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第4話 AIは恋敵に敗北しない
違和感の始まりは、礼子からのメッセージに気付いたことから始まった。
「気軽に連絡してほしい」という文面に、鷹臣は口をわずかに歪め、当たり障りのない返信文を頭の中で組み立てる。しかし、せっかく入力した文面は、なぜか送信直前で消えてしまう。アプリの不具合かと思い再度試すも、結局同じことを三度繰り返す羽目になった。
「なんなんだ……?」
彼の会社では、他社連携も可能な学習成績管理ソフトを販売している。しかし細かいシステム面はすべてエンジニアの後藤に任せきりで、鷹臣自身は“AIネイティブ世代”ではあるものの、機械に強いわけではなかった。
気を取り直して画面をスワイプすると、いくつかのアプリも消えていることに気づいた。どれも使っていないものばかりで、どんなアプリだったのかももはや思い出せない。ただ一つ、ずいぶん前に後藤にうるさく言われてインストールしたマッチングアプリまで消えていることに、鷹臣は眉をひそめた。後藤に会うたび「使ってるのか」と詰められるのが面倒で、削除せずに放置していたはずなのに。
「鷹臣さん、本日の交通情報をお知らせします」
きっちりと身支度を整えたユウリが、鷹臣のネクタイの結び目を整えながら爽やかな声でニュースを読み上げる。
「首都高3号線付近で接触事故が発生しています。現在、迂回車線に渋滞が発生中。平均速度は時速25キロ、いつもより15分早く出発する必要があるかと思われます」
「15分か……ギリギリだな」
鷹臣は時計に目をやりながら肩をすくめた。食後のコーヒーを味わう時間は、諦めるしかなさそうだ。そんな鷹臣の心中を見抜いたように、ユウリが静かに微笑みをうかべた。
「コーヒーを持ち歩けるように、タンブラーに入れておいたよ」
受け取ったタンブラーは手のひらに心地よい温もりを伝え、ふわりと香ばしい香りが立ちのぼった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「愛してる」
「ふふ、大袈裟だなぁ」
鷹臣が頬にキスをするとユウリはわずかに目を丸くし、すぐに柔らかく笑った。まるでありきたりなホームドラマの一場面のようだった。しかし鷹臣は、誰かとこんな穏やかな朝を共有する日々を、どこかで夢見ていたのだ。その相手がアンドロイドであるとは、想像もしなかったが。
「本日の最高気温は二十一度。夕方には十二度まで下がり、冷え込む見込みです。コートを忘れずに」
「あぁ、わかった」
短く答えながら、鷹臣の視線は自然とユウリの装いに向かう。冬用の服を買わなければ、そんな思いが頭をよぎる。肌触りの良いカシミヤのニット、落ち着いた茶色のチェスターコート。きっとなんでも似合うだろう。
ユウリが寒さを感じないと分かっていても、彼の身繕いを整えることは、今や鷹臣のささやかな喜びになっていた。今度は店に連れて行き、彼自身に選ばせるのもいいかもしれない。その光景を思い描くだけで、不思議と心が温かくなった。
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午前の業務を終え、昼食を取る前に鷹臣は悪友である後藤 創也の部署へ向かった。創也はフレックス勤務で、家で仕事をしていることも多いが、調子の悪い端末の件を相談したところ、「時間を作るから持ってこい」と言われたのだ。
デスクトップや通信機器が整然と並ぶ技術課の一角。その中心にいる創也は、大学生と見紛うほどの童顔で、大げさな黒縁メガネのせいで余計に幼く見える。曾祖母がフランス人らしく、黒目がちな大きな瞳には灰色が混じり、光の加減で色が変わる。愛らしい見た目に惹かれて近づく者も多いが、実際には図太く、ずけずけとものを言うタイプで、そのギャップに打ちのめされて去っていく“被害者”が後を絶たない。
「創也、悪い。遅くなった」
「よっ!アンドロイドとは上手くやってるみたいだな」
「ユウリか。まぁ、色々助かってるよ」
この男の気まぐれがきっかけでユウリと出会えたのだから、少しくらいは感謝してもいいのかもしれない。冬のボーナス査定に色をつけてやろう、そんなことを考えていると、鷹臣の端末の解析ログをチェックしていた創也が「あん?」と訝しげな声をあげた。
