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 黄昏(たそがれ)時の琥珀(こはく)色の夕陽に染まった一面のすすき畑のなかを、白と黒の二頭の天馬(てんば)が自然の獣らしい解放的な躍動で駆け抜ける。  銀色に、金色に輝くすすきの海原と共に風にのせられて流れる、黒い馬の白く長い尻尾が――その愛馬に乗った俺の癖のあるポニーテールの銀髪が――、白い馬の黒く長い尻尾が――その愛馬に乗ったウワハルの艶やかなポニーテールの黒髪が――風と一体化したかのように流れて、それらの自由な長い毛筆は、黄昏時のすすき畑に波打った線を各々引いている。  ……俺は手綱をしっかと掴み、(あぶみ)を踏みしめ、(くら)からなかば腰を浮かせて中腰姿勢、 「…はぁ、…あー気持ちいい!」  と笑いながら叫んだ。  実際はそれほどでもないというのに、今なぜか随分遠出したような開放的な気分になれているのは、走りはじめこそ昼下がりのそれだった日が馬で走っているあいだにかたむき、今や夕陽といえるだいだい色に熟したおかげだろうか。  ウワハルとならばどこまでも行ける気がした。俺の片割れの兄となら、もっと遠くへ、もっともっと遠くへまでも行きたいと願えた。――疾駆(しっく)する俺の黒い愛馬とほぼ並走しているウワハルがチラと俺をうかがい見て、ふと仕方なさそうに微笑し、また前を向く。  俺たちはそれを合図に同時に手綱を引く。  俺の黒い愛馬が、ウワハルの白い愛馬が、そのたくましい大胆な脚の動きを徐々に緩めてゆく。  このすすき畑ももう少し先には崖がある。そろそろ速度を落とさないと危ない。――やがてポクポクと陽気な足取りで歩くようになった二頭の馬たちに、俺たちは(くら)に腰を落ちつけて、はぁ、はぁと上がった息を整える。  俺はふと真隣のウワハルを見た。彼も同時に俺に振り返った。…運動後ともあって清々しい笑顔をうかべている兄に、 「……はは、…ねぇウエ、俺強くなった?」  俺は笑顔でそう明るく聞いた。  ……だってさっき初めて「強くなったな」と兄に認められたのだ。昔はあんなに俺を弱虫、泣き虫、意気地なしと馬鹿にしていたウワハルが、俺のことをついに「強くなった」と褒めてくれたのだから、俺のこの喜びは当然だ。  ただ、そもそも俺に昔より筋力がついたのも当然のことだった。…それはもちろん毎日鍛錬に勤しんでいるというのもあるけれど、何より元服を迎えたということは、つまり俺たちが神として一応は一人前になった、ということでもある。  だから今や俺たちは――大人たちに比べたらまだまだ未熟な若い神ではあっても――神としての務めを各々こなしはじめている。…そして俺が神として得意とするのは、力仕事も力仕事な開墾(かいこん)や農作でもあったりするのだ。  だから自分が「強くなった」根拠も、またその自負も実は俺の中にあった。――でも、…俺が自分は昔より強くなったか、ともっと褒められたくて聞くと――歩かせている白馬の上、夕陽の光を後ろ頭に受けているウワハルは、俺のほうに向けているその陰った美貌をふとやさしげに、ゆるめるように微笑ませた。 「うん、強くなった…。昔はあんなに弱虫だった癖に、今やシタは恐れ知らずだ……」 「……、でしょ…。へへ……」  俺は心に蓋をして――まだ照れくさい――けれどもウワハルのそのやさしげな微笑を、本当に美しいと心から思った。  兄はふと前を向いた。彼の片頬を潤んだ夕陽のだいだい色が染めている。――見渡すかぎり琥珀色に輝くすすき畑を、兄の少し寂しそうな目が遠く眺めている。 