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俺とウワハルはなんとなく夜の明けかけた屋敷の広い庭に出て、並び合いそこをのんびりと散歩していた。
俺も兄も、まだなんとなく二人の寝室へ、昨日までは「兄弟の」寝室だった、その「夫夫の寝室」へ行くことを、少し避けている――あえて遠回りしようとしている――ような感じがあった。
それに俺たちはまだ少し酔っている。
けれども、大人たちが「あんまり飲みすぎるんじゃないよ」と、俺たちの「宴のあと」を気にして、からかい混じりに「私たちが代わりに飲んどいてやるから」なんて俺たちに酒を控えさせたおかげで、それもほろ酔い程度だ。
こうして散歩しているうちに、俺たちのその酔いは晴れることだろう。
ちなみにウワハルは今、宴の最中にあったお色直しのその衣装のまま――色紋付き袴、藤色の着物に薄灰の袴と、黒い長羽織(背中には豪華な金基調でウワハル自身である白龍と赤と紫の牡丹、それと杜若 が描かれている)、それから防寒用の黒い革の手袋、うなじ上の黒いまとめ髪には桜のかざりが揺れるかんざしと、こめかみのあたりには藤の髪飾り――、
そして俺もその衣装のまま――俺も色紋付き袴だ。…濃い紫の着物に濃い灰色の袴、白い長羽織(背中には銀基調で俺自身である黒龍と赤と白の芍薬 、菖蒲 が描かれている)に、俺も黒い手袋、ウワハル同様のまとめ髪には藤の花が揺れるかんざし、こめかみあたりに桔梗の髪飾り――だけれども、付け加え、…俺と彼とは今、お互い以外の相手から唇の初心 を守れるように、と、念のためになんて母上から勧められた、あの薄紫色の透ける口布も着けていた。
でもその口布を外すのも、なんだか今はちょっとはばかられるのだ。――さっきから俺たちは、先にどちらがそれを外すか、というのを、お互い密かに用心深く観察しているみたいだった。
「…………」
「…………」
この朝方の薄暗い庭をのんびり散歩する俺たちのあいだには、その実先ほどからあまり会話がないのだ。
二人ならんで庭を歩きながら見上げた、この夜が明けようとしている黎明 の空――薄紫色や群青や紺色の混ざりあったその空には、まだ白い満月も星々もかがやいてはいるけれども、昇ってくる橙色の太陽の気配もまたたしかにそこに在る不思議な色合いの、その雰囲気の空だった。
それにこの空には、たとえばこの空だけを切り取って誰かに「この空はたそがれ時のそれか、はたまたかわたれ 時のそれか」と聞くに、きっと誰もがどちらだとも明確には答えられない、その曖昧な感じのある薄明の色合いもまた、なんとも不思議な感じがあった。
それに、この空のその不思議さを強調するものは今いくつもある。
このほろ酔い、この気だるい疲労、この一睡もせずの夜明かしの散歩、それから…――。
「…………」
「……、…」
どうしてかな、…俺は、今はウワハルの手を握ることさえ何だか気恥ずかしくて難しい。もちろん彼の肩を抱いたり腰を抱いたりなんてもっとできそうにもない。
俺がちらちらとしばしば見やる隣のウワハルもウワハルで、ずっと可憐にはにかんで、終始その長い黒のまつげを伏せたままだった。――ただその薄紫色の透けた口布の下、まだ紅の残るその紅 い唇には、絶えず幸せそうなほほ笑みが浮かんでいる。…ほんのりと酔いにうす桃色に染まった兄の頬は、しかし酒のせいばかりではないような色香があった。
……黒い手袋をした俺の手の甲と兄の手の甲がとん、とわずかにぶつかる。
「……、…」
なぜかそれを皮切りに、不意に俺の頭の中に「順序」が駆け抜ける。
手をにぎる。接吻をする。…いいや、まず手をにぎる。睦言を交わす。見つめあう。それでしっかりと好機を見極めて、いい雰囲気になったら唇を…――それからどう自然に寝室まで行こう、…でも、朝の明るいなかでは貞淑な兄は抱かせてくれないだろうか、…その前に湯浴みは? 湯浴み…いつも通り一緒に入っていいの? やっぱり今度ばかりは別々のほうがいいのかな? 朝、でも、そうだ、雨戸を閉めてしまえばすっかり真夜中のように暗くなる、…行灯の灯りのなかで、優しく兄のからだを愛撫して……だけど俺、…ちゃんと見たいなぁ……。
「……、…、…」
ウエの綺麗な裸も…ウエの色っぽい表情も……。
……あぁ俺、俺たち、…上手くできるだろうか…?
