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「ゆるして…」
うなだれている僕はぎゅっと固く目をつぶったまま、祈るようにそうつぶやいた。――僕の眉は強ばり、力んだ上まぶたの裏からあふれた涙が、つーと僕の片頬を伝ってゆく。
……僕の左手は硬直したまま、しかし婚姻届の上でガタガタと迷うように揺らいでいる。硬いペンの軸が、僕の指先や中指の第一関節あたりにくい込んで痛い。固く握られた薬指と小指の爪が手のひらに刺さっている。痛い。
痛い――僕の左手は迷っているようだった。
だが僕にはもう迷いなどないのだ。本当だ。
僕はやっと光に照らされた正しい道を見出した。
――ハルヒさんと結婚する。これからはもう幸せを諦めない。…もう自分の幸せを諦めたくない。
しかし、我知らず迷っている僕がいた。
暗く湿った場所に閉じこもって目を伏せ、決して自分の望む幸せを見ず、活路である正しい道を見出せないでいる――見ないようにしている――僕がいる。
幸せな恋愛や結婚をひたすら諦めつづけてきた過去の僕が、まだ僕の中で小さく固くうずくまって、自分へむけた呪詛をぶつぶつとつぶやいている。
自分でさえも見るに耐えない不細工のくせに、誰に愛されるはずもない醜い化け物のくせに――こんなに醜い僕を、僕の容姿を愛してくれる人なんかいるわけがない――こうした僕の約二十年分の自己卑下は、やがて僕の知らぬ間にも自分自身へとむけた怨念となって、すると僕のその負の感情は僕のなかにあたかも「呪い」として、前へ進もうとする自分の足を取る泥濘 のように蓄積してしまっていたらしい。
恋や愛やの幸せなんか諦めろ。
――諦めたほうがよっぽど僕は幸せに生きてゆけるのだから。
「嫌だ、…もう諦めたくない、…」
十年想いつづけてきたから何だ?
芸能人のハルヒさんとの結婚なんか諦めろ。
お前 と彼とじゃ雲泥の差、まるでつり合わないのだから。
――かえって手の届かぬ人は手が届かないままのほうがいいのだ。それにこの結婚を諦めたほうが、愛する彼の幸せのためにもなるのだから。
「違う、…彼は、…彼は僕と結婚出来ることを、自分の幸せだと考えてくれているから、…」
――本当に?
僕は二十年以上もずっと自分の幸せが許せなかった。
僕なんかが彼に愛されるわけがない。僕なんかが彼に求められるわけがない。彼のことは諦めろ。諦めることこそ「正しい道」だ。――諦めてきた。
……諦めてきたくせに思いがけずハルヒさんに愛されている自分が許せない。諦めてきたくせに思いがけず彼に求められている自分が許せない。――夢にさえ見たこともないような彼との結婚、その幸せを掴もうとしている自分が許せない。
幸せになろうとしている自分が許せない。
自責、その不幸の泥濘から出よう、逃れようとしている自分が許せない。――自分が幸福を掴んだせいで誰かが不幸になってもいいというのか?
お前 は誰かが不幸になっても――自分が幸福なら、それでいいというのか?
「よくない、――だが僕は、…僕は、僕が幸せであることを喜んでくれる人たちのためにも、…幸せになりたいんだ、…」
もう学んだんじゃないのか。もう教訓を得たんじゃないのか。もう身の程を知ったんじゃないのか。
お前 は過去愛するその人たちを不幸にしてしまった。
その醜い顔でまた誰かを不幸にするくらいなら――その身に余る幸福を喜んで誰かに譲りわたし、これまで通り日陰に隠れて生きてゆけ。
「嫌だ、もうこの暗闇にはいたくない、…それに僕は、――僕はこの容姿で、誰のことも不幸になんかしていない、…」
僕はきっとまだ自分の顔を、まだありのまま愛することはできない。だが少なくとも僕のこの顔は、この容姿は、誰かを不幸にするものではない。
僕はこの顔で愛する家族を不幸になんかしていない。一度たりとも、たった一度たりともだ。
かえって僕のこの容姿は、確かにみんなに愛してもらえている――僕は不細工なんかじゃない。
自分の顔を美しいだなんてまだそこまでは思えない。でも僕のこの容姿は、僕は――僕にとっても家族にとっても、大切な、大切な宝物だ、…
家族は僕のことを「お花ちゃん」と呼んでくれる。「綺麗な綺麗なお花ちゃん」と、「可愛い可愛いお花ちゃん」と――彼らは僕のことを、僕のこの容姿を「美しい」と褒めて、認めてくれている。