「…いつの間にか…泣き虫でもなくなったしね…」 「……あー、そういえば確かに…。俺、もう随分泣いてないかも……」  小さな頃は毎日のように泣いていた俺だったけれども、最近じゃ泣くこともなくなっていた。  昔はなんだって怖かった。でも色んなことを知った今は、昔は怖かったそのほとんどが、実は別に恐怖に(あたい)するほどのことでもないと知った。 「そう…シタは気持ちもそうだが、…いつの間にか、体も凄く(たくま)しくなって……」  そう静かな声で言うウワハルの横顔は、なんだか儚げに見えた。――その胸を締めつけられるような儚げな表情をうかべている美しい白い横顔、凛々しい少し細めの黒い眉、寂しげな長い黒のまつ毛、高い端整な鼻、桃色の潤んだ半開きのちいさな唇、すっきりとした小さい顔、気高い印象の長めのやや細い首、凛としたまっすぐな姿勢――いつの間に、…と俺も思った。  君はいつの間に、こんなに美しい神になったの? 「はは、…本当に信じられないな、あの弱虫のシタハルが……」 「……、…」  今まで考えてもみなかった。  でも、今ならできる気がする。――ウワハルのこのなまめかしい猫のような曲線をえがく桃色の唇に、俺は今なら接吻できる気がする。 「…あんなにいじめがいのあった弱虫の弟が、今じゃ僕よりも力が強くなってしまったんだから、…ふふふ……そのうち僕のほうが、君に仕返しでいじめられてしまうかもしれないな……」 「……、…」  今まで、考えてもみなかった。  ウワハルを守る…――今までは守られてばっかりだった俺が、この美しい兄を――いつの間にか俺よりも力の弱くなった兄を、…俺が、守る。  今の俺ならきっと守れる……ウワハルを守りたい、だなんて、これまでは少しも思ったことがなかった。 「……? シタ…?」とウワハルが、だまり込んでちっとも返事をよこさない俺をいぶかり、ふっと俺にふり返る。  ……俺は照れくさくなって破顔した。 「ははっ…えっと、…たしかにそれこそ、昔はウエが俺に馬乗りになってたのに、…さっきは俺が君に馬乗りになっちゃったもんね。…形勢逆転。まあいじめ返すなんて子どもっぽいことはしないけど、――でもきっともう俺、ウエに守ってもらわなくても大丈夫だ。むしろ俺が君を…」 「それはどうかな」  ウワハルは俺をからかうように両目を細めてニヤリとし、また前を向いた。――その美しい横顔は凛としたほほ笑みをたたえている。 「…どれほど力が強くなろうと、攻めてばかりじゃ(もろ)いのには違いない。…僕が弓術を極めようと思ったのも、結局は君を守るためだ。」 「……あぁ…それはありがと、…だけれど俺、今はもう逆にウエを守れると思うよ?」 「…ふっ…冗談よせよ。…まさかシタに守られなくとも、僕は自分の身くらい自分で守れる。…よっぽど危なっかしいのは君のほうだ…、……」  ウワハルが馬の歩みを止めるのと同時、俺も手綱を引いて愛馬の歩みを止めた。  すすき畑を抜けた先の、夕陽と海を一望できる小高い崖の上にたどり着いたからだ。…言い換えると、つまりここが「行き止まり」だということでもある。  ウワハルも俺も馬から下り、二人とも愛馬の頭のほうに回った。 「…いい子…」  そしてウワハルは自分の白馬の長い頬を優しくなで、「いい子だ」と「彼」に微笑みかけると、おだやかな顔をしている白馬の額に額を合わせ、顎の下をくすぐるように撫でてやっている。 「ありがとう。…帰ったらたんとご飯をあげるからね。…いい子、いい子だ…、ふふふ……」 「……、…」  優しくほほ笑んだその慈しみの横顔、…やっぱ、今日は、…  ……ウワハルは馬銜(はみ)を取ったなり、頬を蒼目の愛馬に食まれて「あははっ…こら、…」とその甘えた唇を避けたりしつつも、愛おしそうに「彼」とじゃれている。 