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「……、…、…」
僕はさっと手をハルヒさんの股間から引いた。動揺のあまりうつむき、唇を少し開けて、しかし何もこたえられなかった。何を言うべきかわからなかったのである。
……実をいうと、僕はこの部屋が二人の寝室なのだ、とハルヒさんに告げられたとき、当然衝撃を受けたのだ、そして困惑したのだ、…自分が今日から毎晩ハルヒさんの――十年憧れてきた画面向こうの人の――隣で眠る、ということに。
しかし僕は一瞬でこのように処理して、それで平静を取りもどしたのだった。
大丈夫――といって何が起こるわけでもないのだから。と。
いや、言語化はしていなかったが。
これを今にもう少し深堀りすればこうである。
これから毎晩、僕はハルヒさんの隣で眠る。
……しかしいうなればたったそれだけのこと、視点を変えれば、つまりこれはた だ そ れ だ け の こ と である。
このベッドはかなり広々としていてもあくまで一台だが、といって幸い枕もふたつ、かけ布団も二枚用意されている。――すると僕と彼とが隣り合って眠ったとしても、僕のほうが遠慮がちに端のほうへ身を寄せて眠ることも可能で、そうすれば二人のあいだにはおよそ五十センチ以上の距離が生まれる。
そもそも彼と枕をならべて眠ったところで、僕が緊 張 す る べ き こ と などきっと何も起こらない。
そりゃあこれまで僕は(幼少期以外)一人で眠ってきたので、そういった意味では、この唐突な環境の変化のせいで不眠症ともなりかねないリスクはあるが――そういった意味ではさすがに多少なり緊張はすることだろうが――といってこれは今日から毎晩、ただ僕とハルヒさんという同性同士が隣り合って眠る、ただそれだけのことだ。それは人間的な感覚での兄弟のように、家族のように、あるいは友人同士のように。
ただただ、それだけのことだ。
毎日のように、僕が欲しい。
――きっと店でのハルヒさんのあの発言は、「統合」の必要性による義務感からのものだったに違いない。
どうして僕なんかに彼が興奮してくれるだろう。
どうして僕なんかの体に彼が喜んでくれるだろう。
もちろん僕たちはセックスをもって「統合」を目指さなければならない。――いずれにしても僕と彼はその行為をすることにはなるだろうが、…といって母も「毎日する必要なんかない」と言っていた。
するとハルヒさんのあれはある種のリップサービスというか、「統合」を志 すゆえの意気込み、その意思表示に近いちょっとした甘言 というか、…とにかくあれはきっと彼の本心なんかではないと、僕はそう卑屈に疑っていたのだ。――まさか義務だというのに毎晩毎晩なんて、一週間に一度、いや一ヶ月に一度か、…
僕を、僕なんかの体を、そうそう誰かが欲するはずがない。
ハルヒさんが進んで僕を抱きたい、だなんて思うはずがない…――彼のあまやかな欲情を期待して、毎晩がっかりするのは嫌だ。
今日も触れてくれない…今日も触れてくれない…今日も触れてくれない……そんな惨 めな夜を重ねて毎日のように落ち込むくらいなら、はじめから期待なんかするべきではない。
そもそも、あくまでそれが起こりうる夜は「義務」の温度に冷え切っているものに違いない。
僕はそう悲観的に決めつけていた。――ただ義務は義務として、各々が務めを果たさなければならない。…だからAVを視聴しながらとかあまり僕を見ないようにしてもらうとか、…なんて解決策を少し考えていたくらいだった。
〝『誰もお前のことなんか好きにならないんだから。みんな天春 のこと嫌いだって言ってるよ?』〟――もう囚われたくもない過去の記憶、その傷が、いつもこうして僕を卑屈に戒 めるのだった。
僕が、…こんな不細工な僕なんかが、誰かに――恋愛的な意味で、愛されるはずが、ない……。
「…あの……ど…どうして…こ、興奮……」
過去の記憶に首を絞められ、うまく言うことができなかった僕のこれは、しかし今にも消え失せかねない儚い期待のような疑問だった。――僕の胸の中いっぱいに、ガタガタと怯えおののく不安が満ちてゆく。
「どうしてって…? ねぇハヅキ……」
「……っ、…」
僕はビクッと肩を跳ねさせる。
ハルヒさんの片手が、開かれた僕のワイシャツの胸もとにそっと忍びこんできたのだ。――鳥肌が立った、…ただこれは感じたわけではなく、ほとんど僕が怯えた末の反応だった。
我ながら何に怯えているのか、それは彼の口から期待はずれな――しかし誰よりも自分が当然としか思っていないような――言葉を聞き、その侮蔑 の反応をされるのが怖いのか、…それか…ハルヒさんの言うとおり、僕は彼との幸せを諦められなくなることを恐れているのかもしれない。
だがハルヒさんは僕の耳にしっとりとした、しかし希 うような切ない声でこう囁いてくる。
「……お願い…、自覚して…? 俺、怖くなっちゃうから……」
「……へ…、……」
何が…どういう、…怖くなる…?
