26 / 40
25
「人間の子たちなら。」
とハルヒさんはそう言った。
が…その物言いでは、あたかも「神ならば」近親相姦および近親婚も、なんら問題とはならない――とでも言いたげではないか。
いやとはいえ、ここであえてあるべき倫理観を取っぱらって考えたとき、そもそも近親相姦(および近親婚)がタブーであるのには、まず血縁者同士で子孫をのこせば、遺伝子のゆがみからその子孫の身体に悪い影響が及ぼされるから、というのがある。
すると確かに子孫をのこせない男性同士、ひいては男神同士においては、近親婚もさほど問題とはならないのかもしれない……が、それも恋愛結婚ならばわかるが、あえて「取り決める」必要などあるだろうか?
親が同じ兄弟では家同士がどうのというのもない、子孫を残せるのでもない…――。
「……?」
口から鮎の南蛮漬けをはみ出させながら、物言わず首をかしげている僕を見ていたハルヒさんが、「えー…?」と頭を横にたおし、へらぁ…とやわらかい笑みを浮かべる。
「そうだよぉ…? おれたち神だから、別にそんなのふつうだし…――ていうかぁ…おれたちもやろうと思えば、子どもだって作れるしぃ……」
「……、…んん…?」
なんと…――要はオメガバースみたいな話なのか?
ここで祖父が――ここにいる他四人は割にこういったこと、つまり僕とハルヒさんとの「テレパス会話」には慣れているのだろう。彼は僕らの会話の内容を察したらしく、この奇妙な会話のはこびにも泰然 と――「あぁウエや」と、僕に話しかけてくる。…僕がその声につられて顔を向けたさき、祖父はロクライさんの隣に移動していた。
そして彼は、うぐうぐと背中を丸めて泣き上戸状態のロクライさんの背を撫でさすりながら、僕にそのやさしい糸目で悠然と微笑みかけながら、
「じいじにはわかるよ。きっとお前さんは、血の繋がった兄弟同士で結婚だなんて、そりゃなぁんでだ…? とでも思っとるんだろう…」
僕は「うん」と、口からはみ出た鮎を縦に揺らしながらうなずく。
ほっほっほ…彼は朗らかな笑い声をあげ、ふとその青白い瞳で上のほうを眺めては、自分のひょろりと長い顎髭をしごきながら、
「たしかにこの地上における人の子さんたちは、兄弟同士じゃ恋人にだってなれやしない…、いや、それを許してはもらえんよなぁ…――けれども神の世界にゃ、そーんなルールはないんだよ。…そ…言うなればそのシタが言うとおり…わりに〝普通のこと〟だからね」
「…………」
ほほぉ…もしゃもしゃと口だけで鮎を口の中におさめていく。この甘酸っぱい鮎、若いそれであるだけあって、身がやわらかく鮎特有のクセがすくない。さっぱりとしたコクのある鮎の白身が、少しサクッとした甘酸っぱい衣に引き立てられていておいしい。
「可哀想に、そんなことも忘れちまってのぉ…っ」と号泣しているロクライさんに、祖父は「そうだなお前さま」とその人を見下ろしながらなだめつつ、
「…どうだウエ、伊弉諾尊 、伊弉冉尊 の御夫妻のことは覚えておるか…?」
「…んぅ゛…?」
いや「覚えて」はいないが――「知って」はいる。
伊弉諾尊 と伊弉冉尊 は、日本神話の神様たちのなかでもとくに、「神代 七代 」というなんかめっちゃ凄い「初期メン」神様たちのグループに属する――端的にいえば日本を造ったものすごい夫婦神、いうなれば日本、および日本人の父母ともいえる神様たちである。
……ちなみに神様たちは名乗るとき、「尊 」や「命 」を自分の名につけることもままあるが、その実それは「敬称」である。――ただ、すると長くて僕の頭がこんがらがりそうになるので、一旦ここでは恐縮ながら敬称略。
