28 / 40

27

                  「…はあ……」    原因?  僕は少し笑った。――僕と天上春命(アメノウワハルノミコト)の「自我」が乖離し、また僕がその男神の「神の自我」を抑圧し、ひいては僕が――「神の記憶」を取り戻せていない、その原因?  ……そもそも僕は、本当に神なのかどうか…何かの間違い…人違いだったり、いや…――わかっている、心では…――これは本当のことなのだ。    僕を見つめるコトノハさんの、その青白い両目が(うれ)いを帯びる。   「実は…天上で取り決めた予定では、君がいじめを受ける期間は三年と決まっていた…――つまり小学一年生から三年生までのその三年間、君は〝いじめられる〟という経験をする予定だったんだ…。――ところが君は、それより二年も多い小学五年生まで、健気(けなげ)にもいじめのある学校生活に耐えてしまった……」   「……、…」    僕の胸にぞわ…と嫌なうごめきがあり、ふと目を伏せる。――僕はあのつらい過去、いじめられたあのつらい記憶を、もう思い出したくはないのだ。  コトノハさんが悲しげな声でこう言う。   「心優しい君のことだ…、きっと著名な祖父と母の身の上を想えば、ここは自分が耐えねばと歯を食いしばってしまったんだろう…」 「……、…」  どうだったかな……結局僕は、意地を張っていただけかもしれないし…――。   「また、実は君は…本当ならその小学三年生の頃、母と祖父である彼らに助けを求めなければならなかったんだ…――〝助けを求める〟ということは、ほとんどのことを思うままにできる神力をもつ神にとっては、なかなか経験できないことだ。――それこそ、協力しあいながら暮らしている人の子として生きていればこそ、それを経験することができる、と言ってもいい。――それも君が人の子として経験し、学ばねばならないことの一つだった。」   「……、…」    僕は…――助けを、求めなかった。   「だが、そう…君は誰にも助けを求めなかった…。耐えてしまったのだ、小学五年生の頃となるまで……」    コトノハさんの声が少し震えている。   「そして聞くに…、君は五年生になって、やっと担任の教師に助けを求めたね…――だが、心の醜悪(しゅうあく)なその人はその際、君のことを深く傷付けてしまった……」 「……、…」  僕の右手をぎゅっと強く握る、あたたかいあめ色の大きな手がある。そして僕の左手の甲にそっと重なる、少し冷たい白い手がある。   「しかし…高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)はその実、それほどの傷を君に与えることまでは望んでいなかったんだ…。小学三年生の頃まで、悪口を言われるだけというような、…いや、それだけと言ってはあまりにも酷いが…――しかし四年生からのあれは…悲しいことだが、…人の子の心の醜さ(ゆえ)のことだったと言っていい……」   「……、…」    そうだった…――僕が受けてきたいじめがより激化したのは、小学四年生からのことだった。   「といって…〝何故か〟というのは今は言えないが、私たちが早くに…というよりか予定通りのタイミングで動き、君を助けることはできなかったんだ…――本当にすまない…、酷いと思うことだろうが……」   「……、…」    別にもういいのだ。  それを酷い、とも思わない。今はこうして手を握ってくれる存在がいる――今はこんなにも幸せだから。   「…ただ、君が不登校児となるということは予定通りだったんだが…。…そうして君は、本来の予定よりも多くの深い傷を負ってしまった……――そしてその〝深い傷〟は、人間である天春(アマカス) 春月(ハヅキ)であればこその傷だ…」    コトノハさんがすう…と息を吸いこんだ静かな音が聞こえたとき、僕の左手の甲を母の手がきゅ…とやさしく握る。   「――したがって…いまだその傷が癒えきっていない君は、予定よりも…その天春(アマカス) 春月(ハヅキ)としての〝人間の自我〟が、かなり強くなってしまっているのだろう…」    しかし、彼は「とはいえ…」と言葉を()ぐ。 