――僕は自分の耳を愛撫 するその人のささやき声にぽうっと妙な、すこしの恍惚 状態に陥っていたせいで、…「ん、♡」と思わぬかすかな声をもらしてしまった。…彼の指先が、僕の片方の乳首の先をくりくりとかすめるようにもてあそびはじめたからだ。
……今はそういう、感じじゃないのに、…恥ずかしくなって唇をうち側に巻きこむ。
「……えぇ…? ほんと怖い…どうしよ…――ねぇハヅキ…、今さぁ…――実は結構〝そういう感じ〟だよ……?」
「……、……?」
そ……なの…、…どうも頭がぼうっとして、僕はもう今の雰囲気を察する能力すらにぶっているのかもしれない。――ふふ…とハルヒさんが僕の耳にあまやかな含み笑いを吹きかける。
「かわいいー…、…ね、お願い…――ハヅキは顔もすごく綺麗だし…体も美しくって、すごく色っぽいんだよ…? しかもこんなに隙だらけでかわいいし…――お願いだから、それ自覚してね…。じゃないと…」
「……、……」
じゃないと…――僕は重たいまぶたを閉ざした。
このまま……構わない、と思っている。構わないと。…僕の体がそう思っている。もはや座っているのさえ億劫なほど、僕の体はおとなしく彼にすべてをゆだねようとしている。
ハルヒさんは僕の耳もと、やさしく僕をさとすようにこう囁いてくる。
「……他の奴にも襲われちゃうよ…。…ハヅキも嫌でしょ…? 好きでもない俺以外のやつに、いやらしいことされるの…――ましてやハヅキ、きっと初めてなんだろうし……」
「……、…」
彼のその言葉にはたと、僕の頭の芯に冴えた「何か」が生じた。
しかし「でも…」とハルヒさんは、僕の胸もとからそっと手を抜きとる。
「えへへ…ごめんごめん…、でもまだえっちはできないから…、正直ちょっとヤバかったけど、今……でもほんとだいじょぶ、俺まだちゃんと理性はあるよ…?」
そう退陣の姿勢でありながら、何か褒められたそうに無邪気に笑ったハルヒさんに、…僕は先ほどの「何か」――その決意をより固くする。
「初めて…とかもあるし、とにかくちゃんとしなきゃだから…――あのねハヅキ…ごめん…、理由がそれだから結婚してほしいみたいに思われたくなくて、俺言えてなかったんだけど…、実は俺たち、あの結婚しな…」
「っあ、あの、…どっどうぞ、…」
きゅっと目をつむった僕の頬が燃えるように熱くなる。
「え?」
「っ好きにしてください、…ぼ、僕の、こと、…」
僕は勇気をもって言い出したさなか、――この混乱のさなかにも、ハルヒさんの言いたかったことはちゃんとわかっているつもりだ。
ちゃんとしなきゃ……僕の初体験をおもんばかってはなお、結婚したのちでなきゃセックスはしたくない。つまり彼は僕とセックスがしたいから結婚を望んでいる、と僕に薄情に思われたくなかったのだろう。
もちろん好きな人のその誠実性には胸を打たれたが、…しかしその貞淑 な倫理観というものさえ排すれば、――そもそもその行為には、関係性という束縛はあってないようなものだ、…出会ってすぐでもお互いの合意さえあれば何も問題はない。
「別に、結婚やらお付き合いやらなんかしなくても、で、出来るでしょう、――せ…セックスは、…別に……」
……そ、そもそも「初めて」というわけでもないんだから、
「…え゛っ」
「……、ぼ、僕、初めてじゃ…ありませんよ…?」
すっかり思考を読まれることに慣れている僕はうつむいたまま、意外に思ったらしいハルヒさんにそうした事実を告げる。
たしかに恋愛経験はないが、僕は遊びのワンナイトなら幾度となく経験してきた。――BL漫画、ことしばしばエロシーンを望まれるそのジャンルの漫画を描くにおいて「必要な経験」は、…そう…僕は何度も自ら進んで経験してきたのだ。