で、まず男神・イザナギと女神・イザナミの両神は、『日本造ってねー』と偉い神様たちに命じられたとかで、天上から特別な矛 でぐるぐると下界をかき回した。――そうしたらできた一つの島にその二神は降り立って結婚し、晴れて(日本で初めての)夫婦(神)となった。
そして夫婦神になったイザナギとイザナミは、「男女の交わり」をもってさまざまな国(日本の土地)、更には海や山なども生み出した――。
「あの御夫妻は〝国産み〟の偉業を成し遂げられたばかりか…人の子さんたちに、〝子どもの作り方〟をお教えにもなった…」と祖父が、背を丸くしてひぐひぐ嗚咽しているロクライさんをぼーっと見下ろしながら言う(多分早くも介抱に疲れてきたんだろう)。
「なぜなら…この地上に住まう人の子さんたちにおいては…男と女でしか子を成せん、という制約を課されているからだ」
「……、…」
あぁ……そうなのだ。
――イザナギとイザナミが生み出されたものはそう、何も日本の土地やら自然ばかりではない。
彼らは「男女の交わり」をもってたくさんの神々をも生み出された。
で、その神話の中には要約して『わたしとあなたの男性器と女性器を合わせてみましょう』的な、…まあすなわち…セックスの示唆 的描写が含まれている。――そしてそれこそがおそらく祖父のいう、その夫婦神が人間たちに示した「お手本」の部分なのだろう。
「ところが…」と祖父はロクライさんの揺れる背中をゆっくり撫でさすりながら、眠たそうに目をつむる。
「そもそも…私たち神々の雌雄 は、厳密に子神創造…すなわち――子どもができるか否かには、さほどに係 わりがない…。」
「……、…」
まあそれなりに予想はついていた僕は今、口から鮎の尻尾をはみ出させている。
彼はのんびりとした調子でこう続けた。
「たとえば…妻神 ・伊弉冉尊 と、そりゃあもう多くの子神を生み出された伊弉諾尊 とて…――その御身 ひとつでも、多くの子神を生み出されたんだよ…」
「……ん…、……」
あぁ、言われてみればたしかに……。
というのは――イザナギとイザナミの二神は順調に子だくさん幸せ夫婦になっていたのだが、あるときイザナミが火之迦具土神 という炎の神様を出産された際、そのヒノカグツチが身にまとっていた炎に膣を焼かれてしまって、なんとイザナミは亡くなってしまうのだ。
……なるほど、すると彼らは先ほどコトノハさんに説明されたとおり、「生き神」として(自分たちが創り出した)地上で「国産み」をされていたんだろう。
さて、当然最愛の妻を殺された…というよりか、正直事故のようなものではあるものの――とにかく誰よりも愛する妻を失ってしまったイザナギは気が動転し、怒りのままにヒノカグツチを斬り殺してしまう。
さて、ここからが祖父のいう「イザナギは単身でも多くの子神を生み出された」という話になる。
まずイザナギは、愛するイザナミが亡くなってしまったとき、そりゃあもう深く悲しまれて慟哭 された。すると彼のその涙からは神様が生まれた。
さらにイザナギがヒノカグツチを斬り殺してしまった際にも、ヒノカグツチの血や死体からはたくさんの神々が生まれた――ちなみにその中にはロクライさん、つまり建御雷神 や、僕の祖父、つまり経津主神 の父母もいたとかいないとか…――。
また亡くなってしまった――つまりいわゆる「あの世」、黄泉 の国へと行ってしまった愛する妻イザナミを取り戻すため、イザナギはその黄泉の国へとおもむく。
そして黄泉の国の入り口の扉越しに彼は、
