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「それにしても…」と(シタハルの正論を無視した)道真 公が、感慨ぶかそうなため息まじりにこう言う。
「君たちも随分と大きくなったものだ…」
「あはは、おじさん、それ会うたびに言ってるぅ」とシタハルが新しい餅の包みを開きながら言う。
すると道真 公は照れくさそうにちょっと口角を上げて、「いやはや…」
「…私のことを〝おじたん、おじたん〟と言って慕い、あんなに小さかった坊やたちが…――今やこうして、花の香を人の世に届ける春風を吹かせられるようになったとは…、神の世も人の世も、時の流れは早いものだ……」
「……しかし、公は」と僕は見上げていた白い梅の花から、道真 公へ顔を振り向かせる。
「…変わりませんね。昔から」
すると道真 公は照れくさそうに笑いながら「…いやぁそんなことはない…」と目を伏せ、懐に手を入れる。そして、
「私も変わったよ。いや、神とて時代に合わせて変わらねばならんからな…――たとえばほら、コ レ よ コ レ 。」
なんておちゃめに公は、懐から取り出したボールペンを手に握り、僕にそれを示して笑う。
「コレはなんとも便利なものだ、筆なんかよりよっぽどな。…いやいや、筆と硯 と炭も善いものだが…」
ただ、ここでふと思案顔をした道真 公がうつむく。
「それに…元よりスマホやパソコンも悪くはない。私もそれらを愛用はしているのだ。が…、しかしどうも私は、詩ばかりは手で書いてこそと…、やはり詩は手で書きたくてな…、打ち込むというのじゃ書いた気にならず、こう…何というかそれだと心の満足がゆかない…――うぅん、…」
と難しそうにうなった公のその精悍な顔に少し不安がただよい、ふと彼はまた僕へ顔を向ける。
「といって…こんなのは古い考えだろうか、ウエ君? このようなこだわりは、現代の人の子たちを導く神としては、もうそろそろ捨てたほうが……」
「いえ、全て変わればいいというものでもないですから」
僕はそう微笑み、また自分の咲かせた梅の花を見上げる。
「もちろん公はご存知でしょうが…必要な限り、古き良きものは新時代にも残るべきです。…この梅の花のように…――だから公も、まだ詩は手でお書きになられたいのでしょう。…まだそのこだわりは、今の時代でも真心を感じられる〝善いもの〟なんです。」
「……、ふむ。なるほど…それもそうだな……」
「…はい。――あ、ところで…」
僕はこの白い梅の花をあたたかい気持ちで見上げながら、そう切り出した。
「知ってた? 〝彼女〟…おじさんのこと、夫だと思っていますよ。…自分は妻だって、さっき…、あんまりにも美しい美しいと見つめるからだよ。」
すると道真 公は「妻…」と驚いているが、こう困ったように笑う。
「ははは…参ったな…、私の恋心を見透かされてしまっていたのかもしれん…――いや、薄々そんな気はしていたがね……」
「……ふ…、何だ、両想いでしたか。…あ…ほら〝彼女〟、喜んでいますよ」
さわさわと枝を揺らしてクスクス笑い、喜んでいるその梅の大樹を、道真 公は何も言わずにただ眺めているようだ。
「……今夜辺り…おじさんの枕元に彼女、人の姿になって現れるかもしれないな…――きっと、とびっきりの美女だよ。覚悟しておかないと……」
「……ふふふ…――ところで…ウエ君?」
「はい?」
僕は再び道真 公に顔を振り向かせた。
公はその凛々しい顔に少しいたずらな微笑をたたえている。
「どうだ、ア レ は元気にしているかね。」
「……ん、あぁ…じいやですか。はい、それはもう…、……」
僕はふとうつむいた。
……誠実を重んじる道真 公に嘘は…、というのも、今ごろじいやは…――。
