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「――……、……」
僕はゆっくりと、閉ざしていた両方の上まぶたを開いた。――白いハーフパンツを穿 いた細長いふたつの太もも、骨のかたちのわかるふたつの生白い膝頭……そうだ、僕は今ベッドのふちに腰かけてうつむいている。しかしこれは今やいささか見慣れない、僕が人間にして十五、六の少年であった頃の膝だ。
――…ザアアアア……――外ではいまだ大雨が降っているらしかった。
「……なる、ほど…――。」
しかし、そうひとりごちた僕の胸中ばかりには今、先ほどのどしゃ降りの不安がまるで嘘かのように、雨上がりの雲間から静穏なる光明が射していた。
すなわちそれとは安堵 を孕 んだ確信であった。
――母上と父上はおよそ今度も大丈夫であろう。
日本最古の夫婦神――もっといえば、離れようにも離れることを決して許されない、元祖・運命られた夫婦神――であらせられる、伊弉諾 の大お父様・伊弉冉 の大お母様の両神がお教えくださったあの「教訓」は、その実その教えを直接説かれた僕ら夫夫神ばかりではなく、すべてのふうふの為 になるものであったといってなんら過言ではない。
それこそ創世から今日 にいたるまで、その永遠にも近しい永い永い時を共にされてきたそのご夫婦神とても、一度はあのような離縁をともなう凄惨 な夫婦喧嘩をご経験され――しかしそれをも無事乗りこえられ、復縁され、今や仲むつまじいご夫妻に戻られたお二方ではあるが――しかし、それでもいまだに喧嘩をされるようなこともあるのだという。
なお、彼らからそのお話を聞かせていただいた当時の僕は、これほど酸いも甘いも噛み分けた落ち着きのある――そして清濁 併 せ呑 む――大お父様・大お母様でさえ、いまだに夫婦喧嘩をされるのか…といささか意外にも思ったものだが、……しかし今ともなれば、それに対して驚くことはない。
何千年を共にしたってなお、いまだに僕とシタハルもしょっちゅう喧嘩をするからである。
それこそ何でもかんでも「つつぬけ」な上に阿吽 の呼吸などお手のもの、「我は御前、そなたは我」というような一心同体(あるいは異体同心)の我々夫夫神でさえ――いや、ともすればそれだからこそ、かもしれないが――この何千年間におびただしい回数夫夫喧嘩をしては仲直り、を繰り返してきたのだ。
……いや、互いに気が強い上負けず嫌い、それもいまだ未熟なところのある若い男神の僕とシタハルとでは、しかしそれはあくまでも当然だろう、などと周りの大人たちには見なされてしまうかもわからないが――しかし大人たちのその目線だって、結局はその(過去は未知も多く若く未熟であったがゆえの、多くの)夫婦喧嘩の経験があればこそ、である。
何より、そもそも僕らの両親にとっても、何もこれが初めての夫婦喧嘩というわけではない(これは先ほどシタハルも言っていたことだが)。
ましてや母上は聡明なひとであり、基本的にはおしとやかで上品かつ冷静な性格をしてはいるが、少々血の気が多いところもある女神なので――なおそれはいわく「日の瞳」の影響らしいのだが、シタハル同様、とにかく一度怒ったらもはや手がつけられないほど暴走することもあるような神なので…――彼女が「もう離婚よ」だなんて、父上との離縁を望むようなことを口にしたのもまた、別にこれが初めてなんてことでもなかった。…なんなら彼女、父上と喧嘩をするたびにそう言っているくらいである……。
ただ…そうはいっても僕ら神々は、そもそも厳密には人間の子らのように寿命という「終わり」がないので、ふうふ関係においてもまず何百年、何千年と――いや、永遠に――連れ添うことを前提とした上で結婚をするのである。ために、喧嘩をしても離縁より仲直りを先に考えることが多い(まあイザナギの大お父様や母上のように、ついカッとなった勢いのまま離縁だ! なんぞと失言するような者がいるのは人間も神も同じだが)。
というよりかそれ以前に、そもそも別れるのが人間よりもよほど容易ではない。今や夫婦神はそれとして地上各地の神社に祀られていたりもするからである。
すると…まあもちろん離婚できない、というわけではないものの…、また以前はイザナギの大お父様のように「離縁だ!」というだけで――個人の意思で――別れられたそうだが、運命調整(地上に広まっている夫婦神としての事実を、離縁した夫婦神ということにするだの、あるいははなから婚姻関係のなかった二神にするだのという調整)など非常にやっかいかつ大がかりな面倒事も生じ、…