「…ふ、…」
俺の隣でウワハルが上品にふきだす。
……ウワハルの手がするり…間近にある俺の手のひらを撫でて、五本の指のあいだに――彼の長い指がそれぞれ入り込み、二人の革手袋をした手指がそっと組み合わさる。
先を越された。…いや、というよりか、…俺の耳の上あたりがじわーっと熱くなる。…俺の手を握ったウワハルのこの手は、俺の不安をなだめる「兄の手」だった。――俺が不安になると、ウワハルは昔からいつもこうして手を握ってくれるのだ。
でも、今度はちょっと見くびられた気分だった。
――ふと見やった兄のそのうつむきがちな美しい横顔は、余裕のあるほほ笑みをたたえている。
「無理しなくていい…、何も急ぐ必要はない…――何なら、…ふふ、…なぁ君が言ったんだろ。〝接吻は夫夫となっても別に必須ではない〟と…――僕はしなくてもいいよ。…シタが怖いなら、僕は…」
「別に俺は怖くなんかないし、…そんなの嫌だ。……」
俺はなかば兄を見返してやりたい気持ちで、つながっている兄の手をほどき、…彼の腰を強くぐっと抱き寄せた。
は、とも、ぁ、ともつかない驚きの吐息の声をあげたウワハルは、俺の体にとんとぶつかったその細身をひく、とかすかに跳ねさせた。――背丈がほとんど同じ俺と兄の腰骨が白と黒の長羽織ごしに密着し、前を向いたままの兄のその長い黒のまつ毛は震えながら上がって、…それから…またふと下がる。そしてウワハルは、
「はは、…」
と困った笑みをこぼしながら、自分の腰にある俺の手をなで下げる。…俺はムッとした。
「何故笑うの…?」
するとウワハルは目を伏せたまま、俺をあなどった微笑のまま、
「ふふ…何故って、弟に、あんまり唐突に夫 仕 草 をされたからだ…。何だか可笑 しくて……」
ただ兄のその明言なくしても、魂の繋がっている、ウワハルの表情のわずかな変化でも彼の感情を読み取れる片割れの俺には、彼の笑みのその理由――今明言されたばかりの理由――はわかっていたのだ、…けれども、
……俺は悔しくなって、なで下げられた手を意固地にウワハルの腰に戻した。そのさなか、わざと兄の引き締まったお尻を羽織越しにするりとなでてやった。――すると潔癖な彼はムッとした顔で「おい、」と俺を睨みつけ、
「今僕の尻を触っただろう、…」
「…うん。…でももう俺ウエの夫だし、それで怒られる理由なんかないけど?」
俺は兄の怒りに、我ながらいけしゃあしゃあとそう応えた。…ウワハルは悔しそうな顔をしたが、そのある種の正論に言葉を失う。――俺はウワハルの腰を抱いたまま歩きだし、ちょうど近くまで来ていたので、俺たちの藤棚のほうへ彼とともに歩いてゆく。
……春ともあって、その藤棚には今満開の藤の花が咲きほこっている。
「お、夫だからって何をしても許されるわけじゃ、…」
ウワハルはそう遅れて反論した。
でも俺もへいちゃらな態度でさらに反論する。
「…そうかもね…、でも別に俺、人前だとか無節操な状況で君のお尻を撫でたわけじゃないし、――ふたりきりの今、夫の君の体にちょっと触れるくらい、許されるべきほんの戯 れでしょ。」
「……、…、…」
ひたと足を止めた兄にふと隣を見ると、険しく目を伏せたままのウワハルはうつむき、真っ赤になっていた。
「…ね、…ほんとにわかってる…?」
俺はニヤリとしながらウワハルの耳に唇を寄せ、小声でさらに彼をからかう。
「君、お尻をちょっと触られたくらいで真っ赤になって怒ってるけど…、…これからウエは…夫の俺に抱かれるんだよ…?」
ウワハルはビクンッと怯えた。
それからふいっと俺から顔をそむけ、震えた小さな声でこう言う。
「……ゎ、わかってる、それくらい、――あ、あのシタ、…でもその前に…湯浴み……、汗を…かいているから……」
やっぱりウワハルは「その前に」湯浴みがしたいらしい。…潔癖なのだ。
「…へへ…ウエの汗なら俺、喜んで舐めとってあげるのになぁ…? だって君のなら、ちっとも汚くなんか思わないもん……」
俺がそうやって囁きでからかうと、兄は「ふん、」と不機嫌そうに鼻を鳴らし、また早足に歩き出す。
