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            「いや、…僕はもう誰も恨んでなんかいません、…誰のことも、決して……」    うつむいたまま笑おう笑おうと努力はしているのだが、ぽたぽたと次々涙が落ちてゆく――僕はこうして誰かに自分の傷を明らかにするとき、今はもう何としてでも笑いたかった。  もう過去のことを気にしてなんかいない。僕はもう幸せに生きている。僕はもうあのときより強くなったのだと、誰かに誇示したい気持ちがあるのだ。    もちろん以前はとても笑えやしなかった。  だが、僕はもう小学生ではないどころか、あれからもう二十年以上も経っている。――『いつまで過去(そこ)にいんの?』    全くハルヒさんの言うとおりだ。    いつまで過去に(とら)われているつもりだ?  いつまで――被害者でいるつもりだ? 〝『だからね。あなたがいじめられてるって考えるから、そう感じるの。――天春(アマカス)さんが、みんなとのコミュニケーションが下手なのも悪いのよ。――ねえ天春(アマカス)さん、社会に出たらこんなことばっかりよ。今は先生たちがいるけど、社会に出たら誰も助けてなんかくれないのよ? 自分で何とかしなきゃいけないの。全部。ね。だから、今の内にどんな人とも上手に付き合えるようになっておかないと。』〟    誰かのせいだ誰かのせいだ、誰かのせいで僕は不幸なんだ、だから僕を特別愛して、可哀想な僕を特別扱いして、…僕はそんな人にはなりたくない。    すべては自分の選択でできている。  誰かも悪かった。だが、僕もきっと悪い選択をした。間違えることはある。誰にでも間違いはある。    だから、もうゆるさなければならない。  僕をいじめた彼らを、僕はもうゆるさなければならない。彼らだって子どもだった。僕だってきっと何かを間違えてしまった。ともすれば、僕がもう覚えてもいない――かつ当時の僕が自覚してもいない――ことで、何か彼らのことを傷つけてしまったから、僕はいじめられてしまったのかもしれない。    いずれにしても、自分の人生における責任は自分で取るしかない。  自分が負った傷の責任はもとより――不登校、自分が「逃げる」という選択を取ったことへの責任――、もちろん誰かのせいで不幸になることはある。だが不幸になったとき、その不幸に甘んじたのも自分だ。――その自分の選択の責任は、僕以外の誰にも取れやしない。    やり方はあったはずだ。  もっと幸せになれる方法があったはずだ。  小学三年生のときに、僕は母と祖父に助けを求めなければならなかったらしい。  ――その選択を取らなかったのは、自分だ。    自分のことをもっと不幸にしたのは自分だ。  誰かに救われることでしか幸せになれない人は、結局のところ――本当の意味では幸せにはなれない。     「…気高い…立派だね」とハルヒさんが僕を横から抱きしめたまま、淡々という。   「でも…自分が負わされた傷の責任って、なに…?」   「……それは…、結局のところ、自分の傷は自分でしか癒せないから、そういう意味で……」  僕はうつむいてそう答えた。  傷つけた人は、傷つけられた人の傷を癒やすことはしない。もう傷つけた人のことを見てすらいないのだ。…傷つけて終わりだ。傷つけた人にとってはそれすら何気ない過去の一幕でしかないからである。   「ほんと…?」    ハルヒさんがのんびりと僕の耳元でそう尋ねる。   「…じゃあなんで世の中には損害賠償があるの。なんで〝ごめんなさい〟って言葉があるの…――ハヅキ、ちゃんと〝ごめんなさい〟された…?」   「……、…」    言葉を失った僕の唇は、開かれたまま震えている。――いいや…、ただ、僕がその機会を拒んでいたようなものでもあったから、…  ……ハルヒさんは僕の耳元、ちょっと怒ったようなかすれ声でこう言う。 「ううん、それこそ方法はいくらでもあるじゃん…、手紙でも、なんでも…――子どもだって〝ごめんなさい〟くらいできるし…いじめなんかしない子どもは、いっぱいいるよ。…子どもだからって赦していいわけじゃない。でしょ…?」 「……、…」  でも…もう過去のことで、今さら謝られることもないことで…――。 