となれば結果として、まずそれのできる創造主をはじめとした造化三神に離縁の許可をもらうところからなので――要は神が離婚したい場合、個人の意思のみではそれもできず、必ず第三者の判断に可否をゆだねられる離婚裁判のようなものをせねばならない、ということである――、…すなわち神のいう「もう離婚する」という文言においては、ほとんどの場合はおよそ本気のものではないと思ってよい。
……まあそれはさておきとしても、何にしても僕らの父母もまた喧嘩をするたびに仲直りをし、むしろこれまでもその夫婦喧嘩によって、より夫婦関係を強固なものとしてきた。
そしてその事実も踏まえた上で、さらにイザナギの大お父様・イザナミの大お母様のあの教えにしたがえば――すなわちふうふ喧嘩というものは、ある種関係性をよりよいものにするためのチャンスだ、とそう捉えるべきなのである。
……もっともそれの原因が浮気だの不倫だのの裏切りだ、あるいはモラハラだのDVだのという虐待行為なのであれば、そう悠長に捉えるべきでないのは言 を俟 たないことではあるが――そもそも神の場合そうしたケースは限りなく少ないし、何より――このたびの父母の夫婦喧嘩は、まずそのような原因でないことは火を見るよりも明らかだ。
思えばこんなのは犬も食わない夫婦喧嘩である。
ましてや、このたびの父母の夫婦喧嘩においてもまた――いつものことながら――どちらがどちらに失望しただの、愛想を尽かしただのというようなものでもない。
これはただ本当に、言葉の取り違い、行き違いの果ての夫婦喧嘩でしかない。
するとこのたびの父と母の夫婦喧嘩は、――そう不安がらずとも――わりにたやすく解決する、すなわち彼らの仲直りの時を見るのもそう時間のかかることではない、と僕は推量している。
そもそもシタハルいわく、あのときの父上はこう思っていたそうではないか。
――『今 は 夫妻 めいた態度はよそう。ふたりきりになったとき、改めて彼女に自分のロマンチックな気持ちを伝えよう』と。
すると、言ってしまえばこの夫婦喧嘩――父上がさっさと母上にそれを伝えてさえしまえば、それこそ今すぐにでも解決のときを見るに相違ない。
なぜなら、このたびに傷ついてしまった彼女の心は、最愛の夫神である父上の「貴女は努力の甲斐あって、もうすでに私の美しく可愛らしい花嫁の顔をしている云々 」という真意からの甘い愛ある言葉たちに、――母上が一番に欲しがっている父上からのその言葉たちに、――およそすっかり癒やされ、またたちまち誤解もとけるに違いないからである。
まあ、もとより喧嘩というものの渦中に置かれている身のつらさこそわかりはするものの、…といってそれを恐れていては何にもならない、とは全く大お母様のおっしゃるとおりである。相手は所詮他人だ。いや、ある意味ではそ う で は な い 僕らでさえ喧嘩をするのだ。――相互理解をかなえるにおいては、こうした一見つらい出来事もかえって必要なのである。
冷静に意見をいわれるよりか、素直に涙を見せられたほうが心に訴えかけられるものもあろう。また、傷ついた心ほどあたたかい伴侶の甘い愛と、誤解だった、という安堵が沁 みるものもない。
そうして、偉大なる父母神のあの夫婦喧嘩にも見るように――それこそ喧嘩をしているときは関係が危うかろうとも――その嵐が過ぎてから見れば、かえってその喧嘩こそが夫婦仲を深めていた、なんてこともよくある。
それこそは雨降って地固まるというやつである。
となれば――結局のところはシタハルやじいやの言うとおり、僕(ら)はこれを父母のためになるひとつの試練 として、そのふたりがどのようにこれを乗りこえて仲直りをするか、それをそっと静観しているに限るのであろう。
しかし、といって僕にはいまだ懸念していることが一つある。
――母上のことである。
今の母上はこの地上における価値観に染められ、ひどく悲観的になっている。――それこそ普段の母上ならば、何千年と連れ添った父上の言葉を、あわや取り違えてしまうようなこともなかっただろう。
……そもそもこの夫婦喧嘩の根本的な原因は、彼女のその悲観にあるといってもきっと過言ではない。
しかし、彼女が一体誰に迷惑をかけたというのだろう?
いや、『こんなのは恥ずかしい』と一番に思いこんでいるのは――自分が自分の「好き」という気持ちに素直になり、無邪気にそれを楽しむこと、つまり自分が自分らしくいることはきっと周りの迷惑になるなどと、いじらしい悲観をしてしまっているのは――、その実ほかでもない、彼女自身なのである。
母であるから、もう乙女ではないから――。
しかし、それは本当に「彼女自身の心の声」なのだろうか?
