60 / 71
58
俺はウワハルに馬乗りになったまま、彼の耳の隣に立てた木刀を支えにしながら、初めて兄相手に得た…――のかもしれない…――「勝ち」に、ともあれ笑顔を浮かべた。
「…へへ、…はぁ…多分、一応…初めて俺の勝ちだね、ウエ」
「…はぁ、…はぁ……」
ウワハルは汗をかき、赤らんだ顔で俺を見上げた。
そのツリ目には少し悔しげな涙がにじんでいたけれども、…あれ、…と思って、俺は目を見開いた。
「……、…」
なんだか俺は、ちょっと彼のその顔に見惚れてしまった。――悔しそうなのに、何かどことなく色っぽい目つきだった。…何か、…兄が…あのウワハルが、やけに色っぽく見えた。
「ああ…」と彼はなまめかしく喘ぐように言って、目と顔をころんと斜め下へ伏せた。
「…僕の、負けだ…」
はぁ…はぁ…――兄の艶のある半開きの唇が少し赤らんで、あえかな吐息を繰り返している。
地面に広がったウワハルのポニーテールの黒髪、赤らんだ耳、上気し汗ばんだ顔、汗のつたうその生白い首筋…――。
「はぁ、…強くなったな、シタ…」
「……、…」
俺、…どうしちゃったん、だろ。
……やけにウワハルが色っぽく見えていた。
「う〜ん強くなった、二人とも! いい勝負じゃった! だが、ちーっとシタは力押しのしすぎで脇が甘い。まぁ〜ったく隙だらけじゃ。まだまだ鍛錬が足りんのぉ!」――タケのじいじがそう言うけれども、…これ、実は毎日言われてる。が、そんなことより、
「……はぁ、…はぁ…、……? シタ…?」
なんて潤んだ瞳でいぶかしげに俺を見上げるウワハルに、
「……、…」
……俺は目が釘付けだった。
「しかし木刀が割れちまったんじゃあ、まあどっちが勝ちとも負けともないのぉ〜〜。…さてフツ、どうしたもんか? ウエは自分が負けだ、というが……」
「…んん…、それよかシタや」とフツのじいじが笑いながら言う。
「なぁにを助平 な目で見とるんじゃ」
「…っぅえ、? ぁ、あぁちっちが、…」
と俺は、場外から俺をからかう祖父に振り向いた。めっちゃニヤニヤしてる……。
「え…? す、助平……」
そうつぶやいたウワハルを見下ろすと、兄はびっくりした顔をしていたが――じわぁ…っとたちまちその両頬の桃色を濃くした。
「…し、シタ…、僕のことを、そんな目で見て…」
「ちっ違うってばぁ…っ! 別に、別にそんな目で見てないから、からかわれただけに決まってんじゃんもう、…てか君らしくないよ、そんなの真に受けるだなんて、…」
「おいシタ! んなことより、いぃつまでウエの上に乗っかっとるつもりじゃ! 何にしたってもう勝負はついた! さっさと退かんか!」――タケのじいじに叱りとばされて、俺はあっと思った。
「ぁご、ごめん…」と謝りながら兄の上から退き、そして彼に手を差しのべた。――上体を起こしていたウワハルは、俺のその手を素直に取り、俺に持ち上げられるまま立ち上がった。
そして彼はふと目を伏せ、照れくさそうに微笑む。
「……、ありがとう…」
「……へ…、ぁ、うん…へへ…」
……俺はそれにすら何か新鮮な気持ちになった。
だって気の強いウワハルが、素直に俺の手を――俺の助けを――受け入れるだなんて、それもありがとう、だなんて!