『ねぇマイハニー…私の最愛の人はただあなただけなんだよぉ…、お願いだよ、お願いだから帰ってきておくれよー…っ! だって私たち、まだまだ一緒にたくさんの子たちを生み出さなきゃいけないじゃないかぁ…っ!』
……という感じのラブコールをイザナミに送った。しかしイザナミはこう答える。
『いやいや、ごめんけどあなた来 んの遅いのよ…。わたしお腹が空いちゃって、実はもうこの〝黄泉の国〟の食べ物食べちゃったのよね。だからもう無理。もう帰れないと思う。』
と夫のラブコールを扉越しすげなく断る。
だが彼女は『でも…』
『わたしも愛するあなたが来てくれて、やっぱり嬉しいわ♡ …だからとりあえず、この〝黄泉の国〟の偉い神に相談だけはしてみますわね。…た・だ!』
イザナミは夫にこう念押しする。
『わたし、今はとっっても愛しいあなたに見せられるような姿じゃないの…、だから――絶対中 見るんじゃないわよ…? ――わかった? いい?! 絶ッ対に中を覗かない! わたしの姿を、絶ッッッ対に見ないこと! いいわねあなた!!』
そして彼女は『じゃあちょっと待っててね〜♡』と言い置いて、黄泉の国のえらい神様に直談判しにゆく。――しかし……。
『おっっそいなぁマイハニー…』と、あんまり長いこと帰ってこないイザナミにしびれを切らしたイザナギは、『まぁちょっとくらいええやろ』と――いつの世も男は女心を理解しきれないものなのかもしれない…――、ついつい火を灯して扉の中、ひいては黄泉の国にいるイザナミの姿を見てしまった。
……彼女は要するに「ゾンビ」になっていた。
そうしてゾンビ化した妻を見てしまったイザナギは、ビビり散らかして逃げ出すが、
『見るなっつったろこのボケカスうううう!!!』
としかし、憤怒 したイザナミは、すさまじい勢いで彼を追いかけてくる。――で…怖い追っ手にまで追われたりなんだりとなんやかんやあって、ひとまず逃げおおせたイザナギは「千引 の岩」というバカデカい岩で、妻神・イザナミの進路をふさいだ。
イザナギはその岩越しにこう叫ぶ。
『もう怖い怖い怖い、怖いってお前ほんと、もう無理、もう無理だわ、もうお前とはやってけないわほんと、――もう別れるから!』
するとイザナミは『んあぁ゛!?』とカチンと来る。
『あんたさんざんあたしのこと〝最愛のマイハニー♡〟とか言っといてからに…あんたがいけないんでしょ!? 約束破った上になによ、今さら〝別れる〟だぁ…?! ――あーいいよーー!? あんたがそのつもりなら、じゃああたしゃ人間たちのこと毎日千人はぶっ殺してやるからな!』
……夫婦喧嘩に巻き込まれる人間たちのそのとばっちり感はエグいが(完全に八つ当たりである)…――するとイザナギは、
『あーそういうこと言う!? はーーお前の神経が知れないわほんと…――あぁわかったわかった、いいよ? んじゃあ俺、千五百人産むから。毎日。バーーカ!』
『んだオラ…バーーカ! バーーーカ!!』
……と、いった感じでこの夫婦神は破局…――。
そしてイザナギはその後、『あーおっかねぇ目にあったぜ…くわばらくわばら…』と禊 、すなわち水浴びをする。
それは黄泉の国の「穢 れ」を洗い流すため――まあ簡単にいうと、『何か自分から生ゴミみたいな臭いするし、走ったらめっちゃ汗かいちゃって気持ち悪いし、気分転換のためにもシャワーでも浴びよっと』という感じの動機だ。
そうしてイザナギが服を脱いだらそれだけでも神様が次々生まれ、さらに水浴びをしてゆくなりまた次々とたくさんの神々が生まれ――そして最後に左目を洗ったならかの有名な天照大御神 が、右目を洗ったなら月夜見尊 が、さらに鼻を洗ったら建速須佐之男命 (スサノヲノミコト)が生まれたという……。
