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第4話 知らない感情

 上半身だけ生まれたままの姿にした彼を日の当たる白い床に寝ころばせると、たちまち肌は太陽の光を吸って輝きだした。そのきめ細かい肌の質感も美しかったが、成長期を思わせる筋骨もまた美しかった。腹筋はうっすらと割れており、呼吸をするたびに横隔膜が緩やかに動く。光合成をする若い植物のようだった。彼は日なたが似合う。と、帆澄(ほずみ)は思った。    だからするりと、そう言った。 「綺麗だ」  と。 「え!?」    灯浬(とうり)は寝そべった体勢のままだったが、驚いて身を起こしそうになる。しかし、やんわりと「動かないで」と制され、慌てて呼吸を整えた。  生まれてこの方『綺麗』だなんて言われたことがない。可愛いとかかっこいいとかは、お世辞であれ言われたことはある。しかし、綺麗なんて形容されたことは一度もない。一体何が綺麗だったのだろう。そもそも綺麗……綺麗とはなんだろう。綺麗の定義ってなんだっけ?美しいとはどう違う?  日差しは夕刻に向かってだんだんと橙が混じってきた。気づけば太陽の位置も変わり自分の影が伸びている。ここで帆澄に撮られていると、自分は光と影の移ろいの中に閉じ込められているように感じる。彼の持つカメラのモニターには自分は今どのような姿で映っているのだろう。灯浬は帆澄に創り出されている自分を想像して再び心臓をドキドキさせた。 「触っていい?」  唐突に帆澄が言った。傾きかけた光の中で、思考に囚われていた灯浬は、 「へ!?」  と素っ頓狂な声を上げた。今「触っていい?」と聞かれた?どこを?なんで? 「変な意味じゃねぇよ。手、動かしていい?」  帆澄はそんな灯浬の戸惑いを見透かして、呆れたように言った。 「なんだ……」  手の位置を動かしたかっただけらしい。帆澄は灯浬に近づいた。 「いいけど……変な言い方しないでくださいよ」  言葉が足りなすぎると、灯浬は帆澄に暗に抗議した。 「わりぃ、なんかお前相手だと配慮、忘れる」  失礼なような光栄なようなよく分からない言い方をされ、灯浬は黙る。一応、本当に悪いとは思ったような言い方だったのでこれ以上言及するのはやめた。  そして帆澄は床に投げ出している灯浬の手をそっと取る。 「…………」  帆澄の武骨な手は驚くほど弱い力で灯浬の手に触れた。もっと強い力で掴まれると覚悟していただけに、くすぐったいほどだった。帆澄は壊れやすいものを扱うように灯浬の手を取り、額のあたりまで誘導した。大事にされる感触がこそばゆくて思わず手を振り払いそうになったが耐えた。 「そう、その角度」  眩しさから手を翳すようなポーズに変えられて、帆澄は再びシャッターを切り出した。夕方へ移ろう寂しさが混じる光の中で、無機質なシャッター音が響く。帆澄はシャッターを切る間、ずっと「うん、いい」とか「綺麗だ」とか独り言のように繰り返した。  褒められ慣れていない灯浬は居たたまれなさが増していく。いや、そもそもここまで読経のように称賛を浴びて平気な人間などいるのだろうか。  極めつけは、夕方のチャイムが流れ出した頃、感心したように、 「お前、案外色気あるなあ」  と真顔で言ったことだった。 「あの、せんぱい……」  そこで灯浬は弱々しく声を上げた。もう無理だ。ギブアップしたい。 「もう疲れた…………」  ついでに日差しが弱くなってきたせいで、床暖房がついているとはいえ少し肌寒くなってきた。と思った途端、灯浬はくしゅん!とくしゃみをした。 「ああ、ごめん。お前のこと撮るの面白くて」  帆澄はそう言って素直にカメラを下げた。レンズキャップをつける。そして、縛っていた髪をほどいた。帆澄のうなじや耳を髪の毛がヴェールのように隠していくのを見ながら、灯浬は急いで肌着とシャツを着た。まだ、こそばゆい気持ちが体のどこかに残っている。まるで全身を弄られた後みたいだ。それほどまでに帆澄の撮影は肉薄したものだった。友人からスマートフォンを向けられる時も、節目節目で向けられてきたカメラとも違う。まるで触れ合っているような、全て見られているような……。と思ったところで一体何を考えているのかとハッとする。気味の悪い例えを首を振って忘れようとした。   「ほら」 「!?」  帆澄が急に近づいてカメラのモニターを見せてきた。やはり近くに立たれるとかなりでかい。カメラを持つ手もごつごつしている。この手が自分の手にそっと触れてきた時の感覚が蘇って頬が赤くなりそうになる。  