「……ねぇシタ…」
ウワハルはうす赤い顔でうつむき、自分のちょっと乱れた衿 元を正しながら俺にこう聞いてくる。
「あの…さっき、その、…僕…ぃ、色っぽかった、か…? 何というか…、す、助平な…目で、と…」
「う、ううんっ?」
俺はなんだか恥ずかしくて――ましてや自分が、よりにもよってウワハルを色っぽいと思ってしまったことを認めたくなくて――つい否定してしまった。
もちろん俺たちだって、さすがにこの年ごろともなれば、二人の「運命」はもちろん「夫夫」の意味も「結婚」の意味もわかっていた。――つまり「色っぽい」というのの何たるかくらい、俺もわかってはいたのだ。
でも俺は常々『この高慢ちきなウワハルと結婚? 勘弁してよ』とはにかみ混じりに思っていたし、そう口に出して言ってもいた。…ウワハルも『こんな意気地なしの弟と結婚? 死んでも御免だ。』と、…つまり俺たちはここまで二人して、その――いわば勝手に決められた――未来の結婚に嫌気がさしているような態度できてしまった。
そして、まさか俺はここまでウワハルに色っぽい感情なんて抱くこともなかったし、そんなものを兄に抱くはずもないと謎の確信をしていたのだ。
ところがどうだ…――ここにきてそういきなり態度は変えられない、――俺、その恥ずかしさの勢いのままこうまくし立ててしまった。
「ぜっ全然? いつものウエって感じ、…っていうか俺がウエをそんないやらしい目で見るわけないじゃん、…まさか、だって、…だってウエだよ? よりにもよってなんでウエを色っぽいなんて思うわけ、…高慢ちきで可愛げがなくて、しかもちょっと顔が綺麗だからって調子乗ってる自惚 れ屋だし、大体ウエなんて色気の欠片 もないじゃん、――他の美貌の神ならいざしらず、…まさか俺がウエに色っぽいなんて思うわけないでしょ、…そ、それこそ、…それこそ美しい女神の湯浴みを覗くくらいしなきゃ俺、俺だって助平にはならないというか、…色っぽいとかそうは思わないよ、…何それ気持ち悪、ウエになんてあり得ない、ウエーって感じ、…あはは、ウエ、だけに……」
「…ああそうかよ。ふん、…」
とウワハルは眉を寄せて俺を睨んだ。
「…残念だが。…あぁ。全く僕も残念だが。…その、色気の欠片もない。高慢ちきで。可愛げのない。調子に乗った。自惚れ屋が。――残念ながら。――っ貴様の未来の夫なのだ、こん…っの痴 れ者め!」
ウワハルは完全に怒った顔で俺を指さし、なじる。
「この僕を侮辱しやがって、…許さないからなシタハルっ…! ああ全く嫌気が差す、…何故 貴様のような意気地なしの阿呆 の愚か者が、この完璧な僕の運命られた夫なのだ、…これほど運命を憎んだ試しもないっ…! ――悪いが僕より美貌の神などそんじょそこらにはいないぞ、女神であれ、男神であれだ! こんな屈辱を未来の夫に味わわせるようなお前が、お前のような馬鹿で間抜けで何もできない無能な弟が、…ふん、まさか碌 な夫となるはずもないからな、…」
「……、…、…」
俺はビキビキと今にも言い返そうと片頬を引きつらせているが、…ウワハルは腕を組み、ツンとそっぽを向く。
「いいさ、結婚したってそのうち浮気してやる。当然だが、これほど美しい僕を求める神なんて山ほどいるんだ。――この前だって、僕たちの運命を知らない男神が僕のことを求めてきたんだからな。」
「はあ゛? 嘘吐 くなよ、どうしてお前なんかに、」
俺はさすがにカチンときて言い返したけれど、ウワハルはツンとしたままこうきっぱり言う。
「嘘じゃない。本当だ。…同年代の若い神だったが、何だか色っぽい大人の目で見られた。…君とは違ってな! それも凄く紳士的に、僕に甘い言葉をかけてくださったんだ。」
「いつ!? いつだよぉ!?」
……俺、ち ゃ ん と 嫌だったのだ。
ウワハルが俺以外の誰かに「色っぽい目」で見られただなんて、虫唾 が走る、というくらい嫌だった。
