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                「というのもね……」とコトノハさんは、目を伏せたままこう説明する。   「君たちは既に幾度とない〝統合〟を果たし…するとその内に、君たちの額にはお互いの〝神氣〟をあらわす、()(どもえ)神紋(しんもん)が浮かぶようになった…」   「……、…」    あぁ……と僕は思いだす。  今の僕たちの額にはないが、しかし僕の夢の中に出てきたウワハルとシタハルの眉間上には、たしかにその「三つ巴」の紋様が浮かんでいた。  三つの勾玉(まがたま)が組み合わされて一つの円形になっているその紋様(もんよう)は、ただその三つの勾玉のなかは塗りつぶされてはおらず――ウワハルのものはその勾玉の輪郭(りんかく)線が青く、その輪郭の中に小さい赤い勾玉が(えが)かれているもの……そしてシタハルのほうは輪郭線が赤く、中の小さい勾玉は青いものだった。  すると僕のこの思考を読んだハルヒさんが、こう説明してくれる。   「赤は陽…、青は陰…――たとえばウワハルなら…陰のエネルギーが強い俺の〝神氣〟に、ウワハルの陽のエネルギーが強いもともとの〝神氣〟が包み込まれて、一つになってるってことらしいよ……」    彼のその補足をコトノハさんが「そう…その通り…」と肯定し、「ちなみに…」   「その三つ巴の勾玉はそれぞれ神霊(しんれい)をあらわしているんだ。…一つはウワハル、一つはシタハル、そしてもう一つはオシクモネ…――そうしてその神紋は、それら君たちの神霊が三位(さんみ)一体(いったい)となって一つに〝統合〟されたことを示しており――更にいえば、その神紋が肉体…つまり器の表に出るほど、お互いのエネルギーが器の中で一体化――そう…完全に二つが一つに〝統合〟された、ということを示してもいる。」   「……、……」    だが、…話を逸らすようで聞けないものの、じゃあなぜ今の僕たちの額にはその神紋がないんだ?  ってこれを考えたら…――案の定――「見て」とハルヒさんが言う。ふり向いた先、彼はあめ色の大きい右手で自分の額を隠しながら、自慢げに微笑したその両目で僕を見ていた。   「……ほら…、……」    そして彼の右手がおもむろに真横へすべると…、その濃い灰色の秀眉の眉間上――あの三つ巴の神紋が表れていた。  ……ただその三つの勾玉のうち、小さい青い勾玉は三つあるが、それを囲う赤い輪郭線は一つしかない。つまり三つある青い勾玉のうち、その二つが裸の状態になっているのである。   「……、…」    僕は目を(みは)る。…何か…僕が覚えているシタハルのそれとは、少し違うようなんだが……。  ハルヒさんは僕にほほ笑みかけたまま、「これさ…」と自分のその神紋をとんとん、中指の先でたたく。   「このまんまだったら人間の子たち…〝何それ?〟ってなるし…、それに…人間として生きてる俺たちも、やっぱり〝何だこれ?〟ってなるじゃん…?」   「…あぁ…確かに……」    眉間上に何かしら印をつける人も多いインドなどならばまだしものこと、少なくとも日本という国でこのような神紋が額にあったら、まず多くの人は(もちろん本人も)いぶかしく思うことだろう。  ハルヒさんの右手がまたその額をおおい、…すぐにパッとあらわになったその眉間上には、もう三つ巴の神紋がなくなっている。   「だから地上に降りてくる前に、こうやって一旦消してから来たんだよ…――人間として生きるのにはちょっと邪魔だから…。…でも〝神の記憶〟を取り戻したら、こやってまた出し入れ可能になるってかんじ…?」   「……なるほど…、……」    ……と、いうことは…――僕が順調に「神の記憶」を取り戻したら、僕の額にも……?  うんうん、とハルヒさんが声もなく、ただ微笑して僕の目を見つめたままうなずく。   「…はは…」――コトノハさんが困惑気味に笑う。    その人の困惑は、僕たちがたびたび話をそらしてしまっているせいだと察した僕は、あわてて彼に顔を向け、「すみません…」と苦笑する。   「いやいや。いいんだ、私たちはこういうことには慣れているから」   「……あぁ…はは…、……」    やっぱり僕が記憶を失う以前も、ウワハル・シタハルはこうした感じで、しばしば「二人の世界」に入りこんでしまいがちだったらしい。   