しかし赤面している場合ではなかった。帆澄が持つカメラのモニターには先ほどの灯浬の姿が映っている。 「誰!?」 「お前じゃん」  その光の中に閉じ込められた人物は美しかった。自分はただ寝転がっていただけなのに。毎日鏡で見ている自分ではなかった。盛れている。という言い方では余りだけ生まれたままの姿にした彼を日の当たる白い床に寝ころばせると、たちまち肌は太陽の光を吸って輝きだした。そのきめ細かい肌の質感も美しかったが、成長期を思わせる筋骨もまた美しかった。腹筋はうっすらと割れており、呼吸をするたびに横隔膜が緩やかに動く。光合成をする若い植物のようだった。彼は日なたが似合う。と、帆澄は思った。    だからするりと、そう言った。 「綺麗だ」  と。 「え!?」    灯浬は寝そべった体勢のままだったが、驚いて身を起こしそうになる。しかし、やんわりと「動かないで」と制され、慌てて呼吸を整えた。  生まれてこの方『綺麗』だなんて言われたことがない。可愛いとかかっこいいとかは、お世辞であれ言われたことはある。しかし、綺麗なんて形容されたことは一度もない。一体何が綺麗だったのだろう。そもそも綺麗……綺麗とはなんだろう。綺麗の定義ってなんだっけ?美しいとはどう違う?  日差しは夕刻に向かってだんだんと橙が混じってきた。気づけば太陽の位置も変わり自分の影が伸びている。ここで帆澄に撮られていると、自分は光と影の移ろいの中に閉じ込められているように感じる。彼の持つカメラのモニターには自分は今どのような姿で映っているのだろう。灯浬は帆澄に創り出されている自分を想像して再び心臓をドキドキさせた。 「触っていい?」  唐突に帆澄が言った。傾きかけた光の中で、思考に囚われていた灯浬は、 「へ!?」  と素っ頓狂な声を上げた。今「触っていい?」と聞かれた?どこを?なんで? 「変な意味じゃねぇよ。手、動かしていい?」  帆澄はそんな灯浬の戸惑いを見透かして、呆れたように言った。 「なんだ……」  手の位置を動かしたかっただけらしい。帆澄は灯浬に近づいた。 「いいけど……変な言い方しないでくださいよ」  言葉が足りなすぎると、灯浬は帆澄に暗に抗議した。 「わりぃ、なんかお前相手だと配慮、忘れる」  失礼なような光栄なようなよく分からない言い方をされ、灯浬は黙る。一応、本当に悪いとは思ったような言い方だったのでこれ以上言及するのはやめた。  そして帆澄は床に投げ出している灯浬の手をそっと取る。 「…………」  帆澄の武骨な手は驚くほど弱い力で灯浬の手に触れた。もっと強い力で掴まれると覚悟していただけに、くすぐったいほどだった。帆澄は壊れやすいものを扱うように灯浬の手を取り、額のあたりまで誘導した。大事にされる感触がこそばゆくて思わず手を振り払いそうになったが耐えた。 「そう、その角度」  眩しさから手を翳すようなポーズに変えられて、帆澄は再びシャッターを切り出した。夕方へ移ろう寂しさが混じる光の中で、無機質なシャッター音が響く。帆澄はシャッターを切る間、ずっと「うん、いい」とか「綺麗だ」とか独り言のように繰り返した。  褒められ慣れていない灯浬は居たたまれなさが増していく。いや、そもそもここまで読経のように称賛を浴びて平気な人間などいるのだろうか。  極めつけは、夕方のチャイムが流れ出した頃、感心したように、 「お前、案外色気あるなあ」  と真顔で言ったことだった。 「あの、せんぱい……」  そこで灯浬は弱々しく声を上げた。もう無理だ。ギブアップしたい。 「もう疲れた…………」  ついでに日差しが弱くなってきたせいで、床暖房がついているとはいえ少し肌寒くなってきた。と思った途端、灯浬はくしゅん!とくしゃみをした。 「ああ、ごめん。お前のこと撮るの面白くて」  帆澄はそう言って素直にカメラを下げた。レンズキャップをつける。そして、縛っていた髪をほどいた。帆澄のうなじや耳を髪の毛がヴェールのように隠していくのを見ながら、灯浬は急いで肌着とシャツを着た。まだ、こそばゆい気持ちが体のどこかに残っている。まるで全身を弄られた後みたいだ。それほどまでに帆澄の撮影は肉薄したものだった。友人からスマートフォンを向けられる時も、節目節目で向けられてきたカメラとも違う。まるで触れ合っているような、全て見られているような……。と思ったところで一体何を考えているのかとハッとする。気味の悪い例えを首を振って忘れようとした。   「ほら」 「!?」  帆澄が急に近づいてカメラのモニターを見せてきた。