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                  「……、…、…」    僕はハルヒさんに噛みつかれた。  ハルヒさんの鋭利な上下の歯が、こと鋭利な上下の犬歯が、僕の首筋にめり込んでいる。   「……ッ、はぁ、…」    当然、痛い。  だが僕は奥歯を噛み締めてこの痛みにじっと()えながら、そっと目をつむった。――僕の慄える血まみれの両手は、彼の鱗が貼りついたうなじを抱き寄せる。   「……んぁ…、ぁぁ……」    僕の薄くひらかれた唇から、恍惚とした吐息まじりの(うめ)きがもれる。  ……熱い僕の血が、僕の骨ばった鎖骨を越えて、つーと胸板へまで流れてゆく。――今の僕にとっては、それすら心地よい快楽だった。   「……この痛みは…――この、血は…――きっと、貴方の、…」    僕の心臓にまで流れついたこの熱い血は、僕の心臓は、貴方のものだ。――僕の血は、貴方のもの。   「…これは、…貴方の痛み、…貴方の、血…――」    今や僕の後頭部から背中から、僕の全身がその人の無数の黒蛇たちに覆われている。――しかしその黒蛇たちは僕を囚えているようで、僕たちを取り巻く鋭い猛風から、僕のことを抱きしめて(まも)ってくれているようだった。  ……貴方のその憤怒も、貴方のその深い欲望も――きっとこの黒蛇たちと同じだ。    閉ざしている僕の上まぶたの片方から、また熱い涙があふれてこぼれ落ちる。     「…ねぇ…シタ……?」      僕は酩酊したような意識のまま彼をそう呼んだ。     「…暗闇の中で(うずくま)っていた、傷だらけの僕を見付けてくれて…、本当にありがとう……」    きっと貴方は、もう正気を失っている。      今や貴方は我を失い――代わりに狂気で、その空虚を満たしてしまった。      貴方はその(むな)しい狂気に()()かれ、こうして鬼神になってしまった。      僕が欲しい、僕が欲しいと、貴方は鬼になってしまった。――だが僕は嬉しい。それが涙が出るほどに嬉しい。    僕は貴方に求められたかった。  ずっと諦めてきた。――誰かに求められることを。    誰か、いいや、貴方に求められることを、僕はこれまでずっと叶うはずもないからと、諦めてきた。  だがそうした諦念の前には、必ず「期待」があるものだ。諦める前には必ず「願望」があるものだ。  願うから、欲するから、しかし叶うはずもないと諦めることになるのだ。――僕は、本当は願っていた。    貴方にあげられるもの、愛する貴方に捧げられるものが僕のこの身一つでは、ほとんど無償のようなものなのかもしれない。    それでも貴方に自分を求めてもらいたい――貴方に自分を愛してもらいたい――叶うのなら、僕は愛する貴方と、愛し合いたかった。  ドラマチックな激情ではなくても、ロマンチックな恋情ではなくても――激しさや刺激や夢がそこになくても――ただそこになんらかの貴方の愛があるだけで、僕は十分満たされたに違いない。    だが、貴方の愛は――僕がこれまで望んできたものよりもうんと大きく、嵐のように激しく、痛いほど刺激的で、そして、僕を夢見がちに陶酔させるほど甘やかなものだった。  貴方が僕に与えてくれるその愛は、僕が願ってもないような、深い、深い、根深い愛だった。    貴方の狂気の根源には愛がある。  ドクン、ドクン、ドクン…――僕はこの脈打つ首筋の痛みによって、貴方の愛の熱さを感じている、自分のこの胸の満たされた穏やかな鼓動を確かめている。      だが、きっと貴方の心は血を流している。  自分のその狂気に一番傷付けられているのは、きっと貴方だ。      貴方のその狂気の根源には――怒りがある。      それは優しい怒りだ。慈悲の忿怒(ふんぬ)だ。愛の怒りだ。――神仏の怒りには、人を護り、人の心を癒やす力がある。  我を失っていた僕を悲しんで、貴方は我を失ってしまった。    貴方は怒ってくれた。  優しい貴方は、傷付けられた僕のために、正気を失うほど怒ってくれた――貴方は僕のために、鬼になってくれた。  もちろんそうして怒ってくれたのは貴方が唯一の人というわけではない。