「……、…、…」  綺麗…かも…今日は、やけに…――なんて俺が、愛馬の唇に手のひらをあむあむさせながらウワハルに見惚れていると、…俺の愛馬が「ブルル…」と鳴きながら、その鼻先でコンッと俺の顎を軽く突き上げた。 「んっ…、……?」 「…………」――白く長いまつ毛に彩られた愛馬の紅い大きな瞳が、『お前もがんばれよ』と同性の親友らしい励ましの、でもちょっとからかうような感じの色で俺の目をじっと見つめてくる。 「…さ、少し自由にしていていいよ…。だが、あまり遠くには行かないようにね……」  ……ウワハルは自分の愛馬の鞍などの装具を取り払って、身軽にしてあげている。  ――「ブルルッ」と俺の愛馬が『俺のも早く外して』と要求してくる。…はいはい、と俺がそれらを外してやろうと「彼」を見ると、 「……ヒン…」 「……、…」  ……こいつ、()()()していやがる……。  実は俺とウワハルの愛馬であるこの天馬たちは「つがい」なのだ。まあどちらも牡馬(ぼば)だけれど、…そもそも同性愛にああだこうだ言うのは人間の子たちだけ。――神や自然界やには異性愛に良いも悪いもないように、同性愛にも良いも悪いもない。あくまで普通のことだからだ。 「……、まぁ、何とか頑張ってみるよ…」  と俺は愛馬という親友に小声で答えた。  すると「彼」はウンウンとうなずいた。      ◇◇◇  すすきの少ない崖の上、俺とウワハルは並んで地面にあぐらをかき、ぼんやりと夕陽が沈んでゆく広大な海原を眺めていた。  ときどき俺たちの頬や首筋や髪やをやさしく撫でる少し湿気た潮風は、嗅ぐだけで口の中がしょっぱくなるような匂いがする。…二人の愛馬は俺たちの背後、少し離れたところで仲睦(なかむつ)まじくじゃれあったり、草を食んだりしている。 「……ね、ウエ…」  俺は夕陽を見ながら今なら言える、と思った。  兄は「ん…?」とかすかな声で応える。 「…さっき…ごめん、…俺、言い過ぎた…」 「……、はは……」  すると兄はほとんど吐息で笑った。 「…別にいいよ、僕も言い過ぎたし……何より、僕に色気の欠片もないのは本当のことだ…。」 「……、…」  そんなことない、さっきはものすごく色っぽかった、本当だよ、ただ俺、さっきは照れくさくって、あんなことを言ってしまっただけなんだ。――こう言いたかった。でも喉が震えてしまって、怖くて言えない。――俺、まだ意気地なしのままだ。  言ったら何かが悪いほうに変わってしまうような気がした。言えば俺たちが途端に親友や兄弟から、未知の「夫夫」になってしまう気がした。――俺は今この瞬間から、俺とウワハルの関係性が、すっかり様変わりしてしまうことが何故ともわからず恐ろしかった。  ……ウワハルは不安になった俺の片手をぎゅっと上から握った。小さな頃と同じように。 「……、…」  俺を安心させてくれるこの兄の手も、いつかは「夫の手」に変わってしまうんだろうか。――俺は「夫の手」がどんなものなのかなんて知らない。そもそも比喩にしてもそんな風な手はあるのだろうか。  でも知らないと、余計にそれが悪いものかもしれないと思えて恐ろしかった。  ウワハルが不意に、俺の不安をかき消そうと――俺を笑わせようと――愚痴をこぼすようにこう言う。 「もっと僕が色っぽかったらよかったのにな」 「…よ、よかったって…?」  でも、俺は笑いどころがわからなかった。  きっと兄からしたら、俺が「そうだね、ウエは色気ないし」と、いつものように自分をからかってくることを期待していたんだろうけれども。 