経験なくしては創作物に求められるリアリティも生まれない。――何なら僕はこれでも全身「開発済み」だ。もちろんあらゆる人にたくさん抱かれてきたし、その中には僕のことを「開発」してくれた人もいたくらいだ。
「……ぇ、…え…? ほ…ほんと、それ、…」
とハルヒさんは少しショックを受けたようだったが、僕はうつむいたままコクコクとうなずく。
「はい、だからどうぞ、――僕は個人的に、そういう割り切った関係性なんか別に何とも思ってませんから、…だって慣れてますし、…セフレだってい、いっぱいいますし、――ですからその、…ど、どうぞ…? あの…お、お好きにどうぞ、…というか……」
と僕はうつむいたままごにょごにょと言いながら、震えている右手をハルヒさんの股間にのばす。
そして、そのスラックスの硬い生地越しのふくらみを指先でそっとなぞり、それから手のひらでそっと包みこむ。
「……、…、…」
ドキドキと胸が高鳴る。
生地越しにもわかるハルヒさんの硬い熱情の触感は、僕の頭に低音のしびれのように響き、また僕の頭のなかをぽうっとさせる。
――すると自分の股間にも脈動をかんじはじめ、それの連打は僕の胸をも窮屈に締めつける。
僕はハルヒさんから顔をそむけ、
「……慣れている僕が、…リードしますね…? ハルヒさんは何もしなくて構いませんから……」
そう言いながら、すり…すりと、その熱い硬さをつつむ手のひらを小きざみに行き来させる。
「……は…ぁ…」――ハルヒさんが色っぽい吐息をふくんだ声をもらす。
しかし彼は「はは…」と嬉しそうに笑うと、僕の手をそっと持ち上げ、
「…だめ…、なんでそんなことするの…?」
と甘い声で言いながら、持ち上げた僕の手の指先にちゅ…とキスをしてくる。ひく、とその指がわずか動き、ぞくりと僕の手の甲の神経が甘く静かにうごめく。
「ね…話、戻すけど……俺さ、ちょっと君に聞きたいことがあんの…」
「……は、はい…」
僕の指先に彼の熱いしっとりとした唇のうごきが、まるで愛撫のように伝わってくるせいで、僕は動揺しながらも『なんでしょう』と簡単にその先をうながす。
……するとハルヒさんはいつもののんびりとした掠 れ声で、
「――ハヅキの…幸せは…?」
と、僕に質問してくる。
「……、…」
黒い前髪の下、僕はハッと目を見開いた。
――彼のその質問は何か冴えたものだった。
「君はさっきさぁ…これから俺が掴めるかもな幸せを、諦めていいのって言ってくれたけれど…――それ、俺に言うこと…? ――違うでしょ…」
ハルヒさんは僕の手を両手でやさしく包み込み、そして切ない声色でこう言った。
「自分の幸せを諦めてんのは…――ハヅキだよ…」
「……、…、…」
僕は見開いたまぶたの中、自分の長い前髪の裏に閉じこもったうす暗い世界が揺らいでいるのを感じている。僕のこの動揺は、彼の指摘に、一言の反論さえできないほど痛烈に図星をつかれたせいだった。
「俺は君と違って…自分の幸せ、諦めてないよ。」
と、ハルヒさんはここでまたはっきりとした調子で話しはじめる。
「君とか、俺のファンとか、世間の誰かとか…他人が決め付けてくる〝俺の幸せ〟に、…俺はこうやって今もめっちゃ抗ってる。――ほんとうに幸せを諦めてる人は、大好きな人の意見にまで抗うことなんかしない。…でしょ。」
そしてハルヒさんは、おもむろに僕の手を両手ではさみ込み、自分のあぐらをかいた内ももの上に置きながらこう語を継ぐ。
「でも、一方の君は自分の幸せを諦めてる。…だから抗う気が起こらない…――ずっと思ってたんだけど――ハヅキ、周りがどうとか、周りがどう思うかとか、それを基準にして俺と〝結婚しない〟って言ってる。…全然自分を基準にしてない。一番大事な、自分が幸せになれるかどうかって基準でそれ決めてないじゃん。」
「……、…」
それは…たしかに、そうだった。
――僕は自分の不甲斐なさに目を伏せる。