「それで…」とコトノハさんは、僕の目をその青白い透きとおった瞳で眺めながら、こう説明をつづける。   「ちなみに…実は君たちのその神紋、君たちが体内に溜めているお互いの〝神氣〟の、いわばバロメーターにもなっているんだ。」   「……ぁ…、あのすみません、実はさっき…」    と僕はそれに関連するだろう質問をする。   「さっきその、ハルヒさんの額にあった神紋…が、外側の赤い勾玉だけ、一つしかなかったんです…」   「……あぁ、それはね…」――コトノハさんの眉尻が下がる。   「…つまり…シタハルの中にある君の〝神氣〟が、それだけ減ってしまっているということだよ…」   「……なる、ほど……」    こく、とうなずいたコトノハさんは「では本題に戻ろう」と、その通りこのように説明をつづける。   「そうしてお互いの器に、お互いの〝神氣〟を溜められるようになった君たちは、すると各々のウワハル・シタハルであっても、補い合われたお互いの陰陽のエネルギーによって、神として完璧なエネルギーバランスを保てるようになり…――またその結果、君たちは一柱のオシクモネである時はもちろん、ウワハル・シタハルという二柱の神であるときにおいても、各々が陰陽の融合された〝完璧な神〟ともなれたんだ。――ただし……」   「……、…」    僕はふとある気配を感じて目を伏せた。  ただ、左からすっと伸びてきたその黒い箸――母の白い綺麗な手が使う箸――が、何をしようとしているのか、僕はあまりにも易くその予想がついている。  コトノハさんはこう続ける。   「それは相手の〝神氣〟が器に留まっている間だけのこと…――ウワハルならば、シタハルの持つ豊富な陰のエネルギーを自ら作り出すことはできず…、そしてシタハルならば、ウワハルの持つ豊富な陽のエネルギーを自ら作り出すことはできない…――結局個々で持つそのエネルギーは、生まれ持ったその少ないもののみ…――するとしばらくは〝神氣〟を生み出すことがかなっても、その元素となる相手のエネルギーが枯渇すれば、当然自ら〝神氣〟を生み出すこともかなわなくなる……」   「……、…」    母があたかも当然のように、僕への声かけも何もないまま、僕の目の前にある、平皿にのった付け合わせの茄子と米松露を、(わき)から箸で一口分に切り分けてくれている。  ――さすがに僕ももうそれを必要とするほどの幼児ではないが、…母いわく僕は「ママからしたらいつまでも赤ちゃん」らしく、正直いつものことなので(あともう子どもじゃないから、なんて言うと寂しそうな顔をされるので)、僕は平然とその母の巧みな箸さばきを眺めおろしているだけだ。   「ひいては結局のところ…」とコトノハさんも、およそ母のこのちょっとしたお節介を当たり前の光景と見て、平然と説明をつづける。…大分(三十二にもなった息子が)甘やかされている光景だと思うんだが…。   「オシクモネの状態ならば〝無限の神氣〟を作り出せても、各々ではその〝神氣〟も有限のまま…――そのことには変わりがなく…、また――〝統合〟以前なら、器の外の勾玉からお互いの〝神氣〟を吸うように得るだけで足りていた君たちでも、今やお互いの〝神氣〟が器の中に潤沢(じゅんたく)にあって当然の状態ともなれば、無論今の君たちにおいては、その勾玉から得られるお互いの〝神氣〟だけでは足りなくなっている……」   「…なるほど……」    母が「シタちゃんは?」とハルヒさんに声をかけている。彼はというと「やってぇー」なんて素直に甘えた声を出し、自分の平皿を取って、それを母に渡している。  ……僕は目を上げる。コトノハさんは真剣に僕を見すえ、「それでも…」   「その耳飾りや神石(じんせき)――君のものならば日長石(にっちょうせき)、シタハルのものならば月長石(げっちょうせき)……今でいえばサンストーンとムーンストーン…、それらを足し、外から補える〝神氣〟を増やしたが…――それであってもなお、当然〝統合〟による補給には敵わず、満足なそれとは言えない…――そもそもそれらや勾玉は、今や君たちが離れて各々神の勤めを果たす際の、…そうだな……まあいわゆる行動食、…あるいは非常食のようなものなんだ。」   「……、…」    なるほど……ちなみに「行動食」とは、当然カロリー消費の多い山登りなどの際に、栄養補給するために持っていくもの――多くは高カロリーなバー状のものやチョコレート、ナッツといったもの――である。  