「…ね、じゃあなんで責めちゃいけないの…、謝りもしないで、自分がしたことの責任も取らず、今ものうのうと生きてる奴らのこと…――君はなんでもう赦そうとしてんの…? 君は今もこんなに苦しんでるのに……」 「……、…」  僕のことをぎゅっと抱きすくめるハルヒさんは、「それに…」と低いかすれ声でこう続ける。 「なんでハヅキは何も悪くないのに、そいつらの過失を自分の過失みたいに背負い込んでんの…? ――それハヅキの責任じゃなくて、そいつらの責任だから。…一生その責任を背負ってかなきゃいけないのは…――君じゃない。君を傷付けた奴ら。…そうでしょ…?」 「…そ…れは、…」  僕は前髪の下で目を伏せた。  ハルヒさんはこうはっきりとした調子で言う。   「あと…全部自分で何とかしてると思い込んでる奴ほど、ちゃんとした大人じゃないから。…誰かのことを助けられない奴ほど周りに助けられまくってて、甘やかされてて、しかもそれを当然としか思ってないどうしようもない奴らだから。――無人島で一人で生きてるわけじゃないんだから、社会なんてみんな持ちつ持たれつ助け合って何とか生きてるよ。」 「……、…」  ハルヒさんがめずらしくハキハキと話している、なんて頭の隅で少し意外に思う。 「馬鹿じゃない?」冷ややかな声でそう言ったハルヒさんは、 「その教師も、君の元クラスメイトも。…テメーのケツも満足に拭けない癖に、チッ…ババアもガキも偉っそうに……」 「……、…、…」  舌打ちまで…とても芸能人・ChiHaRuの彼では聞けない暴言に、僕は謎にドキドキしている。  ただハルヒさんは「ただね…?」と唐突にまたゆるふわな口調にもどる。   「たしかに自己治癒力はあるし…結局その傷を癒やすかどうかって選択は、その人がすることだけど…――たしかにたまに…その傷が愛おしくってたまらなくて、治したくないなーって…過去の地獄が幸せになって、誰かに頼ってばっかりのほうが居心地よくなっちゃう人もいなくはないけど…――でも…傷を癒やすのを、だれかに手伝ってもらったほうが早く治るのは…、そうじゃない…?」   「……それは…、……」    たしかに…そうかもしれない。  ――ハルヒさんは僕の頭をゆっくりと撫でながら、僕の耳もと、やさしい微笑を含ませた声でこう言う。   「ハヅキ、いっぱい無理しちゃったんだね…。一人で頑張りすぎて、抱え込みすぎて…真面目だから…全部、まるごと呑み込んじゃって…――そんな必要ないのに、自分に向けられたナイフを全部健気(けなげ)に呑み込んじゃって…――そのナイフでなかっかわがズタズタなのに、がんばって笑って…、幸せなろうってまたがんばって、全部一人で背負い込んで…」  ハルヒさんは「すごくつらかったね」とやさしい声で僕の耳にささやく。   「… でも二十年とか、どれだけ時間が経ったとか…そんなの、関係ないよ…――だって、体の傷じゃないんだもん…」    ハルヒさんが僕を横からぎゅうっと抱きしめながら、「大丈夫だよ…」とやわらかい包容の声で僕をゆるす。   「治すとか治したいとかって思ってるだけで、ハヅキはもう十分、過去の地獄から抜け出そうとはしてるから…――君はもう十分、自分で背負うべき責任、背負ってるから…、ハヅキはもう十分、誰にも、何にも甘えすぎてない…。不幸にも幸せにも…家族や、俺や…誰にも……ゆるそうゆるそうってがんばって、君ってほんとすごいね…――でも、俺は……」  ここでハルヒさんの声は低くふるえ、   「俺は、赦せないよ…、ハヅキを傷付けた人たちのこと…、今はちっとも、…全然…だめ……」    と怒っているような、悲しんでいるような調子で言う。 「…ねえ、赦せなくていいじゃん、――本当は〝ゆるす〟ってもっと気持ちいいことだよ…。〝ゆるす〟は傷を()ませる塩じゃなくて、今まで傷を守って癒やしてくれてたかさぶたが、ぽろって剥がれることだから…――綺麗になりかけの傷口を直視しても…その時の痛みはもう感じないけれど、そういえば痛かったなぁって、ただの感想が出てくるだけ…――痛かった記憶はあるけど、もう痛くはない状態…、それが本当に〝ゆるせた〟ってこと…」  ――「でも…」とつづけるその人の声は、すぐにまた鷹揚な調子を取り戻す。   