たとえばSNSなどで、顔も知らぬ世間の人々の意見を次々と見ているうちに、我知らずその否定的な意見が自己の中にダウンロードされてしまっていることがある。――そして、そのダウンロードされた意見がふと頭に思い浮かんだとき、人はそれを『自分の意見だ』と勘違いしてしまうことがあるのである。
つまり本当はこれが好きだとか素敵だとか、やってみたい、こうしてみたいという「魂のときめき」、その「自分の心の声」がふと胸のほうから聞こえてきたとき――それをくだらないだの恥ずかしいだの、年相応ではないだのと否定する「世間の声」が、その固定観念が、その常識というものが、そのひとの「ときめき」を『自分なんかがこんなことをしたら恥ずかしい』といましめてしまうばかりか――悪ければそれで新たな幸せの機会を逃してしまうばかりか――、自分も本気でそう思っている、ちっとも素敵だなんて思わない、自分はそれに興味なんかない、だなどと勘違いまでさせてしまう。
もちろん実行するしない、夢を叶える叶えないはそのひとの自由だ。
だが、内々のときめきという純粋な可愛い気持ちをまで、世間がこうだからああだからと否定する必要などあるだろうか?
しかしきっと母上の心の中にも、そうして自分の「女心」をなかば否定したいような、悲観という痼 ができてしまっている。
あこがれの美しいウェディングドレス、最愛の夫神とのロマンチックな結婚式、そして、それに似つかわしいひとりの女性になるための努力…――しかしそれらを誰よりも彼女自身が…――『もう大年増のくせに。ウェディングドレスなんてもう若くないわたくしには似合わない。若作りをして恥ずかしい。わたくしは結婚式にはしゃいで可愛いと思われる年齢じゃない、むしろ冷笑されるような年齢。この年齢から努力をしたって無駄なあがき。わたくしがどれほど美しい結婚式をしたって、どれほど美しいウェディングを着たって、どうせ若い娘 の輝きには到底劣る。そういうものは若い娘の特権。』というような思い込み、あるいは決めつけをしているところがあって、…
それでそもそも母上は、父上の言葉を取り違えてしまったところもあるのではないだろうか。
いいや――しかし、
女性の心のなかに、いつまでも愛らしき「女心」というのがあるのは、あくまでも当然のことなのだ。
母親であろうが、はたまたイザナミの大お母様のようないわば大祖母であろうが、何千歳、何万歳であろうが、あ く ま で 女 性 は 女 性 なのである。
たとえどのような瞬間、時期にあろうが、また今の自分がどのような立場、年齢であろうとも――自分のその純粋なときめきや憧れ、好きという気持ちを殺す必要まではない。
もちろん彼女には「女心」や「女性らしさ」を忘れなければならない瞬間、そうした時期もきっとあったことだろう。――というよりか、彼女はこれまで息子である僕らのために、きっと自分のその「女心」や「女性らしさ」をなるべく忘れようと努めてくれていた。…それは彼女が母 だ か ら である。
そしてともすれば、彼女にも、時には自分が女性であることに嫌気がさすような瞬間もあったのかもしれない。――というのも、彼女の心にははじめから最愛の父上がいたが、美しい女性、それも表向き独身であった彼女は、この地上の男たちにちょくちょく言い寄られていた。……それも聞けば、なかにはセクハラまがいなアプローチをかけてきた男もいたという。
ましてやこの地上では、女性たちはそうしたセクハラばかりか、女性だからというだけで仕事上にしろプライベート上にしろ、もともと持っている能力に反した無力(無能)扱いとでもいうか、「女の魅力」で世を渡りあるくのをこそ処世術とでもはき違えられているというか、とにかく不当な扱いを受けてしまう場面もしばしばあるだろう。――すると大企業の社長であり、すご腕のデザイナーであり、なおかつ魅力的な――母上も、「女性であること」をいっそ忘れてしまいたい、…ともすれば、女性として生まれたことを憎らしく思った瞬間が、これまでにきっと何度もあったのではないだろうか。
だが――母上は、女性はいついかなるときであっても、女性としての尊厳を、誇りをもって生きていい。
母上は自分を好きになれる、自分らしい「女性らしさ」をもって生きていい。
いつからでも、もっと綺麗になっていい。
ずっと好きでいていい。もっとときめいていい。
好きなものにもっと喜んでいい。もっと楽しんでいい。もっとはしゃいでいい。
もっと笑っていい。もっと安らいでいい。もっと心地よさを追求していい。
――「女性」であることをもっと楽しんでいい。
素敵な貴女のその素敵なところを、もっとありのまま認めてほしい。
もっと――もっと自分を、好きになっていい。
貴女はもっともっと自分のことを、大好きになっていい――。
これは異性(男性)である父上をはじめとして、周囲の誰も、なにも関係がない。
たとえ周りにどう扱われていようとも、たとえ個人でいようとも、自分がそうだと確信している限り、母上は女性なのである。それも「美しい女性」なのである。
