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第9話 同僚
6月。衣替えを迎え、今日から角谷が正式に美術科講師として勤務する。
だがその日山野辺は、職員朝礼や全校集会で紹介される角谷を遠くから眺めるだけで、言葉を交わすことさえなかった。
考えてみれば、前任の安田とだって、学校で全く顔を合わさない日もあったのだ。ある程度の規模を持つこの学校で、国語科の教師と美術科の講師では、びっくりするほど接点がなかった。
遠くから見かけることはたまにあり、目が合えば手を振ったりもするがその程度で、同じ学校に勤務しているとはいうものの、角谷との接触はほとんどないまま数日が過ぎた。
*****
吹奏楽部では、地域の本番をこなしながら、夏のコンクールに向けての練習が本格化していた。
部員たちの集中力も技術もどんどん向上している。
「今年こそ支部大会出場も夢ではないと思ってるよ。それだけ、ちゃんと前準備もしてきたからね。」
放課後の音楽準備室で打ち合わせしていた時に、山野辺に向かって江田が自信たっぷりに言った。
「山野辺の頃と比べても、実力としては遜色ないと思うよ。」
山野辺の代が支部大会に進めなかったのは本当に惜しい結果だった。江田はずっとそう思っているようだ。
だから、山野辺がこの高校に勤務することが決まった時、顧問の話を持ちかけた。山野辺の技術と経験は現役部員にも良い影響をもたらすはずだから、と。
山野辺は、自分には吹奏楽に関わる資格がない、と最初は断るつもりでいた。実際、高校での部活を引退してから、正確にはコンクールで支部大会出場を逃してからは、楽器に触ってすらいなかった。だがやはり音楽が好きな気持ちに嘘はない。だから最後は江田の説得に応じた。
「コンクールでの失敗は山野辺のせいじゃないとみんな分かっているし、実際、あれは俺の責任だから。」
コンクールの後、江田が言った言葉。それを再び言われたとき、吹っ切ろうと思ったし、吹っ切れると思っていた。
だが今、江田の何気ない呟きに、山野辺は心臓をぎゅっと掴まれたように感じた。
まだ、吹っ切れていないのか。
嫌な鼓動を感じながら、自分で自分に呆れた。
ただ、この感情を江田に晒すわけにはいかない。いや、江田だけではない。誰にも晒すわけにはいかないのだ。
山野辺は表情を引き締めた。
その日の部活動が終わり、職員室に戻った山野辺は、そこで久しぶりに角谷を見かけた。
今日はこれから全体職員会議がある。そのために角谷も職員室にもどってきているのだろう。山野辺はぼんやりと、そう考えていた。
そう言えば角谷と会うのも久しぶりだな。
そんなことを思っていたら、目があった途端、角谷が山野辺に近づいて来た。
「山野辺、会議が終わったらメシ食って帰ろうぜ。」
角谷の突然の誘いには面食らったが、嫌な気分をぬぐい切れていなかった山野辺は、ありがたくその誘いに乗ることにした。
今日は水曜日。明日もまだ授業がある。
職員会議の後、2人は学校近くの定食屋で夕食をすませることにした。
夕食を摂りながら、角谷は、自分がイタリアに渡った時のことを面白おかしく聞かせてくれた。
イタリアに行ってすぐ、師匠に勧められて参加した短期の語学研修では、マイペースなドイツ人やアメリカ人とクラスメイトになり、かなり振り回された話。
町のレストランはランチタイムが終わる午後3時半頃には一旦閉まってしまうので、集中して絵を描いていたらしょっちゅうランチ抜きだった話。
パスタの種類が多過ぎてそれぞれの食べ方やソースとの相性が覚えられず、何度か激マズな組み合わせをつくってしまった話。
時間にルーズなイタリア人に合わせて生活していたら、いつの間にか自分だけが置き去りにされていた話。
冷静沈着な角谷が、マイペースな外国人に振り回され怒ったりあたふたしたりする様子を想像して、山野辺は思わず笑みを浮かべた。
「元気出たか?」
会計を済ませ、店を出たところで、角谷が言った。
「…俺、そんなに様子変だったか?」
驚いたような、予測がついたような角谷の問い。
こいつはなんでこんな細かいことにまで気づくんだろう。
「そうでもないと思う。ただ、高3の夏頃と同じ顔してたから。でもまあ、笑えるんなら良い。」
そう言って角谷が笑う。
こいつはなんでこんなに…
ささくれ立っていた心が穏やかに凪いでいくのを、山野辺は感じていた。
その10日後のこと。
江田が、倒れた。
夏の吹奏楽コンクール地区大会は、あと1ヶ月半後に迫っていた。
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