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 ――今の…記憶は……。 「――……、…」  ……ふっと白いかけ布団の(へり)の上、ハルヒさんのあめ色の大きな手の甲――その手のひらに包みこまれた自分の片手が、僕の視界にもどってくる。  今のもそう…間違いなく「神の記憶」だ――。  僕は本当に、天上春命(アメノウワハルノミコト)として道真(ミチザネ)公と親交があったようである。――それもうんと小さな頃から……「おじたん」、か……。 「……、…」  僕はうつむいたまま、そっと左手で自分の胸板の中央を押さえる。  今ここに――僕の胸のなかに満ちているこの静寂はしかし、その追憶への静かな慕わしさが春の日だまりのようにあたたかく、あたかもこの胸のなかに春の陽光が満ちみちているかのように心地よかった。  ……僕は目を伏せたまま、ほほ笑んでいた。 「……ふ…、……」  僕は今天春(アマカス) 春月(ハヅキ)である。  だが僕は今、ウワハルとしての「懐かしさ」をも覚えている。――あたたかい涙がかすかに両目ににじむほど懐かしく、とても愛おしい「記憶」だった。  それに…どうやら僕はハヅキとしても、道真(ミチザネ)公に会っている。  それは、公がご祭神である神社へ参拝しに行った…というのではなく――あのダンディな渋さのある格好いいおじさんの容姿には見覚えが……いや、僕はやっぱり「あのひと」を知っている。 「……、そうだ…――〝おじたん〟……」  おじたん……ハヅキとしての僕がまだ読み書きもできないくらい小さい頃、彼は僕たちの家までよく来てくれては、小さな僕にひらがなや簡単な算数なんかを教えてくれた「おじたん」だ。――僕は幼稚園や保育園といった場所には通わなかったので、小学校にあがる前の準備として、そういった簡単な勉強を「おじたん」からもよく教わっていたのだ。 『ハヅキ君、これは〝あ〟と読むんだ』――あぐらをかいた脚の上に僕をのせて後ろからかかえ、彼はひらがな学習用の絵本を僕に見せながら、ひとつひとつ丁寧にひらがなを教えてくれた。 「……っ、…」  僕は思わず泣きそうになり、ふっと息を詰める。  ――『では、これはなんだ?』とその人の指先がさし示した一文字に、僕は『〝あ〟!』と元気よく無邪気に答えた。  すると『正解だ。よく出来たな』と彼は、僕の小さな頭をぽん…ぽんとやさしく、そっとその大きな手のひらで包みこんでくれた。  ――「おじたん」はいつも僕の努力を認め、小さなことでもよく褒めてくれた。  ……大好きだった。ハヅキとしても…――。  僕は「おじたん」に褒めてもらおうと、彼が帰ったあともひらがなの絵本を開き、一生懸命それを覚えたものだ。――そして次に、覚えたてのひらがなで母と一緒に書いたつたない手紙を、僕は「おじたん」に自慢げにわたした。 『おじさんへ だいすきだよ いつもひらがなおしえてくれて ありがとう』  すると「おじたん」はその切れ長の目を真っ赤にして潤ませ、『すごいぞ。えらい、えらい、ありがとう』と僕の頭をいつもより激しくワシャワシャと撫でてから、満面の笑みをうかべたなり僕をひょいっと抱き上げ、ぎゅうっと抱きしめてくれた。――僕はキャッキャと笑うほど嬉しかった。がんばった甲斐(かい)があったと、彼の首に抱きついて、父にするように甘えた。 『おてがみ、うれしかった?』と僕は彼に聞いた。 『ああ。』と笑いながら、「おじたん」はそうとだけ答えた。 『じゃあ宝ものにしてね?』 『ああ。おじさんの家に、いつまでも飾っておくよ。…ははは……――。』  抱きしめられたときに嗅いだあのひとのあの匂い…、あれは、梅の花の匂いだったんだ…――。  見守ってくれていたんだ…――ずっと、 「…おじ、たん…、ふふふ…、……っ」  知らなかった、…いいや、忘れていた。  ――僕は忘れていた。…大好きな「おじたん」、敬愛している道真(ミチザネ)公のことをも、僕はすっかり忘れてしまっていた。  会いたいな……まあ、ひょっとするとまたああして普通に会えるのかもしれないが、…まずは久しぶりに公の神社へ参拝しに行こう…――と僕は心に決めながら、白いパジャマの袖でちょっと濡れてしまった目もとをぬぐう。って、 「……、…はは……」  ふと目を上げ、…困って笑う。  ……つい昨日引っ越してきたばかりのこの寝室、和風モダンの趣向を凝らした――まるでおしゃれな旅館のような――この部屋がまだこうして真新しく感じられるとおり、そもそもここは新居なのであった。  すると、僕が以前漫画家になれますようにと願掛けしに行った道真(ミチザネ)公の神社は、前の家の近所にあったので、…そもそも僕はこの家の住所さえ知らないし――まあ公の神社は小さかろうとあちこちにある、といえばあるが――、…お詣りに行くにしても、まずはこの家からなるべく近い道真(ミチザネ)公を祀った神社を探すところからである。 「……ふふ…、……」  ちょっと骨は折れそうだが…、…必ずまた近いうちに会いに行きますね、道真(ミチザネ)公…――いや、道真(ミチザネ)おじさん。  とここで、唐突に横から勢いよく、 「…えへへっ…、ハヅキぃ〜…?」 「……っん゛、…」  ハルヒさんにぎゅうっと抱きつかれたそのせいで、僕の上体がその横からの衝撃に軽くゆらぐ(もはや軽いタックルである)。  そして彼は僕の耳もと、こう色っぽいあでやかな小声で囁きかけてくる。 「()()()の結果ぁ…――やっぱ君、()()()()()()()()()()()()()()みたいだねぇ……?」 「……、…、…」  そう…だった、…  僕は今さっき思い出した道真(ミチザネ)公とじいやとの「記憶」の、その追懐(ついかい)に浸ってすっかり忘れていたが、――そもそもその「神の記憶」をまたひとつ思い出せたきっかけは、 「じゃあハヅキ、俺といぃっぱいえっちなことしないと〜…――えへへ…♡」 「……、…、…」  ……おそらく、このハルヒさんの愛撫である。  先ほども彼のその愛撫に性感を得、そして彼に道真(ミチザネ)公のことを質問されたのをきっかけにして、僕はその「神の記憶」を思い出した――そもそも昨日からどうもそういった感じで思い出している――ようなのだが、…  ……もしこれが「鍵」だったとしたらたまったもんじゃない、…いや、ハルヒさんに求めてもらえるのはそりゃあ嬉しい、ただ、…いや…特にそれが嫌だと思う理由は思いつかないのだが――ただ耳たぶがとにかく熱い――、…とにかく、なんだかやたらと抵抗したい気分だ、…無駄だったとしても……!  僕は耳もとで「ね、だから世のため人のため…、このままえっちしよ…?」なんて嬉しそうに(しかし狡猾に)囁いてくるハルヒさんの、その腕のなかからするりと抜けでながら、そそくさとベッドから下りた。 「……ぁ、…ねぇハヅキぃ…」とハルヒさんは不満げである。  が、僕はふとベッドに――僕が腕から抜けだしたなり倒れたらしく、そのベッドの上で上体だけうつ伏せになり、両頬をてのひらで包み込むようにして頬杖をついて、むすくれた顔で僕を見上げてくるハルヒさんに――ふり返り、 「いや、まだそれを〝鍵〟だと断定するのは早い、かと…個人的にはそう考えます、――から、だから、…っとりあえずその辺り、コトノハさんに聞いてみてからにしましょうよ、……」  なんて、頬を熱くしながら言うのであった。      ◇◇◇  どうも僕たちの寝室は二階にあったようだ。  ……ただ、寝室から出るまでにもいささか時間がかかった。  というのも僕は、引きこもりではありながら身なりに厳しい母をもっているため、パジャマのままではダイニングへ行けないと、まずは着替えることにしたのである。