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 結局はあのまま()()()()()風呂から上がって黒いパジャマを着た僕が、白いTシャツに青い半パン姿のハルヒさんとふたりでダイニングルームへ行くと、その部屋の――華やかな料理が一面に載せられた――ダイニングテーブルには、もうすでに僕たち以外の全員が着いて待っていた。  時刻は夜八時半を過ぎている。  するとダイニングテーブルの横、ペルシャ絨毯が敷かれているひらかれた空間に面した、よく磨かれた透明なガラス張りから望まれる夜の小さい日本庭園は、夜の暗がりのなかにあっても、この部屋の暖色系のあたたかい明かりに照らされてよく見える。  ことその明かりに照らされているのは、小砂利の上にそびえ立つ曲がりくねった幹をもつ高雅な松だった。…深い夜の暗がりに背をあずけているその松は、室内の明かりによりその幹の曲線と無数の針が密集したような葉の真緑とを浮き立たせており、すると、まるで能舞台の鏡板に描かれている松のように立派に見えた。  またその松を荘厳に引き立てているのは、松の手前や奥に置かれた数台の石灯籠だ。それの中の(あか)りも今は灯されており、暗がりのなかに映えるその灯りはランプらしいが、まるで本物の炎のようにゆらゆらと揺らぎながらおだやかな明滅をくり返して、松の黒茶の幹におぼろなゆらぐ光を映していた。  カ、カコンッ…――と松の下の鹿威しが、水を吐きだすために傾いていたその竹筒の端を、石にぶつけた音が鳴った。  ちなみに、その日本庭園に近い席には向かいあって祖父とロクライさんが座り、さらに彼らの隣の席には母とコトノハさんがやはり向かいあって座っていたが――しかし僕が母の隣の席に何気なく腰かけると、ハルヒさんは僕と向かい合わせの席に着くのではなく、僕の左隣りの椅子に腰かけたのだった。  それで、この十人掛けの広々とした長方形のテーブルの上には、三つの大きなパエリア鍋――パエリア専用の黒く平たい鍋――によそわれたエビや輪切りのイカ、アサリ、ホタテなどがたっぷりとのった具だくさんのパエリアはもちろん、大きなサラダボウルが二つ、斜めに切られたバゲットの盛られた(かご)が二つ、それから大きなマルゲリータピザが二枚と、それぞれの前に平皿によそわれた真っ赤なトマトスープ、すでに切り分けられた側面から、美味しそうなみずみずしい赤身を見せている牛フィレ肉のステーキ……ついでに各々の飲み物――僕とハルヒさんのワイングラスに注がれたのはなぜかぶどうジュースだったが、他五人のワイングラスには正真正銘赤ワインが注がれている――と、ワインとぶどうジュースのボトルが差し込まれた氷入りの銀のバケツとがところ狭しと、しかし整然と華々しく並んでいる。  それだからこのダイニングには、魚介類の香ばしい匂いや焼けたパンの匂い、ステーキの匂いなど、あたたかみのあるおいしそうな匂いが漂っていた。  うわ〜〜今日はイタリアンか、今日も美味しそうだな…――なんて僕はその食卓を見、その匂いを嗅いだ途端、すっかりお腹がペコペコに空いたのだった。  さて僕たちが席に着いたなり、それぞれの小皿にパエリアやサラダやをそよってくれたじいやが、それを済ませて僕の対面に――コトノハさんの隣に――着いてすぐ、僕たちは全員で声をそろえて「いただきます」と手を合わせた。  そうして一家勢ぞろいの夕食の時間がはじまった。  それからはみんな各々食べたいものを口に運ぶ。  たとえば母はまずサラダから、コトノハさんはトマトスープから、祖父は牛フィレステーキから、ロクライさんは(ひとりだけ)大ジョッキのビールから、ハルヒさんはピザから、…ちなみにじいやの前にだけはステーキはなく(()()()()()()()()、だろうか…?)