「…っなんてみだりがわしいことを、…このけだものめ、…」
「……はは、冗談なのに。……」
今はまだ、ね。いつかはそういう情熱的な汗みどろな情交もしてみたいけれど…――俺たちは藤棚の下に入る。…そのまま自然、その下の長椅子に隣り合って座った。
「……、…」
「……はぁ…、……」
またふっと俺たちのあいだに降りて居座る沈黙……でも俺は焦って口を開くのではなく、藤棚の下から薄明の空にうかぶ満月を見上げる――豊かに垂れさがる薄紫色の藤の花を、その幻想的な、月と太陽のまじりあった光がやさしく照らしている。
……甘い甘い藤の匂いが濃い。
――「婚姻の儀」がはじまった頃のあの夕暮れの空にちょうどよく似た空、…あの瞬間から、俺たちの関係性には仲の良い、仲の悪い双子の兄弟、唯一無二の親友、理解者、魂の片割れ、幼なじみ、許婚――夜だけ恋仲――それらにもう一つ、「夫夫」というのが確かに加わった。
小さい頃は単なる双子の兄弟で悪友、…それから片想いの相手になって、つい半年前にやっと恋仲になって、…自分の片割れ、いつも側にいる兄弟、離れることを許されない双子ではありながら、喧嘩のさなかもふしぎとお互いに離れたいとも思わない。
水魚の交わり、まさに肝胆 相照 らす仲、ほとんど常に相手の心が聞こえ、相手が言わんとしていることを言う前に察し、目を見交わすだけでお互いの次の行動を覚 って、喧嘩をしたことももちろん数えきれないほどあったけれども、それでいて誰よりもお互いのことをよく知っている双子の兄弟、誰よりも仲が良い唯一無二の親友、相手はもう一柱の自分というほどの最大の理解者――そうした俺たちの関係性は今もなお変わらないし、…きっとこれからも変わらないのだろう。
昔俺は、俺たちの関係性が変わってしまうことをなぜともわからず恐れていた。
俺たち双子の関係性が、何かを境い目にすっかり変わってしまうのではないか。もう仲の良い双子の兄弟ではいられなくなってしまうのではないか。あんなに楽しかった日々が、これからはもう続かないのではないか――何かしら夫夫としての緊張感や落ち着きをともなった、少し恥ずかしくなるようなしっとりとした関係性に、すっかり変わってしまうのではないか。
けれども――こうしていざ夫夫になってみると、この関係性というのは案外恐ろしくもなんともない。
「…俺たち、もう夫夫なんだね。」
俺はあっけらかんとそう言った。
……信じられないことに、俺は昔、自分がウワハルに恋をするだなんて不可能だと思っていた。
兄は兄だと。…ところが俺は自然と、運命られた許婚だからというのではなく、ただ成り行きのままウワハルに恋をしたのだ。――きっとあのときは、やがて恋仲だの夫夫だのという関係性になったなら、無理をしてそれにあわせて何かを変えなきゃならないのかも、なんて思っていたから恐ろしかったのだ。
兄は俺にこうそっと言葉少なに尋ねてきた。
「君は期待していたか」
「…ううん。…むしろ、何も変わらないことを期待していた。…昔はね――。」
昔は、そうだった。
でも、どうして「何も変わらない」なんてことがあるだろう。――芽吹きからここまで成長したこの藤棚の藤は、もうこんなにも立派に美しい花をたくさんぶら下げるようになっているのに。
近ごろの俺は何も期待していなかった。兄と夫夫になるからと、何かが変わることを期待していたわけではない。…かといって、何も変わらないことを期待していたわけでもない。
もうそのあたりはどうだってよかった。
変わろうが変わるまいが、変わらない。どうなっても絶対に変わらないものがあるから、何かが変わっても変わらなくても同じこと。――もちろん、まだなりたてじゃ夫夫としての正解を探っているところはあるけれども、そのうちそれの正解だって自然とわかるのだろうし。
「僕は大好きだったよ」とウワハルは、きっと俺と一緒に藤の花や紫の空にある月やを見上げながら、少し夢見がちな微笑を含ませて言うのだった。
「なあシタハル、僕たちはさっき夫夫になったが、だからといって、昨日までの僕たちが死んでしまうわけではないだろう。…だから…これからもずっと、唯一無二の親友のような仲の良い双子の兄弟でもいよう。――ふふ…何なら、…」
