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第10話 足下から鳥が立つ

 正確に言えば、江田は倒れたわけではなかった。ただ、ひどい頭痛と体調不良を訴え救急車で救急搬送され受診、検査の結果、くも膜下出血と判明した。  そのまま緊急手術を受け入院。6月中旬の日曜日のことだった。  *****  翌月曜日の職員朝礼で、江田の入院の第一報が校長から伝えられた。  江田の妻、佳奈江(かなえ)から、昨夜のうちに校長に連絡が入ったようだった。  山野辺もまた、昨夜のうちに佳奈江から連絡を受けていた。  手術、入院が決まった江田が、手術前の朦朧とした意識の中で、校長や山野辺に連絡をとるよう佳奈江に言伝ていたのだった。  手術が無事終わり落ち着いたところで、すでに夜遅い時間だったが、佳奈江が山野辺に連絡をしてきた。  その時、山野辺は詳細を聞いた。  幸い早い段階での発見、処置となったため、後遺症等についてはまだ不明ながらも早い回復が十分期待できること。  しかし1ヶ月半後に迫った吹奏楽コンクール地区大会での指揮はほぼ絶望的であること。  回復の状況によっては、県大会には間に合うかもしれないが…。 「コンクールのことは、すべて山野辺先生にお任せしたい、と言っていました。ここで立ち止まっている時間はないから、と。」  山野辺は、校長の声を聞きながら、昨夜聞いた佳奈江の言葉を思い出していた。 「音楽を選択している1年生の生徒と吹奏楽部の部員、およびその保護者に対しては、まずは現状を知らせる手紙を出すことになります。」  校長の声が淡々と続く。  佳奈江から連絡をもらった山野辺は、折り返し蜂屋にも連絡を入れ、今後のことについて少し話をした。  立ち止まっている時間はない。  江田の言葉が重く響く。 「音楽の授業に関しては、非常勤の丸山先生と後日お話しするつもりです。部活動については、蜂屋先生、山野辺先生、このあと、少しお願いします。  では、今日の朝礼は以上で終了いたします。」  校長の話が終わり、皆それぞれ自席に戻る。  山野辺と蜂屋は、そのまま校長とともに別室に移動した。  ふと視線を感じて山野辺が職員室の方を振り返ると、じっと自分を見つめる角谷と目があった。  その日の放課後、部活前のミーティングで、江田の入院が部員たちに知らされた。  地区大会での指揮は無理なこと。早ければ県大会の頃には復帰できること。  蜂屋がそれらを淡々と告げる。 「江田先生が復帰されるまで、山野辺先生に指導していただくことになります。県大会で、あるいは支部大会で、江田先生を待ちましょう。」  生徒たちの反応は様々だった。  江田の病状を気遣うもの。自分たちの演奏の心配をするもの。特に3年生は最後のコンクールなので、その表情は真剣そのものだ。 「今日、明日は予定を変更して個人練やパー練(パート練習)を中心に練習してください。水曜日の合奏は予定通り行います。」  曲は大体は仕上がっている。目標とする曲の仕上がりイメージを、部員たちで共有することもできている。あとは、1ヶ月半の間にそれをどこまで緻密に仕上げて行くか、どこまで理想に近づけて行くか、という状態だった。  課題曲のマーチと、自由曲に選んだドビュッシー『3つの交響的スケッチ「海」より第3楽章 風と海との対話』  しかし、あの舞台に再び立つと考えただけで震え出しそうになる山野辺には、曲を仕上げ、本番でそれを披露するだけの覚悟がなかなか持てない。  さらには地区大会は通過して当たり前、というレベルに達しつつあることが、ますます重いプレッシャーとなってのしかかっていた。  コンクールまで、残り1ヶ月半。それだけの時間があれば曲はガラリと変わる。  まだまだやれることがたくさんある。やらなければいけないことがたくさんある。それは分かっている。  江田のやり方は高校の3年間で嫌という程叩き込まれていた。  この2曲を、江田がどう仕上げたかったのか、簡単にイメージすることもできる。  だが。  山野辺の代が、支部大会への出場を期待されながらそれを果たせなかったことを知る部員からは、山野辺への反発が見られた。  特に、トランペット田井昭志を中心に集まった3年生たちに。  *****  翌々日、水曜日。山野辺なりに準備して迎えた初合わせだった。  合奏隊形に並んだ部員たちを前に指揮台に上がった山野辺が、まさにタクトを握ったその時。 「先生、ちょっといいでしょうか?」  田井が立ち上がる。 「ああ、なんだ?」  山野辺が応じた。 「一昨日、昨日、と、演奏委員で話し合いました。そのあと、部員全員からも了承を得ました。その結論から言います。」  田井は、一呼吸おいた。 「曲は俺たちで仕上げます。山野辺先生は何もしないでください。コンクール本番も前で振ってるふりしておいていただけたら結構です。俺たちでクラのトップに、コンマス(注)に合わせます。」  山野辺は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。  田井の言葉は続く。 「山野辺先生が現役の時の県大会で演奏した『中国の不思議な役人』、先生がゲネラルパウゼ(注)で突っ込んじゃって、そのあと収集つかなくなった、って聞いてます。  地区大会はオールAの完璧な金賞で、県大会でもそのままの演奏ができれば問題なく支部大会まで進めたのに、って。  申し訳ないですが、俺たち、山野辺先生のこと信用できないんです。」 「田井!何言って…?」  後ろで練習を見学する予定だった蜂屋が叫ぶ。 「蜂屋先生。」  山野辺は蜂屋の方を見、首を横に振った。  そして、田井をじっと見据える。 「田井、それは、全員の意見なのか?」 「そうです。」   山野辺は目を瞑ると、深く息を吸った。  やがて目を開け、部員たちを見回して一言。 「…わかった。」 「山野辺先生⁈」  蜂屋の声が聞こえたが、山野辺は何も言わず指揮台を降り、音楽室を出て行った。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー (注) コンサートマスター(コンマス) オーケストラの演奏を取りまとめる職をいい、一般には第1ヴァイオリンの主席奏者がこの職を担う。吹奏楽では、配置上オーケストラのコンサートマスターの位置にいる第1クラリネットのトップが同じ役割をすることが多い。 オーケストラなどの大きな演奏団体では、指揮者が置かれるが、実際の細かな音の出だしや切る位置、微妙なニュアンスは、指揮では示しきれないことも多い。このような場合、ほかの団員は指揮を見るのと同時にコンサートマスターを見て演奏し、コンサートマスターは必要に応じて指示を出す。(Wikipedia) ゲネラルパウぜ 全部の楽器が休止すること。(コトバンク) 全楽器の休止。管弦楽曲など、多くの楽器のために書かれた作品で、全ての楽器が休みになる部分のこと。(意味音)

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