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今僕がいるのはこの別荘内にある、自分とハルヒさんにあてがわれた二階の一室である。
そして僕は今、このまるで王族の部屋かのような華美な――それも女王やお姫さまやの部屋のような、少なからず女性的な優美なロココ調の装いの――室内で、
「……よし…――。」
とミルク色のクローゼットの両開きの扉、それの金の二つの取っ手を両手でつかみ、達成感をもって丁寧にパタンと閉めた。
ちなみにこのクローゼットにおいても、象牙 のような色あいとつやのある品のよい、しかし男の僕からすればいささか派手な重厚な造りに、金細工の取っ手が二つついたロココ調のものである。
今僕とハルヒさんはふたりで協力して――本当にほ ど か れ た だ け であった――自分たちの荷物を整理し、そして今それを片付けおえたのであった。
「……、…」
ふと僕が顔をふり向かせて見やった先、この部屋の両開きのガラス戸――窓枠は白――の外、その先にある白い手すりで囲われたバルコニーには、今もなお激しい雨が降り続いている。
あのあと――僕はいささかまだ心配であったので、もう少し母のそばにいようかとも思ったのだが――母が『少しひとりにしてくださらない…?』とひとりで考える時間をほしがったので、僕とじいやはわかった、とその場を離れた。
それは日ごろ聡明な母の強がりや虚勢などではなく、単に自分の気持ちの整理のためにはひとりですごす時間が必要だと、彼女がそう冷静に判断したものと僕には思われた。
……ただ、それでもひどくふさぎ込んでいる様子の母をひとりにする、というのに後ろ髪を引かれるような思いが残っていた僕だったが…――その僕の気持ちを察してくれた――じいやがエントランスで僕とふたりきりになったとき、ひそひそと忍ばせた声で、自分が母の紅茶など給仕をするついでにちょくちょく彼女の様子は見ておくから、安心していい、もちろん万が一何かあったらすぐに報 せに行く、と…――それで僕は、もちろん頼りにしているじいやにならば母を任せられると、彼のその言葉に甘えることにした。
そもそもいくら心配だからといって、今ひとりになりたがっている――その必要がある――母のそばにいたところで、(決して彼女から邪険にされることはないだろうが)僕はなんの役にも立たないどころか、かえって邪魔になるだけであることはわかっていた。
そして、そこでふとそういえば、と思い出した。
ハルヒさんが僕たちの部屋で荷解きを始めたはいいものの、(楽しそうな海の誘惑に負けて)やりかけで放置したという――ある意味では彼が取っ散らかしたままの――自分たちの荷物をまだ片づけていなかったな、と。
それで僕は、自分たちの部屋の場所をじいやに聞き、そうしてこの部屋までやって来たのである。
だが程なくしてハルヒさんもこの部屋へ――彼は祖父ふたりに「シタはもう席を外していいよ(あとは自分たちが何とかするから)」と言われたらしく、またそれならと彼は僕の居場所をじいやに聞き、そうしてこの部屋へ――やって来たので、…ために僕たちは、一緒に自分たちの荷物を片づけはじめたのであった。
ちなみに、ふたりで荷物を片付けながらハルヒさんから聞いた話では…――。
今コトノハさんは『もう私は終わりだよ…』とひどく絶望し、(最愛の妻からの)離縁宣言のせいで憔悴 のすえ、可哀想になるくらいぐったりとした虚脱状態であったらしい。
……また件の『そんなにたくさん飲んだところで何も変わらない』というセリフに関しても、やはり彼なりに母への想いがあって口にしたものであるようだった、…というか、何より聞けばそもそもそっくりそのままのセリフではなかったし、解釈違いというか、どうもそれの意味合いにおける「無駄な努力」などというのは(やっぱりといえばやっぱり)母の勘違いであったようである。
まず僕たちが――というかほ と ん ど 僕 が ――スイカ割りに興じていたとき、もちろんコトノハさんと母は、あのテラス近くのパラソルの下でふたりきりになり、僕らのことをやや遠巻きに見守りながら、夫婦水入らずの仲むつまじい雰囲気のなかで会話をしていた(もちろんは じ め は )。
ただ母が「明日は息子たちにも恥じない姿を見せなければなりませんわね」というようなことをぽつりと言った。――するとコトノハさんはそのとき、自分のことを恥じたのだという。
……なぜ恥じたのか、というと、彼はそのとき「パパ」の気分ではなく――「夫 」の気分で母の隣に座っていたからである。
しかし、母が僕たちのことを微笑ましげに眺めながらそうしたことを口にしたので、コトノハさんは『つい浮かれてしまった』と忸怩 した。
それから彼はあわてて気を引き締め、若干無理にも「パパモード」に自分の気分を切り替えた。
そして…――。
母は僕たちのことを優しい母の眼差しで眺め、美しくほほ笑みながら……、
「ああ、なんだかシタちゃんが作ってくれたこのジュースを飲むと、美容によい以上の素晴らしい効果があるような気がするんですの」
と――例の「真っ赤なクエン酸ジュース」をちびちびと、しかしかなりこまめに飲んでいた。
そしてコトノハさんには、そうした母が無理をしているように見えた。…そもそも彼からすると、あのジュースは噴き出してしまうほどまずいものでもあった。
ただ彼の目には、母のその「無理」は単に「美しくなるため」に耐えて努力をしている、というの以上の――自分自身の美容のため、というの以上の――やせ我慢と映ったんだそうである。
……それはある種の義務感ゆえ――母親として、自分のかわいい息子が作ってくれたものは、たとえどれほど飲むに苦労するような味であろうとも、自分ばかりはおいしかったわ、ごちそうさまと飲み干してやらねばならない、というような――そうした「母としての矜持 」から、彼女が無理をしているように見えたと。