幸せになろう、これからは幸せに生きようと誓ってここまで生きてきたつもりだった。…だが、僕はハルヒさんと結婚すればきっと幸せになれるとわかっていても…――世間の目が怖くて、誰かの思いや、その誰かの言葉が僕やハルヒさんや家族を傷つけることが怖くて、…そうなれば愛する人たちが不幸になると、…それがたまらなく怖くて、…
「ありがと。…きっと優しいハヅキにとっては、愛する誰かの不幸が、自分の不幸でもあるんだよね。…もちろん俺たちのことをめっちゃ考えて、気ぃつかって言ってくれてたことはわかってるよ…」
ハルヒさんはそう僕の恐怖をやわらかく受けとめ、しかし明るい声で「でも」とこう言う。
「俺のこれから掴めるかもな幸せは――ハヅキと結婚して、これからハヅキと幸せな結婚生活を楽しめるかもなこと。だから」
そう言うハルヒさんの声は明るく、暗い未来などちっとも想像していないような穏やかさがある。
「俺、俺の幸せを泣いちゃうほど真剣に考えてくれてる君と結婚したい。――そんな君と結婚できたら俺絶対幸せになれる。そう確信してんの。」
彼は照れくさそうに「はは…」と笑う。
「…だから君がなんて言おうが、俺のファンや世間の人がなんて言おうが、俺は絶対諦めないよ。…俺、絶対、自分の幸せを諦めない。――俺は絶対ハヅキと結婚する。」
明るくも頼もしい声でそう言い切ったハルヒさんだったが、次には少し冷たい固い調子にになる。
「てか…ファンの目から見て俺が不幸に見えたとしても、俺がファンにとって理想的な人と結婚できなかったとしても、俺が幸せならそれは不幸じゃないでしょ。…俺の幸せに関しては、悪いけど、愛するファンにだってとやかく言われる筋合いなんかないから…――そもそもその何万人の理想を叶えちゃったら、俺、その何万通りの理想的な人と結婚しなきゃいけなくなっちゃうじゃん。はは…」
「……、…」
確かに、そうか。
――ハルヒさんの冗談っぽい笑いにつられて、うつむいているままの僕の口角がちょっと上がる。
「しょうがないんだけど、俺職業柄、何万通りに不幸も幸福も勝手に決めつけられてるんだよね。…でもそんなのいちいち応えてらんないから。――正直、うるせぇんだよ…って……」
「……、…」
ドキッとした。
いつものんびりとしているハルヒさんの口から、煩 わしそうな声で「うるせぇんだよ」なんてセリフを聞いてしまった僕は、…するとなぜか彼に奇妙な頼もしさを少し感じた。
……そしてハルヒさんは切り替えるよう、また明るい声でこう言う。
「…とか…思っちゃうこともあるけど、…でも好きに言わせておけばいいんだよ、どうせみんな一週間くらいで忘れちゃうんだから。――だって自分事じゃないんだもん。…その人たちにだって目の前に自分の生活とか、自分の幸せがあるんだから、所詮全部他人事。…でしょ。」
「……、…」
それは…しかしどうだろう、と僕は目を伏せたまま考える。
僕のようにハルヒさんにガチ恋しているファンたちのなかには、本気で彼と結ばれようと努力している人たちもいる。――するとその人たちにとっては、彼の結婚するしないは「自分事」なのである。
一週間で忘れられるはずがない。彼と結ばれるという目標のため、自分の人生をも変えてきたその人たちにとっては…――少なくともその人たちにとっては、この結婚は不幸なものに違いない。
「…ハヅキ、優しいけどさ…――そんなこと言ってらんないよ…。さすがに俺も人生とかってなると可哀想だとは思うんだけど…それ気にしてたらキリないし…、てか何万人の言うことを聞いてたら俺、ほんと何もできなくなっちゃうから……」
「……すみません…、そう、ですよね……」
……といって、そう…だからといって、ハルヒさんがその人たち全員の理想を叶える――その人たち全員と結婚する――ことは不可能なのだ。
