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「リリカちゃんって、めっちゃいい子だねぇ…」
とハルヒさんが脱衣場から出てすぐの廊下で――ふたりでそこの洗面台の前、今しがた歯磨きを済ませて出てきたばかりなのだ――、並びあった僕に微笑みかけながらそう言った。また彼はそれと同時、その大きな右手で僕の左手を取り、五本の指同士をからめて手をつないできた。
実は…――僕はリリカとの通話を終えてすぐ、トクトクと胸の鼓動が弱くも速まるのを自覚した。
それはあれほど俺は我慢しているんだよ、もう限界なんだよ、と僕に熱烈に伝えてきていたハルヒさんが、ともすれば寝室へまで行く前に、…すなわち僕の自室の時点でこらえきれず僕のことを求めてきてくれるのでは、なんて僕の胸をふくらませるような予感があったからだ。――のみならず、自室にしろ寝室にしろ、いずれにしても僕は今からハルヒさんに抱かれるのだ、というのはほとんど確かな予測であり、僕はそのちょっと先の未来予測に対しても、はにかみまじりの緊張と期待とに胸が高鳴っていたのである。
ところが、なのであった。
……リリカとの通話を終えたあと、ハルヒさんは僕に何をしてくるでもなかった。――それどころか『もう寝よっか…?』と僕にやさしい顔をして言ってきたのである。
すると僕は正直、それにちょっとショックを受けた。――とはいえ…風呂でのあの一件からそれなりに時間も経っていた。
となれば彼の欲情も当然すっかり落ち着いたのだろう。…かててくわえて、僕にあんまり待たされすぎたので、今日はもうそういった気分にもなれないのかもしれない。――ましてやハルヒさんも仕事を終えて帰宅し、今夕飯まですませたところである。
となれば当然彼だって疲れていることだろうし、何より夕飯を済ませたのちの寝るまでの余暇の時間、ともなると、興奮よりもリラックスを求めるのは当然といえば当然の心情であろう。
なるほどそうともなれば、…今日は無し、ということなのだろうな…――僕はそれを少しだけ寂しく思いはしたのだが、まあ僕のほうも欲情のうずきのピークは過ぎ、今それは下降の一途をたどっている。
……何ならそれが何かの拍子に再燃したとて、自慰をもって発散することもできる。
僕はアナル用にと購入したものではあるが、バイブやディルドといった、膣のほうにも十分に使える――かえってそちら用ともいえる――アダルトグッズをいくつも有しているのだった。…したがってそうならそうで何も問題はないし、…かえってあれらを膣内に挿れたらどんな具合だろう、との未知の快感への好奇心が湧いてこないでもない。
ということで僕は今割り切り――言い換えるならば、今夜のところはハルヒさんとのえっちを諦め――、寝室までは極短い距離ながらもこうしてハルヒさんと手をつないで、その部屋に向かって歩いているのだった。
……それでそう、ハルヒさんは「リリカっていい子だよね」と僕に話しかけてきたのだ。
「…そうなんですよ」と僕は隣のハルヒさんの、そのやさしげな微笑みを見上げて笑った。
「リリカは僕が小学生の頃からの友達で、本当にいい子なんです。…ただ――それにしてもハルヒさん、あんなにすぐ…よくわかりましたね…? あんな会ってすぐに、リリカがいい子だってわかるなんて……」
すごい、やっぱり神だからなのか? と僕は驚きまじりの尊敬の目をハルヒさんに向ける。
するとハルヒさんはそのタレ目を大きくして、にっこりとした愛嬌のある笑みをその口もとにうかべる。
「うんうん…俺、これでも神としての自分を取り戻してはいるからさ…。俺は今ハルヒなんだけど、ちゃんとシタハルでもある…みたいな…? ――だからね、わかるの。…人間の子をそれはもうたくさんたくさん見てきたからこそ、その子の顔を一目見ただけで、その子が悪い子なのかいい子なのか…、それはすぐわかるんだよね。直感的に?」
「…へえー…、……」
なるほど、つまり(手助けするべき)人間を多く見てきた神だからこそ、経験則というか直感というかで、顔を見たなりすぐその人の人と成りがわかる――本質を見抜くことができる――ということか。
……しかしそれにしても、いまいち僕には――きっとまだ――わからない感覚ではあるが、…というのも、ハルヒでありながらシタハルであり、シタハルでありながらハルヒである、というその複雑な彼の自我の状態がどんなものなのかは、今の僕には想像もつかないことだった。
言いかえればその自我とは人格、意識といったものなのだろう。そしてそもそも、たしかに昨日コトノハさんも神と人間の自我、あくまでも僕とハルヒさんにおいてはその二つを「統一」させるべし、と言っていたし、ハルヒさんも(僕はウワハルの自我を取り戻す必要はあるが、といって)、僕の自我を殺せばいい――ハヅキという人格を消滅させればいい――というわけじゃないよ、とも言っていた。