「なんだ…? 〝大事にする〟と私に約束してくれただろう?」――道真 公が少しからかうような、しかし厳かな低い声でそう言う。
「……あ、ええ、あの…、……」
そう…なのだ。――僕たちは道真 公とそうした約束をしている。
……というのも、僕らが人間にしてまだ二、三歳のころ、僕とシタハルは父に連れられて道真 公のお屋敷にやって来た。
――そして出逢ったのである。
そう、じいやに。
じいやは黒い艷やかな短毛でその筋骨 隆々 とした大きな体をおおった、見た目はいかにも猛々 しい感じの、血のような瞳をもつ雄牛だった。
ちなみに神の眷属とは縁ある動物が選ばれてなるものだが、その実じいやはそのときはまだ正真正銘道真 公の眷属であったし、何なら公はじいやの育ての親である。つまり父なのだ(だから僕とシタハルはしばしばじいやや公を「じいやもおじさんなのに、おじさん(道真 公)、じいやのお父さんだもんね」なんてからかい、時おり公を「じいやのお父さん」なんて呼んだりもする)。
そして道真 公の眷属である牛は他にもいるが――秋の涼しい広々とした前庭で、公は見た目のわりひと際気性がおだやかで子ども好きな牛であるじいやの背に、小さな僕たちを『特別だぞ』と抱き上げ、乗せてくれた。僕は前に、シタハルは僕の後ろに座った。
ただ臆病者のシタハルはその高さに驚いて怖がり、メソメソと泣きながら後ろから僕にしがみついていたが――僕はじいやのたくましい太い角 を小さな幼児の手で手綱のように掴み、まずじいやのその雄々しい見た目の格好よさ、そして上がった目線の気分の良さとじいやの背のあたたかさ、そのままトコトコとゆっくり歩いてくれるその揺れの心地よさ、そしてじいやが優しい声で『なんとお可愛いお客人だ。ああお可哀想に、そう泣かれますな…』なんて僕らをあやしてくれる――そのじいやの全てに、幼心を魅了された。
……ほとんどこれもある種の運命の出会い、一目惚れのような感じだった。
『…うえぇ、こわいよぉにいにぃ…っ』
『…おおよしよし…、ほぉらお坊ちゃま、私めの尻尾をご覧くださいませー』――そうシタハルに言ったじいやは、たちまちシタハルをキャッキャと笑わせた。
『風車でございますー。はっはっはっ…』
『あははは…っしゅごーい…! しゅごいねぇ…っ』
『ふっふっふっ……ところでお坊ちゃま方のお名前は、なんと…?』
『ぼく、うわはる。後ろのはしたはる。』
『おお、そうでございますか、もうきちんとお名前をご自分で…なんと賢い…、えらいですなぁウワハル様、シタハル様…――こんな牛めの背でよろしければ、お帰りになるまでどうぞこのまま……』
『ううん。…このまま一緒 におうちかえろう』
ぼくは絶対この牛たんをおうちに連れて帰る。
すぐさま僕は心にそう決めた。
『は…はい?』とじいやは困惑したものの、
だから、そばで寄りそい歩いてくれている道真 公にこう言った。
『おじたんっ…この牛たんちょうだ い!』
しかし公は『何、』と一瞬面食らい、それから困惑の表情を浮かべた。
『いや、悪いがな、あげられるようなものじゃないのだよ…。…そうだ、私の家に木彫りの牛がある。坊やにはそれをあげよう』
『やあだ…っ』と言ったのはシタハルだった。
弟は弟で、泣いている自分にやさしく声をかけてあやして、のみならず楽しませて笑わせてくれたじいやに、このじいやという牛ばかりは良い牛だと、安心感と愛着感とを覚えはじめていたらしい。
『おれもこの牛たんとねんねしたいぃ…っ』
しかし道真 公のそばを共に歩いていた父は、
『こらお前たち、そう我儘 を言うんじゃありま…』
と僕らを叱るつもりで言いかけたが、それより先にむずかる僕がこう公へ向けて言った。
