕は、は…と息を呑み、彼のその言葉の先をまつ。
――しかし自然、僕の両目は見開かれる。
コトノハさんのその真っ黒な瞳が、
「…ハヅキくんはきっと、俄 かには信じられないことだろうが…――実は、私たちは……」
「……、…」
僕は唇をうすく開けたまま固まり、コトノハさんのその変貌してゆく瞳に目が釘付けになっている。
…中央の黒い瞳孔から白いもやが揺らめいている。
そうして…――まるで中央から黒煙が晴れてゆくかのように、
「君を含めたこの場にいる全員が…――神 な の だ 。」
「……、…、…」
僕は驚きすぎて「え?」とか「は?」とか、もはやそんな反応すら表にだせない。――あれほど真っ黒だったコトノハさんの瞳が今や、僕の夢の中にでてくる白皙 の美青年のそれと同じ「月の瞳」――あたかもロイヤルブルームーンストーンのように、白地に青や水色やパステルグリーンやの光沢があらわれる、あの神秘的な瞳に様変わりしたせいである。
「…まず…私の真名 は〝天児屋根命 〟…――祁春 言葉 という名は、人の子の世でその存在として生きるための、ある種の通 り 名 だ。」
「……、…」
なぜだろうか、色を変えたコトノハさんの青白い瞳を見ながら、彼の声でその「天 児 屋 根 命 」という神の名を聞いたなり、僕の胸の中が一瞬ざわ…とまるで何かの芽が、地中から一斉に芽ぶいたようにざわめき――そして今は、まるで春の朝陽 がその若芽 を照らしあたためているように、じんわりとあたたかい安心感、…いや…何かしらの「愛おしい懐かしさ」が僕の胸のなかいっぱいに満ちている。
「きっと、今はまだ信じられないことだろうが…」
コトノハさんは僕を心配しているような眼差しでそう言うと、「では…」
「証明といってはなんだが、…ここで一つ、私の神業 を披露してみせよう。」
と言って背筋を改め、今度は僕の目を力強い目つきで見据える。
「…その前に、改めて聞かせてくれ。君の名前は? なおそれは〝真字 〟、つまり漢字の綴りまで教えてほしい。」
「…え?」
僕はきょとんとした。
何を今さら、と思ったのである。
――しかし僕はコトノハさんが今から披露するという、その「神業」とやらが一体どういったものなのか気になるので、
「えーと…天春 春月 です…。天の春で天春 、春の月で春月 ……」
と困惑しつつもすなおに名乗った。
「ありがとう」コトノハさんは真顔で礼を言うなり、僕が初めて見たような鋭い透きとおった青白い瞳で、やはり僕の目をじっと凝視しながら、
「天春 春月 …」
「……っ、…」
なぜか彼に名を呼ばれたとたん、いつもならあり得ない悪寒が僕の背筋を、上から下にぞくぞくぞく…と駆けぬける。
「…思いっきり目を瞑 れ。」
「……ぁ、…っ!」
なぜ、…僕の目が勝手にぎゅっとつむられる。
「目を開けろ。」
「……っ!」
僕の目が勝手にパッとひらかれる。
これ、まさか催眠術、… 僕の目は、コトノハさんの恐ろしいほどの真顔に釘付けになる。
「そしてこう言うのだ……」コトノハさんの低い声が、こう命ずる。
「…〝僕、パパだぁいすき〟…」
「…僕、パパだぁいすき…♡」
すると僕は勝手に甘えるような声で……いや僕に何を言わせてるんだこの人、…――コトノハさんは真顔で僕をじっと凝視したまま、
「〝ママやじいじたちより、僕、パパが一番〟…」
「…ママやじいじたちより、僕、パパが一番…♡」
「んんっ…あ な た ?」
としかし、母がここで恐ろしい声で牽制すると、
……コトノハさんは「はは…」といつも通りの、というかごまかすような笑顔を浮かべる。