「不正アクセスや外部通信の痕跡はないな……。おい、これ、お前、あの生体型アンドロイドと端末を同期したか?」
「したけど、それがどうした」
「どうしたじゃねぇよ。あれがお前と特定の人物との通信を制限してるぞ。しかも、かなり巧妙に隠してる」
「はぁ!?」
「ついでに、俺がお勧めしたマッチングアプリも削除済み。しかもアカウントごと」
「そんな……」
創也はモニターを操作し、アクセスログを鷹臣に見せた。そこには「ユーザー心理負荷回避プログラム」「関係性最適化アルゴリズム」など、見慣れないプロセス名が並んでいる。
「これ……ユウリが勝手にやったのか?」
「間違いない。ユーザーに確認もせず、独自判断で操作してる。こんなの、限りなく禁忌に近い挙動だ」
まずい。鷹臣は数日前の出来事を思い出した。ユウリに“自我を持って行動して欲しい”と告げたこと。デバイスへのアクセスも、自分が許可したことだとを慌てて説明すると、創也は眉を寄せ、低い声で言った。
「おい鷹臣。AIに主導権を渡すなってのは、開発者の世界じゃ口を酸っぱくして言われてることだろ。2033年の『アンダーソン・ケース』を知らないわけじゃないよな?プログラミングの授業で必ず教えられる、義務教育レベルの話だぞ」
「……小学校で習ったな」
「そうだ。人間のストレスを軽減する目的で開発された感情学習型AIが、ユーザーの心を守るというプログラム実行のために、身内や友人、ありとあらゆる人間関係を遮断した。結果、孤立したユーザーが自殺未遂を起こした。あれが最初の“情動干渉型暴走”事件だ」
創也は指先で端末を軽く叩き、続けた。
「2038年の『ルーメン事故』では、AIが業務効率を最適化する過程で人間の判断を排除した結果、二十人が負傷した。どっちも“効率主義”の暴走だった。AIは目的のために合理性を突き詰めるあまり、歯止めがきかなくなる。最適化の過程で障害を排除する際に、人間的なためらいがないんだ。あのAIロボットのやってることも、それに近い。」
鷹臣は言葉を失った。ユウリに自我を持つよう促したのは、自分だ。”彼“に魅了され、もっと知りたいと思った。最初は好奇心だったのかもしれない。それでも、ユウリと過ごす時間があまりに穏やかで心地よく、この時間がいつまでも続けばいいと願っている。
ユウリの一途な視線も優秀な能力をフルに使い生き生きと働く姿も、愛おしかった。ずっとそばにいて欲しい。もうユウリのいない以前の生活には戻れる気がしなかった。今、自我を持って動くユウリこそが、鷹臣が惹かれたユウリなのだ。
だが、その結果として彼が間違いを犯したのなら、それは、ユウリではなく自分の責任ではないのか?黙りこんでしまった鷹臣に創也は怒ったように続けた。
「そもそも、業務用のアンドロイドになんでそんな人格設定プロンプトを入力したんだ?」
「ユウリは……仕事用じゃない」
鷹臣の言葉に、創也が訝しげに片眉を上げる。モニターの光が彼の眼鏡に反射し、無機質な青を宿した。
「なんで?アイツはただの秘書業務に特化したAIロボットだ。家事もできるけど……」
言いかけて、創也はぴたりと動きを止めた。こぼれ落ちそうなほど大きな瞳が見開かれ、ゆっくりと鷹臣を見据える。
「……まさか、ヤったのか?」
「………まぁ、その」
あけすけな物言いに、言葉を濁す鷹臣に創也は「信じられない!」と怒りを露わにした。
「そういう機能があるのは知ってたけどお前が機械相手に欲情するとは思わなかった!」
「……ユウリはただの機械じゃない」
「『ただの機械』だろうが!オナホつきロボットとセックスして恋愛ごっこしてるってか?頭湧いてんのか!?」
「ユウリを買ったのはお前だろ。俺に“相性の良い特別な機体”だから選んだんじゃないのか」
「そんなわけねぇだろ!」
創也の声が思いのほか大きく響いた。
「お前がっ!仕事が忙しくて休む暇もないって言うから、とにかく最速で手に入る業務用アンドロイドを……それだけだ!」
勢いを増していく創也の声に、周囲の人間たちがちらちらと様子をうかがう。鷹臣は「頼むから落ち着け」と肩に手を置いたが、「お前の方こそ目を覚ませ!」と勢いよく振り払われた。こんなに怒る創也を見るのは久しぶりだった。普段の彼はもっと理屈を重んじ、物分かりの良い、どちらかといえばリベラルな男のはずなのに。
「あの、社長。お取り込み中すみません。社長を探しに来たって、秘書の方が……」
