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〖神の記憶は快楽のあとで〗33

                「えー俺、ちょっと笑わせようとしただけだったのになぁ……?」    俺は今黒い龍――たてがみは銀色――の姿で、この日暮れの濃いオレンジ色の雲間を縫うように、あるいは海中をなめらかに泳ぐリュウグウノツカイのように空を飛んでいる――。    ちなみにハヅキが失神したあと、もちろんぐったりしているハヅキを放置してのんきに食事を続けることなんかできないので、結局俺たち家族はあのあとすぐ家へ帰ることにしたのだ。  すると保食神(ウケモチノカミ)は残りの料理を可能なかぎり包んで持たせてくれて、ではその荷物は今どこにあるかというと――今本来のすがたである雄牛にもどったじいやの背に積まれている。    つまり俺たち家族は今(ハヅキ以外)みんな龍神の姿、そしてじいやは雄牛のすがたで空を飛び、あるいは空を駆けて、帰路についている最中だ。  ……ただ実は、俺たちがこうして帰路につく前にちょっとしたハプニングがあって、というのも――出入り口の襖付近にいたはずのじいやが、いつの間にか()()()()姿()()()()()()()のだ。  で、帰るのにもまずじいやを探すところから始まったんだけれども――幸いじいやはすぐに発見された。  じいやはあの『藤の間』からまあまあ遠いところの廊下で、残忍な事件に巻き込まれた被害者みたいに、うつ伏せになってぐったりと倒れていた。  ……まるでじいやを惨殺したかのような酷い目に合わせた犯人?  ()。  実は俺が龍神の姿に変化(へんげ)したとき、出入り口付近に正座していた(無防備な)じいやが俺の勢いよく伸びた尻尾に巻き込まれ、俺は知らないあいだに彼を廊下も遠くのほうに吹き飛ばしてしまっていたらしい。  そうしてじいやもしばらく気を失ってしまっていたんだけれども、彼のほうは幸いわりとすぐ目を覚ましてくれたので、今じいやはこうして自力で空を駆けられている。――もちろん俺は謝ったよ。    でも…別にあんなのちょっとしたいたずら心だったのに、まさかハヅキが失神するだなんて思いもよらなかった。  もちろんいたずら心とはいえ、俺のその心には悪意なんてひと欠片(かけら)もない、ただハヅキにちょっと面白がってもらいたい――落ち込んで、考えすぎていた彼のその憂鬱を吹き飛ばしてあげたい、ちょっとでも笑ってもらいたい――、俺はただそれだけの、むしろ彼を喜ばせようというある種奉仕的なユーモア精神であれを思いつき、そして実際に龍の姿に変化してみた。  俺にしてみたらただそれだけのことだったのに、…なんでこうなっちゃったんだろ…?    ただ、もちろん俺はわかっていて変化したのだ。  今のウワハルはまだまだ人間のハヅキで、すると俺たちが龍神の姿にも変化できるということも――神があらゆる存在に自由自在に変化可能ということも――、彼はまだ思い出せていない。  ……それは俺もよくわかっていた。   「……?」    俺はむぅ…と首をかしげる。  ただ…人間の子たちは、龍にマスコット的な可愛さを感じられるものなんじゃなかったっけ…?  たとえば翌年の干支が龍になると、年の瀬の世の中は、あんなにあちこち可愛い龍のグッズでいっぱいになるじゃないか。――そうじゃなくたって、龍をモチーフにしたグッズを愛用している人間の子たちはいっぱいいるじゃん。  龍神というだけで畏怖(いふ)されていた昔ならともかく、今やマスコットキャラクターとしての市民権を得た龍を怖がる人間の子なんか、今どきいるの?  ……なのにハヅキは愕然(がくぜん)としていたばかりか、龍神姿の俺に対して怯えてすらいるようだった。――恐怖のあまり気も失うし。   「()()()()()()()()()おかしいなぁ…、気を失うまでびっくりすることないじゃん…?」    