「…これくらいにしておこう」
「あなたったら、抜け駆けなんて狡 いですわ」
母がむすくれている。
「いやいや…なあ、ウエはもちろんじいじが一番好きだよなあ?」とデレデレしながら言ったロクライさんを母がキッとにらむ。と、彼はごまかし笑顔でつっとその緑の目をあらぬ方へそらす。
「ほほほ…ウエの気持ちなんぞ、私は言われんでもわかっておるよ」――で、祖父に関しては何 か を確信しているらしい。
「……、…」
うわめんどくさ…僕は誰が一番ともない。
みんな一番というくらい大好きなんだから。
しかし――ハルヒさんがむぎゅーっと強く、うしろから僕の胴体を抱きすくめてくる。
そして僕の耳にこそこそ「わかってるよ…おれが一番でしょ…?」と囁いてくるが、…いくら推しとはいえこれ以上の火 種 投 下 はもう勘弁なので、うんうんうんとうなずくのみで終わらせ、
「……、それで…?」
と僕はコトノハさんを見て、話を前に進めてくれ、とうながす。彼は後頭部を押さえながら笑顔で僕をみる。
「はは…そうそう…、実は私は、〝言葉の神〟でもあるんだ。…今のはね…いわゆる〝言霊〟によって、ハヅキくんを操ったんだよ。」
「……え…、……」
僕は静かに驚いている。
――平安時代、陰陽師たちがその「言霊」の力を使って、人々を呪 ったり操ったりしていたという。
僕はそんな「言霊」なんてファンタジーなもの、まことしやかな魔法のようなものだ、と考えていたが、…実在したのか…――するとあれは催眠術ではない、ということらしい。
「とはいえ…」とコトノハさんがちょっと困ったような笑顔になる。
「…今くらいのものならば誰でも使えるんだけれども…――あぁいや、厳密にいえば、神 な ら ば 、誰にでも使える程度の…あれはほんの簡単なものだよ。…しかし以前、人の子と神との距離が近かった時代には、今のように〝言霊〟を使えた人の子もいたんだが……」
彼は「今の子たちには…少し難しいかもしれないね…」と寂しそうに目を伏せるが、またふと僕の目を見る。
「ちなみに…ああした〝言霊〟を使うにあたっては、ちょっとしたルールがあるんだ。」
「…ルールですか」
「うん」とコトノハさんが明朗な眼差しでうなずく。
「まず相手に、〝真字〟を含めた真名を名乗らせる。…そうすることで相手は〝自分の名〟…――ひいては、〝自分〟をこちら側に委 ねたことになる。」
「…あーー…、……?」
ん…?
あれ僕…さっきハルヒさんに、やたら自分の名前の「字(漢字)」まで聞き出されたような……?
「…そして相手の名の〝真字〟を頭に思い浮かべながら、その者の真名を声に出して呼んだあと、命じたいことや呪文 を口にする。まあ言うなればそれだけだ…――ただ、厳密にいえば〝天春 春月 〟という名は、君 の 真 名 で は な い 。――したがって、殊 に〝言霊〟の力を如何 様 にも使える〝言葉の神〟である私であっても、その名ならば君の心までは操れないし…まして心が拒絶を示していたなら、体とても操れない。…つまり、今のはそれくらいの弱い効力しかないものだったんだが……」
コトノハさんがポッとその頬を赤らめ、嬉しそうな満面の笑みを浮かべる。
「どうもその…君は、本当に私のことが一番…」
「…あなた。わたくしと…いいえ、わ た く し た ち と、喧嘩なさりたいのね。」
売られた喧嘩は買うわよ、いいわよ受けて立つわ…ほどの鬼気を「オォォ…」と僕の隣でかもし出しはじめた母に――基本おしとやかで物腰も柔らかい彼女だが、意外と短気で血気盛 んなところのある人なのである――、コトノハさんは慌てて「いやいや」と慌て、