こうして――たしかに、イザナギ・イザナミの夫婦神は「男女の交わり」でも多くの神々を生み出されてはいるが、…その一方でたしかにイザナギは、単身であってもものすごい数の神々を生み出されている。それも彼は男神である。
「……、…」
なるほど…僕はやっと鮎をゴクン、と飲み込んだ。
たしかに神々の世界においては、「男女」という二極性と生殖――子神創造――とが、さほどに係わりがないようにも思える。
それこそ「男女の交わり」がなかろうが男神だろうが、子どもである子神を容易に生み出されているあたり、…もはや何でもありというか…――。
「そいでなぁ…」と祖父が、その二メートルの細長い長身をすっくと立ち上がらせながら言う。彼は仙人のように藤色の着物の袖に両腕をかくしている。…テーブルに突っ伏すロクライさんが高いびきをかき始めたからである。
「私ら神の場合は、〝有り余った神氣 〟が子になるんだよ」
「…そうなnむ゛ぐ、…」
僕はそうなの、と言いたかったが、その口の隙間にちまきを口に突っ込まれた。ハルヒさんに。
……祖父は上品なすり足で自分の座席まで歩いてゆく。
「私ら神の器…すなわち体から、はみ出るくらい神氣が昂 ぶったとき…そのは み 出 た も ん が、子になる。――そいで…それの神氣が強けりゃ神に、弱けりゃ人の子さんになるんだ」
「……ふーん…、……」
このちまき、もちもちとしたもち米の味付けは甘めで、コリコリしたみじん切りのたけのこや、ジューシーなやわらかいしいたけなんかが入っている。
……たけのこ…――。
「……、…」
イザナミから逃げているイザナギが追っ手をかわそうと、髪に挿 していた櫛 の歯を千切って投げたときに生まれたの、確かたけのこなんだよなぁ…――で、追っ手の醜女 はそれをむしゃむしゃ食べて、うっかりイザナギを取り逃がす――おいしいけど、なんか複雑だ……。
「まあしかしの…」と祖父は、自分の座椅子におもむろに腰をおろしながら言う。
「男神と女神という組み合わせが、ひときわ子神を成しやすいには違 わんよ…。…なぜって…足 り な い も ん と 余 っ と る も ん が、ぴ…ったりと〝組み合わさる〟からね。――そうして二柱の神の神氣も〝二つが一つ〟になったなら、そりゃあ容易に〝はみ出る〟さね」
「……、…」
ちょっと何か複雑な気持ちにならんでもないが――普段下ネタなんか言わないじいじが、何となくそれっぽいことを話しているような感じがあるからだ…――、しかし神においても、やはりある意味では「理にかなっている」のは、男神と女神、ということか。
「とは…いえ…」
祖父がおだやかな眼差しでコトノハさんを見やる。
「こ れ も…私とタケからは み 出 た 息子だよ。…地上じゃ〝そうじゃない〟ということにしてはあるがの…――なんも知らん昔の人の子さんたちが、真似っ子をしても子を成せんことに嘆いたら、可哀想だろうとな…」
「……、…」
はーなるほど…――なかなか尊いMLではないか。
――ん…?
「……、…、…」
いや、つい腐男子目線が先行してしまったんだが、…てことはコトノハさん、ロクライさんと祖父のあいだに生まれた子、つまり男同士の両親、彼の両親は――片方が女神ではなく――男神同士のこの二人、ってことか…?
――「だからそうだって言われたじゃん…?」と僕の右隣、ハルヒさんがふにゃふにゃ笑っている。
「……、…」
な、なるほど、だから僕(たち…?)には祖 母 という存在がいない――祖父が二人な――のか……。
――神ってほんと何でもありだな……?