ただ、少なくともウワハルの自我と、ハヅキとしての自我とが乖離してしまっているらしい今の僕は、現状では意識がウワハルのそれに切り替わったりハヅキのそれに切り替わったり、を行き来している感じで、ウワハルでありハヅキ、ハヅキでありウワハル…という、おそらく最終的に到達するべきなのだろうその地点にまでは、まだ到達できていないようなのである。
……とはいえ…つまり最終的には、僕は今のこのハヅキとしての人格、意識といったものは存続されている上で、そこにウワハルの人格、意識といったものが融合されるようにつけ加えられるというか、…もはやその二つの自我を統一させた「また別の人格」となってゆく…――のかも、しれない。
まあ今の僕には、そうした変化に対する恐れはないのだ――今の僕のハヅキとしての意識がすっかり消えてしまう、というのではないからだろう。いうなれば自己啓発で意識が変わる程度の変化だろうと思われるからである――が、…何にしても、…
と僕は、ハルヒさんが開けてくれた寝室のドアを、お先に、ありがとう、と彼に頭を下げつつ通り、出入り口すぐの壁にあるスイッチで寝室の照明を点 けた。
その八畳ほどの和風モダンの寝室がパッと明るくなると、まず目に入るのはやっぱり部屋中央に位置するこの大きなベッドだった。
もしかするとキングサイズより大きいかもわからない、この広々とした一台のベッドは今、いつの間にか完璧なベッドメイキングが済んでおり――といっても以前の家に済んでいたころから、いつもじいやがいつの間にかそれを済ませておいてくれるのが常だったので、何も驚くべきことではない――、今は二つずつ置かれた白いまくらもふっくらと肉厚に蘇 って、またヘリの折り目まで完璧に、ベッドを半々にするように整然と並べられた二枚のかけ布団においては、今朝までは二枚とも白かったと記憶しているが、今は片方が白、片方が黒になっている。
ただじいやは毎晩かけ布団を新しいものに換えてくれるので、それも別段異変なんかではない。――そしておそらく、マットレスにかぶせられた白いシーツにおいても、まるで角切りもちの表面のごとくしわ一つないようピシッと整えられていることだろう。
それから出入り口から対面にある、中央に丸窓のある障子戸…――それとベッドヘッドの上、草色の壁が丸くくり抜かれた奥の、あたたかみのある上からの照明に照らされた、その濡れた岩の床の上に置かれた風雅な桜の盆栽と、その盆栽の奥の岩壁から流れる水……そのおだやかな水が、ごつごつとした岩でできた細長い排水路へ流れ落ちてゆくちょろちょろとした音が、やっぱり僕のお気に入りだった。
そうして僕はベッドの真ん前まで歩いてきて、そして後ろから続いていたハルヒさんに向きなおり、微笑みながら真摯な感謝のきもちで目礼する。
「あのところで…さっき、ありがとうございました。…さっき、〝リリカには本当のことを言ったほうがいい〟とハルヒさんが言ってくれなければ…僕はきっとあのまま、親友の彼女にも嘘を言ってしまっていたと思う。…ああ言ってもらえて僕、本当に助かりました。…本当にありがとう」
「……はは…ハヅキの力になれて俺も嬉しい…。でも、そういうときってあるもんなんだよね……」
とハルヒさんが、神様らしいおだやかな慈愛の眼差しで僕を見下ろし、清廉 な微笑をその凛々しい美貌にたたえる。
「体裁とか面子とか、そんなのよりも愚直なくらいの誠実性が必要なとき、というか…――そのほうがかえって、人と人との絆をより太くって、頑丈なものにするとき。…あるんだよね、そういうとき、ほんと。――それにさ、びっくりするくらい馬鹿正直でいても…ああやって自分を信じて愛してくれる人こそ、本当の親友。…でしょ」
「…はい。ほんと、そうですね。……」
ハルヒさんのその為になる言葉には、リリカは君の本当の親友だよ、という意味もまた含まれているのを察した僕は、嬉しいあたたかなきもちで頷いた。
……ハルヒさんにもリリカやリリカとの仲を認めてもらえて嬉しいのなかば、ありがたいのなかばで。
……だが、
「…………」
「……、…」
僕たちは微笑みあったまま、…何となく…話すことが、(きっとお互いに)なくなってしまった。
いや、なんならこれは、お互いにお互いの次の言葉や行動を待っているような、ある種気まずい――どうしよう、自分は今何を言い、何をしたらいいのだろう、というのではなく、相手はどう出るのだろう、望むらくはこう出てほしいな、という、お互い相手の出方に「何か」を期待しているような、そうした気まずい――沈黙と見つめ合い、微笑み合いなのである。
「……えーっと…、今、何時かな……」
なんて気まずさを晴らすためのベタな行動に出た僕は顔を伏せ気味に、パジャマのズボンのポケットに入れていた自分のスマートフォンを取り出し、時刻を確認する。――現在時刻は二十一時四十一分である。
寝るのには、まだちょっと早い…かな……?