――なお着替えがある場所はハルヒさんが教えてくれた。ベッド下の収納だった。  そうして僕はそこからてきとうな服――黒いハイネック(首筋のキスマークを隠すためだ)にジャストサイズのジーパン、ちなみにこれらはもともと僕が有していた洋服だった――を取り出し、ベッドそばに立って早速着替えようとした。が、 「……、…」  ……ベッドの上で完全にうつ伏せになり、僕のことをじいっと見ているらしいハルヒさんの視線が、自分の片頬に張りついているのを感じ――するといささかの着替えにくさのような抵抗感を、少し重たくぎこちなくなった両腕に覚えたものの――、…といって、彼にとったら単なる同性の着替えである。  僕にとってもただ単に同性の前で着替えるだけのことである。  たとえばこの状況下に置かれた存在が女性なら、より着替えにくさを覚えたのかもしれないが――いくら相手が夫であろうとも、新婚ならおおよそそれくらいの恥じらいはまだ残っているのではないか――、…僕はというと一瞬は気にしたものの、すぐさまこのように考えた。  これはじいやの前で着替えるのと同じことではないか。――もちろん僕は小さな頃からじいやの前で(手伝ってもらいながら)着替えていたし、お風呂だって一緒に入っていた。今となっても別に、じいや相手ならば裸を見られてもなんとも思わない。  そして、多分じいやも僕の裸くらい何とも思っていない(なんなら昨日もスーツを着るのに下着のみの姿を見せている)。  たとえば僕が女性であったなら、いくら小さな頃から着替えを手伝ってもらっているじいや相手でも、やはり裸を異性に見せるなどというのははばかられたことだろうが、僕は男である以上、そのあたりにはばかりの気持ちはない。  それと同じである。  ハルヒさんだって――いくら昨日夫になったとはいえ――同性には違いない。  まあただ、あれだけの筋肉美を誇る推しの前で着替えるともなれば、どうしても貧相な自分の体を見られることへの気恥ずかしさはあるが、まあ今やそれくらいのものである。――ということで……、 「…………」  そうして僕はまず手にもっていた着替えをベッドの上に置いてから、早速パジャマのボタンを見下ろしながら一つ一つ、それを上から外していったのだ――が、  その途中でベッドから下りてきたハルヒさんが、後ろから僕を包み込むようにして抱きしめてきた。 「……、…」  ドキ、として僕はうつむいた。  僕たちはどうしても身長差があるのである。  僕は――いわくまだ天上春命(アメノウワハルノミコト)の体に戻りきっていないせいで――175センチ、一方の――天下春命(アメノシタハルノミコト)の体にきちんと戻っている――ハルヒさんは188センチ、つまり僕らの背丈には13センチもの差があるわけだが、さらに彼のほうは体が成年のそれになっているため手脚が長く、端的にいえば(いわくウワハルの少年時代の体らしい)僕よりも体が大きい。  となると――こうしてすっぽり包まれている感じに、ただ何となく拘束されている、というような感じもあり、また僕の後ろ頭は彼の口もとから首のあたりにあるらしいが、ハルヒさんは頭を僕の片耳のほうへかたむけてきて、するとそのひとの穏やかな鼻息が……。 「……、…、…」  ドキドキしてしまう、それに、かーっと胸もとから耳、頭頂部まで熱がのぼってくる。 「……、…、…ぁ、――あのハルヒさん、僕、着替え……」 「うん…? ふふふ…、ハヅキ、真っ赤になってる…、かわいいー……」  ましてやそう言うハルヒさんの色っぽい気だるげな声をはなつ唇は、僕の片耳とかなり間近な距離にあるのである。 「俺がお着替えさせてあげるね…?」

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