ウワハルはニヤリとして、俺を挑発的に見た。
「ふふん、このガキ。大人の逢瀬 は秘密裏 なものなんだ。…僕、夜に…、へへ、みんなが寝静まった夜に! 男神と二人きりになって、…そればかりか、…なんと見つめ合っちゃったんだからな。」
「…なんで!?」
「呼び出されたのだ。話があるからと、大きな枝垂 れ桜の下に。」
「…ぐ、〜〜〜っ! は、母上が聞いたらどう思うか、…お前きっと淫らだと叱られ、」
「また〝お母さまに言いつけてやる〟、か。お前は昔からちっとも成長していないな。ふんっ…」
とウワハルはまたそっぽを向く。
「て、ていうか、まさかそ れ 以 上 の こ と なんかされてないよな…っ?!」
俺という許婚があるのに、…とまでは言えなかったが……俺がそう訊 くと、…ウワハルは俺を見てきょとんとした。
「……? それ以上ってなんだよ…」
「だから接吻 とかさ、…」
「せっぷん…?」
……ウ ワ ハ ル は ま だ 何 も 知 ら な か っ た 。
ただこれは彼が無知だったのではなく、俺が事 前 に よ く 知 っ て い た だけのことなのだ。
「あのだからさ、く、唇同士を合わせたかって、」
「…はぁ…? よくわからないが、そんな馬鹿げたことをするわけがないだろ…。ただ見つめ合い、そなたは美しいなと褒められただけだ。…それと、よかったら自分と恋仲になってくれないかと囁かれて…――だが、許婚がいるからと断った。」
「……ああ、…」
俺はこっそり安堵していた。
しかしウワハルは「今回は、な」と俺を睨みつけながら、また指をさしてくる。
「…ふんっ…次はどうだかわからないぞ。…いいかシタハル、少なくとも僕はそのうち、本当に僕を愛してくれる大人の男神と恋に落ちて、お前なんかさっさと捨ててやる。たんと後悔しろ馬鹿め。」
「っんだってこの高慢ちk、」
「およしよお前さんたち…」――いつの間にか俺たちの側に立っていたフツのじいじが、呆れた感じで二人をなだめる。
「も〜ぉ夫夫喧嘩か、気が早いのぉ〜〜! ガッハッハッハッ!」
とタケのじいじは大声で笑うが、俺たちは同時に彼を睨みつけた。
「「違う!」」と。
「ふふふ…なあシタハルや」とフツのじいじが俺に話しかけてくる。
「…んぁ?」
「ウエはもう随分前からの…お前さんの力には敵 わんと思い、それで弓術に精を出していたんだよ。――それも…お前さんのために、な。」
「……え…? そう、…だったの?」
俺は対面にいるウワハルを見た。
「うん…まあ、そうだ…」
ウワハルはムッとしていたが、…ふと眉尻を下げて微笑む。
「…悔しいが…今や僕は、シタハルの力には到底勝てない…。――以前こうして君と試合をしたとき、技術はともあれ、僕は膂力 では君に敵わなくなっていることを悟ったんだ…」
と目を伏せたウワハルは、…
「……、…」
なんか…綺麗、だった。
「…それに…僕は確かに膂力はないが、我ながら技術や素早さにおいては君よりも長けている。…もちろん僕も男だ。…流石 に膂力でいえば女人には勝 るに違いないし、きっと戦場では刀を奮 う機会もあることだろう…――だが、僕と一緒に戦うのだろう力自慢のシタは、どうも押すばかりで引くことを知らない。…はは、君は本当に危なっかしいから…」
ウワハルがまた俺を見て悪戯に微笑む。
「なら僕が弓術をより磨き、君の援護に努めるのも一つ、有用なのではないかと思ったんだ。」
「…へ、へえ…。……、…」
で……ちなみに俺は早速、さっきはちょっと言い過ぎたかも、という気持ちになっていた。――だからウワハルの手を掴み、祖父たちにこう声をかけて、
「ねえちょっと、二人で馬に乗ってくるね。…久しぶりに、…行こウエ」
「……え、……」
なんとなく不服そうなウワハルの手をなかば強引に引いて、馬に乗りに行ったのだった。
ともだちにシェアしよう!