――そんなの親の贔屓目 かお世辞かに決まっている。
なあ、どうして「君」は僕を嫌っていた人の言葉を真実として、どうして僕を心から愛してくれている人たちの言葉をお世辞、嘘だというのか。
僕が本当に信じるべきは、ずっと僕のそばにいてくれた――僕のことをよく知っている家族、友人、僕の愛するみんなの言葉なんじゃないのか。
僕は正しい選択をした。――もっとも正しい選択をしたのだ。
どんなに傷付けられても、どんなに辛 くとも、どんなに絶望していようとも――僕は生きた。
僕はこれまで隠れながらもこの顔で、それでも、自信がなくとも、それでもこの容姿で立派に生きてきた。
僕の家族は僕の「生」を泣くほど喜んでくれた。
彼らは僕と共に生き、これまで僕と数えきれないほどの幸せな時間を過ごしてくれた。――僕は、僕の死を望む人たちと生きてきたわけじゃない。
その不幸な時間は僕の人生のたった一幕のことだったろう。
僕は、僕の「生」と「幸せ」を心から望んでくれる人たちと生きてきた。…きっとこれからも、僕はその人たちと生きてゆくことだろう。
僕の幸せを心から願ってくれている彼らへの恩返し――彼らは望んでくれている。
この結婚、この結婚によって僕が幸せになること、僕たちが――これから共に幸せになることを、
彼らはきっと心から望んでくれている。
その望みをかなえること――間違いなく、僕が幸せになること、それが間違いなく、僕にできる彼らへの恩返しのうちの一つに含まれている。
――これは義務だ。ある種の義務だ。
「僕は愛する人たちのためにも、必ず幸せにならなければならない…――。」
お前 はその不幸の泥濘の中でもそれなりに幸せだったろう。――それなのに、どうしてお前 は身の程知らずにも、これ以上の幸せを得ようとしている?
「身の程知らずにこれ以上の幸せを求めたら不幸になる…――そんなのは〝君〟の悪い幻想だ…。…幸せになってもいいんだよ、もっと幸せになってもいいんだ…――だからどうか、どうか僕が幸せになることを、…どうか許して……」
――ゆるせない。
許せない、許せない、許せない…――不細工の癖に、ブスの癖に、醜い化け物の癖に、――許せない、許せない、許せない、――お前 には幸せになる権利などない!
僕がこんなに醜い化け物じゃなければ、僕はあんなに辛い思いはしなかった!
自分のこの不細工な顔が許せない!
許せない、許せない、許せない…――。
「…〝君〟は…――怖いだけだろ…」
もう傷付けられるのは嫌だ!
もう不幸になるのは嫌だ!
もう二度とあんな思いはしたくない――!
許せない…――許せない…――許したらいけない…――目立たなければ、隠れていれば、誰かに傷付けられることなんかないのに…――此処にいさえすれば、僕がもうあんなに不幸になることはないのに…――もう十分幸せなんだからそれでいいじゃないか、わざわざ傷付く選択をしなくったっていいじゃないか…――どうしてそんなリスクを取るの、どうして傷付けられる道を選ぶの、ここは牢屋じゃない、…ここは……。
どんなに暗かろうと、どんなに狭かろうと、どんなにお前 を縛っていようとも――、
此処は――君 を守るためのシェルターなんだよ、…
「…ありがとう、…でも、もう僕 た ち は此処から出なきゃ…――ね、一緒に行こう、…〝君〟も僕と一緒に、幸せになろう…――これからもっと幸せになる自分を許そう……」
お願いだから、お願いだ、お願い…――もう僕は、もう此処にはいたくないんだ……。
この狭くて真っ暗で何も見えない世界から、僕はもう出たいんだ――明るい世界で、腕を広げて待っていてくれる人がいる。…ほほ笑んで、僕が此処から出てくることをずっと待っていてくれている人たちがいる。
僕はやっとわかったんだ。
やっと見つけたんだ。僕の手をぐっと引いて、此処から出してくれる人を、…いや、これまでにも多くの人がそうしようとはしてくれていた――だが、僕は決してこの狭い場所の扉を開かなかった。
出してくれようとする――助けてくれようとする――誰かの手を、僕は拒みつづけてしまった。
その光り輝く手が見えたなり怯えて、僕はこの場所の扉を閉め切ってしまった。