…母、祖父、友人たち、…だが、まさか貴方まで、僕の大好きな貴方まで、鬼に変貌するほど怒ってくれるだなんて…――これは僕が望んだ試しもない幸せだ…――これは僕が望んだ試しもない救いだ…――だから僕は、本当に復讐なんか望んでいない。    後味の悪い復讐なんかより、もっと素晴らしいものを貴方に与えられたからだ。――愛。  貴方の忿怒もまた、貴方が僕の傷だらけの心に塗ってくれた「傷薬」の一つ――貴方の愛の狂気、愛の忿怒、貴方が僕にくれたこの愛の痛みこそ――僕の心を癒やしてくれる「傷薬」なのだ。    貴方のその狂気の全てさえ、こうして今僕の体を覆い尽くしているこの黒蛇たちのように――僕の心の傷を、僕を抱きしめて、僕の全てを護ってくれている。    僕は知っているんだ。  シタハル、君が本当に欲しいものは――。   「……、僕の、傷でさえ……この僕の傷をも含めた、…僕の、…全て…――。」    こんなに優しい人は、他にいない。  こんなに慈悲深い神様は――他にはいない。 「何でもあげます…、何でも…――貴方が望むのなら…望むまま、望むだけ…僕の全てを、貴方に捧げます……」 「……、…」    僕の首筋からつっと彼の歯が抜かれ、彼は黙って僕の途中まで開かれていたワイシャツのボタンを一つ、一つと更にあけてゆく。   「……ぁ、…」    僕はピクン、と少し腰を反らした。  ――ひんやりとした、しかしぬるぬるとしたその人の舌が、やわらかい唇が、僕の首筋から鎖骨へと、血の流れた跡をたどってゆく。  ……彼の唇と舌が僕の胸板をなぞる。僕の体はふるふると慄えてしまう。   「何故(なにゆえ)…」彼は僕の心臓に、そう低い声でささやきかける。 「何故(なにゆえ)我が君は、そなたの白さを痛ましい紅に染めた俺を赦すのだ…」 「……、…」    僕は目を伏せ、首筋の傷のじんじんとした熱い痛みにやたら恍惚としながら、ぼんやりとこう思った。    僕は貴方を赦しているつもりなんかない――そもそも僕は、貴方に怒ってはいない。    貴方は無辜(むこ)だ。  鬼神でも荒御魂でも――たとえ今は自分の狂気の荒波に呑まれて溺れてしまっていたとしても――どうなっていたって、貴方はずっと神聖な優しい貴方のまま、貴方はいつだって心優しい僕の神様のままなのだ。  ……僕はつぶやくようにこう言った。   「……貴方を…きっと僕…――愛しているから……」    貴方を愛しているから――貴方がくれたこの痛みさえ、僕は貴方の全てを愛として受け容れているから――だからきっと貴方の目には、僕が貴方に「ゆるし」を与えたように見えたのだろう。  僕はぼーっとかすむ虚ろな自分の伏し目から、ほろ、と涙をこぼしながら、彼にこうそっと切り出した。   「…シタハル…――お願いがあります…」   「……何だ、ウワハル…」  僕は震えている唇に、微笑をうかべた。     「…貴方の〝呪い〟の全てを、どうか僕だけに下さい…――。」  貴方が今呪っているものを――貴方の欲望を――貴方の怒りを――貴方の狂気を――貴方の傷を――貴方の血を――貴方の優しさを――貴方の愛を――今貴方のことを苦しめている、僕への愛を……。   「…全部、僕に全部…下さい……」    たとえ僕がどうなろうと、たとえ僕が壊れてしまおうと――僕は貴方の全てを受け容れる。  するとハルヒさんが、ぐっと僕の顎をつまんで上げる。――彼は険しい泣き顔で僕の両目を、その悲しい狂気の真紅の瞳で睨みつけてくる。   「……、…」    ただ何も言わずに目を見開き、またその瞳孔を縦に細めながら、僕の目をじっと睨みつけてくる。    うごめく無数の闇、彼の顔の周りで、彼の背後で、僕の全身で、僕たちの周囲でうごめく無数の黒蛇の体は、僕たちをこの暗闇と狂気の世界に閉じ込める。まるで二人きり――まるでこの世界には僕と貴方、その二人しか存在していないかのよう――きっともう誰も僕たちのことを見つけられない。きっともう誰も僕たちのことを助けてはくれない。   「……ふふ…、……」    どうしてそれが嬉しいのか、どうしてそれに僕が泣きながら微笑んでいるのか――自分でももうよくわからない。  彼はその据わった紅い蛇の瞳で僕を()めつけたまま、こう低いささやき声で僕に質問してくる。   「…お前は何故(なにゆえ)、俺の狂気を望む…?」  僕は彼の目を見つめ、微笑んだままこう答える。   