「……、…」  ウワハルはちょっと黙り込んだ。  それからややあって、自信なさそうな小声でこうこぼす。 「……僕が…ただ、…その、もう少し色っぽくなりたいってだけのことだよ…。」 「……ならなくていいよ…」  だって、これ以上ウエが色っぽくなっちゃったら、俺以外の誰かにいやらしい目で見られちゃうかもしれないし――これ以上君が美しくなっちゃったら、俺、どうにかなっちゃいそうだし……。  ……ウワハルは「ふふ…」とちょっと寂しそうな含み笑いをもらした。 「気持ち悪いからだろ。…はぁ…、…あ、」 「……?」  俺とウワハルは同時に顔を見合わせた。  俺を明るい青白い瞳で見てくる彼は、無垢な好奇心をその微笑に輝かせるようにうかべて、 「ねぇ、ところで、…()()()()って何?」 「……え、…」 「…君さっき言ってただろ? 唇同士を合わせるって。…でも、何故(なぜ)そんなことをするんだ?」  ……無邪気な目をしているこの兄は、本当に何も知らないのだ。  なぜなら俺たちは、まだ結婚できる年齢じゃないから。  たしかに元服はもう終えたけれど、まだ俺たちの体は「統合」ができるほど成熟してはいないので、もう少し俺たちが成長しないと――もう少し大人の体にならないと――結婚もできない。  そして結婚が現実的に見えてきたころになって、やっと俺たちは元祖・運命られた夫婦神の伊弉諾(イザナギ)伊弉冉(イザナミ)の大お父様と大お母様に、そういった「ふうふ」のあれこれを教えてもらえる、という風に聞かされていた。――けれども、俺はたまたま別の夫婦の接吻を見てしまったことがあって、…それもすごく色っぽい感じで、なんと口の中に舌まで入れていたのだ!  だから気になって母上に聞いたら、「それは接吻というのよ」と案外あっさり教えてもらえた。  そして母いわく接吻とは、ふうふや恋仲の二人がするような特別な愛情表現で、とても気持ちがよくて、とても幸せな気持ちになれる行為だ、とのことだったけれど、…ただウワハルと俺は、結婚してからじゃないとそれをしちゃいけないらしい。  ……俺はそれを母から聞いたとき、『うぇ、気持ち悪』と思っていた。その接吻という行為自体にもそうだが、…まさかウワハルと唇同士をくっつけたり口の中に舌を入れあったりするだなんて、…想像しただけで胸がもぞもぞした。――それで接吻を見た、なんてウワハルには今まで秘密にしていたのだった。  ちなみに、俺は母上に「結婚したら絶対接吻しなきゃだめなの?」と聞いた。…彼女は可笑(おか)しそうに破顔して、「いいえ、別に。必ずしもだなんてまさか、接吻は義務やなんかじゃなくってよ」と答えたが、「けれど、あなただっていつかはウエちゃんと接吻するわ。今はどう思っているのだか知らないけれど、きっとあなたはウエちゃんと接吻したくなるに決まっているんですからね」なんて、からかい混じりに言ってきた。  でも母は「ただし。結婚してからですからね。それまでは我慢なさいね」と念押ししてきた――けれども、…俺は『我慢だなんてまさか! ちっともあいつとしたいだなんて思わないもん、かえって嫌だ、したくないとしか思えないもん』とこれまでは気楽に思っていた。…まさかウワハルと接吻したいだなんて、自分が兄にそんな色っぽい願望を抱くはずがない、と……。 「……接吻っていうのはさ…、……」  俺ははにかんでまた夕陽に顔を向けた。 「うん」 「…なんか、恋仲になったり、ふうふになったりしたら、愛情表現としてすることなんだって。…気持ちいいらしいよ、それで、幸せにもなれるって、…母上がそう言ってた。」  