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「うん。だから無理をしてそう、そのジュースをたくさん飲むことはない。――貴女がこれ以上そのジュースを飲んでも飲まなくとも、明日は何も変わらないさ。」
これがこの離婚の危機的夫婦喧嘩の発端たるセリフらしい。
ただ繰り返しにはなるが、コトノハさんは――これ以上そのジュースを飲んだって、明 日 は 何も変わらない、と言ったそうなのだ。…もっといえば、「明日の(結婚式の)成功や幸せ」は何も変わらない、と。
つまり彼は、(このまま飲みつづけたってどのみちではあるが)無理をして飲んでいるのだろう、その異常に酸っぱいジュースを飲むのを今きっぱりとやめたところで、――すでに十二分に美しくなっている――母が明日(の結婚式で)後悔することなどない…と言いたかったそうなのである。
……しかし母はコトノハさんのそのセリフを、「そのジュースをたくさん飲んだところでも、明 日 の 母 は 何も変わらない(そんな努力をしたってどうせ無駄、それによって明日の母がより美しくなっているなんてことは起こり得ない)」というふうに聞いてしまった。
ただ彼女のその勘違いの原因は、何もコトノハさんの言葉足らずばかりではなく、……まあこれは僕の推察でしかないが……そもそも母は――先ほど本人がこぼしていた話から察するに――、内側にあるコンプレックスを抱えている。
自分はもう決して若くはない。実質上不老不死の神とはいえ、だとしても自分は、きっと「花嫁」というにはもうふさわしい年齢ではない。
……なお、いわく神は外見上の年齢も自由自在に変えられるとのことであったが、…母の言動をふり返りみるに、彼女はあくまでも「若く美しい花嫁」――それこそ天上で、夫神・天児屋根命 とはじめて結婚した当時のような「うぶな花嫁」――になりたいのではなく、「今の自分史上最高に美しい花嫁」になりたいのではないか、と推察される。
それこそ神である彼女は、彼女の考える「花嫁にふさわしい年齢の女性(女神)」になろうと思えば、容易になれるはずなのである。
しかし彼女がそうしないのは、たとえば人間・天春 玉妃 として、そうした神らしい年齢操作をしては(客として訪れる)人間たちに訝 しまれてしまうというのが理由かもしれないし、あるいはそうではないかもしれないが――もっと何か「想い」めいたものが理由かもしれないが――、とにかく彼女は、「美しい花嫁」にはなりたいものの、といって「若 く 美しい花嫁」になろうとはしていないように見えた。
……しかしそれでも自分はもう若くない、と思い悩み…いや、きっとそれだからこそ彼女は、(今の自分史上最高の)美しい花嫁になりたい――愛する夫に「今日の貴女が一番綺麗だよ」と言われたい、愛する夫の自慢の花嫁になりたい(ついでにその美しい花嫁姿によって、僕ら息子の自慢の母にもなりたい)――と人一倍努力をしてきた。
けれども夫は、本当はそうして無理をして――年齢的な意味での「無理」をして――努力している自分を、『もう若くはないのに』などと恥ずかしく思っていたんじゃないか。…それも大きなふたりの息子までいる自分が、うぶな少女のように結婚式や花嫁姿に夢を見てはしゃいでいるのを見て、夫はただはっきりとは言わないだけで『年甲斐もなく浮かれている』だの、『もう母親だというのに女の喜びをまだ求めようというのか』だの、『ウェディングドレスなんて若作りをして』だのと、呆れていたんじゃないか。
本当は美しくなりたい、美しくなりたいと必死になって頑張っている自分をかたわらで見ていて、『そこまでやらなくても…』だなんて煩わしく思っていたんじゃないか。――今の自分が必死に努力をしたところで、若い頃以上に女性として魅力的になれることなどないというのに、…本当は夫は、自分の努力を『無駄なあがき』だとでも思っていたんじゃないだろうか。
なお彼女のこの悲観的な思い込みには、必ず「夫は」という、妻、またかつ女性としてはひときわ美において気にしがちなコトノハさん の目(存在)がついて回っている、とはいえ…――何より、誰より…――これは他でもなく、彼女自身が自分に思っていたことなのだろうと思われる。
……いや、ともすれば「彼女だけ」が――僕ら家族の誰もきっとそうは思っていないが、何より傍 から見ても夫であるコトノハさんは、彼女をきちんと「女性 」と思ってそう扱っている。
だが母は誰よりも自分自身が、もう今の自分では「女性としての幸せ」を望んだら恥ずかしい、とおそらく思い込んでしまっている。
だからこそコトノハさんのあの言葉も、これまで決して怠 けることなく積み重ねてきた自分の血の滲むような努力への、彼女の美におけるポテンシャルへの、そして彼女自身への否定に聞こえたのだろう。
だから…――コトノハさんはそれも、「明日は何も変わらない」と言ったのち、微笑んだまま……、
「それが何故 かわかるかい? 明日の結婚式は……」
どのみち絶対に素晴らしい結婚式 になるからだ。
私はそう確信しているんだ。――しかし、といってこんなにも美しい花嫁の隣に立つだなんて、私のほうがよっぽど緊張してきてしまうな。
私のほうがうまくできるかどうか…――貴女に恥ずかしい思いをさせないかどうか…――だが私は、絶対に明日貴女に後悔などさせないよ。必ずや素晴らしい結婚式にしよう。
……と…続けようとしたんだそうだが――すなわち「引き」のあるロマンチックなセリフを言おうとして、あえて言葉足らずにしたとでもいうか、あえて少し回りくどい言いまわしをしてしまったせいで(ある意味で「言葉の神」であることが仇 となり)、――すでにネガティブな思い込みをし、傷ついてしまっていた母は、