やはり近くに立たれるとかなりでかい。カメラを持つ手もごつごつしている。この手が自分の手にそっと触れてきた時の感覚が蘇って頬が赤くなりそうになる。  しかし赤面している場合ではなかった。帆澄が持つカメラのモニターには先ほどの灯浬の姿が映っている。 「誰!?」 「お前じゃん」  その光の中に閉じ込められた人物は美しかった。自分はただ寝転がっていただけなのに。毎日鏡で見ている自分ではなかった。盛れている。という言い方では余りあるほど、ここに写っている自分は、帆澄の言葉を借りれば「綺麗」だった。 「誰?」  灯浬が二回言うと、帆澄はふはっと吹き出した。 「びっくりした?」  帆澄はまるで母親にいたずらをした子供みたいに聞いてきた。背景にふふん、という文字が見える。灯浬はそんな帆澄にあれ?と思う。先ほども思ったが、カメラを手にしている帆澄はなんだか純真に見える。端的に言うと可愛い。出会ってほんの短いひと時しか共に過ごしていないが、この人は見た目よりずっと幼いのかもしれない。  いやいやいや可愛いって……と自分を窘める。帆澄をちらっと見ると嬉しそうに灯浬の写真を眺めている。そんな嬉しそうに自分の写真を見られると、どうにも、嬉しい。自分なんかを写真に撮ってこんなに嬉しそうにしてくれるなんて、嬉しい。だってこの人はずっと自分が憧れていた人なのだ。その人の世界に自分を入れてもらえるなんて……。  灯浬はむずがゆいような気持ちが高まって叫び出しそうになる。これはだめだ。顔がにやける。話題を変えよう、と思った。 「聞いてもいい?」 「いいよ」  帆澄は若干機嫌が良さそうに答える。 「あの写真の妊婦さんって帆澄先輩の恋人?」 「あ!?」  いつも通りどすの利いた声が返ってきた。 「ひぇ……」  ビビりながらも安心する。機嫌が良い帆澄より、機嫌の悪い帆澄の方がなぜだか居心地が良い。 「まさかずっとそう思ってたの?」  帆澄は呆れた声を出した。 「違うの?恋人だから素敵に撮れてるんだと思った」  まあ、こんな平々凡々の自分でも帆澄は素敵に撮れるのだから、誰であろうとそれなりに撮れるのだと今なら分かるが。 「だとしたら、俺は今頃一児の父だな」  皮肉気に言う様子から本当に違うのだろう。 「だから今朝、俺があの人のこと悪く言ったから怒ったのかと思った」  帆澄は少し考えるように目線を落とすと、 「姉貴だよ」  と言った。姉貴。お姉さん。お姉さんか。 「そう言われると似てるかも……目力とか……」  灯浬はかつて文化祭で見たあの女性を思い出す。忘れるはずがない、脳裏に焼き付いている。あの鋭い眼光を思い起こすと未だにゾクゾクしてしまう。 「姉貴のことはモデルとして尊敬してる。俺のこともカメラマンとして信頼してくれてた」  帆澄は下を向いたまま独り言のように話した。 「父親が飛んで……一人で産んで育てるって言った姉ちゃんのことかっこいい女だなって思ったよ。だから二人で何か作ろうってなったんだ。逆境だなんて思いたくねぇって。この体も作品にするって言って……」  灯浬は帆澄の目元がふっと緩んだのを見た。慈愛を含んだ優しい目だ。しかしその目は次第に色を失っていき、「でも」と硬い声を出す。 「元々アンチが多い女だったけど、公衆猥褻とか痴女とかさ、ひどいこと散々言われた。うちの庭で撮ってたし、誰にも迷惑かけてないのに。俺のことも弟だってのはバレなかったっぽいけど未成年なのはバレてさ。未成年に何を撮らせてるんだって。挙げ句の果てに未成年の俺とヤッてできた子だなんて邪推する奴もいて」  やがて帆澄は自嘲気味に唇の端を釣り上げる。 「守ってあげられなかった。無事に子供は産まれたけど……モデルとしての彼女を。もう表に出たくないって言わせた」 「先輩!」  灯浬は急に帆澄の正面に立つとがしっと肩を叩いた。 「うお、びっくりした」 「それでも、俺はあの写真見れて良かった。ほんとに良かった。俺、帆澄先輩の写真、大好き!」 「…………」  帆澄は呆然と灯浬を見た。怒ったような顔でなぜこうも必死に気持ちを伝えてくるのか。たかが一介のアマチュアカメラマンにこうも入れ込むのか。分からない。  ……いや、分かる。創造されたものに心を奪われる感覚を確かに帆澄は知っていた。  自分が、自分が作り出したものが、誰かの心を奪っている感覚など今までなかったけれど。こんなふうに直接、直球に感想を言われたことなど今までなかった。自分も誰かが心奪われる瞬間を作り出せたのだろうか。  それならば、冥利に尽きる。  帆澄は少しだけ鼻の奥がツンとする感覚を感じ、慌てて顔を背けた。 