すると兄は「ふぅん、そうなんだ…」と関心を含ませたままに言う。 「……じゃあ…いつかは僕たちも、するのかな…」 「…まあ…するかもね…。…でも別に必須ではないらしいし、…しなくてもいいんじゃない…?」  俺は夕陽を見ながら、また自分のはにかみを隠すために、そんなことを言ってしまった。  するとウワハルは「でも…」とちょっと落ち込んだような沈んだ声で、俺にそっとこう聞いてくる。 「……シタは…したくない…? 僕と、せっぷん……」 「……っ」  ウワハルのその言葉に、俺の心臓がドキッと痛んだ。そのままバクバクと強い心臓の鼓動が俺の胸板を連打する。 「…ぅ、うん、ちょっと気持ち悪いかも、…」  嘘、…嘘だ。また嘘をついちゃった、…  俺、さっきは「できる」と思っていたじゃないか、…いいや、俺のその「できる」のなかには、むしろウワハルと「したい」という気持ちが隠れていたんじゃないのか。  ……ウワハルは「そっか…」と儚く笑いながら言った。 「…でも、僕はしてみたいな…、……」  そしてウワハルは、俺の手を握っている手にきゅっと力をかけながら、「ねぇ、」と隣の俺のほうに少し顔を寄せてきた。 「…し、してみて…? 試しに、一度だけ…」 「……、…、…」  俺の中の「弱虫」が、いくつもいくつもウワハルの唇を拒む理由を探して奔走している。  …気持ち悪い、でもそれはまたウワハルを傷つけてしまう嘘だし、…俺、接吻してるのを見たことがあるだけで実はやり方は知らないんだ、…でもそれはなんかカッコ悪いし、…結婚しないとしちゃいけないらしいよ、…じゃあ結婚したら、するの? 別にしなくてもいいらしいけど、…えっと、…えっとだから、 「……っだ、だって俺たち、恋仲でもないし、まだ夫夫でもないじゃん、…」と俺は赤面しながらうつむいた。 「……、…そうだね……」  ウワハルの手が、そっと俺の手から離れてゆく。  ふと隣を見ると、兄は膝を抱えて座り、寂しげな微笑をうつむかせていた。 「…ごめんウエ…」――また傷つけちゃったかも、と俺は謝った。でも彼はその儚げな白い横顔で微笑したまま、とぼけたようにこう答える。 「…ふふ…何が…?」 「……、…俺、……あと、母上が言ってた、…結婚しなきゃ俺たち、接吻しちゃいけないんだって…」 「……そうなんだ…、……」  うつむいているウワハルの黒いポニーテールが、潮風にふわふわと揺れている。「ねぇ…」と彼は立ち上がりながら切り出し、自分の愛馬のもとへ歩いて行きながら、 「……シタは…僕と恋仲に、なりたい…――?」  と、きっと兄なりに精いっぱいさりげなく、でもきっと精いっぱい勇気を出して、俺に聞いてきた。  ……俺も立ち上がり、ウワハルの背中にこう言った。 「……わかんない、…まだ…――」  でも俺、…  ウワハルが立ち止まり、うなだれる。彼の夕陽に染まった白い着物の背中に、揺れている黒髪の影が揺らめいている。 「俺…でも、…今日、…今日さ、俺、…」  今日君のことを、初めて色っぽいと思った。  初めて、君はなんて綺麗なんだろうと、今日は何度も何度もそう思ったんだ。――俺は勇気を出してこれを言いたかった。  ちゃんと言おうとしていたし、きっとウワハルがこう言わなきゃ、俺はこれを(つたな)くとも言えていた。 「僕もわからない。」  ウワハルはそうはっきりとした調子で言った。  うなだれた彼の白いうなじが、その下がった後ろ頭がふと上がり――ウワハルは凛と前を向いた。 「君と恋仲になりたいのかどうか、自分でもよくわからない。…ただ僕は、きっと曖昧な状態に耐えられないだけだ。…君が一番よく知っているだろ、僕は何だって白黒つけないと気が済まないんだ。