「それは嫌だってば。」
俺は先んじて兄の言葉を嫌がった。
兄はからかう笑いを含ませてこう言う。
「…そう? ふふ…僕は構わないのに。ずっと兄弟のままでも…、…僕は…――」
ウワハルももう知っていた。
――だから彼は、美しいささやき声でこう言った。
「僕は泣き虫で、弱虫で、意気地なしのシタハルのことも……ずっと、…本当はずっと、大好きだったよ……」
「……、…」
俺はふとおもむろに隣へ顔を向けた。
兄のそのほの明るい朝焼けの桃色に染まった横顔は、とても美しいほほ笑みをたたえていた。…見惚れた俺が吹かせるあたたかいそよ風に、兄のこめかみのあたりを飾る藤の花がゆらぐ。
朝焼けの光が、兄のその微笑した青白い瞳を、潤んだように光らせて見せている。
「…ずっと…、僕は生まれたときからずっと、シタハルを愛していたみたいなんだ…。だから僕は、どんなシタハルでもいいんだよ…――たとえどんなに情けなくたって、ふふ、…僕はシタが大好きだ…。」
「……俺も…。…俺も、…そうだったみたい……」
俺もずっと唯一無二の兄を、家族を、親友を、理解者を、片割れを、許婚を、恋人を――ウワハルを、ずっと愛していた。
それから、これからは夫を…――何が変わるというの?
「…はは……好きだ、ウワハル。…大好きだ、ほんとうに大好き…――俺、君を愛してる…。」
はじめからずっと愛していたというのに、夫夫になったからって――何が変わるというの?
生まれたときから本質は同じ。…ただ愛しているというだけで、愛していたというだけで、そしてこれからも、愛してゆくというだけ――。
「…ふふ…。でも…僕は今、実は少し怖いんだ……」
ウワハルが藤の花越しに満月を仰ぎ見ながら、その横顔にその通り儚げな不安をにじませてそうこぼす。
「これからは君の夫としても振る舞わなれけばならないだなんて…――僕、今はまだ…正直上手く出来る気がしない……」
そう弱音をこぼした不安げな兄の手の甲を、俺は上からきゅっとやさしく握った。――いつも兄がそうしてくれるように。それから兄の黒い肩に、白い肩をくっつけた。
「大丈夫だよ。上手く出来るとか出来ないとか、考え過ぎ。…だって上手く出来ないはずがないもの。…俺たちなら、何だって絶対上手くやれる。――今までだって、俺たちは二柱で何でも上手くやってきたでしょ。…ね、ウエ…俺たちなら絶対大丈夫だ。」
君と俺とが離ればなれにならない限りは虎 に翼 だ――俺たちはこれからも、何事だって必ず二柱で軽々上手くやってのけられる。
俺のこの確信は、ウワハルを安心させられた。彼はふと俺に顔を向け、「はは…」とそのツリ目をやわらかく細めて笑うのだ。
「……そうだね、考え過ぎかも…。…ふ…僕がこうして考え過ぎたときは、これからも君が、こうして優しく僕を叱ってくれる…?」
「うん、もちろん。任せてよ。…」
と俺は笑顔で揚々 答えて、それから真剣に黙って――ウワハルの、その青白い光沢のある「月の瞳」をじっと見つめた。
黒いまつ毛に彩られた気の強そうなツリ目は今、酔いか疲れかで少し弱々しくゆるんでいる。疲れのせいの、その目の下の艶のある赤らみがなんとも色っぽい。――その疲れに蒼白くなった美しい顔が、それなのに酔いでうっすらと紅潮した両頬が、なんだか恐ろしく色っぽい。
薄紫色の口布の下、少し気取った紅の差す、なまめかしい曲線をえがく猫のような小さい唇は…――俺の視線が触れると、はにかんだ弧を描く。
俺は微笑み、またウワハルの目を見つめた。
「…ウエはほんとうに美しいね」
照れもせずそう微笑みながら突然言った俺に、切ない表情をうかべたウワハルは俺の目を見つめたまま、する…と黒手袋の指先で、俺の頬を撫でた。
「シタハルは…、いつの間にか、こんなに立派な男神になって……――ふふ…、……」
「……、…」
ドキ、とし、息をのむ。
ウワハルのその眉尻の下がった美しい微笑み顔は、その片側だけが夜のように蒼く陰り――もう片側には夜明けが訪れ、うすい橙色に明るんでいた。