「…それさえも、僕が愛すべき貴方の一部だから…――貴方のその狂気さえも全て受け容れられるのは、きっと僕だけだから…、……」    僕は舞い踊る自分の黒い前髪の鬱陶しさをも構わず、まっすぐに彼の真紅の瞳を見据える。   「だから受け容れます。貴方の全てを――貴方の狂気、それさえも――僕だけのものだから。」   「…俺の呪いに喰い殺されてもか…っ!」    彼の両目が怒りに見開かれ、彼の黒い唇がそうしたように、黒蛇たちが一斉にシャーッと牙をむき出しにして威嚇する。だが僕は少しも億せず、ただまっすぐに彼のその縦に割れた瞳孔を見つめつづける。   「はい。」   「……、…、…」    彼は口を開けたまま固まる。  僕はそっとその人の両頬に触れた。彼の血濡れた頬は強ばって震えている。――目を伏せ、僕はこうささやき声で言った。   「…わかっているんです…。貴方のその狂気は、決して僕を傷付けるものではない……」    現に今だって、黒蛇たちも威嚇こそすれ、僕に噛み付いてきたわけではない。   「そう僕はどこかで確信している…――ただ縛り付けたいだけ…、僕を貴方だけのものにしたいだけ…、僕のことを独り占めしたいだけ…――貴方はただ、僕が欲しいだけだ…、……」    僕は目を伏せたまま、恐る恐ると彼の頬に――その血の筋に――唇を寄せてゆく。   「……俺の血を飲めば、お前はもう二度と戻れぬぞ……」   「…もう此処には…戻る道もありません…」    此処は二人だけの狭い世界だ。退路などない。逃げ道などない。どこに戻るというのか、どういうことなのか――僕は何も知らないまま、しかしそうするべきという確信をもって、そっと目をつむりながら彼の頬の血に口付けた。  そして唇からすこし舌を出し、その人の血を舐めとる。…これはその見た目通り血だった。血の(にぶ)い苦味のある塩気が僕の舌先にまとわりつく。   「お前は、俺との〝血の誓約〟すら恐れぬというのか…」   「……、…」    こくん、と僕の喉が鳴った。  ――彼の血を飲み下したのだ。…彼の血に濡れた唇をすこし離す。   「……〝血の誓約〟って……なんですか……」    僕は目を伏せ、どこかうつろな心でそう尋ねた。  ――彼は僕の顎をつまんでそっと上げ、…円く戻った瞳孔の、その切ないやさしい真紅の瞳で、僕の目をじっと見つめる。   「何も知らぬまま血を飲んだのか…、お前は愚かだ…」   「……、…僕が、貴方だけのものになった…――そういうことでしょうか……」    そうなら僕は何も後悔などない。  ――彼は「そうだ…」とその両目で微笑する。   「…俺と血の(ちぎ)りを交わしたお前は呪われた…――これでもうお前は二度と、二度と俺以外の誰をも愛せぬようになったのだ……」   「……、…」    僕は彼のその言葉に、恍惚としてまぶたをゆるめる。――僕を見下ろす彼の両目は満足げに細まっている。   「今後もしお前が俺を裏切れば…お前のその身は、その心は、俺が赦すまで俺の意のままになる…。俺に裸で媚びろと命じられれば、即座にお前は自ら裸になり、犬のように俺に媚びへつらう…――俺に(またが)り腰を振れと命じられれば、お前は一週間も一ヶ月も、俺が赦すまで夜も日もなく俺の上で腰を振り続ける……」   「……、…はぁ…――。」    僕はため息をつきながら微笑した。  内側から侵食されてゆく。犯されてゆく。(おか)されて、犯されてゆく。僕の内部を征服するその血の熱は、僕の体をみるみる(たか)ぶらせる。まるで細胞への凌辱(りょうじょく)だった。まるで髪の先にまで至る征服だった。  僕の子宮が彼の熱い血に染まった――僕の膣口がヒクヒクと速い収縮を繰り返していた。 「ぁイ、♡ …っはぁ…――ッ♡♡」  ビクッ…――僕の腰が至上のよろこびに弾む。  ――僕の細まった目を見つめる彼のその紅い瞳は愛おしそうに、その銀色の長いまつ毛は嬉しそうに細まる。 「…ふ…お前にとっては、そうした俺の血の束縛さえ(よろこ)びか…。酷く妖しい微笑みだ…――いいだろう、今すぐに抱いてやる。……だがその前に…、もっとお前を俺に縛り付けてやろう…」    そして彼の瞳孔がすっと縦に狭まる。   