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ハルヒさんは僕を後ろから抱きかかえ、そのままいずこかへ運んだ。
そうして次に、僕の黒い靴下を履いた両の足裏がなんら危うげもなくそおっと踏んだのは、この部屋の仕事机の――もっというと、その机の下に座面をおさめた茶色いレザーチェアの――前のこげ茶のフローリングであった。
「……?」僕はいぶかって背後のハルヒさんにふり返る。すると何かしたり顔をするハルヒさんは、
「……ほらほらハヅキー、よぉく見てー…?」
と僕の背後、自慢げに両手を腰にあてがって、仕事机の上をにんまりと眺め下ろすのだ。
「……? ……、…」
僕は目の前にあるレザーチェアの肩部分に両手をかけ、あらためてその仕事机の上を見やる。
それの上に美しいほどきちんと配列されている僕の仕事道具たち――シームレスデッサン人形(裸体の可動式フィギュア)や本立てに収められた参考書、それから黒で統一されたデスクトップPCやキーボード、液晶ペンタブレットなど――をよくよく見てみる。と、
「……、……ぁ…っ」
僕は目を瞠 った。こみ上げてくる興奮のあまり頬がじわじわと熱くなってゆく。
――この仕事机の上にあるデスクトップPCやらモニターやらキーボード、そして液晶型ペンタブレットといったような機材一式のその全ては最新型、かつまだ保護フィルムも剥がされていない新品である!
いや、かねてより愛用している同メーカーのものかつ、高スペック品となればなるほどこういったものはデザインが(なぜか)凡庸的になるので、出入り口からの遠目には気がつかなかったが――それもこれらはその実、僕が欲しいには欲しいが買おうか買うまいかは悩んでいたものだった。
というのも、僕はもともと物持ちが非常によいほうで、たとえば液タブに関しては特に、漫画家を志 す以前の中学生のころから今まで使いつづけていたものだった。――すると当然多少の不具合は見られたが、それでもその不具合をかわすコツを把握していたのでまだ使えると、なかなか買い替えには踏み切れなかったのである。
いや、たしかに僕は実家が太い幸せ者――いうなれば金持ちの家に生まれたボンボン――ではあるし、また自分自身も同年代よりいくらも稼いでいる漫画家ではあるのだが、…といって世間の人が思っているほど欲しいものはすぐに買う、どんどん新しいものを買って古いものはバンバカ捨ててしまう、…なんて豪快な生活を送っているわけでもない。
……まあ世間にはそういった生活をしているお金持ちもいるにはいるのだろうが、しかし、物とはいえその一つ一つと自分との出会いもまた何かしら尊 い縁なのだ――と、僕は小さなころから母と祖父に教えられて育ったし、そもそも歯磨きのときに水を出しっぱなしにしない、手を洗うときもジャージャー水を出さない、などなど、少なくとも我が家はわりと世間がイメージしているほど富豪! リッチ! お貴族様! …なーんて感じの家庭ではないのである(まあ家宅の外装・内装こそ以前よりそれらしかったものの、おそらく習慣や価値観としてはそれほどのものでもないことと思われる。比較対象があまりないので定かではないが)。
それで僕は、そもそもそう僕を育てた母にさえ『そろそろ買い替えたらどうかしら?』と提案されてもなお、『いやいや、あれでもまだ使えるから』なんてそれら機材を――致命的ではないからと、多少の不具合と闘 いながら――使いつづけていた(まさか今使っているものが致命的に壊れているわけでもないのに、わざわざ最新型に買い換えるというのははばかれた)ので、――こうして我知らぬ間に、仕事机のうえにズラーリピカピカキラッキラと最新型の新品機材一式が揃っているのを見て、…今びっくりしながらも密かにテンション爆上がりしている、というわけである。
「わぁすご……だが、…これ、まさか……」
……もしかして、僕のクレカでこの引っ越しをちょうどよい機会として勝手に買い揃えられたもの(ママなら見兼ねてそれもやりかねない)、だったりするのだろうか? いやいやそれだって構わないのだ、むしろありがとう、そして今までありがとう僕の相棒たちよ、という感じである。――なんて……僕はもうほとんどわかってはいるのだが、…なぜって「サプライズ!」というような態度のハルヒさんにここまで運ばれてきたのだから。
まさか……ハルヒさんからの、プレゼント…なんだろうか…?