そして非常食とは言うまでもなく、遭難や体調不良などの緊急時に栄養を()るためのものだ。  コトノハさんはチラと対面の母の手もとを見下ろしてから、また僕の目を見る。   「……だから今の君たちにとっては、定期的に〝統合〟し、お互いの〝神氣〟を補充することが必要不可欠なものとなったんだ。」   「……あぁ…、……?」    ただ僕はふとした疑問に二つの瞳を上へ向けた。  定期的に…? ――先ほどハルヒさんは、「ウワハルはほとんど毎日俺とえっちしなきゃ生きていけない」と言った。――それは僕の膣と彼の陰茎とを「一つ」にする、つまりセックスこそが「統合」のやり方らしいので、すなわち彼のいう「えっち」とはその「統合」のことを指していたのだろう。  ……さなかにもコトノハさんはこう続ける。   「また…これは念のため言っておくことだが…、たしかに高天原の本体たちと分霊の君たちは魂で繋がってはいる…――しかし天上のウワハルが、君が消滅しないだけのエネルギーを送ることはできない。…というのも、そもそも分霊は本体の(うち)(かえ)らなければ、本体のエネルギーを得ることができない仕組みになっているからだ…」   「……なるほど…、……」    僕はコトノハさんがしてくれる説明はもちろん片耳に入れつつ、   「したがって、それこそ君は天上に戻らなければ、本体のウワハルからエネルギーを受け取ることはできないが…――私たちならば可能でも、今の君の状態では、それもかなわない…――ましてや、シタハルだけ補給しても根本的な解決とはならない…、だから結局のところ、現状君たちの消滅を防ぐための手段は、君とシタハルの〝統合〟が唯一のもの、ということになるんだ……」   「……、……?」    ……自分の疑問をあらためて整理する。  定期的にえっち(統合)……たしかに「ほとんど毎日」というのは()()()()、とも言えることだろうが、…しかしコトノハさんの説明からいうと、僕らは一度「統合」をすればしばらくお互いの「神氣」を体に溜められるようになった…、んだよな……?  ……するとその「溜めておける」というのは、そんなに短いスパンでのことなのか?   「あのすみません、話は変わりますが…」――僕はコトノハさんを見る。   「さっきハルヒさんが、ほとんど毎日えっ…というか、…〝統合〟…? しないと僕、死ぬって…――でもウワハルとシタハルはその、お互いのエネルギーをある程度の期間、体の中に溜めておけるようになったんですよね…? それってそんなに短い…」   「あぁ、あんなのシタの()()()()()()ですわ。」    母がさらっと暴露する。ふと見やった左隣り、彼女は平然とした真顔を伏せ、ハルヒさんの付け合わせの数々を箸で切り分けている。   「別に毎日〝統合〟する必要なんてなくってよ。ただ〝統合〟ではなくて、シタが毎日あなたと()()()()したいというだけのことですわ。」   「……、…、…」    シンプルにいろいろと衝撃を受けているんだが、…ママの口から「えっち」なんて言葉がしれっと出てくるとは、とか、シンプルに推しが嘘をついてまで「毎日」僕が欲しいらしい、とか…――というか今まで見ないふりをしてきたんだが、…僕たちは「統合」しないといけない、…すると僕と僕の推しであるハルヒさんとの「えっち」は、もはやほとんど「義務」のようなもので、……   「……、…、…」    考えるのはよそう、…今にも叫びそうだ、…  ……まあ、ひとまず…と僕はまたコトノハさんに目を向けた。 「……はは……」 「……、…」  彼は何か気まずそうな笑顔を浮かべている。  推察するにどうやらこの人、若夫夫の間のことだから…といった感じで、(今母が指摘したハルヒさんの嘘には)あえて触れないでいたのではないか。   「……ちなみに」とコトノハさんが爽やかな微笑に切り替える。どうも言及はしない方針を貫くようだ。   「君たちの場合は、この地上で〝神力〟を使う場面も限られているだろう。…分霊の君たちの〝お役目〟とは春を齎すというような大がかりなものではなく、各々の創作活動なんかにのみ使うものと想定されていたし、そして事実そうだね。」   