俺はうっとりと兄のその儚げな微笑に見惚れた。兄も俺の橙色の「日の瞳」に見惚れながら、『いつもの…シタの目じゃない…』と心のうちで独りごちる。
「……、…」
「……、…」
――『弟の目が、今は見たこともない男の恍惚とした目をしている…、今に僕を抱こうという意志に満ち溢れた、鋭い男の目つきをしている…』
「…………」
「…ほんとうに、君は綺麗だ…、……」
俺がウワハルの片耳から口布の紐を外すと、はら、とあらわになった兄の半開きの唇は、紅に紅く染まったままだ。――ゴクンと俺の喉が鳴る。
緊張してドキドキと胸が逸 る。けれども、俺は顔を傾けながら目を伏せ、兄のその唇に唇を寄せていくまでの動きを、あまりにも自然に、流れるように行なった。――が、
「シタ、待って、…」
とウワハルが間際で俺の鎖骨を押し返し、ふと目を伏せる。俺はびっくりしたのと悲しかったのとで目を見開き、
「えっど、どうして、? 嫌だった? したくない、? おっ俺と接吻、…」
今、ものすごくいい雰囲気で…――。
……でもウワハルは破顔して俺を見た。
「はは、馬鹿、違うよ、…僕だって接吻するのは構わない、…ただ、…」
そして兄はいたずらな笑みを浮かべたまま、また目を伏せ――俺の口布の端をつまんで軽く引っ張り、可愛い上目遣いで俺を見る。
「こ れ 。――口布越しに接吻するつもりなのか?」
「…あ、…ぁ〜〜…」
かああーーっと顔中たちまち熱くなってゆく。
恥ずかしすぎて笑いがこみ上げてくる。――俺は忘れていたのだった。…ウワハルのなまめかしい唇にばかり気を取られて、自分の口もとにある口布の存在なんかすっかり忘れていた。
「あっははは、はは、ごめ、…ククク…ごめん、俺忘れてた、……」
「…ふふふ、…あはは、…はは、全く、相変わらず詰めが甘いんだ、シタは、…」
ウワハルも白い端整な歯を見せて明るい笑い声をあげる。
けれども、くつくつと肩を揺らしながら目を伏せた兄はまず、自分の片耳にひっかかったままの口布の紐をはずし、それを完全に取ってから、ふと微笑んで俺を見た。
「…僕が外してやる…、……」
とそしてウワハルは、俺の両耳にそれぞれ指を伸ばした。俺は照れくさくて目を伏せる。――兄はやさしくそっと口布を外してくれる。
「……ほら…、…外れたよ……」
「……、…」
すると俺の口もとがすがすがしい自由に触れて、そのさっぱりと涼しい春の朝の空気を感じると、俺はその解放を――思えば半年どころか、十年もの拘束が外れたのだというその解放を――やっと実感する。
ふと目を上げる。
――兄は俺と目が合うと、はにかみの微笑みをふっとその、朝と夜の境い目にある美貌に浮かべた。
「……、…」
「……ウエ、していい…?」
そんなの聞くまでもないことだ。なのに決まり悪くって聞いてしまったことだ。
ウワハルはそれに文句を言わなかった。していい、とも言わなかった。――ただ兄はその長い黒のまつ毛を艶めかせながらそっと伏せ、そのままそっと目をつむりながら、うす桃色に色づいた頬の紅潮をじんわりと濃くした。
俺はウワハルの腿 の上にある手の甲にそっと手のひらを重ね、もう片手は彼の片頬に添えて、
「……、…」
慎重に顔をかたむける。慎重に目を伏せてゆく。慎重に――兄の紅い唇へ、紅い唇を寄せてゆく。
……俺は目をつむった。
ふに……同時に触れあった。
「……ん…、……」
「……、…――。」
ふに…と――くすぐったいほどやわらかい二つの唇が、ふるふると震えている二つのあたたかい唇が、一つになりたがってしっとりと吸い付きあう二つの唇が…――やわらかいのに、お互いにやさしく押しあうようなハリのある二つの唇が、ふに…と触れあった。
……腹の底から胸へこみ上げてくるこのくすぐったい震えは、俺の唇の両端を照れくさく引き上げる。――どうも歓びとか、幸せとか、それとはちょっと違うみたい。
でも、決して悪いものじゃなかった。
……だから俺は、もう少しウワハルの唇に、唇を押しつけた。
「……んん…」
兄は驚いたようにかすかな声をもらした。