「……、…」
僕はハルヒさんを見上げた。
彼は感情の読めないとろんとした真顔、すなわち眠たそうな顔をしている。――ハルヒさんが今僕に望んでいる言動…それはすなわち…――この顔つきからして、やっぱり彼はもう寝たいのだろう、から……。
ちなみに僕はというと、――ハルヒさんに今かすかに何を期待していたかというと、――キス、してほしかったのだ、が。…なんならぎゅっと抱きしめて、そのまま……なんて……。
ただ、疲れていて今眠たいハルヒさんに、そんなことを強いるわけにはいかない。ということで僕はにっと口端を引き上げ、パジャマのズボンにスマホをしまうと、彼の片手を取った。
そしてその手を引きつつベッドに乗りあがる。ハルヒさんは大人しく着いてきて、僕と一緒にベッドに乗りあがってきた。
……僕は膝歩きでベッドの上を進み、奥のまくらの前に座って、白いほうのかけ布団のヘリを持ち上げると、そのなかに脚をもぐり込ませてから――僕の隣であぐらをかき、ぼーーっとした顔で僕を見ていたハルヒさんに、微笑みかける。
「…おやすみなさい。」
……悪ければ優しいハルヒさんが、眠たいのに僕に気を遣って寝るに寝られない、なんてことがないように、僕はこうしてベッドまで彼を主導したのだった。――きっとハルヒさんが僕に望んでいたのは、こういった気遣いである――ただ、…これから寝るというのに僕ときたら、さっきこの部屋の照明をつけてしまったと、今になって思い至った。
「…あ、…はは、僕、電気…――ぁでも大丈夫、僕が消してき……」
僕は絶句してしまった。
ハルヒさんが僕の首筋に口付けてきたからだ。
「……ん、♡ …は、ハルヒさん……?」
寝るん、じゃ……?
「……、…んん……♡」
首筋…はむはむ、されると…――僕…、期待して、しまう…から……。
「……ハルヒ…さん…、僕……」
……えっち…、このまま…抱いて…僕、むらむら……うれし…これ、愛撫…? それとも…じゃれついて…、それなら…感じては、だめ…? 体に力…入らなく…、…我慢…できなく、なっちゃ……でも…ハルヒさん、疲れて…もう眠たそうだったし…無理させるわけには…、……。
「…はぁ……、……」
我慢、しなきゃ、…いやそうだ、電気…――。
「は、はは、…すみません、電気、消すって…あの、…」
僕はハルヒさんのいるほうとは反対方向に体をかたむけ、逃げるようにそそくさとベッドから下りる。
「……、…、…」
そして――どうして首にキス、…いや、きっとからかわれた…というか、じゃれついてきただけ、眠くてぼーっとしながら、じゃれてきた…でも、まさか、…いやいや、…なんてちょっと訝りながらも、…ここで期待してがっかりするのも嫌だった僕は、あくまでも「寝る」という方向で、この部屋の出入り口付近の壁にある、照明のスイッチへ向け――ベッドの足もと付近を回って――歩いてゆきながら、
「電気は僕が消しますから、先に寝ていて大丈夫ですよ。…今日もお疲れ様でした。…あの僕、今日もハルヒさんと過ごせて…その…、……」
すごく…幸せ、だった。なんてともあれニヤける。
……あんなにロマンチックな形でいただけたこの結婚指輪、と僕は何気なく自分の左手を見下ろす。
それに…今日何度も何度も訪れたすごく甘い、甘ったるいほどの時間…――今も、ちょっと…――今日の出来事に思いを馳せるだけで、僕の胸はとくとくとときめきながらたっぷりとあたたかく、幸せなおだやかな感情で満たされてゆく。
「…すごく…夢、みたいで…、…すごく、すごく幸せでした…。はは、今日は本当にありがとう…。また明日…――明日も、いい日になりますように…、ゆっくり休んでくださいね、ハルヒさん。…じゃあ電気、消しますね。……」
僕はそう言ったあと、薬指に結婚指輪のはまった左手でパチンとスイッチを押し、照明を消した。――となればこの部屋の中は真っ暗になるかと思われた。