それは彼女の「なんだかシタちゃんの…」というセリフもさることながら、そもそもコトノハさんは、今目の前にいる妻が「ママモード」であると思っていたからである。
ましてや自分の妻なら、いまだ(追加製造されたばかりに)二、三リットルも残っているそのジュースをも、息子(たち)への愛に懸けて飲み干してしまいかねない。――彼女には家族にたいしてはこと堅固な信念がある。
愛する息子たちのためならば、どのような無理をも喜んでしてしまうような妻である。息子たちのことともなるとしばしば意固地になってしまうくらい、妻は息子たちのことをよほど己よりも大切にしている。
だが夫の自分としては、息子たちのそれと同じくらい、妻の体も大切なのだ……コトノハさんは今度ばかりは危惧をもってそう考えた。
それで彼は母の紙コップを持つその手、その真っ白な細い手首をそっと押さえて、彼女をこうたしなめた。
「もう無理はよしておくれテル。――いくらシタハルが作ったものだからといって、そう無理して、その全てを貴女ひとりで飲み干そうとする必要なんかないんだよ。…残りは夕食の時にでも、みんなで消費したらよいのだから」
しかし母はコトノハさんにそう止められたとき、きょとんとしたそうだ。「え…?」――それから彼女は少し困ったように微笑した。
「いいえ、違いますのよあなた。…わたくし、自分の美容のためにこれを飲んでいるんだわ。――明日になって後悔したくありませんの。――それになんだか、こうして努力を続けていないとわたくし、ちょっと……」
とそして母は目を伏せ、白い紙コップの中に満たされた真っ赤なジュースを見下ろしたという。
「気が気でないんですわ…。きっとこれでも緊張しているのね…――ですから、どうぞお気になさらないでねあなた。…わたくし、ちっとも無理なんかしていませんのよ。」
コトノハさんは、そうして自分を見てほほ笑んだ妻のそのもの憂げな微笑に、胸が締めつけられた。
彼女は自分のためにもこうした無理な努力をしてくれている。それも何もこの酸っぱいジュースばかりのことではなく、この頃ずっと……彼女はあまりにも愛おしい女神 だった。あまりにもけなげだった。いつまでも可愛い自分の妻だった。
……ここは夫としてはっきり言ってあげるべきである。――もう無理はしなくていい、と。
「いいや、貴女はきっと無自覚にも無理をしている」
とコトノハさんは真剣な顔をして……、
「だが、貴女はもう……――。」
貴女はもうすでに完璧なほど美しい。
だから、もうそうした無理な努力などしなくていい。……貴女がここまでにしてきた殊勝 な忍耐、絶え間ないその努力はもうすでに結実している。
なぜなら…(貴女は元より美しい女神ではあったが、)貴女はもうすでに、これほどまでにも美しくなったのだから…――貴女はもうすでにこんなにも可憐 な、私の自慢の美しい花嫁の顔をしているのだから……。
……的なことを、そのときコトノハさんは言おうと思ったんだそうである。
だが…――今目の前にいる妻はあくまでも「ママモード」――…となると、自分のこうした夫妻 めいた甘いセリフは、今の妻にはいささか迷惑なものかもしれない。それで彼女を困らせてしまってはしようがない。
(しかし僕が思うに、おそらくこれをはっきり母に言っていたなら、こんな喧嘩にはならなかったような気もするのだが……とはいえ、)コトノハさんはその判断を(そのときは)ベストなものだ、と信じた。
そしてこう考えたんだそうだ。
では…こうした言葉は今夜、厳密なふたりきりとなったときに言うとして…――今はとにかく、彼女にこれ以上の無理をさせないための説得に注力しよう。
それでコトノハさんはこう続けた。
「貴女はもう十二分に頑張ってきたじゃないか。これ以上無理をする必要はないよ。――それこそ、薬も過ぎれば毒になる…――その酸味の強すぎるジュースこそはまさにだが、それは努力においても同じことだ。…たとえばダイエットにおいても、無理をして盲目的に痩せよう痩せようと頑張りすぎては、却 って魅力も健康も損なわれてしまうようにね…――だからテル…、今日はもう、この旅行を楽しむことだけに集中しないかい。…私と心やすらかに明日を待とう。」
……しかし母の表情がここで少しだけ曇った。
「…けれどわたくし、これでも楽しんでいますのよ…――それに…何度も言うようですけれど、明日までは少しのことでも努力を続けておきたいんですの。…あなたのご心配はありがたいけれど、…ふふ…――あなた、明日わたくしのお隣に立たれるんですのよ。…愛する旦那様に、わたくし、恥ずかしい思いをさせたくないんですわ」
彼女はそう言いながら、花がほころぶような笑みをうかべた。
するとコトノハさんは妻のその美しさ、そのけなげさにまた胸をうたれ、――さらには、その見とれそうになるほどの極上の美しさから、彼女にはもうこれ以上の努力など一切必要がないことを確信し――真剣な顔をしてこう言った。
「いいや。貴女はもうこれ以上ないくらい、私の自慢の妻だよ」
「…まあ」
母はその言葉に目を輝かせて喜んだという。
……しかし…――このあとコトノハさんは、彼女のその嬉しそうに明るくなった表情を見、そして大切な妻にもうこれ以上の無理をさせない、という目的が果たされる気配をもその顔に見たばかりにホッとして、つい気がゆるみ…――微笑してこう、若干言葉足らずなセリフを続けた。
「うん。だから無理をしてそう、そのジュースをたくさん飲むことはない。――貴女がこれ以上そのジュースを飲んでも飲まなくとも、明日は何も変わらないさ。」
そう、実はこれがこの「事件」の発端 たる――「件のセリフ」なのであった。
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