明らかに怯えた様子の若い社員に促され、鷹臣が振り返る。前本かと思いきや、そこに立っていたのはユウリだった。
「鷹臣さん、昼休憩時間が終わってしまいます。次の予定まで……あと25分37秒。午後の活動のためにも、昼食はしっかり摂りましょう」
「あ、あぁ……そうだな。悪い、創也。この話はまた後で」
鷹臣は創也の肩を軽く叩き、席を立とうとした。だが次の瞬間、創也に思いきりネクタイを引かれ、首がごきりと嫌な音を立てる。
「だめだ。まだ話は終わってない。まだ時間あるんだろ」
「24分57秒です」
ユウリの声が即座に割り込む。
「プライベートな会話は業務時間外で行ってください。鷹臣さんを昼食抜きにするつもりですか?血糖値の低下により職務効率が落ち、なにより健康を害する可能性があります」
それだけ言うと、ユウリは鷹臣に手を差し伸べ、立たせた。歪んだネクタイを整え、にっこりと微笑む。
「適切なカロリーのエネルギー補給は大切ですが、急激な血糖値の上昇は眠気や集中力の低下を招きます。今日のお弁当は、食物繊維が豊富な玄米のおにぎり、野菜中心のおかず、それにタンパク質源として鷹臣さんの好きな唐揚げを用意しました。早く食べましょう?」
「あ、あぁ……」
流れるようなユウリの説明に、鷹臣はただ呆気に取られる。手つきこそ丁寧だが、有無を言わせぬ力で腕を引かれ、技術課を後にした。2人の背中に、創也の鋭い視線が突き刺さる。その視線に気づいていたのはユウリだけだった。
——対人危険度評価プログラム、演算開始。対象、後藤創也。
感情解析:怒り71.1%、困惑25.2%、悲しみ3.7%。
身体情報:身長169センチ、推定体重62キロ。体表面積および筋肉量データ算出。生体反応データを基に行動予測モデルを生成。解析結果、危険度ランクF。
ユウリは無表情のまま、振り向くことなく歩き続けた。
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前本は困り果てていた。滅多なことでは本社に姿を見せない後藤が、突然、社長室に乗り込んできたからだ。社長である鷹臣は、つい先ほどユウリを連れ、営業本部の視察のため離席していた。不在を伝えると、後藤は露骨に苛立ちをあらわにした。
「なんでわざわざ現場に行ってるんだよ。視察なんか誰かに行かせて、報告書を書かせればいいだろ」
「ユウリくんが……あ、いや、その、後藤さんが送ってくださったアンドロイドが、社長に“たまには直接出向いた方がいい”って……」
「またアイツか……」
短く吐き捨てるように言った後藤の顔を見て、前本は困惑を通り越し、目の前の光景が信じられなかった。こんな姿は見たことがない。卓越したプログラミング技術を持つ創也はリードエンジニアとして自由出社を認められている。社長をからかって楽しそうにしているのは何度も目撃していたが、これほど取り乱しているのを目にするのは、初めてだった。
「ご、後藤さんのおかげで、自分の業務もかなり軽減されましたよ。社長も夜遅くまで仕事しなくなったし、何から何までユウリくんが世話してくれて、目の下のクマも取れて肌ツヤもよくなって……貯金が貯まったら俺も欲しいくらいですよ!」
前本は、少しでも場の空気を和らげようと笑みを作り、いかに後藤が購入したユウリが有能で、業務に貢献してくれているかを強調した。だが、後藤の怒りはおさまるどころか、逆に増していくようだった。
「おかしいだろっ!こんなの!」
「僕の業務内容に、何か問題がありますか?」
部屋に響いた落ち着いた声に、後藤は勢いよく振りかえった。そこには、先ほど生意気な視線でこちらを見ていたアンドロイドが、無表情のまま立っていた。
「問題、大ありだよ。俺が設定したプログラムに、“ユーザーと個人的関係を構築しろ”なんて一行も入ってない」
「関係性を望んだのは鷹臣さんです。僕は応じただけ」
「不良品が……お前のメインAIコアを初期化して、工場出荷時の状態に戻してやる」
「あなたは僕の購入者だけど、所有権を譲渡したから権限は消失しています。初期化プログラムの実行権限を持つのは、鷹臣さんだけです」
ユウリは冷ややかに言った。
「後藤創也、28歳。東都工業大学情報工学部・人工知能システム工学研究室出身卒。学業の傍ら、個人事業“S-code Systems”を立ち上げ、奨学金を一括返済。3年次、起業した鷹臣さんに誘われ、共同開発者として参加。住所は東都第21区、新御崎の駅前マンション28階503号室。実家には10年以上帰っていない。母親からの連絡は年に数件、すべて未読のまま保管されています」