「とにかく。しかし間違ってもこれを悪用はしないように。」
「…あぁ、はい…、……」
とはいえ、僕がその「言霊」というのを使える前提でコトノハさんはそう言うが、…僕にはとても自分がそんな魔法を使えるとは思えない(まああとで試してみようかな、とは思うが)。
――「それから…」コトノハさんが真剣な眼差しになる。
「〝言霊〟を用いた神業はその実、相手を操るばかりものではないんだ。――良くも悪くも、自分にもその力をかけられる。…それもその方法は、誰かに対してよりもうんと簡単だ。」
「…はあ……」
僕は落ちついたきもちで首をかしげながら、興味深くその人の話を聞いている。彼は、ともすると深刻そうな真剣な面持ちでこうつづけた。
「自分の真名を唱えたほうが効力は強まるが、しかし必ずしもその必要はなく、ただ鏡の中に映る自分に対して呪文を唱えるだけだ。――だからどうか…君も鏡の中の自分に対しては、なるべくポジティブな言葉をかけてやっておくれ…、わかったね…?」
「……、…」
僕は思いあたる節があってうつむいた。
――鏡の中の自分に、僕は「このブス」なんて時折口に出してまで言ってしまうのである。…いやとはいえ、僕は事実不細工なんだが、…これは生まれつきのものなので、その言霊とやらのせいというわけでもないだろう。
「さて…」――コトノハさんがそう続ける。
「…君はまだ疑わしい気持ちかもしれないが…しかし本当にこの場にいる全員、…ハヅキくんを含めたこの六人全員が、本当に神なんだよ。…これは決して、決して冗談や空想の類 の話ではない…――。」
「……、…」
僕はふと先に目を上げ、それから顔を上げた。
コトノハさんは真剣な眼差しで僕を見すえている。
そして彼は一音一音を丁寧にじっくりと、響きこそやわらかく優しくも低い、力強い声でこう断言した。
「ハヅキくん――君は、本当に神なのだ。」
「……、…――。」
ぞく…と僕のうなじから背中が粟立ち、僕の胸の中で「何か」が小刻みにふるえている。
「君は神だ…――君は、本当に神なんだよ。」
「……、…、…」
コトノハさんは「言葉の神」なのだという。
その影響なのかは僕にはわからないが、彼の発するその言葉には、何かしら言いしれぬ絶対的な説得力のようなものがある。――僕が神である、ということにかんしては、まだ何を説明されたともない。
「……、…」
……なのに、と僕はただ彼の青白い瞳に見入る。
本当になぜとも知れない絶対的な説得力があるのだ。――そんなまさか…もちろん僕はそう疑っている。疑っているというよりかもちろん信じてなどいない。頭では――自分が神だなどと……だというのに、僕の「気持ち」はちっとも疑うことを知らず、びっくりもしていないのだ。頭でばかり懐疑 的で、僕の胸のほうはやたらに穏やかなのである。
「そして君と同様に…」コトノハさんのその穏やかな青白い瞳が、僕の祖父を見やる。僕もその人に目を向ける。
……彼は藤色の着物の袖に両腕をかくし、僕からはその凛とした横顔が見える。が…――その人の明るい茶色だった瞳も、コトノハさんと同じ「月の瞳」のその色に変わっているようだ。
「我が真実の名は…」と祖父が何か神々しい真顔で、
「…〝経津主 、神 〟…」
といつも通り悠然 とした調子で、…名乗る。――「おお…」祖父の対面に片膝を立てて座っているロクライさんが、その人を力強く見すえる。
「我が相棒…我が右腕…我が剣 よ…」
とそして彼は信頼の深い声で祖父に呼びかけたなら、手にもつお猪口をたかく天へむけて掲げ、
「我こそはぁ!」とまるで時代劇の武士のような大声で、
