37 / 40
35
んん…とちょっと苦しげな色っぽい呻 り声を鼻からもらしたハヅキは、斜め下へ顔を向けたまま、ふと薄目を開けた。――彼の唇のちかくに唇を寄せていた俺はすっと腕を立て直す。意識を取り戻したハヅキがふと俺のほうをふり向いたら、いよいよ二人の唇同士が接触してしまうからだ。
――伏せられたままの彼の長い黒のまつ毛のゆたかな艶が、何度かのまばたきにつやつやとまたたく。
「……?」
ハヅキは目を伏せたまま眉を寄せながら『あれ…僕…』といぶかしがる。――『僕…行きつけのあのお店に行って…えっと、〝五つの真実〟……それから推しのChiHaRuさんが来て、でも彼はハルヒさんで……黒い龍…あ、そうだ、…』
……にわかに彼のゆるまっていた上まぶたがパッとひらき、その白い瞳はたちまち明瞭さをとり戻して、彼はハッと自分を組みしいている俺を見上げる。
「…ぁ、…ぁの、……っ?」
ハヅキは驚いた顔をしつつも、…今俺に組みしかれているこの状況にやっと理解がおよび、その真っ白な頬をじわ…とあわい桃色に艶 めかせた。
「…はは、おはよぉ…」
俺がそうしてほほ笑みかけると、ハヅキはふと困ったように目を伏せ――『なぜ僕、…推しにその…何、…何だこの状況…?』と困惑しながら、ふとその顔を真横にむける。
「……? あ…の、…えっと…此処 、どこ…ですか…?」
とハヅキはこの部屋の趣 きのある内装を眺め、今度はもう反対に顔を向けて――ここはどこだろう、とやはりこの部屋を観察している。
「りょ…旅館…?」
「ううん…俺たちの寝室」
「……へ。……」
真横に向いたままのハヅキの横顔が少しこわばる。それは彼の困惑が深まったせいだ。
ちょっと俺が思っていたリアクションではないけれども…俺はニヤリとした。
「…今日からハヅキは、俺と此処で一緒に暮らすんだよ…?」
「……は…、…ぇ、…えっと、…はぁ…?」
理解が追いつかない、という強ばった顔を、上の俺へ向けたハヅキの困惑はどんどん深まってゆく。
あ…そうだ、と俺は――ハヅキのワインレッドのネクタイの結び目に指をかけ、それをほどこうとする。けれども、
「あっ…あの、ちょ、ちょっと待って…!」
しかしハヅキは困ったように眉を寄せ、うつむいて目を伏せながらかあっと頬の赤らみを濃くするなり、俺のその手を上からそっと掴んで制止する。
「え…? あは…かわいーハヅキ……」
……ハヅキ、勘違いしてるみたい。
俺だってさすがに「失敗」はできないから、今すぐにハヅキを食べちゃうつもりなんかないのに――そういう色っぽくてかわいい反応をされると、さすがにそそられちゃう。でも――ただママにちゃんと介抱しなさいと言われたから、もう必要もないネクタイで首をゆるく締められたままというのも着苦しいだろうし、俺はネクタイとか彼が着ているものを楽にゆるめてあげようと思っただけだ。
「でも…苦しいでしょ…?」
「…くる…あのっそんなことより、…どういう…?」
ハヅキはつと当惑 した上目遣いで俺を見る。
かわい…――ただ彼は俺に襲われるかもしれない、というシチュエーションはさておいて、ひとまず「今日から俺とここで暮らす」という話のほうの真意を確かめたいらしい。
「あーあれね、〝五つの真実〟…あはは…――それの最後の一個は、つまりこ う い う こ と 。」
「……んぇ…? こういう、…こと…?」
なんとなし「こういうこと」がどういうことかを察してはいるハヅキだが、どうやら彼は俺にさらなる明言をもとめているっぽい。
「だからぁ…――この部屋はそんなに運ぶ荷物なかったからよかったけど、…今もハヅキの部屋には、もともとの家から運ばれてきた君の荷物、搬入されてる最中だってこと……」
「……はぁあ…?」
ハヅキは若干迷惑そうに顔をしかめるが、俺は大好きなハヅキに褒めてほしくてニコニコしながらこう彼に甘える。