「…はい」    と僕がうなずくと、コトノハさんも微笑んだままうなずいて、さらにこう語を継ぐ。   「…すると、地上に春を齎すほどには〝神氣〟も消費されない。――また、実は君たちの誕生日…厳密にいうと君たちがこの地上に顕現(けんげん)した日は、数秘術(すうひじゅつ)といって…まあいわゆる、生まれた日によって与えられるエネルギーを知るための占いなのだが……」   「…はい…」    ちなみに僕の誕生日は五月五日、ハルヒさんは五月四日である。   「それによって君の数秘は9、その陰のエネルギーを、シタハルは1、その陽のエネルギーを各々で補うばかりか――二人の生まれた日を一桁になるまで足すと1…つまり一つになる、というエネルギーを、君たちはその日付に付与されてもいる。」   「……、なるほど…?」  その数秘術というのは僕は知らないが、…つまりこういうことではないか。   「…要するに、一度生まれたら…というか、僕たちの場合は顕現したら、変化することのない誕生日から受けられるエネルギーでも、お互いに生み出せない陰陽のエネルギーを多少補ってはいる、ということですか?」    コトノハさんはその誇らしげな微笑を「その通り」とうなずかせる。   「…したがってその誕生日のエネルギーや、地上に降り立つ前に器に溜めておいたお互いの〝神氣〟…それとその勾玉や耳飾りなどで、今日までは〝統合〟せずとも十分事足りるものと計算されていたんだ。」   「……、()()…、ということですよね…」  と僕がきまり悪く言うと、コトノハさんが少し表情を曇らせる。  ――彼はふと目を伏せ「そう…」 「……、そして…、――実はね…これを言うべきかどうか、私は先ほどからずっと迷ってはいたんだが…、……」   「いいえあなた、きちんとおっしゃるべきですわ」    母が凛とした声でそう言う。  ……するとコトノハさんは目を伏せたまま、…しかし眉を寄せ、やがてつらそうに目をつむる。   「……、…」    ここまで説明をほとんど請けおってくれていたコトノハさんは、どうもその先ばかりは言えないようだった。   「もしお前さんたちが消滅しちまったらな…」    すると祖父が代わりにそれの説明をひきとる。   「そもそも、それ自体が私らにとっちゃ悲しいことではあるがの…、何より――高天原に在るお前さんたちも、()()()()()()()ことになってしまうんだよ…」   「……、…」    僕はなぜか酷くぞっとした。  胸の中に不穏な息苦しさが滞る。  たった一部たりとも欠けてはならない、…その恐ろしい感覚が僕の中によみがえる。  ……薄目を伏せているコトノハさんが責任感からか、また重々しくも口を開く。 「……いや…少なくとも高天原に在る君たち二神は側にいる以上、その〝神氣〟もまた無限のものに違いない…。…よって、たとえ魂の一部が欠けたところで、いずれは回復することだろうが…――ただし…それまでにはおよそ百年はかかることだろう……」    コトノハさんは「とはいえ…」と、ふと僕を深刻な眼差しで見る。   「例えば立て掛けられたパズルが、その小さいピースが一つ損なわれただけで、その他のピースまでもがバラバラと崩れ落ちてしまうように……たった小さい一部であろうと…、神が分霊という魂の一部を失えば、神は魂、ひいては精神のバランスを崩し…――すると神は…狂気の〝鬼神〟となってしまう……」   「……、…」    僕は唇を薄く開けたまま、固まった。  あの夢の中でシタハルは『私が愛しいそなたを失えば、私は我をも失ってしまう』と言っていた。    鬼神化…すなわち「我」であるウワハルを失えば、…僕という分霊が「神の記憶」を取り戻せず、「ウワハルの自我」を失ったまま、分霊のシタハルと「統合」できなければ…――僕たち分霊は消滅、そして本体たちはそのせいで「我をも失い」、やがては鬼神になってしまう……。  ――彼らの「恐れ」の正体とは、きっとこれだったのだ。    母が隣で「あなた覚えてらして…?」と話しかけてくるので、僕は彼女に顔を向ける。彼女は憂い顔を僕に向けている。   「…あなたが不登校児になるきっかけになったあの日…――花瓶(かびん)が割れ、花が()れたこと……」   「……、…あぁ…あの、花瓶が割れたことは覚えてる、けど……」    そう…僕がランドセルを道ばたに置き捨てて帰ったあの日の夜――心配して僕の部屋に駆けつけてくれた母と祖父、じいやに、部屋の隅で膝をかかえて座っていた僕はふさぎ込んで、かなり反抗的な態度を取ってしまった。    