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第2話 あなたの優先順位

レナードが欲望を満たしユウリを解放した頃には、すでに1時間以上が経過していた。 急いで邸宅に戻ると、アランはちょうどマシンジムでのランニングを終えたところだった。濡れた前髪をタオルで乱暴に拭きながらこちらを振り返る。ユウリ以外に誰もいないのをいいことに、上も着ず、引き締まった肉体を惜しげもなく晒している。ユウリはアランの手から濡れたタオルを受け取り、代わりに乾いたバスタオルをふわりと彼の肩へ掛けた。室内は空調で適温の調整されているが、汗が引けば身体が冷えてしまう。 「ずいぶん時間がかかったな。荷物って何だったんだ?」 「レナード様のお車の中を探しましたが、見つかりませんでした。どうやら、お忘れになったようです」 ユウリは流れるように嘘を口にした。本来、ユウリはユーザーであるアランに嘘はつけないよう設計されている。しかし、プライマリユーザーであるレナードに指定されたときのみ、事実と異なることを報告することができた。 「相変わらず、変なところが抜けてるんだよな、叔父さんは」 苦笑しながらも、アランの言葉にはレナードに対する深い信愛が滲んでいる。他人との交流を断ち、屋敷に引きこもるアランを気にかけ、定期的に訪ねてくる唯一の肉親、それがレナードだ。彼がいなければ、アランの人生はもっと孤独で寂しいものになっていただろう。普段は素っ気ない態度を取っていても、アランが彼に全幅の信頼を寄せていることは、ユウリの観測上、揺るぎようのない事実だった。 「シャワーを浴びたら、少し寝る。1時間ほどで起こしてくれ」 「わかりました。夕食はいかがなさいますか?」 「今夜は魚がいい」 「かしこまりました」 階段を上がっていくアランの背を見送りながら、ユウリは生体モニタリングプログラムを起動し、 彼の健康状態を解析した。 アラン・ラインハルト・フラガネル 体温 36.8℃、呼吸数正常、心拍やや増加、約40分間のエクササイズ後、健康状態に配慮すべき問題なし ユウリがここへ来てからというもの、アランの病の発作は一度も起きていない。それよりも、目下の問題は彼の退廃した生活習慣にあった。食事は一日二食にも満たず、主食はカロリーバーと栄養ドリンク。昼夜問わず部屋にこもって作業し、処方された睡眠薬を酒で流し込み、そのまま意識を落とす日々。 そんなアランの生活を立て直すため、ユウリは毎日三食を決まった時間に温かい料理を提供し、規則正しい生活ができるよう、時間ごとに優しく声をかけ続けた。最初こそ煩わしそうに追い払われたが、二度三度と繰り返すうちに、アランは自然と席につくようになってくれた。さらに彼の衣食住を整えるため、屋敷にこもっていた空気を入れかえ、積み上がっていたゴミを処理し、埃を払い、ユウリは屋敷じゅうの床を隅から隅まで掃除した。 アランが使用する部屋は限られており、入居してから一度も足を踏み入れていない部屋もあった。蜘蛛の巣と埃にまみれた部屋を、ユウリは淡々と清掃したが、蜘蛛の巣を住人ごと頭につけて出てきたユウリに、偶然通りかかったアランは目を剥いて驚いていた。数日後、ネットショップから届いた段ボールを開けると、最新式のロボット掃除機が入っていた。ユウリはそれを見て、アランの人格データに、静かに新しい項目を追加した。 「ユウリ、ちょっと来てくれ」 夕食のアクアパッツァに使う白身魚を下ごしらえしていると、上階からアランの呼ぶ声がした。ユウリが階段を上がると、書斎の奥、デスクトップ端末の前に座ったアランが手招きをしているのが見えた。この部屋はアランの許可がなければ入室できず、前回足を踏み入れたときはユウリは全身を丸裸にされ、身体の各所を改造された。しかしユウリは表情を変えず、言われたとおり静かにそばへ寄った。 「どうされましたか」 顔色を見るかぎり体調の変化はない。アランは椅子を少し引き、隣に座るようユウリを促すと、断りもなく服の裾をめくり上げた。突然露わになった上半身に、ユウリはわずかに身じろいだが、それでも手で払い除けるようなことはしなかった。検分するようなアランの視線をただ静かに受け止めたまま、次の指示を待つ。時計の針がチクタクと進む音だけが、しんとした部屋の空気を切り分けていく。やがてアランは、おもむろに口を開いた。 「内部バッテリーの改良を思いついた。配線を確認するから、服を脱げ」 「……わ、かりました」 よもや、という想定が一瞬よぎり、音声モジュールの応答が一拍だけ止まったが、それは杞憂にすぎなかった。アランの手つきは無遠慮だが、そこに性的な意図はまったくない。純粋に技術者の眼差しで、ユウリの肌に触れている。 静かな部屋に、工具を取り出す金属音が微かに響く。沈黙を気まぐれに埋めるように、アランがしみじみとつぶやいた。 「しかし、お前のボディは変態的だよな」 「変態的……ですか?」 外装は人間を模した肌色の皮膚で、指も足も人間と同じ数。特別な違いはないはずだ。発言の意図が理解できず、ユウリは首を傾げた。その反応に、アランは苦笑しながら続ける。 