「そのあたりの予定が狂ってしまったことは問題ない。そんなのは割によくあることさ。…だから君のそのことに関しても、創造主・天之(アメノ)御中(ミナカ)主神(ヌシノカミ)が、君が出逢うべき存在など、その辺りの運命というものは調整してくださった…――しかし今から言うことは、私たちの力で何とか乗り越えなければならない、と言われていることだ。…」 「まず…」とコトノハさんが言う。   「実は君の容姿は、若年だった頃…いわばまだ未熟な神であった頃のウワハルの容姿で、成長が止まってしまっている。」   「……え」    思わず僕が驚きの声をもらすと、隣で母が「たとえばね…」と僕に話しかけてくる。ふり返った先、彼女は心配そうに表情をくもらせて僕を見ていた。   「ウエちゃん、今175センチ()()身長がないでしょう」   「……いや()()って…」    日本人男性の平均身長は171センチだぞ、「175センチ()()」というのは何かと敵を作る物言いである。――母は「違うのよ…」と顔を小さく横に振る。   「あなた、もとは188センチと2ミリもあったの。それこそね、」――母のオレンジ色の瞳が、僕の右隣でうつむいているハルヒさんに向けられる。 「シタちゃんとおなじ…」   「違う。俺は188.5センチある。」――しかしハルヒさんがめずらしいほど断固とした早口で、譲れない「(たった)0.3ミリ」を主張する。  ……なんか可愛いんだが、…はは、と僕の口から笑みがこぼれる。   「…ふふ…そうね、はいはい…」    母はというと、意地になったハルヒさんを明らかな子ども扱いでかわし、それからまた僕を見る。   「そうなの。あなたたち、本来()()()おなじ背丈なのに…――でも今はあなた、175センチしかないでしょう。それこそ人間の子でいうところの、ウワハルが中学生くらいだった頃の背丈だわ…」   「……、…」    そう…なのか? と目をしばたたかせる僕である。  いやでも、たしかに僕の夢の中の天上(アメノウワ)春命(ハルノミコト)は、ハルヒさんくらい背が高かったか。  ……自分の膝にかるく被せていた僕の手を、ハルヒさんがそっと取る。ちらと横目に(うかが)うと、彼は僕のその手の指をつまんだり曲げてみたり、…どうやら手遊びする対象を僕の手に切り替えたらしい。   「精神の状態というものは、」と次にコトノハさんが言う。  見ると、彼は落ちついた眼差しで僕を見ていた。   「肉体にも反映されるものだ。人相学(にんそうがく)なんてものもあるくらいだが…神は特に精神、つまり魂に宿った〝神力〟が人の子よりもかなり強いために、それの状態が肉体にも如実(にょじつ)に反映されてしまうんだ。――たとえば神の和御魂の顔と荒御魂の顔が、驚くほど違うようにね……」   「……へぇ…、……」    僕はハルヒさんにさり気なく顔を向ける。  今僕の手指をもんだり指を開いたりともてあそんでいるこの子どもみたいな彼が、…鬼神というほどの恐ろしい荒御魂になったと…――どんな姿だったんだろうか?  ……ハルヒさんの伏せられた銀のまつ毛をぼんやり眺めている僕だが、そのあいだにもコトノハさんがこう説明を続ける。 「それを逆に言えば…神の力、〝神力〟というものもまた、神の精神にも左右されるものだ。…たとえば悲しみのあまり鬼神化したそのシタハルのようにね…、…そして――この瞳…私や父・経津主神(フツヌシノカミ)のこの〝月の瞳〟は本来、君も私たちから受け継いで生まれたものなんだが……ウエ、私の目をご(らん)。」    僕はふとコトノハさんを見る。  彼のその白っぽい、しかし青や水色やあわい緑やの光沢が美しい瞳は、僕のことをじっと見つめている。   「この瞳の青い光沢は、いわば〝神力〟それそのものの輝き…――そして、その力が十分表に出ているからこそのものなんだ」    しかしコトノハさんはふと、またもの憂げに目を伏せる。   