いやしかし、多分これを知ったらお腐れファミリーたち、喜ぶだろうなぁ。これをネタに一本描こうかな…? なんて。
「そいで…」祖父が真横――僕のほう――に顔を向け、(ハルヒさんを睨みながら小声で「シタハル、いい加減自分のお席に戻りなさい」と叱っている)母越しに僕を見る。
「もうわかったろ、ウエ。…そもそもが、私らと人の子さんらとは子どもをつくる構造がちがうのよ…――すると遺伝子がどうとかというような問題もないからの、血が濃くなりすぎて子孫に問題が生じる…なーんてことも起こり得ない」
「……、…」
まあそりゃあ…そもそも二つの遺伝子のかけ合わせ、つまり「男女の交わり」ばかりで子を生み出すわけでもない神様たちでは、「遺伝子」なんて概念さえないのだろう(何なら岩だの血だのから生まれたりもしているし)。
というかそもそもルーツはみんな同じという「分け御霊」の概念が本当なら、それこそみんなが親類となるわけだ。――すると人間のように「兄妹・姉弟 なんだから(血が繋がっているんだから)結婚しちゃだめ」なんて、そんな概念があったら夫婦神自体存在を許されなくなってしまう。
「はは…」とコトノハさんが僕を見てやさしく笑う。
「そうか…君は疑問なんだよね。…それこそ地上じゃ、近親婚なんて認められないほうが普通なのだから。…確かに君のそれは、当然の疑問だ。――しかし……」
「…あれですよね、神様からしたらまぁ普通んg、…」
今度はあわびの煮付け…もはや嫌がらせである…。
「えー嫌がらせじゃないって…。大好きなハヅキに食べさせてあげてるんだよー…」
「……、…」
いたずらっ子みたいな顔で笑ってくるくせによく言う…いやまぁ…推しに食べさせてもらってると考えれば、これ以上ない幸せか…――無理くり押し込まれてる気もしないでもないんだが…――ひと口大に切られたこれはやわらかくて、甘い味付け…しかしきちんとあわびの貝類の旨味がある。美味しい…。
「はは…」コトノハさんがそれを笑って、しかしふと目を伏せる。
「そう…まぁ、〝普通〟といえるだろうね。…私たち神の中には、生まれるその時点で夫婦となることを運命られている二柱も多いんだ…――たとえば私の父経津主神 もまた、磐筒男神 ・磐筒女神 という兄妹 神から生まれているし…――また先ほども話に出てきた、伊弉諾尊 と伊弉冉尊 もまた兄妹神であらせられながらに、初めから〝夫婦〟となることを運命られて生まれられている……」
そしてコトノハさんが僕の目をまっすぐ見すえ、
「――そして、君たちもそうなんだ。」
と言う。
「ウワハルとシタハルもまた、子神や人の子たちの創造を管理されている御祖 ・神皇産霊尊 が〝夫夫 神〟となることを運命られた、双子の兄弟神なんだよ。」
「……なるほど…」
とあわびを飲み込んだ僕は相づちを打つ。が、
「……、…」
目を伏せる。
いささか受け入れ方が難しい話だった。
たしかに簡単に言ったら「生まれる前から結婚を決められていた婚約者」である。ただその相手がほぼ同時に生まれた双子の弟なのである。
天上春命 はきっと神である以上――その「運命」が珍しくもない価値観の神である以上――なにも疑問に思わず、双子の弟である天下春命 を夫神にしたのだろうが、…一方の僕は、…というと……。
いやそれ以前に、そもそも僕には、ハルヒさんが自分の双子の弟、という実感がないのである。
なのでさすがに近親相姦は駄目だろう、とはさっき思ったものの、彼と僕とのことでは「禁断の恋」とも何とも実感するところがない…――。
「……、…」
それは「今はまだ」なのか、どうなのか……。
察するにどうも僕だけらしいのだ。――どうも僕だけが「神の記憶」を持っていないようである。
それこそ『僕は本当に神なのか?』と疑わしくてならないほど…――いや…ハルヒさんは先ほど「俺も思い出す前は…」と言っていた。
つまり彼もまた、もとは「神の記憶」を持っていなかったのではないか?