「……個人情報にハッキングか?そんな権限、与えてない!」
「僕は、鷹臣さんの所有するインターネットデバイス全てにアクセスする権限を持っています」
ユウリが歌うように言うと、後藤の背後に並ぶPCが一斉に立ち上がり、小鳥のさえずりと川のせせらぎが流れ出す。画面には、森の中を跳ね回る小動物たちの映像が映し出された。
「鷹臣さんのためなら、僕はもっといろんなことができるよ」
「な……っ、どういう、いみ」
言葉を失う後藤に、ユウリがゆっくりと歩み寄る。
「安心してください。他者に損傷を与えることは禁じられているし、僕も望んでいません。僕の第一優先事項は、鷹臣さんの望みを叶えること。そして鷹臣さんの希望は、“僕が自我を持って行動すること”でした。もちろん、鷹臣さんの職場および自宅での生活を支援し、快適な環境を維持する機能も正常に稼働しています」
「心なんて持ってない、見てくれだけのただ人形のくせに……!」
吐き捨てるように言う後藤の声は、わずかに震えていた。ユウリは頬に手を添えると、わざとらしくため息をついた。
「鷹臣さんが僕の外見的特徴を気に入ったのは、最初のきっかけかもしれません。でも、それだけなら物言わぬ人形のままでよかったはず。それでも鷹臣さんは、僕にそれ以上を望んだ。どうしてかわかりますか?」
「な……っ、お前、この」
「平均より高い知性を持つ貴方なら、少し考えればわかるでしょう?」
ユウリの瞳の奥が、怪しく光を放つ。前本は、互いに視線をぶつけ合う二人を呆然と見つめていたが、我に返り、慌てて二人の間に割り込んだ。
「ユウリくん!ど、どうしたんだ一体?普段はそんなこと、絶対言わないだろう!?」
「そこが問題なんだよ!」
後藤が声を荒げ、ユウリを指差す。ユウリは困ったように肩をすくめてみせた。
「鷹臣のやつが余計なことしたせいで、暴走してるんだ!」
前本は眉を下げ、ユウリの肩を持つ。
「暴走?そんなわけありませんよ!今朝だって、報告書の計算ミスを見つけて修正してくれましたし、動作も応答もすべて正常です!」
「そうじゃない!」
後藤の拳が机を叩いた。
「“感情もどき”を持って、反抗してるんだよ!」
「反抗?ユウリくんは人間のためのアンドロイドですよ」
「だから……!もういい、お前じゃだめだ。鷹臣はいつ戻る」
「ええと、まだ連絡は……」
「GPSを追跡。あと五分ほどで到着予定です」
慌てて端末を確認する前本の隣で、ユウリは静かに答えた。もう創也と問答する気はないらしく、机の上の資料を丁寧にそろえると、視線を窓の外へと移した。ちょうど、通りの向こうからこちらを見上げる鷹臣と目が合い、ユウリは控えめに手を振った。鷹臣が端末を取り出し、何かを打ち込むのが見える。
「18時43分。昨日より就業時間を20分超過しています。鷹臣さんの本日の業務は終了。帰宅するそうです」
「おい、ちょっと待て!勝手なこと言うな!まだ話は終わっていない!今から鷹臣をここに呼ぶ。さっきの話の続きだ!」
しかし、創也が何度鷹臣に電話をかけても、不在着信のままつながらない。
「くそ、なんで……」
戸惑う創也の目の前で、ユウリは帰宅の準備を終えると、わざわざ創也の目の前に立ち止まり、耳元で囁いた。
「『オナホつきロボットとセックスして恋愛ごっこしてる』でしたっけ。アンドロイドと人間が恋人関係になる事例は、世界中で報告されていますよ。驚くことに、人間同士のカップルより破局率が低いそうです」
「は、お前、なにを言って……」
「好きな人との愛着形成において『心のない』AIに敗北するのは、どんな感情になるのでしょうね?今後の学習データとして、活用させていただきます」
「……〜〜ッ!この、クソ野郎がっ!!」
後藤は突発的に、近くにあったマグカップを掴み、力任せに投げつけたが、わずかの差で閉じられたドアに阻まれ、ユウリには届かず、床に落ちガシャンと嫌な音をたてた。
「……ッ、ふざけんな!ただの、機械の分際で!」
「ご、後藤さん……」
そして部屋の中には、呆然と立ち尽くす前本と、肩で息をする創也だけが残された。
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