ほんの少しのことでもいい、ときどきでもいい、まずは自分が自分のことを大切に「女性扱い」してあげてほしい。――母上が心地よい瞬間、また心地よい程度に、自分のなかの「女性らしさ」というものを、ありのままに認めてあげる時間を持ってほしい。
……僕は今、母上に切なくなるほどこう思ってる。もちろん僕が守護する、愛する女性たちにもこう思ってはいるが――だからこそ、母上にもそう思うのだ。
母上も「女性」だからである。
母上…――僕は貴女ほど立派な女神を知りません。
息子の僕らの目から見ても、母上は女性として、母親として、とても立派な女神ではありませんか。
母上はいつも太陽のように美しく輝いています。
こと最近の母上は、よりいきいきと美しく輝いていました。
――自分の純粋な憧れを叶えるために努力をしていた貴女は、きっとこの世で一番美しい女性だった。
美しいウェディングドレスに憧れ、最愛の夫神との美しい結婚式に憧れて――しかしその恋心、女心、その女としての憧憬 を単なる夢物語では終わらせず――憧れを叶えるために行動をし、努力をし、そして絶え間ない忍耐をしてきた母上は、まるで太陽のように美しく、誰よりも輝いていましたよ。
純粋なときめきを糧 に努力をしている女性はみな、太陽のように美しく光り輝いているものです。
その強力な輝きには、惹き付けられて恋をする者、そのまばゆい輝きをねたむ者、はたまたその陽光に心の氷を溶かされ、勇気づけられて顔を上げる者――自分もきっと輝ける、と決意する者――と、さまざまいることでしょう。
だが、それらは全て、その全身からはなたれる光があまりにもまばゆく、美しいからこそ――。
貴女という美しい女神、その名はそう……、
天美津 玉照比売 命 ――。
太陽が昇れば、星の美麗なきらめきさえも見えなくなるでしょう。――太陽のそのすみずみをまで照らす美しい輝きは、艶美とよく褒められる月でさえもかすむほどです。――植物のほとんどはみな太陽へむけて葉を、花を向け、その美しい太陽をばかり見つめ、そして手を伸ばすように茎 を伸ばします。
母上はいつだって僕の誇りです。
貴女の美しい顔によく似たこの顔――この美しい顔、これもまた僕の誇りのうちのひとつです。
僕は貴女が大好きです。敬愛しています。貴女がこれまで僕のことを惜しみなく愛してくれたからこそ、そうした貴女のことが僕は本当に大好きだからこそ――だからこそ僕は、自分のことも大好きになれたんです。
大好きな貴女の息子だからこそ、僕は本当に自分が大好きなんだ。
母上は美しい。いつだってその玉のように美しい笑顔で、僕らのことを明るく照らしてくれている。
だのに……母上が本当に気にしている「目」とは、本当に最愛の父上の目でしょうか?
あるいはこの地上の――世間の、人間たちの目ではありませんか?
貴女も僕らと一緒にこの地上で生きて、成長をされてきた。
だからこそ、その人間的な感覚をお知りになり――その感覚に慣れてゆくうち、いつしかわれ知らずそれに染まり――そして、うっかりお忘れになってしまったんでしょう。
貴女の輝きに眉をひそめ、ねたむ者があろうとも、――その一方で、
貴女のそのまばゆい美しい輝きに憧れ、勇気づけられる者がいること――そして、貴女のその輝きによって幸せになれる者がたくさんいること――、そのことをどうか、どうか思い出してください。
貴女の輝きは僕らにとっての「幸せ」なんです。
貴女の笑顔は、僕らにとっての「希望」なんです。
明日、美しい花々さえもが貴女に顔を向け、貴女だけを見つめることでしょう。
多くの人々が、貴女のはなつ光に心を照らされて、真夏のひまわりのように微笑むことでしょう。
貴女の優しい手、貴女の優しい目、貴女の優しい声、貴女のその優しい笑顔――貴女という女神こそが、僕ら家族にとってはいつまでも、一番に美しい女性なんです。
どうか貴女という女神が幸せになることを――自分が美しく光り輝くことを――どうか、何より貴女ご自身が許してあげてください。
貴女には恥じるべき点など何一つありません。
母として、妻として、女性として、貴女には恥じるべき点など、何一つとしてありません。
それは貴女が、父上や僕らのためにそうであれるようにと、僕らに恥じない立派な女神 であろうと、いつも陰ひなたで努力をしてきてくれたからです。――本当にありがとう母上。…貴女は僕ら家族の誇りです。貴女はなんて素晴らしい女神でしょうか。
あんまりまぶしいのだ、と文句を言うような輩 には、日陰にいてもらえばいいだけのことではないですか。
わたくしがまぶしいのならどうぞサングラスでもおかけになって、だなんて、いつものように一笑くださいませ、母上。――母上……。
母上…ご自分が誇り高き美しい女神であらせられること、どうか思い出されてくださいませ…――。
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