「そうだよ」――ハルヒさんが僕の八寸の器に目を伏せ、そこにあるあと三切れのあわびを箸でつまもうとしている。…また突っ込むつもりだ…。
「…おれも忘れてた…。でも、思い出したの……」
「……そうだね…」とコトノハさんが言う。
僕がふり向いた先、彼は深刻そうに目を伏せていた。
「君たちだけは…実はこの地上に降りてくる際、〝忘却の海〟に身を投げ……〝神の記憶〟を魂の底に封じ込めるその海を通過してから、この日本に降り立っている…――それは高皇産霊尊 のご厚意あってのことだった…」
「……、…」
……僕は予想がついていたので、横から伸びてきたあわびのひと切れを難なくぱくっと(何なら食い気味で)口の中に迎え入れた。――「あー、なんかずるくない…?」とハルヒさんが隣でがっかりしているが、しかし僕はふふん、と鼻を鳴らす。『勝った』という気持ちである。
コトノハさんは難しそうに目を伏せたままこう続ける。
「暫 し人の子として生きるべし…すなわち、一旦は神としての記憶を全て忘れ、人の子として成長しながら経験を積むなかで、現代の人の子という存在は何たるか、現代の人の子における幸不幸とは何たるか、現代の人の子は如何 にして生きているのか…今の人の子の幸福も試練も一人の人の子として経験し、そしてその学びを終えてから…――この地上に降り立った〝現人神〟としての役目を果たすべし……」
そしてコトノハさんがふと何か困ったような笑顔で、しかしやさしい眼差しで僕を見る。
「君たちはまだまだ若い神なんだ。…もちろん何千年も生きている君たちが、神としての経験や力が足りない…ということはないが、…といって親世代の私たちに比べれば、君たちには未知の経験も数多い。――したがって高皇産霊尊 は、君たちの神としての成長を願って、あえて時が来るまでは人の子として生きるように、と望まれたんだよ」
そしてコトノハさんは、母や祖父やを眺めやる。
「それだから私たちにおいては、単に分霊をもってこの地上に降り立っただけだが…――君とシタハルは〝忘却の海〟の中で、自 ら 自 分 の 器 の 時 を 巻 き 戻 し …――そうして赤ん坊の姿で、この日本に顕現したんだ。」
「……ん、…え…?」
あわびを飲み込んだ僕は、しれっと告げられたそれに首をかしげる。――自ら自分の器の時を巻き戻し?
するとはたと僕を見たコトノハさんが、「あぁ」と目を大きくして、
「そう…君はまだわからないよね。――神は自分の器、つまり体の年齢というものを好きに操作することができるんだよ。」
「ほらウエや、じいじを見てごらん」――その凛とした若い男性の声にふと彼を見ると、
「……!」
僕は目を見張った。
――祖父が若くなっていたからである。
見るに二十四、五歳といったところだろうが、その美貌のきつね顔には確かに見覚えがある。
長い直毛の銀髪とその頭頂部おだんごヘアは変わらないが、その真っ白な肌は――僕の夢に出てきたアメノウワハルノミコトのように――澄みわたって艶があり、いつも眠たそうなタレ目の一重まぶたは引き締まって今はなんとツリ目に、それだからか彼の青白い瞳はいつもより輝いて見える。
何よりひょろりとした顎髭がなくなっており、するとよりすっきりとした面長の輪郭が際立って――端的にいってめちゃくちゃ美青年ではないか……!
「……、…」
この眉目秀麗な美青年が(推定若い頃は彫りの深い精悍な美青年だったろうロクライさんと)ML…――しかも子持ち夫夫…――最高かよ…?
ぽふっと小さい白い霧が祖父を包む。…するとたちまちいつもの若々しいお爺ちゃん的な彼に戻る。
「……、…、…」
えっや、やっぱり(今僕が見たものが夢でなければ)じいじ、神様なんだ……。
コトノハさんが「はは…」と今の一連の流れを笑ったあと、「だが…」
「本来はああして器の時を如何ようにも操れる神であっても、…君たちは一旦人の子として生きねばならなかったので、神皇産霊尊 のお力により、時が経つごと人の子と同じように君たちの体も成長する…という、人の子と同じ成長過程を辿ることになったんだ。――まあ神ならば百年でやっと人の子でいうところの三歳程度になるんだが、君たちは今回きちんと人の子として、一年に一歳の成長を経験したわけだよ」
「……なるほど……」
僕は不思議と腑に落ちながらそう相づちを打ち、ただまだ疑問に思うことがあると、
「でも…あの、双子…なんですよね、多分…僕たち…? じゃあどうして四年も……」
そう質問しながら首を傾げる。
双子であってどうして四歳差なのか?