するとありがたい反面、どうも申し訳ない気持ちになってくるのだが…、いや、これらはプロ仕様かつ、現段階における最高スペックを誇る品々なのである。――つまりこれらの総額優 に三桁万円…。
なんてちょっと罪悪感を覚えていた僕は後ろからまたふわりと……、
「……、…」
全身を包みこまれるように、ハルヒさんに抱きしめられる。ハルヒさんからうっとりとするような甘い白檀 のにおいがする、するとその薫りにまで全身を包み込まれているよう…――そして彼は色っぽい少し上ずった声で、こう僕の耳に囁いてきた。
「…ふふ…、喜んでくれたぁ…?」
「……、や、やっぱりこれ…ハルヒさんが…?」
僕はふと彼に顔を向け、たが、…「うん」と言う、僕の肩の上あたりに頭を斜めらせていたハルヒさんのその顔――その彫りの深い美しい顔にたたえられた、あまりにも優しい慈しみの微笑み――があまりにも近く、ドキッとしてすぐさまうつむいた。
ただ、嬉しさのあまり僕はニコニコとしながら、早口でこう言った。
「それは…すみません、どうも、本当にありがとうございます、…いや僕正直ずっと欲しかったんですけど、なかなか自分では新調には踏み切れなかったんですよ、はは…――だけど…、どうしてわかったんです、これ全部、僕が欲しかったモデルの……」
僕はまたふと卓上を眺め下ろす。
たとえばこのデスクトップPC、この液晶ペンタブレット…――これらはただ単に最新型の新品、というばかりではなく、僕が欲しいと密かにチェックしていたメーカー、モデルのそれらであった。
するとハルヒさんは「ん〜〜…?」と意味深な笑みをふくませ、こう甘ったるいささやき声で言うのだ。
「えへへ…、俺、大好きなハヅキのことならなーんでも知ってるからさ……?」
「…え、…あはは、…」
それはちょっと怖いんだが、…なんて笑いつつ思った僕だが、ハルヒさんは「ふふふ…」と笑ってすぐに「冗談。」
「君、〝欲しいものリスト〟にこれ全部入れてたでしょ…? 俺はそれをママから見せてもらっただけだよ…――何かハヅキにプレゼントしたいんだ〜って相談したら、そのリスト見せてくれたの……」
「……ぁ、…あーなるほど…、……」
そうか、たしかに僕はこれらをその「欲しいものリスト」に入れていた。
取り扱っていないものなどおよそないのではないか、というくらい何でも取り扱っている、某大手通販サイトの「欲しいものリスト」である。――そしてそのサイトを使うにおいて、我が家にはあるルールがあるのであった。
それというのは――もちろん個人アカウントも各々もっているが――、我が家は家族共有のアカウントもまた別個にひとつもっており、そしてその家族アカウントでは日用品以外にも、値段が高いものは基本そのアカウントで買う、というルールである。
それはなぜか?
……高額商品を買うと、その分ポイントも多くもらえるから――さらに言うとそのサイトには、半年ごと稼いだポイント分で会員ランクが定められるシステムがあり、会員ランクが高ければ高いほどお得にお買い物ができるようになるから、だ。
つまり個人で分散して高額商品を買うよりか、じいやを含めた四人一緒のアカウントでみんながそれを買ったほうが、会員ランクも上がり日々の日用品の購入からしてお得になるから、という理由である(そうしたわけで我が家のそのアカウントは、ずっと最高プラチナ会員をキープしている)。
そうしたわけで僕はいつかは買おう、と思い、これら最新型の機材一式を、その家族アカウントの「(僕用の)欲しいものリスト」に入れていたのであった。
「……はは、そっか…。とにかく、…あ、…」
僕は興奮のあまりレザーチェアの肩部分から勢いよく両手を下ろしつつ、プレゼントをしてもらったからにはきちんと目を見てお礼を言わねば、と背後から僕を抱きしめてくるハルヒさんへふり返ろうとした――その拍子、サッと素早く手を振りおろしてしまったせいか、僕の左手の薬指からはややゆるい結婚指輪がスポッと抜け、床にカランッと落ちてしまった。
落とさないように気を付けてね、とハルヒさんに言われたばかりだというのに、――僕はあわててそれを拾うべくしゃがみ込もうとしたが――先にハルヒさんがサッと機敏にしゃがんで、カランカランと回っているそれをぺちっと一旦床に叩きつけたあと、器用につまんで拾い、すっと立ち上がる。
「あ、ありがとうございます……」
僕はなかば背後の彼に体を向け、自然と眉尻を下げながら、左の手のひらを彼に差し出した。指輪を受けとろうとしている。
