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                 ハヅキの唇の感触は俺の想像どおり、いいや、それ以上に素晴らしい感触だった。  何か(きぬ)豆腐(どうふ)のような壊れやすそうなそのやわらかさ、俺の唇の表面にしっとりと吸いついてくるかのようなその瑞々(みずみず)しさ、そしてほんのりとしたそのあたたかさ――俺の唇に触れているハヅキの唇は、それも少しふるふるとか弱そうに震えている。   「……、…」    俺はおもむろに顔の角度を反対むきに変え、また彼の唇に唇をそっと押しつける。――まずはこれだけ……それは俺の中に、まず起こりようもないあるかすかな恐怖があるせいだった。  俺の唇がこのままそっと彼の唇を食んでしまえば、たったそれだけで、いよいよこの唇は絹豆腐のようにほろりと崩れ、やがて壊れてしまうかもしれない、…なんて――それはさすがにあり得ないことなんだけれど、でも――ハヅキの唇のその儚げなやわい無気力な感触は、そうして俺の胸のなかの『とことん大切にしてあげなければ』というくすぐったい愛おしさを膨張させた。    といっても――俺、ちょっと自信がない。  彼の唇のこの(もろ)そうなほどやわらかい感触は、しかしそうして壊れそうなくらい儚げであるからこそ、間違いなく俺の(つの)りに募った積極的な欲情をより高めていってもしまう。    そもそも俺は、もうとうに()()()()()()いたのだ。    なぜって、…当たり前じゃん……。  もちろん俺がそうしたのだが、ハヅキは今白いワイシャツのボタンを全て開けはなしている。  つまり今の彼は先ほどからつねに、その引き締まった上半身の――そのなまめかしく膨らんだ青年らしい胸筋、細身ながらうっすらとさわやかに割れた腹筋の――驚くほど澄みわたった真っ白な肌を、そのワイシャツのあいだから覗かせている状態なのだ。  ……それどころか、彼が何かの拍子にすこし胸を張ったり、逆に腰をまるめたりすると、その白い胸板についた小さいうす桃色の二つの乳首が、そのワイシャツの白い布の陰からチラチラ垣間(かいま)見えたりもする。    そうしてそもそもがそんな色っぽい状態で、ハヅキはなおかつその綺麗な顔をより美しくほほ笑ませてみたり、はにかみに頬をじんわりと桃色にそめてみたり、儚げに黒く長いまつ毛を伏せてみたり、かと思えば可愛らしい上目遣いで俺を見てきたり――自分がその美しい顔にうかべる表情の一つ一つが、まさか今の俺の目にはいちいち官能的に見えているだなんて、きっと彼にはまだ思いもよらないことなのだろう。  いくら先ほど『これからは〝ありがとう〟と受け取ろう』なんて素敵な信念を固めたハヅキとはいえ、…まだハヅキは、自分の魅力を自覚するところにまでは至っていないみたいだ。――もちろんそもそも無自覚どころかマイナススタートの彼では、今日の今日すぐに自分の美貌や魅力を完璧に自覚するだなんてまず無理、それはあくまで当然のことではあるけれども。    ただハヅキはそれ以前に、ちょっと警戒心や羞恥心というものが足りないようだった。  だって今はほとんど上裸なのにやたら平然としているのだ。それもムラムラしている男の俺の前で……。    いや、ハヅキを愛する俺にしてみれば「足りない」と思えてしまうのだが、といっても、正直彼のその心理には無理もないところがあった。  たとえばハヅキが女性だったなら、この場合の反応もまた違ってきたことだろう。  女性なら(俺という)男性の前で自分の胸がワイシャツから覗いている、という状態の危険性――よく言えば魅惑性――を自覚している人が多いから、それこそもし仮に彼が女性だったなら、俺に抱かれるのが嫌なら即座に胸を隠したことだろうし、嫌じゃないならあえてそのままの状態で(ある種の「OKサイン」として)、慎ましくもそれとなく俺のことを誘う、というような感じになったんじゃないだろうか。    ところがハヅキはもちろん男性だ。  