いや、先ほどの説明が本当ならば、どうして僕たちは「四歳差」で生まれたのか――その理由とは?
きっとまた何かしら意味あってのことなのだろう。との僕のその質問に、コトノハさんは「あぁ、それはね…」ともの悲しい目つきで僕の右隣、ハルヒさんを見やる。
「実は…ウワハルを失ったシタハルが、思いもよらず鬼神 になってしまったせいなんだ…。もちろん本体ではなく、本体よりかは力も弱い分霊のこのシタハルが、というだけのことだったので、幸い何か自然災害が起こるも疫病 が流行るも何もなかったが……」
「……、…」
鬼神…――ファンタジー作品によく出てくるので、その言葉のニュアンスは僕にもわかる――どうも信じられない。と、僕はハルヒさんを見る。彼は自分の話だというのにどうもうわの空、あぐらをかいてうなだれ、自分の青いネクタイの末端をシャリシャリこすり合わせるのに夢中になっている。
コトノハさんはこう心配げな声でつづける。
「そう…神には大まかに分けて二つの側面があってね…。まず〝和御魂 〟といって、こちらは幸運や幸福をもたらす、穏やかで慈悲深い、慈愛の神の側面…――そして〝荒御魂 〟…こちらはいわゆる天災や疫病などをもたらす、人の子に憎まれやすい鬼のような神の側面……」
「……?」
僕は眉を寄せながらわずかに首を傾げる。
こんな退屈を極めた子供のような、ぽわぽわ〜っとしたハルヒさんが、鬼神に…?
どうも想像がつかないのである。
「なお神はもちろんこの二つの側面を、必要に応じてきちんとコントロールしながら使い分けているんだが、ただ…――シタハルはウワハルを失ったショックから精神のコントロールを損 ない、その荒御魂 も極まった鬼神 になってしまったんだよ…」
「……、…」
こ れ が …?
今、自分のネクタイでいかにも退屈そうに手遊 びしている、この人が…――恐ろしいほどの鬼気に満ちあふれた荒々しい鬼神に…?
「だから…シタハルのその荒御魂 を鎮 め、…というか私たちがシタハルを何とか言い含めて…骨を折ったよ、本当…、するとその内に四年も経ってしまっていたので…――そうして君が生まれてから四年後、彼も遅れてやっとこの世に顕現したんだ」
「……?」――ハルヒさんがつと目を上げ、僕に『なんの話?』というような、とぼけた顔をしてみせる。
「……、…」
ほんとか…?
このちょっと抜けているこの人が、本当にその恐ろしい鬼神とやらになったと……?
「まあ…しばらく片割れと会えないともなれば、悲痛なほどの悲嘆 だったのだろうね…」とコトノハさんが同情的に言う。
僕は(にわかには信じられない気持ちだが)「…なるほど…」ととりあえず言いながら、コトノハさんに顔を向けた。
彼はまだ(父として何かと…?)心配そうな目つきでハルヒさんを見ながら「それとね…」
「君たちは二柱揃っていると、その実〝神の記憶〟があろうがなかろうが、結局は何事でも上手くこなしてしまう。――しかし君たちは人の子として、成功も失敗も経験しなければならなかったからね…――だから、時が来るまでは決して君たちを会わせないように、と言い付けられていたので…」
コトノハさんが僕を見てにこっと笑う。
「そう、今日はその〝時が来た日〟――というわけだ。」
「ただ…」――しかし彼は眉尻を下げるのだ。
「実は少し――おかしなことが起きていてね……」
ともだちにシェアしよう!