「…ただ…君は今、まだ〝神の記憶〟のほとんどを魂の底に封じ込めたままになっている…――その〝神の記憶〟は〝神力〟とも密接に関係があるもので……」   「……っ、…」    ここで唐突に、僕の中指の爪のつけ根に、ちゅ…とハルヒさんが口づけた。不意なことで思わずビクッと左腕を跳ねさせた僕は、さっと彼にふり返る。彼は神妙な伏し目であむあむ…僕の中指の爪を食んでいる。  ……よりにもよって家族の前で()()()()になりそうだから、やめてほしいんだが……。 「〝記憶〟とは〝過去の経験〟であり…〝過去の経験〟とは今の自分を形造る〝力〟である…――過去、子どもの頃の君たちは当然まだ未熟な神だったが、しかし、神としての経験を積むことで自分が持ちうる可能性に気がつき、その可能性を伸ばしていったことで、自分たちの〝神力〟をも高めていった…。――そうして今や君たちも立派な神となったわけだが…」   「……、…」    しかもこんな真面目な話をされているときに……。  ハルヒさんが目を伏せたまま、満足げにニヤリとする。――コトノハさんは説明を続ける。   「…それこそ今の君は、その〝神の記憶〟のほとんどを内側に押し込め…――ひいては〝人間の自我〟でウワハル本来の〝神力〟をも抑圧、つまり(ふた)をしてしまっている状態だ。――すると君の瞳もまた、内に秘めたる〝神力〟が表に出ていない…、つまりその力が(うち)に抑圧されているばかりに、今は白い瞳になってしまっているんだろう。…」   「……、…」    僕はハルヒさんにいたずらされている手をぐっと引こうとする。しかし彼はぐっと掴んでそれを許さない。のみならず、あーん、と尖った白い犬歯を覗かせながら口を開け、僕の指を(くわ)えようとさえしてくる。  やめてください……僕は早速「テレパス会話」に慣れてきているばかりに、心の中でそう彼に言う。    しかしハルヒさんはその銀のまつ毛を伏せたまま、ふるふる…と首を横にふる。   「…やだ…ハヅキに構ってほしいから…」   「……っぐ、…」    そんな…推しにそんな可愛いこと言われたら僕、どうしたらいいか、…   「また君の体のほうも、…聞いているかい…?」としかしここで、コトノハさんが僕に、そう不安げに尋ねてくる。  僕は慌ててコトノハさんに振り向き、   「あっぁ、ああすっすみません、はい、聞いてます、…」  ほら見ろ、怒られちゃったじゃないか、…  ……コトノハさんも察していたのだろう。はは、と(元凶の)ハルヒさんを見て苦笑をもらしたが、すぐにあらためて僕をその青白い「月の瞳」で見据える。   「……君の体のほうも、結局は内側に封じ込められた〝神力〟が表…つまり肉体に表れきっていないせいで、そうして君は、いまだ今のウワハルの背丈とまでは届いていないのだろう。――またその状態では、君が本来持ちうる〝神力〟を十分に発揮するにも及ばないが……、しかし…」   「…はい…」   「今さっき君の瞳の色が変化したのは、そう…――」    コトノハさんが少しほっとした笑みを浮かべる。   「それこそが、君が少しウワハルとしての〝神の自我〟を、そしてウワハル本来の〝神力〟を、少しだけでも取り戻せた(あかし)だよ。」   「……、…」    え、…えー…――だがやっぱり信じられないな、…  と僕は目を伏せる。僕なんかが神…あんなに美しい天上春命(アメノウワハルノミコト)……どうも受け入れがたい、いや、受け入れてはならないような気がする、…  ……コトノハさんは落ちついた声でこう続ける。   「君が〝神の記憶〟を取り戻してゆけば、〝神の自我〟も強まり…そして〝神の自我〟が強まれば、君の〝神力〟もまた強まる。…いや強まるというよりか、取り戻されてゆくというのが正しい…――そしてそれに伴い、やがては瞳や体のほうも、今のウワハル本来のそれに戻ってゆくことだろう。…ただ、問題は…」 「……、…」    ――問題は…?  ハルヒさんに中指をカプカプ甘噛みされているなか、僕は目を伏せたまま、コトノハさんの言葉に意識を集中させる。