、彼は大盛りのサラダをフォークで食べながら、黄色いバターをたっぷりと塗ったバケットに幸せそうにかじりついていた――牛の眷属とはいえ、じいやにとっては()()()()()()()()()()()()()()()()()バターはセーフらしい――。  それで僕はというと、早速ロクライさんお手製のパエリアを食べはじめた。  この小皿にもられた黄色く色づいたお米と、輪切りのイカとをスプーンですくってひと口――ん…っ! 「――…っ!」  美味しい……っ!  へえ、ロクライさんも料理上手だったんだな。  もう熱々というほどではなく食べやすい温度になっていてはなおわかる、この魚介類特有のコクのある旨味をたっぷりと吸いこんだお米は、魚介の香ばしい香りの奥にサフランのやや草花っぽいかぐわしい香りもまとって、素朴な味付けながらも決して地味な薄味ではない。――ましてや、その魚介の旨味が凝縮されたお米とぷりぷりとした輪切りのイカが口の中で合わされば、もうそのシンプルさゆえの物足りなさなんてちっとも感じない。 「……おいひい…っ!」  今日も美味しいご飯を食べられて幸せだ…! なんて、僕は思わず満面の笑みを浮かべた。…ところ、そうした僕を自慢げなニヤケ顔で眺めていたロクライさんが、 「…むふふふ……おー美味いかウエ、んー? よかったなあ〜!」  なんて、嬉しそうなつやつやのほっぺを上げ、ニカッと僕に向けて笑う――ちなみにロクライさんは今黒いオーバーサイズのTシャツを着ている――。僕はニコニコしながら、彼にコクコクとうなずく。 「…ふふふ、いくつになっても可愛いのぉ…、……」  すると満足げに目を細めたロクライさんは、大ジョッキのビールを一気に半分までゴックンゴックンと飲み進め、ぷはあっと旨そうな大仰な息を吐いたころには、その口のまわりに自前の髭プラスビールの白い泡までつけて、ガコンッなんてジョッキをテーブルに――ともすればそれを割りそうなほど――勢いよく叩きつける。 「…っいやあ〜! 家族揃っての飯は旨いのぉ!」 「ええほんとう…ねぇ、嬉しいですわね」  と母が口もとを指先で隠してしとやかに言う。  ……しかし…――。 「…じいじはまだビールしか飲んでないでしょ…」  と刺々しい声でぼそりと言ったのは、僕の隣でマルゲリータピザを食べている、むーーっとしたハルヒさんである。  ……彼のその不機嫌の理由とは言うまでもなく、先ほどロクライさんに()()()()()からだ。  あのあと結局僕たちはロクライさんに、わかったわかった、すぐに出るから、と答える他なかった。  何かしら理由をつけて()()()()()してしまえば、余計しつこく絡まれるのが目に見えていたからである。――そうして僕たちがすぐに出る、と答えると、ロクライさんは「んじゃあ待ってるからのぉ〜! 五分で出てこいよぉ〜〜!」なんて機嫌よく、脱衣場から出て行った。  その後は、さすがのハルヒさんももう食い下がることはしなかった。ましてやその時点でもむっとしてはいたが、僕に対しては不機嫌な態度を取ることもなかった。  ……脱衣場で各々濡れた体を拭いていたときも、各々パジャマを着ていたときも(ちなみに僕は黒いパジャマを、彼は白いTシャツに青い半パンを着た)、なんならハルヒさんは不機嫌というよりしゅーん…と落ち込んでいるような感じだった――口数は減り、眉尻は下がり、…しかし、まるで叱られた子犬のような表情を浮かべているハルヒさんがまたなんとも愛らしかった――ので、困り笑顔を浮かべた僕が向かいあって彼の頭をなでなで、 『ご飯のあと、すぐにその……し、しましょうね…? あの、今日は仕事も久々に(はかど)りましたから、僕も寝るまでハルヒさんとゆっくり出来ますし……』  と慰めると…ハルヒさんはしょんぼり顔のまま僕をぎゅうっとかき抱き、僕の首の横あたりにその顔をうずめて、「うぅ〜〜…」ともどかしそうにうなった。  ……彼のその焦燥は無理からぬことである。思うと朝からの我慢なのだ。……そして僕はそのとき彼を抱きしめ返しながら、その後ろ頭と背中とをまたなでなでと撫でてあげつつ、ひそかに苦笑していた…――というのも、実は僕もかなり、…なんなら、今も……。  ひとたび燃えさかった肉体の芯にこもったまま冷めやらぬ熱は、その内側からじりじりと僕の肉はおろか、肌表面に至るまでをもじっくりと(あぶ)ってくるようなのだった。――するとその(うず)み火は僕の肉体にもどかしい渇望の鋭敏さをもたらし、たとえばああして鎖骨の上の浅い盛りあがりにハルヒさんの顔をうずめられただけで、そのくすぐったい彼のこもった熱い呼気や布越しの高い鼻、やわい妖しい唇の感触に、その実僕はじわりと目が潤むほど感じてしまっていたのだ。  甘い果実の完熟は、しかしそれで完成ではない。  僕の子宮は、その表皮にまで甘い果汁をにじませているのでは、というほど熟れきっていたが、その果肉に食い込むべきものが食い込んでいないせいで、気を抜くとそこにばかり意識を持っていかれる始末だった。――またそれはハルヒさんだけを欲し、彼のためだけに濡れたまま、やわらかくほぐされたままのなかもそうで、…すると僕の下腹部は不快なほど沈鬱に重たくなり、――たとえばハルヒさんとまた手をつないで廊下を歩いているだけで、僕は動く骨盤の中でそのたび微動する内部の果実が、熟れきってもさらに追熟されてゆくのを感じた。  それでもなんとか今も気を逸らしてはいるが――幸いパジャマのズボンもぶかっとしているから、まあ()()()()なら傍目にもごまかせてはいるはずだし――、…ただある意味では恐ろしいことに、ハルヒさんの美しい精悍な横顔をこうして目にしているだけで、 「……、…」  僕はぽーっとし、ムラムラとしてくるのを感じる。  ハルヒさんは今むっと不機嫌そうな顔をして、半分に折りたたんだ一ピースのマルゲリータピザにかじりついている。…ただそれだけの、本当に何でもない様子の彼のその美しい横顔に色っぽいところを見つけるのは、今の僕にはあまりにも簡単なことなのだ。  ……たとえば、ピザのよく焼けたうす茶の生地を獰猛に食いちぎった真っ白い端整な前歯、尖った犬歯、…ぺろりと珊瑚色の唇を舐めた赤っぽい舌――もとより凛々しい造りの眉目は今男らしい不満の翳をたたえ、憂いの翳りのなかにも月光のように輝くその銀の長いまつ毛は、艶冶(えんや)(きら)めきと共に優雅にゆっくりと羽ばたく。  あたかも風呂上がりというように、よくあたたまってほんのりと紅潮しているハルヒさんの、そのあめ色の頬の光沢――その頬の火照りの原因は、僕だけが知っているからこそなお、それが官能的な艶色と見えてしょうがない――、こめかみから下あごを越えた先まで伸ばされた銀の美しい髪、その清冽(せいれつ)な川のようなうねりの銀髪のすき間からちょっとだけ覗いているあめ色の耳は、そのふちばかりがほんのりと赤らんでいる。  ……あんまりにも容易であった。  我ながら信じられないが――なんでもない誰かの顔を見ただけで自分が欲情するとは、これまで想像したこともなかったが――、僕は、今……。 「……、…」  こくんと僕の喉が鳴る。  その時つー…と、その垂れたまなじりに寄って僕を見やった彼のオレンジ色の瞳は、僕のぼんやりとした顔、熱のこもった僕の目を認めたなり、どうやら僕と同じくらい欲情していると見える濃厚な、しかし静かな官能の紅い深みを帯びて、じっと何かを訴えかけてくるかのように僕を見つめてくる。  ……だが見つめ合ったならいよいよ、ふたりとも何かが抑えきれなくなる、そんな危険な予感に僕はさっと目を伏せる。 「……、…」  そしてまたパエリアを見下ろし、それをスプーンですくって口に入れる。  ……僕がハルヒさんに見とれているあいだにも、他の家族は話に花を咲かせていたのだが――ここで母が、はにかみ笑いをまじえてこう言うのであった。 「…うふふ…ねえ、結婚式まであと一週間ですわね、あなた」  と。  ちなみに彼女は今はまだパジャマ姿ではなく、青みがかった灰色の御召(おめし)に銀の(おび)を着けている。――母の普段着である。母は寝る直前にならないとパジャマを着ないのだ。  母の対面に座るコトノハさんも幸せそうにそのタレ目を細める。…彼は濃紺の着流しを着ている。 「そうだね。()()()()()()()()()()()()……」 「……、…」  僕はうつむき気味にパエリアをもぐもくしながら、え、と思った。  いや…まあ昨日店の時点でも母とコトノハさんが結婚式をする、というのは聞いていたのだが……、  ――え、一週間後…? 荷造り……?  ……ハルヒさんが僕にこう耳打ちしてくる。 「そうだよ…? ()()()()()()()()()()()。」 「……、…は……?」  僕は我が耳を疑った。  ……当然ここまで誰にもなにも聞かされていなかった僕は、信じられない気持ちでゆっくりと隣の母に顔を向けた。――その気配に彼女もふっと僕へ顔を向け、その(結婚式への)希望に燦然(さんぜん)と輝く丸いオレンジ色の瞳で僕を見つめてくる。 「……?」  きょとんとしていても相変わらず僕のママは可愛い猫顔系美人…いや、美神なのは全くいいこと、なのだが…――。 「あのさぁママ…一週間後…は、ハワイ……?」  それは本当なのか?  僕がげんなりとしながら単語ばかりで真相を尋ねると、母は「あら、」とその猫のような大きなツリ目をまんまるにし、しかしすぐに「いやだわもう、」と破顔する。 「ごめんなさいね、わたくし、ウエちゃんに言い忘れていたんだわ…――いえただ、パパとの結婚も昨日打ち明ける予定だったものだから、今まで結婚式や()()()()に関しても、あなたに言う機会がなくって……」 「……、まあ、それはわかる、が、…け、結婚式……と、――新婚、旅行……?」  待てよ、結婚式はハワイに一週間後、…更には、…新婚旅行……? 「は、ハワイで……?」  その情報は僕にしてみれば全く寝耳に水のあまりにも唐突なものである。が、困惑している僕に、母は「ええそうよ」とにっこり美しい笑顔を浮かべる。 「…わたくしたちの結婚式は、ハワイの教会で執り行うことにしましたの。…というのもね、うふふ…」  と母はほっくほくな笑顔――丸目がちな猫がこたつで浮かべるあのほっくほくな細目の笑顔――で頬を赤らめる。 「わたくし日本の神とはいっても…やっぱり日本の女として、西洋風の結婚式にも憧れていたものだから…♡ …それでね…それをパパに相談したら、〝いいよ、貴女の憧れを叶えよう〟って…♡ ――そこで神々にも許可を頂いて、パパとママね、ハワイの教会で結婚式を挙げられることになったのよぉ〜…♡」 「……、…、…」  あぁまあ、そ、それはいいんだが、…もちろん女性である母の憧れ――ある種女性の夢――が叶えられるということに関しては、僕もよかったね、そりゃあ楽しみだよね、とはまあ微笑ましく思えるのである。  それに関しては、な……目を伏せた僕はとりあえずまたパエリアを頬張る。 「それで…せっかくハワイに行くんですから、そのままハワイで新婚旅行もしましょう、という話になったのよ。…まあちょっと短めの三泊四日ですけれど…――何にしても、ですから一週間後、家族みんなでハワイに発ちますから、ウエちゃんも早いところ荷造りを済ませちゃいなさいね。」 「……、…、…」  ただ、ちょっと、あの、さあ……。  一週間前に言うことかよそれ……!?  なあおい、…僕にもいろいろ都合ってもんが、… 「…………」

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