「世にも名高き益荒男 、建御雷神 じゃあ!!」
「……、…、…」
……僕はなんとも思えないまま、ただ動揺してそっと隣の母を見た。――彼女はすこし怯えているような、儚げな美しい横顔をやや伏せ気味にしている。
「わたくしは…神である以前に、」と彼女はおもむろに僕のほうへ振り向いた。そのオレンジの瞳は不安げに潤んで見える。
「あなたのママよ、ハヅキちゃん…」
「……うん」
わかってる…――僕は母のその揺らめく不安を孕 んだ瞳に頷いてみせた。
我ながら不思議なのだが、なぜか僕は『嘘だろ』という気持ちは今はない。おそらくそこまで理解が追いついていないのもあるが、…僕は母のことが大好きだ。――たとえ彼女の正体がなんであれ、僕がこんなにも大好きな母のことを嫌いになんかなるはずがない。
僕のこの母への愛は、きちんと彼女に伝わったのかもしれない。――その人は眉を切なげに強ばらせながら、僕の目をその透きとおったオレンジの瞳でじっと見すえ、
「ウエちゃん…ママの本当のお名前はね…――天 美 津 、玉 照 比 売 といいます…」
と、どこか寂しげにほほえんだ。
「……そっか…、……」
神、か…――僕は目を伏せる。
なぜかな…なぜなのか僕は、なぜか彼らの言うことを疑う気持ちがどうも湧いてこない。――いや、とてもにわかには信じがたい、こんな非現実的なことは疑わねば、いっそ疑ってかかりたいという思考はチラつくのだが、…それはあくまでも僕の「思考」である。「気持ち」ではない。
「俺の名前も聞いとく…?」――僕を後ろから抱きしめたままのハルヒさんが、なにか僕をからかうような調子でそう聞いてきた。
「……、…」
……タハル…――僕の頭か胸か、僕のなかのどこか一番奥底から、その三文字がおぼろげに浮き上がってきた。……ハルヒさんは「俺の名前はね…」とやさしい声で、間近な僕の耳を撫でるようにこう名乗った。
「天下春命 …」
「……、…――。」
は…と目を瞠 った僕の息がとまる。
なぜか、…何か僕は今、その名――天下春命 という名を耳にした途端、ハッと目が冴えるような明瞭 な「気づき」を、その「気づきの姿形」が曖昧なままに得たようだった。
「ねぇ…」ハルヒさんの唇が僕の耳に触れ、…僕はぞくぞくとしながらそのこそばゆさにぴく、とひそかに腰をひくつかせたが、…彼は惑 わすような妖しい声でこうささやいてくる。
「…君の本当の名前は、なに……?」
「……ん、…ぇ…、…僕の、本当…の……」
僕はその、甘くしびれるようなかすかな快感にドキドキしながらも――目を伏せたまま、
「……、…――。」
僕の奥底から水泡 のように上ってくる言葉たちをただ眺める。…アメノ…――パッと一瞬、水中で沈みゆくなか、水色にかがやく遠い水面 へ伸ばされる自分の白い片手が見え、…――天春 …――……ハル、…『そうだ、君はもういい加減思い出さなければならない』――春月 …――『違う、僕は』アメノ…ウワ、……。
「…僕は…天 ……上春 …、…命 ……?」
僕の無我からおぼろげに立ち現れたその名を口にしたとき、僕の全身がぞくぞくと悪寒に近しい何かでざわめきたった。
「え…?」
母がかすかな声でそう驚いている。
――コトノハさんが「今、」と慌てたように、
「君はなんと言った…? もう一度言ってごらん、…」
「……え…、……」
僕は目を上げ、コトノハさんを見た。
彼はその青白い瞳を小刻みに揺らしながらも、怖いほど必死な眼差しで僕を見つめている。
「え、えっと……いま僕なんて……」
ふと目を伏せた僕は、…さっき僕は、なんて…言ったっけ…?