僕はこの長い前髪を切ることはしなかった。
怖かったからだ、…明るい場所に晒された自分の顔を、誰かに見られることが――鮮明に自分の顔を自分の目で直視することが――自分の顔を、自分のことをありのまま受け容れることが――臆病者の僕はどうしても、どうしてもそれが恐ろしかったからだ。
もう随分前からこの場所の扉は開いていたというのに、僕は自分でこの暗い場所に留まることを選んでいた。…この真っ暗な世界に閉じこもることに甘んじていた、いや、というより望んでいた。――薄くひらかれた扉から射し込む一筋の光に憧れるだけで、光り輝く世界をそこからそっと覗くだけで満足していた。
でも、もう僕 は見ているだけじゃなくていい。
僕がただ卑屈になってそう捉えなかっただけで、本当は――本当はもう随分前から、みんながそろそろ明るい場所に出ておいでと、僕のことをいつでも歓迎できるようにと、みんなずっとこの扉の前で僕を待ってくれていた。
もう出て行かなきゃ。
――僕たちはもう此処にいるべきじゃない。
此処に居座るままのほうが、よっぽど僕 は傲慢 だ。
待ってくれている人たちを尻目になおも此処に居続けたこれまでの僕 は、よっぽど不遜 だった。
僕はもう此処から出たい、出ていきたい、…
もう行きたいよ、…もう行きたいんだよ…――。
明るい場所で両腕を広げて待ってくれているあたたかい愛のもとに、僕を愛してくれている人たちのもとに――母の、父の、祖父たちの、友人たちの、
どうかもう許して、
――僕はハルヒさんのもとに行きたいよ、…
「一緒に行こう、――光に満ち溢れた場所で、僕たちを待っていてくれている…――何よりも尊い、愛の元へ……」
――嫌だ…嫌だ…怖い…許せない…怖い……。
「…赦せぬ…」――ハルヒさんが喉の奥で潰れたような低い声でつぶやく。
「……、…」
僕はふと目を開きながら顔を上げた。
――彼の黒く染まった眼球の中央、その深い真紅の瞳は僕を射すくめる。
「…赦せぬ…、赦せぬ…、赦せぬ…っ」
その黒い唇は、すべてが鋭利に尖った――こと犬歯は獣のように尖った――白い歯をむき出しにして、
「――赦せぬ…っ!」
「……ッ!」
ビョオオと突風と共にまさしく鬼の形相で僕に迫ってきたハルヒさんは、…それもそのさなかに頭から二本の角 ――根本の真紅からオレンジ、そして尖端 の黄色へとグラデーションしている角――をにょきにょきと生やしながら、…そうして僕にその鬼気迫る険しい顔を迫らせてきたハルヒさんは、僕の両頬をその手のひらで捉え、あわや鼻先が触れそうな距離で――その怒りに鋭くなった片目から、つーと真っ赤な血の涙をあめ色の頬につたわせる。
「お前を囚えているその〝呪い〟は、しかし決してお前のせいではない…っ!」
「……、…」
いいえ…僕は目に涙を浮かべながら、彼の冷たい手のひらのなかで小さく首を横に振った。
僕のせいだ。――これは誰のせいでもない。
僕が僕自身を呪っているのだから、…たとえ、こうして僕が僕自身を呪ってしまうようになった原因こそ過去のあのいじめであったにしても、…僕をいじめた人たちのうちの誰かが僕のことを呪っているわけではない――これは僕自身が、僕自身を呪ってしまっているせいなのだ、…だから…これは全部僕のせいなのだ。
「…よもや…」――僕の目を捉える彼の険しい両目から、悲しい紅い血が次々と流れてゆく。
「よもや、よもや…これほど美しい我が君を侮辱したというのか、…赦せぬ、…赦せぬ、…赦せぬ…っ!」
「…もういいんです…」
僕は潤んだ両目を細めて少し笑った。
ガタガタと騒がしい剣呑 な音が、チカチカと不穏な光の点滅が、彼の周りに吹きすさぶ猛風が、その僕のワイシャツの背中を削るような鋭い強風が、この鬼神と成り果ててしまったハルヒさんの憤怒 を如実にあらわしている。
ただその猛風は僕たちを取り囲むように吹いているので、僕の髪やワイシャツはふわふわとあちこちに乱れてはいるものの、僕の肌にはそれほどの強い風があたっているわけではない。
「…もういいんです、ハルヒさん…」
僕の片目からはら、とこぼれ落ちたこの涙は、しかしけっして悲しいものではなかった。
そうか…――彼は、僕が婚姻届を書けなかったことに怒っていたわけではなかったのだ。
「――赦さぬ…っ!」