『おねがいおねがい、大事 にするからぁ…っ! ぜったいぜったい大事 にするもんっ…! ちゃんとお世話 するもんっ…ご飯 もぼくがあげるし、チッチにもぼくがつ れてってあげるもん、おきがえだってぼくがしたげるからぁっ!』
『おれもこの子のお世話 したげるもん…っぜったいはなれないからあああ!!!』――なんて泣き叫んだシタハルはというと、ずりずりと尻を後ろへすべらせ、じいやの背にしっかとしがみついた。
『はははは…』――じいやはおそらくシタハルが落ちては危ないからと足を止めながら、困って笑った。
『いやしかし、私はそういったお世話は必要ありませんぞ…、もし仮にもそうなれば、却 って私めのほうが若君たちの……』とそしてじいやは穏やかに――どこか嬉しそうに――言いかけるもすぐ、そばに立つ道真 公へかしこまりながら頭を下げる。
『いっいえ、大変失礼いたしました、…私は貴方様に忠誠を誓った眷属であります、…育てていただいた御恩とて忘れたわけでは、…決して、私は決して貴方様の側を離れたいと申したわけではございませぬ、…どうかお許しを、…』
『……、…』
そうしたじいやを見下ろしていた道真 公は厳しい顔をし、それから僕をじっと怖い眼差しで見据えた。まるで厳かな父のような顔だ。――そして公はこう僕に聞いた。
『絶対か。』
と。恐れ知らずの僕は少し怖いと思ったが、
『うんっ…』
幼い眉が寄るほど真剣な思いで道真 公に頷いた。公は恐ろしい顔で脅すようにこう更に聞いてきた。
『この牛が病気になっても、お前たちが自分で看病出来るのか。』
『…うん…っ』
『お前たちのご飯を、半分コレにくれてやってもか。いいや、全部のときもあろう。それでもか。』
『う、……うん…っ』
『本当だな……』
道真 公は静かに怒っているような厳しい顔をしたまま、その真っ赤な瞳で僕たちを凝視した。
僕とシタハルは泣きそうになりながらも、…声を揃えた。
『『うん゛っ』』
『……、…』
すると道真 公はすーっとその切れ長の目を細め、脅すような低い謹厳な声でこう言った。
『では約束だぞ。その約束を破ったなら、すぐお じ た …、いや。おじさんのところに返してもらう。……』
そして道真 公は父へ、少し厳しさをゆるめた真顔を向け、
『コレはその実、些 か気性が優しすぎてな…。どうも私の眷属にしては勇ましさが足りんのだよ。…余程 子守のほうが向いているのやもしれんとは、かねてより私も思っていたことだ。――故に私は構わんが…君の方 はどうだね。』
『あぁ申し訳ない…、我が子たちのこんな滅茶苦茶 な我儘を……』と父が眉を押さえながら、申し訳なさそうな伏し目で言う。
『いいや、好いのだ。あるいはこれも何かの縁だろう。』
『おじたん、この牛たんぼくたちにくれるのっ?』
この一連の会話に会得をさとった敏 い子どもだった僕は目を輝かせながら、道真 公にそう確かめた。公は困ったように少し笑って、
『ああ。但 し、〝大事にする〟という私との約束を守れるのならな。』
『…うんっ、約束 する、…大事 にしゅるっ…! ぜったいぜったい大事 にするっ…! ずーっと大事 にしたげるね、ありがとぉおじたんっ!』
『ありがとぉおじたん…えへへ、だいすきぃおじたん…、牛たんもだいすきだよ…? おれたちといっしょにおうち帰ろぉねぇ…』
なんてシタハルはじいやの背にすりすりと頬擦りして言う。――そしてじいやは道真 公へ向け、うやうやしく頭を下げながらこう言うのだった。
『…寛大なお心遣い、大変痛み入りますご主人様…――それでは…これよりは若君たちのお側にてお務め、果たして参りまする。』