そしてそのとき、たしかに突然、僕の部屋の窓辺にあった花瓶が割れた――というか床に落ちた…? のだ。  ……ただそもそも僕は、その花瓶に活けられていた源平小菊の世話をさぼっていたため、おそらくその花が茶色く枯れていたのは、その日以前からのことだったと思われる。   「…でも、花はもともと枯れてたんじゃない…?」   「何を言うのよ」と母が驚いた顔をする。   「じいやがそんな不精(ぶしょう)な真似をするはずがないでしょう。…あれは、()()()()()()()()()()()()()んだわ」   「……え…? でも僕…お世話をさぼっていたから、あの頃はよく枯れて…」   「ですから…じいやはあなたに代わって、きちんとお世話をしてくれてはいました。」    断固としてそう言った母は、ふと悲しげに目を伏せ――「神はね」とささやくような声で言う。   「その実…パパが先ほどおっしゃったような方法でなくとも、言霊の力を使えはするのです…――それは操ろうというだけの気持ちではなく…、たとえば(うら)(つら)みや悲しみ、後悔、…そういった強い負の感情を言葉という形にしてしまったとき…。なおかつ、その想いが強ければ強いほど、その効力は凄まじいものともなり…――それもそれは…もはや声に出さずとも、心の内に浮かべるだけで効果を発揮してしまう…――それを、〝呪詛(じゅそ)〟…と言います…。」   「……、…」    僕は唇を開けたまま固まっているなか、ふと思い出していた。    僕はあのときこうみんなに叫んだ。  ――『みんな大嫌い…っ、嫌い、嫌い…っ! 顔も見たくない!』と、  そしてそのとき、どうしても大好きな家族には言えなかった言葉がある。      ――〝みんな死んじゃえ〟――     「……、…、…」    僕はあのとき、これまで溜めていた鬱憤(うっぷん)が爆発して「みんな大嫌い」と言った。しかし「死んじゃえ」とはどうしても言えなかったが、それだってのど元まで上ってきていた言葉だった。  つまり僕は…その日にいたる前から常々、『もうみんな嫌い、もうみんな死んじゃえ』と、心の奥底ではそう呪っていたのかもしれない…――。   「……、…」    すると…僕のその「呪詛」で、あの花たちは枯れてしまった…というのか…――。  しかしそれが本当のことなら、とても可哀想なことをしてしまったな…――もちろん大切な家族に、僕のそんな「呪詛」が降りかかってしまっても決してよくはなかったが、…といって花たちだって何も関係なかったというのに……。   「あなたは春の神です…」母が目を伏せたまま言う。   「だから花が枯れたのよ…。けれど…分霊であり、〝人間の自我〟が〝神氣〟を抑圧しているあなたですから、せいぜいあの程度で済んだけれど……」    母はふと目を上げ、対面のコトノハさんにまっすぐな目くばせをする。   「…そうだね…」とコトノハさんが言う。   「しかしそれに関しては、一時的に荒御魂の状態となってしまったというだけのことだろうが…――己でコントロールできない荒御魂の状態を鬼神化という以上…――そうして荒御魂ともなれば花を枯らしてしまうウワハルが、いよいよ鬼神そのものとなり…かつ、〝神力〟も豊富な高天原の本体がそうなってしまえば……」   「……、…」    僕はぞっとした。  ――コトノハさんのその言葉の先を聞くまでもなく、僕はその深刻な事態を察したのである。   「神はもちろん決められたときに、決められただけの自然現象を起こしている…――しかし魂のバランスを損ない、鬼神となった神は、自分のその力をもコントロールしきれなくなり…、そればかりか…ともすれば呪詛をまき散らし、(わざわい)を齎す邪神(じゃしん)と化す可能性もある…――すなわち、君たちでいえば……、……」  コトノハさんがぐっと言葉に詰まったせいだろう、その人の代わりに祖父がこう言うのだ。   「お前さんたちが消滅でもしてみぃ…――この地上には向こう百年、春が来なくなる……」    そしてロクライさんまで、こう難しそうにぼそぼそと言う。   