…気になる、それにちゃんと聞かなきゃ失礼だ、というのの他に、実は中指に意識を向けたら今にも叫びそうだから、というのもある。 「繰り返しにはなるが…おそらく君は、〝神の自我〟を〝人間の自我〟で抑え込んでしまっている…――たとえば、〝自分なんかが神だなんてあり得ない〟…なんて、思ってはいないかい…?」   「……、…」    ――図星だった。  それは僕の胸を刺すように痛ませ、くら、と僕の視界を一度揺らした。――ちゅ…僕の中指の背、その第二関節にハルヒさんが口づけ、こう妖しい声でいう。   「ね…それ、早くやめたほうがいいよ…」   「……え…」    ふり返った先――僕の中指の背に唇をあてがったままのハルヒさんの、その儚げに伏せられた銀のまつ毛がつ…と上がり、そして僕の目をじっと凝視するその真紅の瞳はどこか(うつ)ろ、しかし恐ろしいほどに力強い。   「ハヅキでも、ウワハルでも…大好き…。でも俺――もう二度と君を失えないよ……」   「……、…」    僕の背中がぞく…とした、…これは戦慄(せんりつ)だった。  これは恐ろしいほど美しいその人に対する、なのか、それとも何か、今の彼から恐ろしいほどの「執念」のようなものを感じたせいなのか――。    コトノハさんが仕切りなおすよう、ただ何か焦っているような鋭い声でこう言った。   「……とにかく、君の中にそういった否定の感情があるのなら…少しずつでいい、認めてほしいんだ。――自分が神なのだと、自分は天上(アメノウワ)春命(ハルノミコト)なのだと、君は早急にそれを自覚しなければならない。」   「……ぇ、それは…何故ですか…?」    僕はそう言ったコトノハさんにふり返る。彼のどこか焦燥(しょうそう)したような語調から、何かかなり深刻な話を予想して、驚きながらもそう聞いた。  すると彼は伏せた上まぶたの下、陰って青くなったその瞳をかすかに動揺させながら、 「それは…そう、君に告げなければならない真実、その四つ目…――これを言うには、きっとかなり怖い物言いにはなってしまうんだが……」    とやたら慎重になって、僕を気づかうのである。  僕は何とも知れないので完全な、とはいたらないまでも、ちょっと覚悟を決めた。   「ええ…、もう正直に言ってください…」   「……、…」    するとコトノハさんは目を伏せたまましばらく黙り込んだが、…ややあってそっと口を開く。   「まず…、君は…実はもう既に、天上春命(アメノウワハルノミコト)としての〝神力〟を使いこなしてはいるんだ……」   「……え、…は?」    僕が、いつそんな、神の力なんか…――?  コトノハさんは深刻げに眉目(びもく)を陰らせたままこう語をつなげる。   「ただし、それは〝お役目〟においてのみのこと…」   「……、…」    僕のお役目、…漫画を描くこと、か…。  漫画に…僕は、……? 考えてもさっぱりわからない。僕は漫画を描くにあたって「神の力」なんか使った記憶がない。当然である。他の人たちと同じように、普通にそれを描いているだけなんだから……。    コトノハさんは難しい伏し目がち、すー、と薄くひらいた前歯のあいだから息を取り込み、   「…そうして今もなお〝神の記憶〟を取り戻していない君が、その〝神力〟を使いこなして日々〝お役目〟を果たしていること…――これが、()()()()()()たる所以(ゆえん)だよ…。そして実にそれは、かなりまずいことになりかねないことでもあるんだ……」   「……、と、いうと……?」    いやだが、さっきコトノハさんは、「神の記憶」を取り戻していなくても「お役目」は果たせる、と言っていたではないか。   「……結論から言って、このままでは、君は…いや、君とシタハルは…――。」    ここで彼がぎゅっと眉をひそめながら、悲痛げに目をつむる。               「…君が早いうちに〝神の記憶〟を取り戻さなければ…、やがて死ぬ…――。」            

ともだちにシェアしよう!