俺のこの不満げなひとり言に、俺の右隣にいる母、   「まったく、なにが〝おかしいなぁ〟ですか…」    と俺の隣を飛ぶ桃色の龍――そのたてがみは明け方の雲のようなあわい青紫いろ――俺たちの母が、呆れたそのオレンジの瞳で俺を見る。   「そりゃあ驚くに決まっているでしょう、まったくもうっ…! あなた、…そりゃあ見慣れたわたくしたちにとっては龍神のすがたであろうとあなたは可愛いけれど、…今の人間の意識が強いウエちゃんからしたら、ほとんど巨大で獰猛(どうもう)そうな未知のモンスターでしかありません…!」   「…えーでも…人間の子たちだって龍は、マスコットキャラクターみたいで可愛いって、きっとみんなそう思って……」  俺のこの反論に、母が「はー…っ」とあきれ返ったため息をつく。 「…ああいう人間の子らが創り出したイラストだのお人形だのは、確実に襲いかかってこないから受け入れられているのです。…それにあれらは、まるで小動物かのようにかわいらしくデフォルメされてもいるでしょう、…本物の龍はどんな人間の子だって恐れますわ……」 「…へー…、あはは、べつに食べたりしないのにね…?」    そうなんだー。また一つ学びを得られたかも。  でも、そりゃあ俺だって大好きなハヅキのことは食べちゃいたい気もするけれど、食べちゃったら事実上不老不死のハヅキは俺のお腹の中で生きることになっちゃうから、それだとちょっと寂しいし――だから食べたりしないし、そもそもちっともそんなつもりはなかったのにな。  母がじっとりとその長い青紫のまつ毛を下げ、俺のことをそのオレンジの目で叱る。   「そういう問題じゃありません。…それにあなたね、…いくらあのお店が神の領域であるからって向こう見ずに変化するだなんて、…幸い保食神(ウケモチノカミ)は笑って許してくださいましたけれど、あなたほんとう、人様のお店をあんなにボロボロに…――申し訳ないったらなかったわ、…」   「…んー、それは…ごめん…。えへ…、……」    それに関してはちょっと失敗。  そそ…ただウケモチノカミは俺がぶっ壊した襖や壁を見て一瞬は驚いた顔をしていたが、すぐ可笑(おか)しそうに笑いながら『あらまあ、坊っちゃん元気がよろしおすなぁ…結構、結構』とこころよく許してはくれた。  でも当然弁償することにはなったけれども(もちろん俺持ちで)、とはいえ建築の神・手置(タオキ)帆負(ホオイ)(ノミコト)彦狭知(ヒコサチ)(ノミコト)の親子の力なら、あれくらい三分とかからずちょちょいのちょいで直るし?    そして俺の右隣の母が更にこう小言を言うと、   「……はぁ…、まったくあなたときたら、事前の打ち合わせで決めていた流れはぶち壊すわ、そればかりかお店までぶち壊すわ…――あなたはもう少し落ち着きというものを持ちなさい。」   「……はは…、……」    と俺の左隣を泳ぐ白い龍――たてがみは黒――の俺たちの父が苦笑してから、その困ったような青白い瞳で俺を見る。   「会いたい人にやっと会えたその喜びは、当然私たちも理解はしているつもりだが…、……?」    しかし父はそこでその目を前に向ける。  ……俺たちを先導するように前を飛んでいる白と黒の龍――体もたてがみも黒いタケじいが「おおおお!」と危うい雄たけびをあげたので、父ばかりか、俺たちは一斉に前方の彼らを見た。  タケじいはよろろろ…と危ない蛇行をしながら飛んでいる。ちなみに、彼のその太く長い黒い体に身を寄り添わせて支えているフツじいもまた、たてがみも体も全部が輝くような白だ。  そしてフツじいが、   「もうちっと気を付けておくれよお前さま、酔っとるんだから…――それにの…、()()()()()()()()()、人の子さんらがあわや怪我しちまうよ…」    と言うのには理由がある。  ……タケじいはその短い龍の両手でお土産の清酒、それの酒瓶がなん本も詰まったほとんど業務用の、プラスチックの黄色いケースをもっているのだった。――ウケモチノカミは独自ルートで、自分の料理によくあう特別に美味しいお神酒(みき)を仕入れているのだ。   