『うむ。…まあたまには文 でもくれ。――子守に疲れたらいつ帰って来てもよい。が…はは、お前にとっては、それこそ天職かもしれんからな……毛頭期待せず、お前の帰りを待っているとしよう。』
と――道真 公はそうしたわけで、じいやを「僕たちのじいや」として譲ってくれたのだった。
……なお、つまり一応はまだじいやは半分道真 公の眷属ではあるのだが、…少なくともじいやが僕たちに愛想を尽かして公のもとへ帰らない限り、じいやは半分僕たちの眷属でもある…――といった感じで、今に至っているのである。
が…僕は少し前のめり、じとっと横目にシタハルを睨みつけた。
……今じいやは屋敷で大人しくして…――というか大人しくせざるを得ない状態にあるのだ。…このシタハルのせいで……。
お前が説明しろよ。
「……、…」
シタハルがぷいっと僕から顔をそむける。
「ふっふふふ……さては何か仕出かしたな、この悪戯坊主ども。」
道真 公がからかうような鋭い目をして言う。
「大事に出来なかったのなら、お じ た ん に返す約束だぞ?」
「…いえ、シタです。僕は悪くありません。」
だが、僕は本当に悪くない。と腕を組む。僕は今度ばかりは本当に無辜 だ。――なあ、シタ?
「……別に…」と目を伏せているシタハルが、きまり悪そうに事の次第を話しはじめる。
「今朝、ちょっとじいやとキャッチボールしてただけ…、…で、悪気は無かったんだけど…――当たりどころが悪くって……」
「……何?」
さすがに公もいささか険しい顔をする。
するとシタハルはうなじを押さえて目を瞠り、道真 公へ向けて慌ててこう弁明する。
「いやっ別に当てようとしてたんじゃないよ? ほんと、誓って、…ただ、じいやのおでこにボールが、…その…――で、たんこぶ…あと尻もちついちゃったじいやが立ち上がるとき、…変に腰ひねって、…ぎっくり腰になっちゃって……」
「……おおたんこぶに、ぎっくり腰か…、それはさぞ痛かろうな…――まさに泣きっ面に蜂 だ…」
しかし…――公は心配そうにそう言うだけで、なんなら、
「憐れだがな、…まあ子守をしていればそれくらいのことはよくある。…私もあったよ。数え切れないほどにね。…はは…」
と穏やかに笑い、「さて」と僕とシタハルとを優しい眼差しで――しかし真面目な顔で――見据える。
「〝大事にする〟…君たちは私とのその約束を守らねばならない。…そしてその約束の中には、アレが病気になったなら君たち自身で看病をする、というのもあった。…ということで、さあ土産の餅をたくさん持って、早くアレのところへ帰りなさい。」
「…はい…」
とシタハルはきまり悪そうだが、僕は悪くないので罪悪感もなくほほ笑み、こくんと公へうなずいた。すると道真 公もほほえみ返す。
「それと…今年も春を、ありがとう。――後日、礼の品にささやかながら、今日出来たばかりの詩を添えて送るよ。…だが…」
公はふっとまた穏やかな顔で、愛する梅の大樹を見上げる。
「私はもう少し、この子といよう…、…坊やたちは先に……」
「…はい、ありがとうございます。…じゃあ、そろそろ」
と僕はシタハルの脇を肘で小突いた。
ん、と返事をした弟と、公へ頭を下げてから歩きだす。
「…全く、この力馬鹿め。」
「…だから悪気はなかったってばー…」
ただ…――道真 公は歩いている僕の背に、
「…あぁ、ウエ君…っ」
と、…僕は「はい?」と応えながら、体ごと後ろへ振りかえった。
道真 公は昼の晴天の下、白い花を満開に咲かせた梅の大樹の前、少し寂しげに微笑んで僕を遠く見ていた。
「春を、忘るな…。ゆめゆめ春を、忘るな――。」
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