「君がその人たちのことを赦したいなら…俺も一緒に、赦せるようにがんばるね。……俺と一緒に…がんばろ…?」   「……、…」    一緒に…――僕の胸の奥底にそっと降りたったそのやさしい言葉は、まるでやわらかい光を放ちながら天上からゆっくりと降りてきた慈悲深い神様のように、今の僕ばかりか、傷だらけの小さなハヅキをも抱きしめてくれたようだった。   「だからさ、もうひとり占めしないで…」    ハルヒさんの片手が、僕のワインレッドのネクタイの下にそっともぐり込み――僕の胸板には、その人の四本の指先があてがわれる。   「ずるいよ…、一人でなんでもかんでも何とかしようとして…。君はちょっとくらい誰かを頼ったほうがいいみたい…――ね、だからもう一回だけ〝助けて〟って言って…、俺は絶対ハヅキのことを助けてあげるから……俺に、頼って…――俺に、傷薬くらい…塗らせて…?」    そしてハルヒさんの四本の指先が、ワイシャツの下にひそむ僕のペンダントの勾玉の上らへん、僕の胸板をくるくるとやさしく撫でる。 「痛いの痛いの…君を傷付けた奴らのほうに、とんでっちゃえー……へへへ…」   「……、…」    彼のやさしい指先が塗りこめてくれる「傷薬」は、僕の胸の傷の痛みをぬくもりでやわらげてくれる。   「……、ふふ…――。」  この人と結婚したら…きっと僕は、すごく幸せになれる…――そうした確信が、しかし、確信というには不確かな、夢のような浮ついた(かすみ)のようにぼんやりと立ちあらわれて、…ふと明瞭にそれが晴れる。  その夢のような霞が晴れた先に明瞭にあらわれたのは、僕の目が直視する「現実」であった。 〝『キモ、早く死ねばいいのに』〟   〝『ねー、ブスすぎ。マジでキモいんだけど。』〟   〝『漫画にあったけど、〝醜い化け物〟ってお前のことじゃね?』〟  醜い化け物、――それがどうだ、?   〝『…っ違う、君は綺麗だよ、…俺、一目惚れしちゃったんだ、ほんとうに…』〟     「……っ、…、…、…」    僕は眉をひそめ、目をつむった。  ぽろ、と僕の濡れたまつ毛から涙がこぼれ落ちる。――信じられない、…信じられない、信じられない、――これ以上の幸せなんかあるか、?  ――これだけでいい……。  幸せだ。  これ以上幸せなことなどない。僕ははじめから、これだけのことでよかったんだから――、  いいや、それ以上の幸せはあった、    なんて幸せなんだ。  彼のこの「傷薬」を塗ってくれる指先は、何ものにも代えがたい神聖な幸せだ…――わかってる、だが、それも今だけでいい、  貴方には、いつも無邪気に笑っていてほしい――これ以上の幸せは、とても恐ろしくてやっぱり望めない。   「やっぱり僕――ハルヒさんとは結婚出来ません、…」   「……え…、……」    ハルヒさんは黙りこんだ。   「…ごめんなさい、…お気持ちはすごく嬉しいけど、でも僕、…」    叶うはずもないと思っていたのに、…綺麗だと、妄想していた以上に叶った、一目惚れをしてくれたと、…十年憧れてきたChiHaRuさんが、…――僕なんかに、こんなにやさしくしてくれて、…もうこれ以上の何をも望む気持ちは僕にない。本当に、本心からない。    僕はもうこれだけで十二分に、幸せだ――。     「…ハルヒさんが素晴らしい人だからこそ、…僕は貴方の幸せを望んでいるんです、…」    僕は涙をこらえ、震える口辺に微笑をうかべた。   「…確かに僕って家柄はすこぶるいいし、仕事でも成功している方だし、その側面で言ったら確かに全然貴方に相応しくない、…なんてことはない、――だが、僕が持っているものを全部持っている上で、更に容姿端麗な人だって、世の中には結構いるんですよ、…」    つーと、僕の頬に次の涙がつたう。   「ハルヒさんはこれから出逢うだろう、…貴方に相応しい人を、こんな結婚で台無しにしてしまっていいんですか、――これから貴方が掴めるだろう幸せを、…諦めてしまっていいんですか、…」    誰しもが望んでいるだろうChiHaRuさんの幸せ――幸せな結婚、理想的なパートナー、誰しもが祝福してくれる彼の幸せ…――しかし、彼の相手が僕ではそうはいかない。   「それに僕、…っ僕は大切な人たちを不幸にしたくありません、…ハルヒさんも、誰も…僕のせいで傷付けられてほしくないんです、…」    だから僕は――この年になるまで、できる限り家に引きこもってきた。  