「そそ…これは俺たち二人にとっての自分事。ある程度はもうほんと割り切らなきゃ。…だから、他の誰かの不幸じゃなくて、俺とハヅキの幸せとか、気持ちとかを基準にして決めなきゃだめ。…ね」
「……、すみません……」
僕の人生…――いや、いわく僕は神らしいので、これを人生といっていいのかはわからないが――しかし僕のこれからの幸せ、その幸せを得るも得ないもの選択権は、僕という自分を基準にして決めなければならないのは全くその通りでしかない。
少し子どもっぽい年下の青年と僕が見ていたハルヒさんのその指摘は、思いがけず鋭いものであった。
ただ、僕はこの折に自分の気持ちに素直になった結果、愛する人たちが不幸になることはやはり望んでいない。
それは嘘偽りのない僕の本当の気持ちであり、…すると「正解」がどれなのか――先ほどは「結婚しない」という選択こそ「正解」だと思っていたが、…今はもうどちらともわからない。
「ハヅキは頭いいね」――ハルヒさんが単純な、まるで子どもが何かを褒めたときのようなあどけない調子でいう。しかし彼はちょっと笑って、
「…たしかにリスクを想定するの、大事。…でもちょっと考えすぎ…。はは…なんとかなるよ、全部……てか多分、君が考えてるほど悪いことにはなんないと思う。――それにさ、予想は予想であって…わかんないじゃん…?」
「……?」
僕は右隣のハルヒさんに顔を向けた。
といって長い黒髪ごしでは、そう彼の顔がよく見えるわけではない。ただ、なんとなしその人の笑っている珊瑚色の唇が、その上下の唇からのぞく端整な白い歯が、こうして迷いなく動くのが見えている。
「ハヅキのこと、案外俺のファンたちも俺に相応しい理想的な夫だって、そう憧れてくれるかも。――てか俺、むしろファンにも世間の人たちにも妬 まれると思う。…あは…だって俺、こんなに中身も最高、外見も最高な天春 春月 と結婚できるんだもん。」
「……、…」
それは…どうだろう。
僕は目を伏せながらまたうつむいた。
「ねぇ…」ハルヒさんの声にやさしい柔らかさが戻ってくる。
「でも、ちゃんとわかってるよ…ハヅキは怖いんだよね…? 俺や家族が不幸になること…、自分がまた傷つけられちゃうこと…、だから、それくらいなら自分が我慢しよう、諦めようって…――そう思えちゃうんでしょう…」
「……、…」
彼が何も億せず、僕の黒髪に覆われた横顔をじっと見つめているような気配がある。
「思うんだけど…ハヅキ、ちょっと誕生日の影響受けすぎかも…。…五月五日…それはハヅキの誕生日であって、ウワハルの誕生日じゃないから…――きっとウエなら、もっとはっきり自分の基準を大切にするんだろうけど……」
ハルヒさんは少し悲しそうな静かな声でこう続ける。
「ご厚意のあれだけど、数秘の9ってもちろん陰のエネルギーだけじゃなくて……なんていうか、人をハヅキみたいに責任感強くて、周りのことめっちゃ見てて…博愛主義者だし、優しいし、すごい頭もいいし…良い意味でめっちゃ大人…――だけど周りのこと理解しすぎてさ、全部丸ごと受けとめて、何でも受けいれちゃって、自分の意思はどれ…? ってなりやすいし、…周りのために我慢しがちにさせちゃう、そういう人にするエネルギーでもあるから…」
ハルヒさんは「でも…」とやさしい声でこう言った。
「もう我慢しなくていいんだよ、ハヅキ」
「……、…」
僕は薄く唇を開け、息を呑んだ。
――ハルヒさんはその声にやわらかいほほ笑みを含ませて、
「ハヅキはめっちゃ綺麗だよ。…ね、もうこっちにおいでよ……」
「……、…、…」
僕の両目にはまた涙がのぼってくる。
彼のやさしい両手が、僕の頬をつつみ込み――導かれるようにその人のほうへ向いた僕の顔の、その顔を隠す長い前髪を彼はそっとかき分けて――ハルヒさんがやさしくほほ笑んでいる明るいひらけた世界に、僕を導く。