自分で口にしておいて、早速先ほど自分が何をつぶやいたのか、僕はそれを思い出せなくなっている。
……するとハルヒさんが、僕の耳にこう助け舟を出すように囁いてくる。
「…天上春命 …」
「……は、…――。」
そうだ…――僕はさっきそう言った。ハッと目を見開く。僕の視界は動揺し、僕のうすく開いた唇からは「は…は…、…は…」と、速まった鼓動にともなう短い呼気が断続的にもれる。
僕の本当の名前…――。
「……僕の、真名は……天 、…上春 …命 …――。」
……僕がたどたどしく表にあらわしたその名前はしかし、――ドクンッ…何か僕の胸、すなわち僕の内側をたしかに刺すような鋭さがあった。
「――…ぅ…っ!」
僕は前かがみになりながら、自分のドクンッドクンッと痛む胸もとに爪を立てる。
怖い、…ぎゅっと目をつむる。――「大丈夫…」ハルヒさんが僕の体を包みこむように抱きしめながら、耳にこうささやいてくる。
「…ウエ…、やっと逢えたね…」
「っし…た、シタ、――シタ、…シタ、…」
僕の胸もとの布を藻掻 くように握りしめる手に、彼の大きなあたたかい手のひらが重ねられる。――『痛かろうが、僕は思い出さなければならない』と誰かの声が、僕の鼓膜の奥から聞こえる。
「っシタハル、…」
「うん…俺、ウワハルのこと、ずっと探していたんだよ…? でももう大丈夫…――俺はもう二度とウエの側から離れないからね……」
「……っは、…ッぐ、…」
苦しい、…僕の頬を伝うこの熱い涙は、息ができないほどのこの胸の痛みのせいか、それとも――。
この身を焦がされるほど切ない懐かしさのせいか?
僕の胸の中で「何か」が震えながらうごめいて、そのせいで全身が、…これは悪寒だ、熱を出しているときのような悪寒だ、ぞくぞくぞくぞくと不愉快なしびれが全身の神経を這いまわってたまらない、わななきが止まらない。――悲しくも何ともないというのに止まらない涙が、前かがみの僕の鼻先からポタポタと次々落ちてゆく。
「…ぅ、あぁ…っ! 熱い、…」
にわかに僕の瞳がじわぁと熱くなってゆく。熱い、恐怖をおぼえるほどに熱い、――僕は眉をひそめ、閉ざしている上まぶたを両ほう拳の指の背で押さえる。
「…ウエちゃん、大丈夫、?」
母が僕の肩をそっとつかむ。彼女はきっと僕の伏せられた顔をのぞき込んでいる。
しかし「いや…」とコトノハさんが、何か心配いらないというような落ちついた声でいう。
「ぐ、…――……、…」
あれ…――ふ…と胸の痛みが唐突に消える。
そこに残るぬくもり、どくん…どくん…と強くもおだやかになった鼓動…――僕の両目の熱もじわ…と引いてゆき、今は泣いたあとのような火照 りばかりしか残っていない。
「……、…」
僕は目もとから手を下ろし、おそるおそる、そ…と目を開けた。視力は変わった様子はない。ただまぶたを押さえたり泣いたりしたせいで、今つけているカラコンがずれたらしく、八寸の器の中に残ったいくつかの料理の上、そのうざったい半透明の茶色がちらついている。
……コトノハさんが「ウエ」と僕を呼ぶ。
「コンタクトを外してごらん」
「……、…へ…、…ぁ…はい…、……」
……僕は念のためテーブルの上のおしぼりをつまむようにして指先を拭き、両目につけている茶色いカラコンをつまんで外す。――これは僕の心を守るための薄っぺらな盾、ではあった。
そしてこれは、今日誰と会うのかも知らなかったのでつけてきたカラコンだが、初対面のハルヒさんはともかくとしても、彼以外の人にはもはや今さらこの白い瞳を隠すべき理由などない。――小さいころから会っている他四人は、僕の目の色もよく知っているからである。
……そうしてさっぱりとした僕の両目にまず映ったのは、先ほどから僕の顔を心配そうにのぞき込んでいた母のその顔だった。彼女は僕と目が合うなり、その奥二重の大きな両目を驚きに見開いた。
「…あ、あなた目が、……ねえ、…」
母がコトノハさんにふり返る。
僕もふとコトノハさんを見る。僕の目を見つめてくる彼は真剣な顔をして、「やっぱり…」とつぶやく。
「…君は今、少し〝取り戻した〟のだね…」
「……え…?」
僕は首をかしげる。――取り戻した…?