彼の髪の無数の黒蛇たちが一斉にシャーッと威嚇する。
本来は優しくあまく垂れている彼のまなじりが、今はほとんど狂気的なほどつり上がっている。
「俺は決して赦さぬぞ春月 、…お前を苦しめたその者共の腸 、俺がこの手で直々に引き裂いてくれよう…っ!」
「……、…」
僕がまた微笑しながら小さく首を横に振ったなり、僕のもう片方の目からはまたほろ、と涙がこぼれ落ちた。
今のハルヒさんは優しい…優しい、しかし、あまりにも悲しい鬼だった。
僕は彼の怒気をはらんだ紅い両目から目をそらさないまま、微笑した唇をそっと動かしてこう言った。
「…そんなこと…やめてください…――貴方が本当に望んでいるものは、きっと、僕を傷付けた人たちへの復讐なんかじゃないはずだ……」
そして僕はペンとクリップボードを正座している両ももの上へそっと置き、その人の血管が浮きでたような墨の模様のある両頬を、震えてしまう手のひらでやさしく包み込んだ。
「…きっと…貴方が本当に望んでいるものは――僕だけ…、…そうでしょう…?」
僕は涙に濡れた口角を上げ、涙にぬれた上下のまつ毛の距離をそっと狭めた。
――僕のこの言葉を肯定するような彼の黒蛇たちが、僕の首の両側面をずる…と這う。僕の肩を、二の腕を、わき腹を、腰を、無数の黒蛇が這う――僕の体のあちこちに絡みついてくるこの無数の黒蛇たちはしかし、今の僕にとってはもう少しも脅威などではなかった。
「そうだ…」ハルヒさんがその鋭い両目から血をしたたらせながら、僕の頬の肌を震わせるほど低い低声 で言う。
「…我が物になると言え…っ!」
そしてハルヒさんは恐ろしい険しい泣き顔で、そう僕を脅すように言った。…僕は浅く、しかし確固たる意志をもってうなずく。
「はい。貴方のものになります…。貴方だけのものに…――だから、殺したりしないで…」
「俺がお前を殺すと思うのか、…」
「いいえ…」
と僕は彼の冷えきった手のひらの中で微笑しながら、小刻みに首を横に振った。
「…僕を傷付けた人たちを…殺したりしないで…。どうか彼らを赦してあげてください…、だってもういいんです、僕…――復讐なんか、僕はもう少しも望んでなどいないんです……」
「お前が望もうと望まざろうと関係無い…っ!」
ハルヒさんは牙をむき出しにしてそう凄む。
「俺の気が済まぬのだ…っ!」
「……僕が今から、…僕が今から、全て貴方のものになるとしても、ですか…」
僕はもう十分だった。
――僕は今夢見がちな酩酊 を感じているほど、とにかく嬉しくてたまらないのだ。
ハルヒさんは血の涙を流すその険しい目を見開き、しかし暗黒の中の真紅の瞳を悲しげに揺らしながら、この至近距離で僕の瞳をただ眺めている。
僕は彼のその定まっていそうで定まっていない真紅の瞳の、その黒い瞳孔の更に奥を見つめた。
そこには怒りがあった。優しさがあった。
するとその真紅の瞳が溶けだしているような彼の血の涙が、真新しく切り裂かれた彼の心の傷から流れ出しているものと僕には思われた。
「復讐なんかしなくても、僕は全部…、僕が持っているものなら何だって全部貴方にあげます…。僕の全部を貴方にあげますから…――僕の心でも…体でも…魂でも…――僕は全部、全部僕を貴方にあげますから……」
彼の冷えた頬を包みこむ僕の手のひらの付け根に流れおちた血が、やがて僕の手首の静脈を伝い、きっとその血は僕の血管の形に沿うて紅く流れて落ちている。
……貴方の血が、僕の中に流れている。何か僕にそう夢見がちな確信をさせるそのくすぐったい感覚は、僕の唇をやさしく微笑ませるほど愛おしかった。
「…全部、だと…?」
そう目を見開いたまませせら笑ったハルヒさんの、その真紅の瞳の中央――その黒い円い瞳孔が、途端すっと狂暴な蛇の縦割れのそれに細まった。
「ならばお前の血を俺に寄越 せ…」
「……、血…?」
僕の血を…?
それはなぜ、と僕は少しいぶかしかったが、すぐに「どうぞ…」と眉尻を下げながらもまた微笑した。
「…貴方の好きにしてください…」
するとハルヒさんは牙を剥きながら即座僕の首筋に顔を伏せ、
「……ッ!」
「…ッい、…」
僕の首筋に鈍い痛みが突き刺さる。
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