――でも…二人して〝わからない〟のなら、きっとまだ僕たちには、恋仲だとか何だとかはまだ早いんだろう。」 「でも俺、…」 「君にしてみたら、いきなり色気づいた兄なんて気持ち悪かったよな。…でも多分、僕は最近憧れていただけ…――恋とか…、そういう大人っぽいことに……」  ……ウワハルがまたおもむろに歩き出す。  彼は「さあシタ、もう帰ろう」と改めて俺に声をかける。 「ねえっ…ウエ、…」  でも俺は言った。――もう俺は昔のように弱虫でも、泣き虫でも、意気地なしでもない。…だから、遠くなってゆくウワハルの背中に向けて、声を振り絞り、こう言った。 「でもっ…今日の君は、…君、凄く今日は色っぽかったよ、…それに、それに今日は凄く、…凄く綺麗だウワハル、――俺、…俺だから多分っ、…」  俺は、どんどん遠くなってゆくウワハルの背中にすがるように、精いっぱいこう言った。 「俺、多分っ、…ウエと、こっ恋仲に、…っなりたい、…」 「……、…え……?」  ウワハルはその黒いポニーテールの毛先を低くおもむろに回しながら、背後の俺に体ごと振り返った。  ……俺はドキッとした。――俺がとても見たことのない、弱々しい顔をした綺麗な兄に、その美しいツリ目の涙の光沢に、…ドキッとした。 「今、なんて……」 「…っウエ、……っ」  俺は子どもらしくウワハルに駆け寄り、それから男らしい気持ちで、その勢いのまま彼を抱きしめた。 「……っ! しっシタ、?」  ウワハルは親に抱きつく子どものような勢いで俺に抱きしめられ、驚いたようだった。 「……、…は、…シタハル……」  でも、ウワハルの両手が俺の背中をそっと抱きしめかえす。 「……ウエ、…、…、…」  今日は一段と兄の体から香る薔薇が(かぐわ)しかった。…ほとんど同じ背丈の俺たちの胸板が密着して、トクトクと脈打っているのはどちらの心臓なのか、…それともどちらの心臓も速く強く脈打っているのか、…それすら、この耳まで熱くなるような緊張の中では定かじゃない。  ……相擁(あいよう)なんて毎日しているのに、家族と、みんなと――ウワハルと、…俺の家族はみんなそれを挨拶に、親愛の証に、何気なくするから――今朝だって俺は、ちょっとした(いさか)いからの仲直りの証に兄と抱きしめあったばかりなのに、…どうして今のこれは、こればかりはこんなに、なぜこんなに特別ドキドキするんだろう。 「……はは、また寂しくなったのか…?」 「……ちが…、……」  だって、…だってウワハルがあんまりにも儚げで、綺麗だったから――何だか君のあの顔を見たら居ても立ってもいられなくなって、…だから……。 「……ふ…、こんなに体は大きくなったのに、君はいつまで経っても甘ったれの弟のままなんだな……」 「……、…」  俺はムッとした。  ……ウワハルは俺を抱きしめたまま、ぽそっとこう小声で言った。 「でも……、このままでいたい、しばらくは……」 「……、…。…っそっか…、わかった、…――。」  きっとそれは、まだ僕らには早い、と見なしていた兄の――俺の許婚の「こたえ」だった。  ――恋仲になりたい、と言った俺への、現段階の。  俺はなかば安心した。  しばらくは、まだ俺たちの関係性が突然「色っぽいもの」にならないということへの――でも、もうなかばは密かにがっかりしていた。  ……勇気を出して「ウエと恋仲になりたい」とウワハルに言った、俺のその気持ちはまだ少し曖昧なところはあったけれども、決して――決して、嘘ではなかったから。

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