「おお大丈夫大丈夫! しかし、酔いどれで飛ぶのもなかなか気持ちええもんだのお〜〜!」   「……、…」    ……帰ったらまた寝るまで飲むんだろうなぁ。  するとその危ういタケじいを見ていた、俺たちの後ろを駆けている雄牛のじいやが、   「いっそのこと、やはり私が背負いましょうか…?」    と心配げに提案するので、俺は後ろにふり返る。  ――彼は真っ黒な大きくたくましい雄牛の姿になっている。ただ一般的に想像されがちな家畜の牛というよりかは、バッファローのように体の幅が大きい筋骨(きんこつ)隆々(りゅうりゅう)な感じの雄牛だ。  その頭から横むきに生えた二本の(つの)も太くて長くてそり返っている。  ただじいやのその提案に、父は呆れ返った伏し目で首を横にふる。 「ありがとうじいや……だが大切な自分の神酒(みき)だと、どうせ父は渡しやしないよ…。今はあれで相当酔っているからね…――それに…もうそろそろ着くから……」    するとじいやが「そうでございますか…」と依然、心配そうにつぶやくように言う。そしてその通り、彼の真っ赤な瞳はやさしい心配をやどしている。――でも…大丈夫大丈夫、と俺はおもった。   「…えへへ…大丈夫だよぉ、もしタケじいがあれを落っことしたらぁ…俺がびゅーんと飛んでってぇ…、人間の子たちの頭に当たる前に、ちゃんとキャッチしてあげるってぇ〜…」   「…そんなことよりシタちゃん、後ろに振り返ったら危ないわ…」    母もまた別の心配から俺にそう声をかける。   「ん…あぁ、そうだった」    そうそう…俺たちは今龍神に、そしてじいやは雄牛になっているが――ただもちろんハヅキ…つまりウワハルはまだ、龍神になることはできないから…、    じゃあハヅキは今どこにいるのか、って――?   「…そんな無理は今はしないでちょうだい…、お願いだからウエちゃんを落とさないでね……」    と母が俺の背中を心配そうに見やるとおり、  もちろん人間っぽい姿のハヅキは今仰向けになって、黒い龍になっている俺の背にくくりつけられている。…(なに)でって俺が生じさせた植物の(つた)――俺も春の神なので、こうして自由自在に蔦を生じさせることもできる――、それもハヅキは今、身動きが取れないほどギチギチにぐるぐる巻きで俺の体にくくりつけられているのだ。  これならバッチリ、寝返りも打てないし、まずハヅキは地上に落ちちゃったりしない。   「……んは…、……ぁ…?」    ハヅキが俺の背中で目を覚ましたっぽい。   「…ん…? おはよぉ…」    俺はそう声をかけたけれど、ハヅキはまだ夢見心地で――。   「ぁえ…? そ…空…飛んで…あぁ…天国…、あ…? なんか僕…ぐるぐる()――ぁ…僕、死…? ………」    でもすぐ、かく、…とまた彼は力尽きた。   「えー死んでないよぉ…? ていうか俺たち死なないし……」   「……、はぁ、…ウエちゃんは、あなたが責任を持って介抱なさい。いいこと…?」    と母が俺を軽く睨んでくる。  俺はうんうんうんとうなずく。もちろんはじめからそのつもりだった。 「さあて、そろそろ着くぞ〜〜」    と前を飛んでいるフツじいが後ろの俺たちに声をかける。  ――見えてきた目的地…その豪邸の白い屋根は、洋風のものだった。                ◇◇◇              ――俺は人間っぽい姿に戻り、まだ眠ったままのハヅキを横抱きにして運びながら、もともと少し開いていた扉を脚でこじ開けて八畳ほどの和室に入る。    真新しい畳のすがすがしい香りで満ちているこの和室には、ちょろちょろとかすかな水音が流れている。    ――ここは寝室だ。    俺たちの寝室――ここの内装を一言で説明するなら「和風モダン」といった感じ。どこか(いき)でおしゃれな旅館の一室というような洗練された雰囲気がかんじられる。    床は和室らしい正方形の緑の畳敷きだ。  そして部屋の中央には、大の男である俺とハヅキとが横並びに寝そべってもまだ余裕がある、大きく広々としたベッドが一台置かれている。  