「ねね…それよりおれ、黒い龍神になったでしょ…? でぇ…おれ、ここまでハヅキのこと運んできてあげたんだよ…。えへへ、えらい…?」
「……、…ぁあ、あれ正直、てっきり夢かと…」とハヅキはまた別の困惑に目を伏せる。
「ああえっと…えら、…いや、どうも…どうもありがとうございました、それはその…、…、…、…」
そして、実はハヅキは内心こう考えている。
――『あんまり推しが可愛いのでうっかり言いかけたが、敬愛するほぼ初対面の推しに「えらい♡」はさすがにまだ駄目だろう……、ていうかあれ、あの流れるオレンジ色の雲の光景、あれ夢じゃなかったのかよ、…
……まあそもそも、ハルヒさんが黒い龍になったこと自体夢なんじゃないかとも思えはするんだが、……銀、いや黒 の 龍 の 背 に 乗 っ て …僕、知らぬ間に空なんか飛んじゃったらしい…。
ただ確か僕、あのとき雑なぐるぐる巻きに拘束 されていたような気もするんだが……』
「違うよ、あれはハヅキを空から落っことさないためだよー…。いくら不老不死でも…さすがに複雑骨折とか内蔵破裂とかはするし、それめっちゃ痛いから……」
「……ぅあぁ゛、…あ、ありがとうございます、…」
なるほどな、とハヅキは目を伏せたままコクコク浅くうなずく。――『何と恐ろしい、それもはやめっちゃ痛いとかのレベルではないだろ、いっそ殺してくれという程度の猛烈な痛みに違いない、…
……なるほど、そう言われたらあれも有り難いことだったんだな…――ただ黒い龍になった彼の背に、人としての…いや神としての威厳もなにもなく、まるで軽トラに積まれた荷物かのごとくギッチギチのグッルグルに拘束されていた我が身を客観視すると、いささか羞恥心を感じないでもないんだが……』
「はは…、でも…ハヅキも〝神の記憶〟を取り戻したら龍神になれるから…、てか神は自由にどんな姿にでもなれるし…――でね、実はウワハルが龍神になると、ムーンストーンみたいに虹色に輝く鱗をもった、綺麗な白龍になるんだよねー…。たてがみは黒くて…、ほんと綺麗な龍神になるの……」
俺はつい「神の記憶」を取り戻せないことを思い悩んでいるハヅキに、何の配慮もなくこんなことを話してしまった。――俺にとっては何の気なしの軽やかな雑談のつもりだったんだけれど、…するとハヅキのその伏し目には、たちまち申し訳なさそうな儚い陰が差してしまった。
「……そう…なんですね…、……」
目を伏せたままハヅキは『どうも今は想像できないな…、自分が龍に……』と、やっぱりにわかには信じられないでいるようだ。そればかりか――。
「……、…」
――『ましてや、ハルヒさんが今語ったその僕が白い龍になっている記憶、…その〝神の記憶〟はやはり僕の中にはない…。いや、厳密にいえば、まだそれがよみがえってくる気配はまるでない…』
「……ごめん…、俺、今別に、ハヅキを責めるつもりなんかはまったく……」
「いや大丈夫です、それはわかってますから…、…ただ……」
どうしたら早く思い出せるんだろう、と未来を憂いているハヅキの伏し目はしかし『ってそうだ、…』とパッと上がる。
そしてハヅキはまたその大きなツリ目で俺を見上げて、「それで、話を戻しますけど…」
「と、すると……じゃ、じゃあその…〝五つの真実〟の最後の一つって、――要は今日、いきなりその…ChiHa…いや、ハルヒさんと…――この家で、い、いきなり…同棲開始、みたいな…こと、なんですか……」
と俺に確かめてくるハヅキは内心『また唐突な…』とかなり困惑している。