「〝天春(アマカス) 春月(ハヅキ)…その婚姻届に、己の名を書くのだ〟…」   「……、…」    僕は彼をぼんやりと見上げたまま、どこにあるとも知れないペンを勝手に握った自分の左手に、しかしちっとも驚かなかった。  ……これは言霊の力、あるいは呪いだった。  だが天春(アマカス) 春月(ハヅキ)とは(いわ)く僕の真名ではない。…つまりその名前では、僕の心までは操ることなどできない。   「…もちろんです、シタハル…――。」    僕は涙を目に浮かべながら微笑し、やがてその婚姻届を見下ろした。…僕の左手は操られているのか自分の意思なのか、その婚姻届に自分の名を書いてゆく。  ――『夫になる人:祁春(チハル) 春日(ハルヒ)』と、その人の正気の愛らしい丸文字の隣に、僕は『夫になる人:天春(アマカス) 春月(ハヅキ)』と――自分の名前を、やっと書き込めた。   「……、…――?」    すると……不思議な、ことに…――なぜかその婚姻届は光り輝き、キラキラとした金の粉を撒き散らしながら、ふわ…とたちまち消えてしまった。  ……しかしにわかに、ぐっとまた顎をつままれて顔を上げさせられる。――彼はその愛おしげな真紅の瞳から、ただ血の涙を流している。   「これでそなたはもう名実ともに俺だけのものだ……」    そう感慨深そうに言った彼の頭に生えている二本の角が、キラキラと金粉に変わって消えてゆく。  僕は恍惚と微笑んで、また彼の冷えた両頬を手のひらでそっと包み込む。   「…はい…、もう全部貴方のものです…――全部…、といっても僕、…僕は別に、特別な何かを持っているわけではないんですが…――でも、貴方が欲しいなら…、僕が差し出せるものは全部…――僕の全てはもう、貴方だけのものです……」    ふと見やった――ハルヒさんの黒い唇は半開きのまま、少しだけカタカタと震えている。…僕はきゅっと目をつむりながらやや顔を傾けて、   「……、…」    その黒い唇に、ぐっと唇を押しつけた。  ……やわらかいが、冷たい。まるで爬虫類のそれのようだった。――すると僕たちを取り巻いていた猛風がひたと()んだ。…チョロチョロ…また穏やかな水の音だけがこの嵐のあとの静寂に響きわたる。   「……、…」    そ…と離れようとしたが――彼はその黒い爪の長い、氷のように冷たい大きな手を僕の横髪の下に差し込み、そうして僕の頬を――僕の耳を優しく撫でてから――僕のうなじを抱き寄せながら、…しかしふと唇を離し、その至近距離、恍惚とした紅い両目で僕を見つめてくる。   「…ウワハルの言う通りだったか…」   「……?」    ウワハルの、言う通り……?  ――ハルヒさんはその荒御魂の姿のまま、ふとやさしげに微笑んだ。   「いや…そなたはもう、いささかウワハルに戻っているのかもしれぬ…。…何にしても――我が君…、どうかその愛らしい唇を、もっと俺にくれ……」   「……、…」    どうやら少し正気を取り戻したらしい。  ――僕はそ…と目を伏せ…震えている自分の唇を、再び彼の黒い唇に合わせようとした。   「…んっ…、……」    しかし先に彼の唇が僕の唇を捉え、  ……「んん、」と困惑のせいで鼻から声がもれる。    それはすぐさまにゅる…とハルヒさんの冷たい、まるで柔らかい蛇のような舌が、僕の口の中に押し入ってきたせいだった。――僕の舌の根本まで届く彼の長い舌は、たちまち僕の舌を根こそぎ絡めとる。   「……、…、…」    あ…ヤバい――僕は自分の舌を愛撫する彼の舌に全てをまかせながら、その人の胸もとの布をきゅっと握る。……少しだけ怖い。僕、多分だが…このままハルヒさんに――それも荒御魂状態のハルヒさんに――抱かれる、のかもしれない。    しかしにゅる…と僕の舌に絡まったまま彼の舌が引いてゆく。…そしてふと唇を離したハルヒさんは、しかし至近距離――白目がちゃんと白い、やさしい真紅の瞳にもどっている。     「……、はは…ごめん…、また俺、鬼神になっちゃった……」   「……はは…、……」    よかった、戻って……。  僕はほっとして笑ったが、     「……ん…、……」      ハルヒさんはそのあたたかい唇で、僕の唇をまたやさしく、斜めからふさいだ。――彼のあたたかい手が、僕のあらわな片胸を包み込む。

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