……彼の微笑しているタレ目の奥、やさしい光りを灯したそのオレンジ色の瞳が、僕の瞳に光を与える。
「綺麗だ、ハヅキ」
「……、…、…」
僕の視界が――僕の暗かった世界が――まぶしそうに揺らいでいる。…僕の暗闇に染まっていた胸の底が、彼のその瞳の一筋の陽光にやさしく照らされてゆく。
ハルヒさんは僕の前髪を、僕の耳にそれぞれかけてゆきながら、僕にふっと微笑みかける。
「君はこんなに綺麗なのに…ハヅキはきっと、自分がもう傷つきたくないから不細工でいようとしてる…――また傷つけられるのが怖いから…、だから美しい自分でいよう、美しい自分でいたいって思えないし…――きっと誰かの目が怖くて、また〝ブスのくせに〟って言われるのが怖くて…――だからハヅキは、自分が綺麗なこと、まだ認められないだけなんだよ」
「……、…」
僕の片目から、ほろ、と涙がこぼれ落ちる。
「でも、もう…やめよ…?」――ハルヒさんはその寂しそうな微笑をちょっと傾ける。
「〝僕は不細工だ〟って言うの、もうやめよ…。だって、俺にだって嫌味にしか聞こえない……ね」
「……、…」
僕はしゃくり上げてもいないが、彼の綺麗なほほ笑み見ている僕の片目からはまたほろ、と涙がこぼれ落ちた。ぽろ、…ぽろ、と涙が次々僕の両目からこぼれおち、僕の頬をすべって落ちてゆく。
するとハルヒさんは少し真顔になって、そのタレ目に鋭いほど真面目な赤色をうかべ、じっとその真紅の瞳で僕の目を見つめてくる。
「綺麗な涙…――今も儚げで、すっごい綺麗……」
「……、…」
そして彼の親指の腹は、やさしく僕の濡れた頬を撫でた。…そればかりか――彼はそっと目をつむり、…僕の頬の涙に口づけ、そうして涙をぬぐってくれる。
「ね…」――ハルヒさんは僕の額に、こつんと自分の額を合わせた。…伏せられている彼の銀の長いまつ毛がつ…と上がり、その人の真紅に翳った瞳が、かなりの至近距離で僕の目を真剣に見つめてくる。
「大丈夫…俺が毎日、ハヅキのその傷口に傷薬を塗ってあげる…――これからは俺が、絶対君を守ってあげるね。…君を傷付けようとする奴らから、俺は絶対君を守ってみせるよ。」
「……、…」
つー…と、僕の頬をまた涙がすべり落ちる。
僕はまず自分にこう尋ねた。
君は――自分の幸せを、諦めていいのか?
「……、…」
……僕はふる、とハルヒさんの両手のなかで小さく顔を横に振った。そして震えている唇をそっとひらく。
「…僕なんかで、…いいんですか…」
小さい声でそう確かめると、
「君がいいの…。俺は、ハヅキがいい…。」
とハルヒさんの両目がやわらかく微笑する。
そしてハルヒさんは、その真紅の両目にまっすぐの真剣な意志をまとわせた。
「…お願いします。天春 春月 さん…――俺と結婚…してください…」
「……っ、…」
僕はよりこみ上げてくる涙に眉をひそめ、…しかし涙に濡れたこの瞳は、彼のやさしい真紅の瞳 に合わせたまま、…
「……っはい、…貴方と結婚させてください、祁春 春日 さん、…」
また涙をこぼしながらも、そう答えた。
……するとパッとその両目を嬉しそうに明るませたハルヒさんは、「ほんとっ?」と途端にはしゃぐ子どものように目を丸くし、…しかしすぐ満面の笑みを浮かべると、僕にガバッと抱きついてくる。
「うわやった! やったあー! あはは、っありがとハヅキ!」
「……、…」
僕はちょっと驚いたが、…涙も引っ込んだが…まるで子どものように喜んでいるハルヒさんのその素直さに愛しさをおぼえ、そっと彼の背中を抱きよせた。
「……ふふ……」
「大好きだよハヅキぃ、えへへ…」
ハルヒさんが甘えて僕の耳に頬ずりしてくる。
「……はい…、僕も…貴方が大好きです、ハルヒさん…――。」
目を伏せながらも、自然と微笑がうかぶ。
僕は今とても幸せだった。