しかし――さっき来たときはよく見ていなかったが――背後にふり向いたなり見えたこの光、ベッド上の丸窓のなか、満開の桜の盆栽や濡れた岩の床を上から照らす、陽光のような明かりがそのままであるのと、またベッドの左右に置かれたバーから吊り下げられている行灯――透かし絵のように花びらの流れる川や、菖蒲 や藤の花などが側面に描かれている行灯――が、その中からろうそくの灯火のようなやさしい光を放っているために、真っ暗にはならなかった。
「……、…」
わ…なんだか綺麗だ。
真っ暗な夜のなかに一か所だけ昼の春の景色が、丸い額ぶちに切り取られたかのような桜の盆栽と岩壁、流れる水…――とても幻想的だ…――またまくら近くの宙に浮かんでいるような二つの行灯も、中からのゆらめく光に透けたその絵の、花の赤や青紫や薄紫やが、まるで日に透けたステンドグラスのようで非常に美しかった。
……ハルヒさんはというと、…行灯のあたたかみのある灯りに薄らぼんやりと照らされた、その黒いかけ布団がこんもりとふくらんでいる。――彼は今横になり、もしかするともう眠ってしまったのかもしれない。
「…………」
僕はハルヒさんを起こさないように、となるべく忍び足でまたベッドの足もとを回り、それから再び白いかけ布団を持ち上げながら、それのなかに片脚ずつ下半身をもぐり込ませる。――それからスマホをズボンのポケットから取り出して、…わかりやすくて助かることに、この赤味がかった黒茶の木製のベッドベッドにはコンセントが付いており、さらにはそこにはすでに充電器も刺さっていたので、僕はスマホをそれのケーブルとつなぎ、そしてまくらの横に画面を伏せて置く。
「…………」
よし。…といってまだこの時間から眠れる気はしないので、布団の中でスマホをいじって眠気が来るのを待とう、とは思っているのだが。
……僕は自分もかけ布団のなかに全身をすべり込ませながら、ふかふかのマットレスの上に体を寝かせてゆく。後ろ頭がふっくらとしたまくらに沈みこむ。――木の天井にも二つの行灯の明かりがぼんやりと映っている。
「……、…」
チラリと隣を見ると、ハルヒさんは僕に背中を向けて横になっているので、そこには彼の銀髪の後ろ頭がある。――ちょっと寂しい…が、…ただ僕は彼も疲れていることだろうし、何より、やっぱり無防備な睡眠時はまだ僕が侵すべきではない領域があるのだろう、と、小さな声で「おやすみなさい…」とその後ろ頭に挨拶をしてから、……そっと目をつむる。
「……、…、…」
寝るのではない。今日はなんて幸せな日だったろう、とニヤニヤ幸せを噛みしめているのである。
そもそもまだ眠れやしない。僕はいつも夜十二時頃に眠りについているので、まだ夜九時台の今はちっとも眠気などないのである。――ただ…このちょろちょろとした耳心地のよい音を聴きながら、愛するハルヒさんの隣で、静かに今日という日の幸福を回顧し、それを一つ一つ噛みしめながら堪能する。
今日はあんまりにも幸せなことが多かったので、今僕の胸いっぱいに満ちたこの幸福を拡大し、そしてそれに自分の全身を沈み込ませる時間が欲しかったのだ。――が…、
「……、…」
……今日は久しぶりに仕事も上手くいった、久々に楽しかった…――ChiHaRuさんの曲を浴びるように聴きながら、面白いくらいペンが僕の思うまま踊るように動いていた…――、親友のリリカともまた一つ絆を深められたと思うし、新しいような昔からのような家族とも順調に、とても楽しい時間を過ごせた。
その幸福たちはもちろん僕にとってかけがえのない、尊い宝物のようなものであって、決して順位をつけてよいものではない。――どれもが同じくらい大切な、貴重な、同列のありがたい幸福に違いなかった。
……だというのに、さっきハルヒさんの唇が徒 らに僕の首筋に触れていたのが一番の原因となり、自分の下腹部の奥がとく、とくと脈打つせいで、思い起こしたそれら幸福がさらりと頭の外へ流れ出ていってしまうのだ。
「……、…、…」
ハルヒさんの、あのあめ色の長くて綺麗な指…――僕のなかに入ってきた、僕の奥を、触った……胸を、僕の肌を触ってくれた………。
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