僕の大好きな家族がなんて言われるか、誰が見ても美しい母と祖父、…彼らの実の家族だというのに、僕だけは誰が見ても醜い化け物――カラーコンタクトで目の色は隠せても、この醜い顔の造りばかりはどうしたって隠せない。    黒い前髪越しに見やる誰もが、僕の顔を見て(わら)っているような気がする。  ……微笑したかのように細められた彼らの目の中に宿る嫌悪、嘲笑、(さげす)み、(あなど)り、――先んじて「すみませんブスで」と卑屈に笑う僕に、彼らは「とんでもない、カッコいいじゃないですか」とお世辞を言ってくれる。    僕はブスキャラでいい。そう思って笑ってきた。  もうすっかり自分の醜さを受け入れ、それをあたかも自分の持ち味にしているかのように、もう過去の傷に囚われておらず――もう被害者として生きてはおらず――、かえってその過去の傷を強みに、したたかにたくましく生きて、容姿以外の恵まれたもので、あるいはその容姿の醜さをも強味に変えて、そうして幸せになった人――引き立て役でも、誰かを笑わせることでも、…自分の持っているもので、誰かを幸せにできる人に、    僕はせめてそういう幸せな人になりたかった。  ――でも、もうブスキャラなんか通用しないだろう。  こんなに誰もが見惚れるほどに美しいハルヒさんと結婚してしまったら、…ブスとしておちゃらけても、僕はきっと世間の多くの人たちに「分不相応な不細工」と批判されるに違いない。    そしてそんな結婚を、僕を選んだハルヒさんも、きっと恥ずかしい思いをする――ともすれば、彼まで傷つけられてしまうかもしれない。  ひいては僕らの愛する家族まで、傷つけられてしまうかもしれない…――。    は、と僕はうつむいたまま、震えている胸に息を継いだ。   「…でも…、…嬉しかったなぁ…――っ」    こわばった僕の口角がさがりそうになるのを、僕は無理やり引き上げる。   「…夢だったんです、…貴方に、…〝綺麗だ〟って言ってもらえること、――諦めてた、どうせこんな不細工じゃ無理だって、…諦めてたんです、――でも…、…っありがとうございました、…お世辞でも…本当に嬉しかった…、……っん、…」  僕は突然自分の首筋に押しつけられたハルヒさんの唇に、ビクッと上半身を跳ねさせた。   「っは…、…ぁ、あの、…ぁ……」    ハルヒさんの唇が僕の首筋を食み、そのさなかにも彼の片手は、荒々しく僕のネクタイの結び目をほどいてゆく。――ぞくぞくと僕の首筋は粟立ち、僕の体は途端におとなしくじっとする。  ……チク、とした小さい範囲の痛みを首筋に感じ、…僕は黒い前髪の裏で目を見開いて茫然とする。 「…俺、もうこれ以上我慢できないよ…」と僕の首筋に、低い彼の声がふれる。   「……、我慢、って……」  そう聞いている間にも、僕のネクタイはしゅる…とワイシャツの襟から抜きとられる。   「君が欲しいの…、ずっと欲しくて欲しくてたまんないの…、今も…これでも我慢してる…すごく。」   「……、…、…」    僕の伏せられたまつ毛の下で瞳が小刻みに揺れているのが、視界の揺れでわかる。ぷつ、と僕の首もとのボタンが外される。ぷつ、ぷつ、と上からボタンが、ハルヒさんの指に外されてゆく。   「ほんとは君のこと、今すぐ襲っちゃいたい…――俺のせいでいっぱい感じている君は、どんなに綺麗だろ…。どんなに、幸せかな……こんなに綺麗なハヅキを抱けたら、俺…」   「……、…、…ぁ、――あの、…あはは、…」    冗談だろうと僕はあえて声を張って笑った。 「そういう質の悪い冗談はやめてくださいよ、…」   「……、そうおもう…?」    と鷹揚にいいながら、ハルヒさんがそっと僕の右手を低い位置のまま運んだ先――僕の指先にコツンと触れた硬質なものに、   「……っ、…」    僕は彼からさっと顔をそむけた。  ハルヒさんは少し怒ったようにこう言う。       「俺、一つも嘘なんか言ってないけど…――体はもっと、嘘なんかつけない…、ね…そうでしょ…?」          

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