するとこの傍目(はため)にはかなりセクシーな状態でも、彼が平静をたもっていられるその心理というのは、同性の俺には理解できるところはある。  ハヅキは男性であればこそ、今の自分の危険性――魅惑性――をまるで自覚していないのだ。  昨今は女性ばかりではなく、男性の上裸もまた性的魅力のあるものだ、という風潮が世の中でも強まってきてはいるけれども、…それでもまだまだ男性の上裸に対しては、女性たちのそれほど「性的な」という認識は薄い。  何より当の男性たちほどその自覚が薄いのだ。  ……つまりハヅキは(当たり前だが)男性であるために、男の自分の上裸くらいなんてことはない、とほとんど()り込みの無意識下で今も安心しきってしまっている。――だから彼は、今自分が危険なほど性的な魅力の放たれている色っぽい状態だ、という自覚をまるで持てていないようなのだ。  でもそれはとんでもないことだな、なんて俺は思う。  ……ハヅキのこんなに綺麗な肌を、体を見て、俺が「男の気分」にならない? そんなわけがない。案の定ムラムラムラムラしてたまらなくなっているし、なんなら俺は都度その自分の欲情をそれとなくハヅキに打ち明けてきたというのに、――こんな様子では、俺はひょっとすると彼に男として少し見くびられているのでは、なんてさえ思えてしまうくらいだ。    ましてや俺にしてみればいよいよ、やっと、念願の、――ハヅキは今しがたやっと名実ともに俺だけのものになってくれた。  ――ひいては俺は、今になってやっとハヅキを抱く()()()を得たような状況なのだ。    ハヅキは当然知らないだろうけれど、俺にしてみたらそれは本当に長い長い我慢だった。  俺はシタハル以前に、ハルヒとしても、つとに運命られた夫であるハヅキに童貞を捧げる、と決めていた――それもそれは、俺が「神の記憶」を取り戻す以前から直感と本能でそう決めていたことだったので、俺はこれまで誰かとセックスはおろか交際さえしてこなかった――ために、俺のその「我慢」というのは何も今日ばかりのことではなく、ほとんど十年以上にもわたる長い長い忍耐だったのだ。    といっても俺は、実はもともと性欲が強いほうではない。  いや、強いほうではないというか、かえって俺は平均よりも性欲が弱いタイプの男だと自覚している。…それこそ()()()というのでさえ、仕事で忙しくしていればなお月に一度や二度――正確に数えていたわけではないから、もしかするとそれ以下――で、俺は別に欲求不満も何も感じないタイプの男だった。    だから「忍耐」というとちょっと大げさで、別に今日までつらい思いをして我慢してきたというわけでもない。それこそ今まで俺は仕事仕事で、自分の性欲さえすっかり忘れて過ごしてきたし、無性にムラムラするというのもあまりないことだったのだ。  今までの俺が他人に抱いてきた愛情は、全部さわやかな葡萄(ぶどう)ジュースのような「人間愛」で、「性愛」という赤ワインのように深みのある情熱的な愛情は、いつも俺の胸の奥底に――「神の記憶」と共に――しまいこまれ続けてきた。    そして、これまで俺の奥底の(くら)にしまいこまれ続けていたその真紅の愛情は、今日この日まで――ハヅキと結ばれる今日この日のためだけに、俺の中の密かな場所でただただじっくりと熟成されてきた。    そう、今日この日のためだけに――俺の運命の夫である、この誰よりも美しいハヅキのためだけに。    とはいえ、俺は今密かに戸惑ってもいた。  自分でも全く知らなかった自分が今ここにいる。  我ながら俗世ばなれしているというほど、今まではまったくそうではなかったのに、気を抜くと今湧き上がってきてどうしようもない自分の強い性欲に翻弄されそうになり、そしてハヅキに、ハヅキの肉体に怖いほど執着している自分がいる。  来るもの拒まず去るもの追わず、なんてゆるく生きてきた俺が、こんなに喉から手が出るほど『絶対欲しい』と執着する相手がいただなんて、  無欲なくらいだった俺が、今はハヅキの体や表情に、こんなにいちいち無性にムラムラしているだなんて、  あまり誰かの体に興味のなかった俺が、こんなに『絶対に抱かなければいけない』とほとんど避けられない義務のように、天命のように本能から感じるなまめかしい肉体があっただなんて…――。  