この幸せは、不思議と「推しと結婚できるから」というような夢見がちな、その奇跡を喜んでいるようなものではない。
少なくともハルヒさんに惚れなおしたのはそうだが、不思議とこれはただ単純に、好きな人と結婚できる――その幸せ、その穏やかな喜び、これから二人で歩めるその未来を愛する気持ち……奇跡への歓喜というよりは、幸福の兆しを予感する救われたような朗らかさ、…このえも言われぬあたたかい愛おしさは、十年の恋がみのったという実感より、目の前にあるこの幸福への実感だった。
「……よしっ、じゃあ早速。…」
パッと離れたハルヒさんが、キリッと意気込んだ笑顔を浮かべ――そして彼は脇に退けていた婚姻届を取ると、僕の両ももの上の黄色いクリップボードにそっと置く。
「お願いします。早くえっち…いや、…あはは…」
「…はは、…はい。……」
僕にはもう迷いなどなく、自分の脚のつけ根あたりにある黒いペンを取って、それの金のフックをカチリと押した。
そしてペンを握り、見下ろしたその白い婚姻届――唯一の空欄、まずはその「氏」の部分に、ペン先を置いた。そうして「天春 」と書こうとして、…
〝『早く死んだほうがいいよ天春 』〟
「……、…」
……ペンを握った左手が、ガタガタと震えはじめる。――違う…おかしい、…
書けない。――いや…書きたい。
僕はもうハルヒさんと結婚すると、そう決めている。本当だ、僕はもう大好きな彼との結婚を――自分の幸せを――諦めないと、そう決めた。
……そう…決めた、はずだった。
嘘じゃない、…僕は本当に、本当にハルヒさんと結婚したい、――。
「……は、…は、…」
僕の呼吸が恐怖から乱れ、ジーンと額の裏が緊張にしびれてゆく。
「…ハヅキ…? だいじょうぶ…?」
ハルヒさんが僕の隣で心配して声をかけてくれる。
「…す、すみませ、…」
「あ、あとにする…? いいよ、無理しなくて…」
「……っ、…、…」
僕は首を横に振った。いいえ、書けます、…そう言いたかったが、…また首を絞められている。
激しい動悸が起こり、唇は乾いて、さーっと血の気が引いてゆく。
――醜い化け物のお前のことなんか
「……、…、…」
ブス…――ちがう、
僕がただ一心に見下ろす空欄が、僕のガタガタと震えている左手のせいで、点々と黒いボールペンのインクに汚れてゆく。――まるで呪われているかのように、手が震えるばかりで硬くなり動かない、…
「…っは、……――っ」
誰も愛さない…――ブス、ブス、ブス、ブス、…
「……っちがう、…ぼく、…僕は……っ!」
愛されて…――〝『お前なんか死ねば?』〟
〝『そうだよ。誰もお前のことなんか好きにならないんだから。みんな天春 のこと嫌いだって言ってるよ?』〟
愛されない 愛されるはずがない
〝『お前の母親もお前なんか早く死ねと思ってんじゃね? だってお前人間じゃなくて、〝醜い化け物〟なんだからさぁ…――。』〟
人を不幸に 恥ずかしい存在 醜い化け物
お前 には 幸せになる権利など ない
――ブース、ブース、ブース――
「……っ、…っごめんなさ、………っ?」
目を閉ざしかけた僕は、しかしハッとして顔を上げた。チカッ…チカチカッとこの部屋の照明が激しく点滅している。
――この部屋の家具が、ガタ、カタカタ、と突然動揺した音を立てている。…地震、か…?
「……?」
「…ゆるさない…」
「……え、…」
部屋のこの異変もさることながら、僕はその低い不穏な声にも、さっと隣に振り返る。
「……、ハルヒ、さん…?」
「……ゆるさない…から、…」
僕のほうを向いていながら、うつろな顔でうつむいているハルヒさんの銀髪が――頭頂部の根本から、じわじわと黒く染まってゆく。
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