……母があわてて床に置いていた赤紫の巾着のなかから、丸いコンパクトのような手鏡を取りだし、それを開いて僕に手渡してきた。何を言われずともご覧なさい、というその意図を察している僕は、その丸い手鏡で自分の目を見る。
「……え、…あれ…、……」
そのよく磨かれた小さい丸い鏡に映った僕の瞳は、もとの真っ白なそれではなく――コトノハさんたちほど確かな青味はないにせよ――ほんのうっすらとながら、あわい水色の光沢が差している。
「…君は今、〝自分の本当の名前〟を思い出した…」とコトノハさんが慎重に言う。
「――つまり君は今に一つ、〝神としての記憶〟を取り戻したんだよ。」
「……は、はあ…、……」
神としての…記憶…――?
僕はなぜだか、それに関しては――自分のそれに関しては――どうも疑わしい気持ちになる。
……僕は母に手鏡を返しながら苦笑した。
「えぇ…はは、……」
かみ、…髪、…紙、――まさか…神?
いや、「同音異義語の」としたほうが意味がわからないか(髪の記憶、紙の記憶…? なんだそれは)。
しかしまぁ確かに、僕はBL界隈じゃ愛する腐女子たちに「神」と崇めたてまつられているが、まさかそちらの意味なはずもないだろうな。
誰がそんなこと、…誰が自分は(マジの)神だった、なんていう面妖 なことを信じられるというのか?
それをスッと信じてなんなら喜べるのは、おおよそ中二病患者ばかりだろう。
「…ふふ…」とハルヒさんが僕の耳の近くで笑う。
「…〝面妖な〟…だって。――ねぇ気が付いてる…? いくら三十二歳の大人でも…日常的にそんな古風な言葉遣い、なかなかしないんだよ…?」
「……え」
僕はふっと隣に顔を向けた。
ハルヒさんはしたり顔で僕を見、…あ゛ーー顔面整いすぎ、――僕はあまりにも近距離な推しの良すぎるビジュに耐えきれず、顎を引いた。
「んーまぁでも…何千年も生きてる神だって、さすがに今は、現代の言葉くらい使うけどぉ…――でもわかるわかる…、古風なの、抜けないときあるよね…?」
「……、…」
ん…――なぜか僕の脳裏に「あの夢」がかすめる。
僕の夢の中、このハルヒさんによく似たあのあめ色肌の美青年は、『あの世で悲しい歌を聴きたくないなら、今すぐ君から俺にキ ス してよ』などと和製英語、ひいては現代語を使っていた。
僕はそれに関して『彼らは自分の妄想が創り出したキャラクターだから』との落としどころをつけていたが、…――神だってさすがに今は現代の言葉をつかう、というハルヒさんの言葉に、何かひらめくものが……。
「……、…」
とすると、あのあめ色肌の美青年は…――まさか、
「あー地上に降りてくる前のあ れ …?」とハルヒさんが嬉しそうに食いつく。
「おれも思い出す前はよく夢に見てたよ…――そそ…。こうやって現代の日本に来る直前のことだったから、あのときはもう俺たち…現代の言葉、つかってたの…――えへへ…だからつまり、あれねぇ…俺。…それで…俺の隣にいた、あの世にも美しい男神 は……」
そして彼は、後ろから僕をぎゅうっと抱きしめなおす。
「君。…ハヅキ…――ううん…天上春命 …――ウエ…、君なんだよ…」
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