それのベッドフレームは黒っぽい赤茶色で、箱型なので脚はなく、代わりに収納の抽斗(ひきだし)が左右に三つ、二段ずつある。――そしてそのベッドフレームには、それのサイズにぴったりあったふかふかの白いマットレスが一枚敷かれているが、枕は二つずつ、ふっくらとした白いかけ布団も二枚ずつ用意されている。  あと枕もとの左右に立っている黒いスタンドには、同色の黒い行灯(あんどん)が吊り下げられている。その行灯の屋根の四角(よすみ)からは青と赤の(ふさ)(タッセル)がぶら下がっており、行灯の側面にはそれぞれ花びらの散った川や、菖蒲(しょうぶ)や、藤の花などが版画のタッチでえがかれている。――つまりこの行灯がベッドサイドランプなので、行灯の底からはスイッチの紐(その紐の先端には赤、あるいは青の房がついている)が垂れ下がっている。  その行灯のそばには赤茶のベッドサイドテーブルも一台ずつある。    また出入り口の扉の対面、中央に丸窓がある障子戸、その奥には低い椅子二脚とテーブルとが設置された広縁(ひろえん)――旅館などにもよくある、窓辺で向かい合いながらくつろぐための空間――があり、そしてその広縁の奥には赤茶の木製のガラス戸がある。そのガラス戸からは坪庭(つぼにわ)といって、風流な竹や石灯籠(とうろう)やが飾られた、小さな日本庭園が眺められる。    そして天井の中央からぶら下がっているのは、和紙の張られた丸い大きな照明器具だ。そのあたたかみのあるぼんやりとした光に染まっているこの部屋の壁は白い漆喰(しっくい)だが、ベットヘッド上の壁だけは竹の皮のような草色になっている。    その草色の壁にはとても大きな楕円形の丸窓が――今は絶妙に美しく開かれている障子が左右に覗く丸窓が――あるのだが、その丸窓の先は奥まっており、ある種そこも坪庭というか、その空間の岩の床の上には(みき)の曲がり具合がみやびやかな大きい桜の盆栽が、上からの太陽光のような暖色の光に、その満開のうす桃色の花びらを照らされているのが望める。  そしてその桜の盆栽の奥の岩壁はまんべんなく濡れて濃くなっている。というのも上から水が流れて伝っており、その水は盆栽の鉢の下の岩肌をながれて丸窓の外、ベッドベッド上の、岩でできた細長い排水路へむけてちょろちょろと流れおちている。     「うん…」  すっごく素敵だ。  今日からここが俺たちの愛の巣だ。  ――俺は満足のきもちでにこっとし、このすがすがしい畳の匂いのなかを進みながら、ふと横抱きにしているハヅキの顔を見下ろす。   「……綺麗…」    彼は俺のすっかり着くずしたワイシャツの胸もとに、その美しい寝顔を寄りかからせている。  俺はその愛おしいやすらかな寝顔をぼんやり眺めながら、この部屋の中央にあるベッドまで歩いてゆく。    こんなに美しい人が…――やっと、俺だけのもの。   「…ふふ…、……」    俺はその美しい人の細いからだを、ふくよかな白いかけ布団の上にそっと横たえる。  すると彼の背を抱きとめたその布団にその細身はすこし沈みこみ、そして力の入っていないハヅキの顔は、後ろ頭をあずける枕の傾斜にころんと斜め下へ向いた。――その斜め下の角度は、彼の長い黒のまつ毛の美しさをよく引き立てて見せる。   「……ねぇ…」    俺は微笑みながら、ギ…とベッドをきしませ、その無防備なハヅキを組み敷く。   「――俺…ずっと君のこと、探していたんだよ…?」    未練を残しておけ?  そう言ったくせに、君こそが俺のことをすっかり忘れて…――その上、ちっとも俺のことを思い出してくれていないだなんて……。   「…酷いよ……」    でも俺に恋してくれたんでしょう。  でも…――俺、もう君にとっては「元」推しなんでしょう…?     「ねぇ、どうして…?」      俺はずっとただ君だけを求めてきたのに…――。      もう君を失うわけにはいかない――。    

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