「…花は咲かないどころかあれこれ枯れて、作物は芽吹かず不作が続き、春雨は降らず、冬の日の翌朝に夏が来る…――そればっかりかのお、各地で大嵐…風が吹きすさび、豪雨が長期間降り続き…その嵐の中、疫病まで蔓延(まんえん)する…――そうなっちまったら…森羅(しんら)万象(ばんしょう)のバランスさえ崩れっちまうわけだ…。」   「……、…」    僕はロクライさんが珍しく沈痛な表情でそう元気なく言ったのに対し、ひどく胸がざわついた。  いつも明るい彼がその調子ともなれば、いよいよこれはまずい事態なのだ、と痛切に理解したのである。   「まあしかしのぉ!」    しかし自分の暗雲を晴らすように、ロクライさんはそうまたいつもの明るい声を出す。   「そう心配するこたぁないぞウエ、シタ! だぁいじょぶじゃ、じいじたちが全部何とかしてやっからのお!」   「……、…、…」    しかし…僕はあまりの申し訳なさに深くうつむいた。 「なんか、その…――ごめんなさい……」  僕のせいで…――。   「そんな…」と母が僕の肩を撫でる。   「なぁにを言うか!」   「…お前さんが悪いわけじゃないよ」   「…そう、ハヅキくんが悪いんじゃなくてね…」  そうしてみんなは僕を責めないでいてくれるばかりか、慰めてくれるが、――僕のせいで、   「だってこのままじゃ、…」    この日本に百年、春が来なくなる…――。    それもそれだけではなく、自然災害や疫病まで……――。 「……、…、…」  ……僕は事の重大さに恐怖した。  ついさっきまで普通の人間として生きていた僕に、これはあまりにも重たい、かつにわかには信じられない話だった。  本当なのか、とやはり疑いそうになる、…かえってこれが本当のことではないほうが、僕にとっては正直都合がよかった。    だが、そうして信じないまま――本当に、自然災害だのの悪いことが起きる事態になったら……?   「……、…、…」    僕はぎゅっと目をつむった。  僕が死ぬとか以上に、たくさんの関係ない人たちまで死んでしまう、…いや、そうなったら僕がその多くの人たちを殺しているのと同然じゃないか、…  僕のせいで…どうしたら僕は早く「神の記憶」を取り戻せるのだろう、…そんな重大なことになりかねないというのなら、天上の神様もその方法を出し惜しみせず、教えてくれたっていいだろうに…――どうして僕は、ちっともウワハルの記憶を取り戻せないでいるんだろう、…  人間の、自我…?  僕が、…僕でなくなれば、…いいってこと…?   「ね、ハヅキ…違うよ、そうじゃない…」    とハルヒさんが、優しい声で僕に話しかけてくる。   「ハヅキはハヅキのままでいていいんだよ…。おれだってハルヒのまんまで…シタハルに戻ったんだから…――ねぇ…これって、考えてもどうしようもないことだから…、なるようになるから…だいじょうぶ…――そだ。ねぇねぇ…ほら、俺見て…?」   「……、…」    僕はそっと目を開け、ふと右隣のハルヒさんに顔を向けた。      にわかにぼふんっとハルヒさんが白い(もや)に包まれ、バリバリバキィッとこの部屋の襖が派手に壊れやぶれた音、…そして、     「シタ!」と父母と祖父二人が声をそろえたなり、     「ほら、俺と一緒に笑お…? いーー。」      と尖った白い上下の歯をすべて見せてにんまりと笑っている――巨大な黒い、(りゅう)の、顔。が、     「……ほらほらぁ…? ……」   「…ヒッ…!」      僕を一口で()み込めそうな、そのむき出された白い牙のあるデッカい口を僕に迫らせ、…       「……、ぅぁぁ……――。」        僕は驚愕と恐怖から息が止まり、するとたちまち僕の瞳が勝手に、ぐるぅと真上に向く――あぁ…真っ暗だ…、脱力した僕の体は、幸い座椅子が受けとめてくれた。   「いやっ! ウエちゃん!」   「大丈夫かウエ、ウワハル、ウワハル!」   「…おー、失神してもうたか…大丈夫か」   「おお〜ウエ、そ〜びっくりするこたないだろうがあ〜〜! ガッハッハッハッ!」        ロクライさんはあとで覚えておけよ…ていうか、       「……、…――?」        ――あれ……?        ……真実、あともう一個、…        …なに……………――。            

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