運命られた俺の夫は恐ろしいくらいの美人だった。そして俺の夫は、妖艶(ようえん)というほど魔性の色気を放っている男性だった。  そもそもウワハルがそうなのだから、当然同一人物であるハヅキだって、そういうすさまじいほど人を惹き付ける魔性の魅力とその美貌をもっている。  ましてやシタハルの俺が、ウワハルの(とりこ)になるのはあくまで当然のことだし――そもそも俺が夫のその魅力に抗えるはずもない。  だってそれは何千年も前に決められた運命だからだ。どんなシタハルだってウワハルには敵わない。    そしてハルヒとしての俺は、ずっとその「運命の愛」を自分の奥底にしまい込み、封を開けるその日まで――今日この日まで――その真紅の愛をそこにため込みながら、じっくりと熟成させてきた。  そうして俺の奥底で熟成されながらも溜まりに溜まっていた、俺の運命の夫であるハヅキへの底しれぬ真紅の愛は、今この瞬間にやっとコルクが抜かれ――するとそれは今、俺の理性なんて押し流してしまうほど勢いよくあふれ出している。    そしてその真紅の愛は俺の心臓が脈打つたびに噴き出し、そうして俺の鼓動を力強く速め、やがて迷いなく行き着いた()()()()にみるみる充填されてゆくなり、俺の意識さえも雄々しく攻撃的なほどにしてしまう。  でも、…落ち着かなきゃ、…俺のこの怒濤(どとう)の勢いでハヅキを抱いてしまったら、それこそ俺は本当に彼を壊してしまうかもしれない。    俺は怖かった。  俺のこの激しい血流の勢いにまかせてハヅキを抱いて、それで本当に彼を壊してしまったら――俺はきっと、とても満足してしまう。    それも、そうなっても俺が後悔する気配さえない。  ハヅキが壊れてしまうほど彼を抱きつぶしたなり、俺は自分勝手な所有欲や征服欲を満たされるだけ満たされて、むしろもっと調子にのってしまうような気さえする。――俺は何よりも自分のその凶暴性が恐ろしかった。  これに関しては抗わなきゃいけない。だってそんなのは愛じゃないからだ。これは自分との(たたか)いだ。  自分の攻撃的な性欲に支配されないように……だから優しく、余裕を持って…まずはじっくりとキスから…――俺はハヅキの顎をそっとつまんで捉え、そして斜めからあわせた唇で、まずはやさしくそのやわらかい唇をはむ…はむ、とそっと食む。   「……、…」    ひく、と驚いたようにハヅキの肩がわずかに跳ねた。やば、かわいい…――と俺が思った矢先のことだった。  俺に唇を食まれながらもただじっとしているハヅキが、『なるほど』と胸のうちでこんなことを考えはじめる。   『 先ほど僕は変に夢見がちだったようだ。  何事もないように彼の口づけを受けとっていた先ほどの僕は、ほとんど酔った人のにぶった判断能力に近しい状態で、いや、むしろその状態であったからこそ、平気で彼の唇を受け入れられていたらしい。  ……ところがその酔いも()めてそこそこの時間がたった今、今さら僕は衝撃をうけている。    ハルヒさんの生あたたかいかすかな鼻息が、僕の鼻の下にあえかなぬくもりを与えては逃げ、逃げてはそっと触れるように与えられる。――だが、今僕の唇を食んでいる彼の唇の感覚よりも先、やたら鼻の下の感覚のほうが鮮明に伝わってくるのはどうしてなのか?    では唇は?  彼の、…僕の推しの唇の感触は――。    なるほど。もっと柔らかいものかと思っていたが、わりかし柔らかいグミほどの弾力がある。もちろんグミよりあたたかくてなめらかだが。  ……僕がこれまで十年も画面越しに見てきたChiHaRuさんの唇はあんなに柔らかそうだったので、彼の唇というのはもっとぷるぷると柔らかいものかと思って、――あぁキス、…    僕、…推し、…ガチ恋、――僕今ChiHaRuさんに、キス、…され、て、――先ほどの自分の「この結婚は当然のなりゆき」だなんて落ち着きが今は信じられない――ああ僕、だから逃げていたのだ、だから鼻の下とかいう微妙なところに意識を持っていかれていたのだ、    たちまちかーーっと顔が熱くなったのを感じる、…    ……あ! わあー何ということだ!  