「あなた…、それ、どういう意味でおっしゃっているんですの……?」――とそれをさえぎり、険しい顔をして尋ねてきた。
それはもはやこれ以上傷つきたくはない、という自己防衛ゆえのことではあったのだろうが…――しかしここできちんと最後まで聞いていれば誤解することもなく、また喧嘩にもならなかったのだろうにと惜しまれる…――。
なおコトノハさんもここでまずい、と思ったそうだ。そして先ほどの言葉が仇となってしまったことを察し、こうすぐにフォローを繰り出した。
「つまり…もうそうした無 理 な 努力などしなくとも、貴女が明日後悔するようなことには……」
絶対ならないよ。(貴女のその磨き立てられた美しさにも見るように)成功は約束されている。と…しかしコトノハさんがそう言い終える前に、…すでに傷つき、頭に血が上ってしまっていた母は、さなかにも目を潤ませて彼を睨みつけた。
「無 駄 な 努力ですって、…つまり、…っ無駄だから、どうせ後悔するも何もないとおっしゃりたいのね、」
……それも母はショックのあまり気が高ぶっていたせいか、ここで「無理」を「無駄」と聞き間違えてしまったんだそうだ。
「え、いや違う、私は無 理 な と…」
「っどうしてあなたがそう思われるのか知りませんけれど、…わたくしが大年増だからですか? もうわたくしが若くはないからってそんなことおっしゃられてるんでしょう、あなた、…」
「いいや、っいいや違う、そうじゃない、…私が言いたかったのは、…とにかくもうそれを飲まなくてもいいんじゃないか、ということだよ、…そもそももうそんな必要はないじゃないかテル、何故なら貴女はもうすでに…」――十二分なまでに美しいのだから…、とは、僕らならば容易にその続きが推測できるものの、…
母は怒り泣きの顔でこう言ったんだそうだ。
「もうすでになんですの、? もうすでにお婆さんなんだから手遅れだとでもおっしゃる気、?」
「違う、私はそんなこと毛頭思っていないよ、…貴女はもうすでに十分美しいし、私はただ貴女に無理をしてほしくはないだけなんだ、――いや、却ってここでやめておけば、きっと悪くはならないで済むが、…」
これ以上そのジュースを飲めば逆に多量摂取となって、果てには胃を傷めかねない…――そして、明日のせっかくの結婚式にも支障が出かねない…――と、やはりコトノハさんは愛する妻の身を案じて、今度はあえて冷静な、論理的なアプローチで「真意」を伝えようと試みた。が…もはや焼け石に水……。
「悪くなる? 無駄な努力をしたって、どうせわたくしのような大年増は何も変わらないとおっしゃりたいのね、…いいえ、かえって悪くなるだけ、悪化するだけだと、…所詮 無駄なあがきだと、――若い娘 ならばいざしらず、…っあなた、これまでもわたくしを滑稽 に思われていたんでしょう、どうせ、……っ」
……そして母は涙を隠すように、顔を両手で覆い隠した。
「もう…っもう結構ですわ、…わたくし、自分が恥ずかしくてたまらない、――あなたに喜んでいただきたかっただけでしたのに、…あなた、もうわたくしにそんな喜びなんて求められていないのね、…っわたくしの顔なんてもうとうに見慣れていることでしょうから、せめて明日は少しでもと思ってのことでしたのに、…」
「て、テルっ…! 違うテルヒメ、違うんだ、」
コトノハさんは彼女の二の腕を掴み、引きよせて抱きしめようとした。が母は「おやめになって…っ!」とそれを怒りながら――泣きながら――拒絶した。
そしてうつむいてポロポロと涙を落としながら、彼を見ることもなくこう言った。
「あなたにこれまでの努力など無駄だったと言われてしまっては、もう立つ瀬がございませんわ、――もう明日の結婚式なんてどうでもよくってよ、…っわたくし、あんまり恥ずかしくてもう明日、あなたのお隣に立てそうもございません、…」
「そ、そんな、…そんな…、まるでその言い草では…」
「ええ、もう、…あなたにもう愛されていないのなら、離婚して差し上げてもよろしくてよ、…っこの際、新たな若く美しい花嫁を娶 られでもしたらどうかしら、」――と母は怒った泣き顔を伏せたまますっくと立ち上がり、
「わたくし、その覚悟はきっともうできておりますから、……っ!」
……と――そこでちょうどそろそろ雨が降るかも、なんてふたりに言いに、自分たちのもとへトコトコ歩いてくる僕を見つけて、母は駆け出し…――、
「待って…っ!」
で…コトノハさんはガタッ! と勢いよく立ち上がったはいいものの、その際に慌て焦りすぎたあまり脚がテーブルにぶつかり、その上にあった真っ赤なジュースの入ったドリンクサーバーが倒れ、…たが、
「待ってくれテルヒmえぇ゛っ!?」
しかしそれを気にも留めず駆け出したコトノハさんは、――母のいうジュースで足をすべらせた、というのではなく――足もとの砂と椅子の脚に足を取られ、脚がもつれて、…ドタッ…ベチッ……と砂浜のうえに転び、あのうつ伏せ状態に……。
……しかも悪いことに、そもそもジュースがこぼれていた赤い砂浜にそうして顔を埋めてしまったばかりか、上から流れ落ちてくるさらなるジュースまで、びちゃびちゃと後ろ頭に受ける羽目に…――それであの「殺人現場様相」にいたった、とのことである(そしてそのあとも、失意のあまりもう起き上がる気力もなく、捨鉢 な思いでそのままでいたそうな……)。
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