――『今日いきなりいろいろな真実を打ち明けられて、僕は神、みんなも神、僕の醜形恐怖症は呪われているせいで、十年ガチ恋してきた推しとは結婚するべき運命、そして僕が〝神の記憶〟を取り戻さないと向こう百年春は来ず、僕もハルヒさんも死ぬ、…いやまあそこまではまだしも、…いやそれらだって決してま だ し も なんかで済ましてはならないが、――しかし何でまた今日の今日にいきなり引っ越しまで…、しかも僕は事前に何も聞かされてないんだが、こんなのまさに寝耳に水だ、…せめて引っ越しの件くらい、僕に前々から教えておいてくれたってよかったんじゃ……?』
ただハヅキはちょっとだけ勘違いしている。
あ…でも俺がいけないのか。さっきすこし言い方を間違えちゃったのは俺だ。
「ううん。厳密に言うとぉ…この部屋は俺とハヅキの寝室だけど…――今日からこの新居に、じいじたちとパパとママと、それから俺たち…――家族みんなで住むんだよ…」
「……はあ…、まあ別にそれは構わないんですが……」
とハヅキはやや不服そうだ。
ただ事実彼は今日から家族みんなでこの新居に住む、ということに関しては何とも思っていない。
思い出す前の俺もそうだった――小さな頃からママとフツじいはちょくちょく家に来ては、俺のことを我が子として可愛がってくれた――が、ハヅキもまた、もともと小さな頃から自分を可愛がってくれていたパパやタケじいのことを、ほとんど事実上の父親、祖父というように感じていたため、今までママとフツじいとだけ暮らしていたとはいえど、これからは加えてパパやタケじいとも一緒に暮らすという運びには、ちっとも不安を感じてはいないようだ。
ただ、ハヅキは表情をくもらせて俺を見上げ、
「ただその…いやまあわかりますよ、他の〝真実〟に関しては、今日にならないと僕に言えなかったのかなというのはまあ、…まあそれに関しては何となく…――でも、引っ越しのことくらいは事前に……」
と彼はこのぶっつけな引っ越しに、やはり不満があるようだった。
「…あー…ごめんね……」
俺はちょっとしゅんとしながらひとまずはハヅキの上から退き、彼の隣、まっ白なベッドの上にあぐらをかいて座った。――そしてうなだれる。
「それ、実は俺の提案だったんだ…。サプライズにしたら、君がびっくりするくらい喜んでくれるかなーって…――でも…見て…? この部屋、すごく素敵じゃない…?」
俺がほほ笑みかけた左隣、ハヅキも上半身を起こして膝を立てて座り、俺にうながされるまま――あちこちをその綺麗な白い瞳で眺めまわしている。
「……、あぁ、はい、それは…――はは、確かに…、すごく素敵な部屋ですね…。何だかお洒落 な旅館の一室みたいで……」
どこか夢見がちにほほ笑みながらこの部屋の内装を眺めているハヅキは――『サプライズか…、推しからの無邪気なサプライズ……いや、ならもう怒れないな…。ましてや事実この部屋はすごく素敵だ…――すると今日から僕は、この高級旅館の一間のような綺麗な寝室で毎晩眠れる、と……そう思ったら確かにワクワク感が込み上げてくる……』とあらためて喜んでくれているし、どうやら俺のことも許してくれたみたいだ。
……何なら「元」推し…というのも、ハヅキは思いなおしてくれたのか、今は俺のことを過去の人にすることもやめてくれたらしい。
そうともなれば、すごく順調だ。
これならきっとハヅキも、すぐさま喜んで婚姻届にサインしてくれるに違いない。
『ん…?』――ただハヅキはふとあることに気がつく。
「……、…」
ハヅキの白い瞳が思考のために真上へ向く。
――『寝室…今日から僕は、こんなにおしゃれな和室で毎日眠れる…、それは単純に嬉しいが、…今さっきハルヒさん、…俺 た ち の 寝 室 って言ったか…? いや聞き間違い…』
「うん。今日から此処が俺たち夫夫の寝室だよ…?」
「……ぁ゛…、えぇ…あ、……」
ハヅキは苦い顔を俺からそむけ、固まっている。ただ彼の耳たぶは赤い。
――ハヅキは衝撃を受けたらしかった。
でも俺たち、今すぐ夫夫になるんだから当然じゃない? 高天原でも俺たちの寝室はおなじだったし、そもそも夫夫なのに別の寝室で眠る理由なんかある?