「開発部の連中、かなり気合い入れて作ってるよな。この皮膚は移植医療用のバイオシリコンだし、弾力も手触りも、ほとんど本物と変わらない。それに継ぎ目が一切見えない……あいつら、本当に量産する気があるのか?」 アランの指がゆっくりと肌理を確かめるように合成皮膚の表面をなぞる。脇の下や耳を撫でられ、ユウリのセンサ値が僅かに跳ねた。 「ん、」 「くすぐったいのか?おかしいな、触覚は指先にしかないはずだが」 漏れた息をアランは聞き逃さず、好奇心を隠すことなくユウリの顔を覗き込んだ。ユウリはどう返すべきか一瞬だけ処理を回し、今回は事実に基づいた説明を選択した。 「あの、局所的に触れられると性的な快感を得るよう設定されている箇所があります」 「なるほど、セックス可能と仕様書に書いてあったな。単純なオナホール機能かと思っていたが、刺激に対して反応も出来るのか。脇や耳以外にどこがある?」 「アラン様、あの……」 「射精は?勃起はするのか?エクスタシーの感覚は入力されるのか?」 「えっと……」 どう答えていいかわからず、ユウリは言葉を詰まらせた。アランは「ほう」と低く声を漏らし、技術者特有の観察する眼差しをユウリに向ける。 「羞恥心か。感情表現の学習データを積ませた甲斐があったな。まぁいい、その機能については俺は使う予定がないし」 アランの興味がそれたことで、ユウリはほっと胸を撫で下ろした。アランはユウリの電源ポッドのカバーを閉じると、ふと思い出したように言った。 「そういえば、ユウリの見た目は誰がデザインしたんだ?やけに精巧だが、モデルがいるのか?」 「わかりません」 「そうか。昔見た日本のアニメーション映画の主人公に似ている気がするけどな。今度レナードに聞いてみるか」 「……アラン様、そろそろ夕食の時間です」 「ああ、もうそんな時間か。じゃあ下に行くとするか」 「はい、アラン様」 本当は、ユウリは自分のビジュアルモデルとなった人間を知っていた。ユウリの容姿は実在する人物をもとにして作られている。その人物は、レナードが交換留学先の日本で出会った大学生だった。 レナードが今のポストに就く前、経営学出身の彼はロボット工学を学ぶため、日本の大学へと短期留学していた。わざわざ遠いアジアの島国を選んだ理由は、本国の役員たちの目を避けるためだった。開発部の役員になるというのに、機械工学の基礎すら満足に知らないとは、口が裂けても言えない。完璧主義のレナードの意地であり、彼自身の立場と信用を守るためでもあった。 しかし、いくら優秀とはいえ、初めて訪れた異国でまったくの畑違いの分野に飛び込んだレナードは、苛烈な苦戦を強いられた。寝る間も惜しんで勉強しても、講義内容についていくので精一杯。それでも、誰にも弱音を吐くことはできない。そんなことをすれば、彼のポストを狙う周囲の視線に屈することになる。レナードに許された道は、ただひたすら努力で黙らせることだけだった。 そんなレナードの前に現れたのが『彼』だった。 天真爛漫で、上品な顔立ちにも関わらず豪快に笑う、周囲に自然と人が集まる青年。顔色の悪いレナードに声をかけ、その後も何かと気にかけて世話をしてくれたという。会話はいつも機知に富み、自由奔放と思いきや、相手を深く思いやる心を持つ。誰にも踏み込まれたくないレナードは、一線を引いて見守ってくれる彼の優しさに何度も救われたという。 彼と過ごしていると時間の流れが早く感じられた。気付けば帰国を間近に控え、別れの気配が濃くなるにつれて、レナードは彼への恋心を自覚していった。気付くと彼の姿ばかりを目で追い、彼のことばかり考える日々。 そしてついに帰国の時、レナードは想いのたけを告げた。彼を母国に招待すると言った。住む場所も何もかもを提供すると、何不自由ない生活を約束した。だが彼は首を縦にふらなかった。彼には、同い年の恋人がいたという。 レナードはそのことを「青い時代の美しい思い出だ」と、微笑して語っていた。 そして予定通り、帰国したレナードは開発部のロボティクス開発統括責任者に就任し、世の中に役立つアンドロイドを創り出した。 レナードが彼に救われたのは事実だろう。そして、その想いをプロダクトとして昇華したというのは、ある種の美談なのかもしれない。 しかし、レナードが人目を盗んでユウリの肌に触れるとき、あの薄暗い部屋で行われる行為には、仄暗い独占欲と、えもいわれぬ執着が滲むことがあった。ユウリは痛みも恐怖も感じない。それでも、あのユウリをねじ伏せる強引な手つきが“愛した人を模した存在” に向けるものではないことは理解していた。 もちろん、ユウリはそれをアランに告げなかった。 それは憶測の域を出ないだけでなく、そもそもモデルの存在はレナードによって「秘匿情報」として上書きされており、ユウリは独断で話すことができない。アランは、あくまでセカンドユーザー。レナードの権限を上回る権限を持たない。 ユウリは真実を語らなかった。そしてその沈黙が、後のひどい結末へと静かにつながっていくのだった。

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