「…すみません…、……」
なるほど、こうしたちょっとしたことでもこの指輪は抜けてしまうものらしい。――ペンダントやピアスにいたっては幼少期から身に着けているので取り扱いには慣れているが、その実指輪を身に着けるのは初めてのことである。…ましてやそれはまだ僕の指にジャストサイズではない。気を引き締めなければならない。
「んーん。…」とハルヒさんは感情の読みとれない無表情で目を伏せたままふるふる、と首を横に振り、…なかば自分に向いている僕の体を正面に向けさせるようにして、僕のことをまた後ろから抱きしめてくる。…僕が差し出している左手にはその指輪を渡さないまま。
「……?」
僕はいまいちハルヒさんのしたいことがわからず、きょとんとしながらされるがまま、その大きな体にすっかり背を覆われている。
黒いデスクトップPCの上、大きな明るい窓をおおう白いレースのカーテンが――ハルヒさんの吹かせる風をふくんで――ひらり…はらりとはためいている。
そしてハルヒさんは後ろから、僕の左手を下からそっと持ち上げると――、
「今度は落とさないようにね、ハヅキ…? なくしちゃやだよ……」
と僕の耳もと、妖しいかすれ声でささやいてきながら、僕の薬指の先からそー…とまたゆっくり、指の根本へむけてその結婚指輪をはめてゆく。
僕はハルヒさんの指の長い大きなあめ色の手の指先が、窓から射し込む光に照らされてなお生白い自分の手の、その薬指にもどかしいほど緩慢に、それも、その金と銀の結婚指輪を僕に見せつけるように下から通してゆく様を眺めおろしながら――なぜかそれがどことなく艶冶 な眺めと思えては、ぼんやりとそれに見惚 れながら……、
「…は…はい…、すみ…ません……」
とほとんど恍惚として謝る。
――これは「何か」を彷彿とさせた。官能的な「何か」を、彷彿とさせるのだ。
す…と僕の薬指の根本まで嵌められた結婚指輪の、その小さなサンストーンがギラ、と鋭くまたたく。
ハルヒさんは僕の耳の間近にその唇を寄せた。そしてどこか冷艶 としたささやき声でこう言う。
「…特に誰かと会うとき、この指輪着けてなかったら俺……怒るよ…? わかった……?」
「……っ、…」
僕は、は、と息を呑み、彼の腕の中でやや肩を縮こませる。
「ねぇハヅキ…わかったの…?」と返事をしない僕に、ハルヒさんが声を低くする。
「もしうっかり指輪無しで人前に立ったら君…――お仕置きだからね……」
「……ぅ、…ぁ…は、はぃ……」
僕はさっとハルヒさんの唇から顔を――甘い快感に熱をもった耳を――そむけ、それでもなお背中や首筋をぞくぞくと粟立たせる。
「…でも…あの…、べ、別に……僕、そ、その…狙われ、たり…とかは…――ないと、思うんです、…だから……」
違うのだ…逆らうつもりなど毛頭ない――ただ僕は、もっとハルヒさんに甘美に縛 ら れ た く て こんなことを言ってしまったのだ。
……するとハルヒさんは恐ろしいほど甘ったるい、僕を甘やかすようなささやき声でこう言う。
「え…なにいってるの…、君を狙う奴 なんか星の数ほどいるに決まってんじゃん……? ハヅキはこんなに綺麗なんだから…――それにさぁ…、ハヅキはもう俺だけのものなの…。俺との結婚指輪無しで人前に立つのは、もう不倫みたいなもんだよ……」
「……は…、…はい…すみ…ませ…、…――。」
あぁ…頭、ぼーっとする…――。
僕は気持ちよくなりたくてあんなことを……こうしてハルヒさんに独占欲を出されると、それだけで僕の子宮がきゅーっと切なく、しかしゆるく甘ったるく締めつけられ、そうして僕を恍惚とさせるような快感を生み出すのだ。
これは…僕が飲んだ彼の血のせいだろうか…、それとも、僕のもともとの素質か…、こういうの、僕…弱い、のかも…――独占される、…それさえ僕には何か、少し危ない官能的な幸せと感じられるものらしい。
ただここで突然声を子どもっぽく明るませたハルヒさんが、
「……はい。てことで、これからは気を付けてね? へへ…」
と言って僕のその左手を上げさせ、ちゅっとまた薬指のつけ根にキスをする。
「……、…、…」
う、…っ妖しいのもそのゆるふわ可愛いのもどっちも好き゛、――のあまりに眉を寄せ、思わず目をつむった僕である。
僕の推し…そして僕の夫が尊い、…
ただ…――僕は今後のため、ハルヒさんにきちんと聞いておきたいことがある。
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