本当に「かーーっと」顔が熱くなるとは思いもよらなかったな、…なんてBL的! なんて()()()な!  思いがけずなんていい経験をしたんだろう僕は、これはなるほど漫画にも活かせる、…これは今後、漫画にも確実に活かせるぞ! 』     「……、…」    ねぇ君、俺にキスされながら何考えてんの…――(色んな意味で好きな人の)俺のキスにかなり動揺しているようで案外そうでもない…というか…、ハヅキは今これで実は結構冷静な気がする。  でも、一方の俺はなんか悔しい。  俺のこのキスでもっと君をうっとりさせたいのにな……俺はハヅキの上下の唇の合わせにちょっと差し込んだ舌先を、左右にゆっくりと往復させる。   「……、…、…」    するとハヅキは身をじっと固くこわばらせ、『あれ…?』――心の中にこうした疑問を浮上させる。   『これ、あれ…あれだ…もしやハルヒさん、僕とディープキスしようとしている、のではないか……?』 「……ふ…、……」    正解――だけど、俺はちょっと可笑(おか)しくなって笑ってしまった。  だって唇を舐められているのだからすぐそうだとわかりそうなものだ。…それこそ『口を開けて』という一番わかりやすい合図じゃないか。  ……ハヅキは「百戦錬磨」らしいのに、やっぱり今はものすごく動揺しているみたいだ。でも、俺はそれがちょっと嬉しい。――大好きな俺とのキスだからこそ動揺して判断能力がにぶっているハヅキが、なんだかものすごく愛おしいのだ。   「…舌だして…?」と俺は少し唇を引き、そうハヅキの唇にささやきかけた。   「……、…」    するとうす赤い顔で固く目を瞑っている彼は、ふるふると震えている桃色の唇から、おそるおそると赤みのあるピンクの舌先をちょっとだけ出した。  俺はまた斜めからそっと唇同士を合わせ、彼のゆるく広がった舌先をゆっくり…舌先で左右に舐める。   「ん…♡」    するとハヅキがかすかな声をもらす。  やっぱ興奮する…――ハヅキのやわく熱い舌先を舐めていること、彼の唇の震え、その甘い声、――そのまま俺が左右に往復させる舌先で舐めて刺激していると、    ハヅキはその最中、『おおなるほど、本当に声が出ちゃうものなのか。』と……実は内心で、やたらと冷静な分析をはじめる。   『 といって、…BLの受けはわりかしこういったシチュエーションで「声出ちゃった、恥ずかしい…」と恥じらいの赤面を決め込むものである――そして攻めに「恥ずかしがるなよ…可愛い、もっと声聞かせて…」と微笑み欲情されるまでがセットである――が、…なるほど今の僕には特に恥ずかしさはない。  もちろん緊張はしているが、僕の顔もきっと今はかなり赤くなっているものと思われるが(興奮と緊張で)、…恥ずかしい…という初々(ういうい)しい、可愛げのある羞恥心というのがどうも…――それはBLというものがあくまでもファンタジーであるからなのか、それか、僕が可愛げなどあるはずもない(こと恋愛においては未経験のくせ枯れに枯れた)三十路男であるせいなのか、…あるいは僕の場合、それが「聞いたこともないような自分の声」ではないせいもあるだろうか?  僕は自分の喘ぎ声などこれまでにもさんざっぱら聞いてきた。己が喘がずしてどうして受けを喘がせられようか?  というのも、確かに僕は恋愛などこれまでさっぱり諦めてきた三十路男ではあるが――しかしBL漫画を描くにおいて、独身であってもできる限りの実体験を積んできた僕は、これでもさんざんあんあんと喘いてはきたのである。  そう…事実僕の体はあらかた開発済なのだ。 』     「……、…、…」      俺の片方の頬がビキビキと引き()れる。  ……俺、正直、実はめっちゃ嫉妬してる、…        

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