「姉貴に伝えとく」  素直にありがとう、と言えるほど大人ではなかった。照れくさいし、恥ずかしい。けれど灯浬はそう言うと、嬉しそうに微笑んでくれた。 「変な奴」  照れ隠しについ憎まれ口を叩いてしまい少し後悔した。しかし、灯浬は何も気にした様子はなく、 「よく言われる」  と嬉しそうに答えた。 「ねぇ、あのパネルもう一回見せてくださいよ」 「姉貴の?あれは捨てた」 「え、え~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!」  灯浬の声はスタジオ中に反響した。それはそうだ。灯浬はあの写真がもう一度見たくてここまで来たのだ。 「……あー……写真集ならある」  あまりにも灯浬が絶望的な顔をするものだから、帆澄はつい言ってしまった。このスタジオには自作の写真集が何冊か置いてある。 「写真集!?」  誰かに見せるために作ったのではない。自分のために作った写真集だ。写真が溜まると帆澄は小さな写真集を作って保管していた。スタジオの隅の本棚に乱雑に置いてある。  それらはすっかり見返さなくなり、恨めしげに埃をかぶっていた。 「すげー、こんなことまでできるんですね」 「これくらいならネットですぐできる」  帆澄はぶっきらぼうに答えた。照れているのを隠しているのだろう。灯浬にはもうそれが分かっていた。帆澄先輩って子供みたい、と密かに笑う。  本棚には何冊も写真集らしき冊子が置いてあった。ハードカバーのような立派なものではなく、小さな映画のパンフレットくらいの薄さのものだ。それでもぱっと見二十冊ほどはありそうだった。 「見ていいの?」 「…………まあいいよ。どっかに姉ちゃんのもあるよ」  帆澄は少しだけ躊躇ったようだが、了承してくれた。灯浬はさっそく、なんとなく目についた冊子を手に取ってみた。  表紙は空に伸ばされた手先だった。陶器のように白くて人形のような手だが、それが男の手であるのはすぐに分かる。ピンと伸びた長い指が踊るように空で舞っている。そんな写真だった。帆澄のSNSでは見たことのない写真だ。灯浬はぺらっと最初のページをめくった。 「あれ……?」  窓から差し込む強い光は逆光となり、少年をシルエットのように映していた。少年は今日の灯浬のように、上半身だけ裸で下半身は体の線を綺麗に映し出すスパッツのようなものを履いていた。場所もここであるのが分かった。  その少年はバレエのポーズをしていた。片足で立ち、もう片方の足を百八十度にもなるほどに上げている。他のページでも、体に骨などないようなポーズがいくつもあった。体をくの字に曲げて跳躍していたり、ターンをしている絶妙な角度を捉えた写真もあった。本当に踊っている姿を撮影しているのはすぐに分かった。毛先まで躍動感がある。 「すごい……」  先ほどの自分の写真などとは比べものにならなかった。生命力が、人の美しさが、帆澄の世界が広がっていた。  帆澄はすごい。自分でさえ美しいと錯覚させるほどの手腕がある。しかし、ここに映っている少年は帆澄だけの力で魅せているのではない。  透き通るような肌、ほどよく筋肉の乗ったしなやかな肢体、日ごろから鍛錬を積んできたであろうポージング、その全てが魅惑的に映っていた。魅惑的に映る術を知っているようだった。  そして照れや疲労など一切見せない涼やかな目線。彼は灯浬の見知っている顔であったが、灯浬の知らない顔をしていた。 「凪先輩……」    凪だった。写真の人物は紛れもなく凪だった。光溢れるスタジオで帆澄の手によって閉じ込められた凪はダイヤモンドのように冷たく輝いていた。  ある意味女性の裸を見ているより、見てはいけないものを見ているような気持ちになる。凪の美しさは健やかなものとは言い難く、危うくて妖しかった。凪の美しい体の線を、帆澄は繊細に捉えていた。見ようによっては不快感を持つ者さえいそうだ。  帆澄と凪の間に流れる濃密な空気の正体がここにあった。二人はずっとこの官能的なまでの美を二人きりで創り上げていたのだ。  凪は美しかった。先ほどの自分など、この凪の前では塵のようなものだと灯浬は感じた。 「……………」  なぜだか喉が詰まったよう。いや喉のもっと奥の奥の奥に重たい石を詰め込まれたみたい。ざりざりする。もやもやする。吐き出したいのに吐き出せない嫌な気持ち。 なんだこれ?  灯浬が生まれて初めて感じた感情だった。

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