あ、そうだった。
――俺は右の手首を曲げ、手のひらを上に向けた。
そしてぽふっと白い靄 をちいさく爆発させながら、特別な婚姻届を出現させる。
「……、…、…」
そのあいだにもハヅキは、黒いスーツのジャケットを脱いで、自分の中の動揺を少しでも落ちつかせよう――あるいはその動作で少しでもごまかそう――としている。
……俺は、うつむいて今しがた脱いだジャケットを丁寧に畳んでいるハヅキの、その黒いスラックスの両ももにポンと婚姻届――それはA4よりひと回り大きいサイズのクリップボード(上部のクリップに紙をはさめる板状の文房具)に挟まれている――を置いた。
「ねぇハヅキ…、もちろんこれ…書いてくれるよね…?」
俺はそう尋ねながら顎を引いてハヅキを上目遣いに見る。――俺は、もちろんハヅキが迷いなくこの婚姻届にサインしてくれると確信していた。ただやっぱりどうかな、書いてくれるかな、という不安な緊張感にドキドキしている。
……ちなみにこの婚姻届は人間の子たちが用いる通常のものではない。いや、一見は役所からもらえるそれそのものにしか見えないが、この婚姻届には偉大なる最初の運命られた夫婦神・伊弉諾 の大お父様と、伊 弉 冉 の大お母様の神聖な縁結びのご加護がかけられているのだ。
そしてもちろんこの婚姻届の氏名欄には、俺の角のない丸文字で『夫になる人:祁春 春日 』とすでに書き込んでおいたし、なんならハヅキが今から書き込むべき氏名欄の他はもうすべて埋まっている――ちなみに俺たちの実母・実父は「不明」ということになっているので、お互いの父母の欄は、俺のほうは母が空欄、ハヅキのほうは父が空欄となっている(不明の場合はこれでも受け付けてもらえる)――。
……俺は高級感のある黒いボールペンを、そっとハヅキに差し出し――そして、呆然と自分の腿 の上にある婚姻届を見下ろしているハヅキの、その真っ白な横顔にむけて、ドキドキしながらこう慎重に言った。
「…貴方はとても美しくて…とっても賢く、とっても心優しい…、この世で一番素敵な男性です…――改めて、天春 春月 さん…――俺と、結婚してください…。」
しかし…――ハヅキのその生白い横顔に、憂鬱な翳 りが差す。
「……、…、…」
ハヅキは『何というか…』と心の中で独りごちる。
――『僕はこの用意周到さにいっそかすかながらも恐怖さえ覚えている。
もちろん心のどこかじゃ「ガチ恋してる推しと結婚できるとか運使い果たしたな」というほどの歓喜がインド映画ばりに踊り狂ってはいるが、…もはや結婚詐欺とか何とかを疑うくらい、それくらい信じられない、もはやとんとん拍子とかそうした次元の話でさえない。
……交際0日婚もこれからこの新居とやらで早速今日から結婚生活開始、なんだろ、…猛スピード電撃結婚すぎる。――よくこうしたとき目まいがするとか夢見心地になるとかいうが、…僕の場合目まいはしない。寝起きのわりに、かえって冷めた気持ちというほど、冷や水を頭からぶっかけられたのではというほど目やら頭やらが冴えてはいる。
要は心のどこかじゃ舞い上がってはいつつも、しかし今の僕の意識のほとんどはかなり冷静だということだ。
ただ、たしかに現実味というのはない。
――信じられん……それに尽きる。
つい今日の昼ごろまですっかり熱をあげていたガチ恋相手の推しChiHaRuさんと結婚、…彼の生配信中の『結婚はするかも〜近々〜』というのに世界の終わりほど落ち込みめそめそ泣いていた僕が、…その僕こそが推しの結婚相手、…』
「……、…、…」
――『ただ…さっきはあんなに、なかば諦めというか、受け入れるしかないのだろうな…――なんて腹が決まっていたわり、…』
「……? ハヅキ…?」
「………ぁ、すみません、…」
俺の不安な呼びかけにハッとしたハヅキが、俺の差し出している黒いボールペンを受け取り、カチリと金のフックをノックしてからその左手ににぎる。
あともうちょっとでハヅキは俺だけのもの……俺は人差し指の先で、この婚姻届の唯一の空欄――ハヅキが名前を書くべき氏名欄――をたたく。
「ここに名前…書いて…?」
「……、はい…、……」
そしてハヅキはその震えているペン先を、まずは『氏(名字)』の欄にかざした。
「……、…」
しかし――ふるふると震え迷っているそのペン先は、いつまでたっても白い紙に着地しない。
ハヅキの茫然 とした横顔はみるみる青ざめてゆく。
「……、…、…」
ややあって、ハヅキはつらそうにぎゅっと目をつむった。
「ごめんなさい、…やっぱり僕、…貴方とは結婚出来ない…――。」
ともだちにシェアしよう!