……決して、決して悪いものじゃなかった。
だから、ざわ…とあたたかい春風が吹いた。
俺の片頬を、兄の片頬にそえた手のひらの甲を、兄の髪飾りの藤の花がくすぐる。
朝日のもとで舞いおどる藤棚の藤の花びらが、俺たちの手の甲や頬や首筋やをくすぐる。
まだ白い満月も星々もきらめく薄明の空、朝と夜との境い目の下――うっとりと目をつむり、唇を重ね合わせた俺たちのまわりを春風が、藤の花びらが取りまいて、舞い踊る。
ふ…と唇を離し、薄目を開けてウワハルを見た。
「……、シタ、…ふふ……」
ウワハルは頬が赤いまま幸せそうに微笑し、俺の肩をそっと押しかえしてから、ふとはにかんで目と顔を伏せた。――舞いおどる藤の花びらのなか、黒い長いまつげが艶めいている。片方だけ朝日に照らされているウワハルの顔、春風にゆらゆらと揺れる藤の髪飾りと、藤棚の藤の房の影が、兄の妙 なるその美貌を、その紅が引かれた唇の可憐な微笑を引き立てている。
俺たちは陰と陽、一つになれば――いつだって朝か昼と、夜のその境い目にいる夫夫神、なのかもしれない。
「ウワハル…君が一番綺麗だ。」
別に何かや誰かと比べているわけでもないのに、俺はなぜだかそう確信していた。それで、
「…ぁ…っ」
俺は自然とウワハルを長椅子に押し倒していた。
なんだかこのまま、この高ぶった気持ちのまま、俺はウワハルを抱きたかった。――兄が綺麗だと、一番綺麗だと心から賛嘆すればするほど、俺はふしぎと兄を抱きたくてたまらなくなった。
……俺がウワハルの藤色の着物の衿もとに手をかけると、彼はキッと怒った顔をしてパシッと俺の手を払った。でもへこたれず、自分でも恐ろしいほど興奮しはじめている俺は、着物の上からウワハルの胸を荒々しくまさぐる。
顔をしかめた兄は、まさに無理やり通じようとしてくる男を拒む動きで身をよじり、俺の手首を痛いほどつかんで、
「んっ…ん、♡ 嫌っ…おい、嫌っ嫌だ、…っ」
と暴れるが、今や俺がウワハルに力負けなどするはずもなく、…俺は手首にウワハルの爪が立てられてもなお、兄の胸を無理やりまさぐる手を止めない。
「駄目、嫌、俺が嫌、だってもう我慢出来ない、だって俺、だって最近ずっと我慢して、…接吻したら箍 が外れ…んん゛ーーっ」
……するとウワハルの手のひらが、俺の顔をぐいーーっと斜め後ろへ押しのける。その圧力に俺の口もとはへしゃげている。
「そ…それは僕もそうだ、…そうだが、…」
「じゃあ何 、」
「でも…こ、」
とウワハルはここで、とたんに小声になってこう言う。
「此処じゃ…こんなところじゃ、嫌だ…――初めては…、は、初めては…きちんと閨房 で…優しく、丁寧に…、…それに…湯浴みで、きちんと身を清めてから……」
「じゃあ一緒 におふろはいる…?」
「…馬鹿、っもう…そんなの駄目だ、…だってどうせ君、我慢出来なくなるだろ、っ当然別々に……」
「……なるほろ…。わかった!」
なるほど。
俺は今上機嫌だった。
だってウワハルのこれは「条件付きの拒絶」だったとわかったからだ。
なので俺はさっさとウワハルの上から――長椅子の上から――下り、きょとんとしている兄の細身を軽々と横抱きにして、
「えへへ、俺のお花ちゃん…?」
なんて甘い雰囲気づくりもばっちりに、まずは浴場へ歩いていく。
……ウワハルはというと、まんざらでもなさそうな笑顔で俺の胸板に片手を添え、もう片手は俺の背中側からまわして、首の横あたりを支えに掴みながらも、
「…それはまだちょっと気味が悪いな…」
とか、挑発的な可愛い上目遣いで俺をからかう。
「…まあいつか慣れるって。へへへ…」
「……うん、まあ…そうかもね…、…――。」
ウワハルは仕方なさそうに笑った。
それから目をつむり、その紅のついた唇で俺の頬にちゅ、と口付けてから…、俺の首筋に、甘えるようにすり…と頬ずりをしてきた――たまらなく愛おしい!
そしてそのまま俺の首や胸にもたれかかり、兄はすっかり俺に身をあずけてくれるのだった――。
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