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第16話 だし巻き卵

 覚悟を決めた山野辺は落ち着いている。 「おまえ、そういうところ昔から男前だよな。」  角谷が、呆れているのか感心しているのかよく分からない顔で言った。 「でも結局、食欲は戻ってないか。」  確かに、ここ数日続いている食欲不振は、角谷の料理をもってしても改善されていなかった。 「落ち着いてる風を装ってても、胃は正直ってことだな。」  角谷が苦笑した。  7月中旬。学校は定期テストを迎え、部活は休みになっている。  テストの採点等で忙しくしてはいるが、部活をやっている時より帰宅は早かった。  今日も角谷が山野辺の部屋を訪れ、夕食を作っている。 「今日は鶏むね肉な。あっさり食べられるだろ?」  鶏むね肉のおろし煮。青菜のおひたし。味噌汁。白いご飯。 「あと、だし巻き卵。」  角谷が山野辺の部屋で食事を作るようになったのは、何気ない会話の中で山野辺が漏らした一言のせいだった。 「梅雨のむしむしした暑さのせいもあるけど、食欲わかねえよな。」  それを聞いて、角谷がすぐに反応した。 「この暑いのにちゃんと食わないとバテるぞ?それでなくてもヒョロヒョロしてんのに。一人暮らしだとちゃんと食ってないんじゃないのか?」  そして角谷は、お互い負担に感じない程度に食事を作ることを申し出た。  山野辺が、吹奏楽コンクールを控えて神経質になっていることは承知の上だ。  材料費は割り勘。ガス水道代は山野辺もち。作るのは角谷。後片付けは2人で。その条件で週に2回ほど、2人で食事をしている。 「おまえ好きだよな、だし巻き卵。」  ローテーブルにだし巻き卵をのせながら笑う角谷に、山野辺は少し恥ずかしくなった。 「うるせー。」  そして、小さな声で 「いただきます。」 と手を合わせ、食事を始める。  角谷と一緒に神崎を空港に送ってから、山野辺には角谷に聞きたいことがあった。  しかし、あの帰り道、神崎と何を話していたのかを、角谷は山野辺に問おうとはしなかった。山野辺の方から持ち出して良い話題かどうかもよく分からず、結局は何も話せていない。  角谷はお父さんとの仲を修復するつもりはないのだろうか?  それは、またいずれイタリアに戻るつもりだから?  だが神崎は、角谷が描きたいものは日本にある、と言っていた。だから角谷に日本に帰るように言ったのだ、と。けれど角谷自身は、まだ描きたいものが見つかっていない、と言っていなかったか…?  なにより気になっていたのは、神崎が、角谷の大切な人だと言った絵のモデルのことだった。  着物を着て日本髪を少しほどいた少女。  自惚れでなければ、それはお初を演じた時の山野辺ではないだろうか。  食事しながら、無意識に角谷を見つめていたようだ。角谷が食事の手を止め、山野辺を伺った。 「…どうかしたか?」  ハッと我に返り、慌てて 「なんでもない。」 と、食事を再開する。  部活があればそちらに気持ちが集中できるのに。部活がない今、どうしても気持ちは角谷の方へ向いてしまう。 「雨の中帰るの、めんどくせー。今日も泊まってっていいか?」  食器をキッチンに下げながら角谷が言う。  食器も2人分が揃って来た。  2人で食事したあと、たびたび角谷は山野辺の部屋に泊まるようになった。  陽が落ちても降り続く雨に、じめじめとした蒸し暑さが続いている。まだ梅雨が明けていない。 「おまえのパジャマとか常備しておこうか?」  受け取った食器を洗いながら冗談めかして山野辺が言うと、角谷は真剣な顔で頷いた。 「そうしてもらえると助かるわ。」 「え、マジで?」  思わず素で返した山野辺の反応に戸惑いを感じ取ったのか、角谷は 「嘘。」 と笑った。 「さてと。」  片付けを終えて、角谷がそのままカバンを持つ。 「今日は帰るわ。」 「え?」 「じゃ、またな。」  あっさりと。  角谷は部屋を出て行った。  …え?  *****  テスト期間が終わり、部活動が再開された。  そのあと1週間もすると、夏期休暇に突入する。  そろそろ梅雨が明けそうな強い日差しが続くようになった。  週末には山野辺の指揮で近くの小学校のお祭りのオープ二ング演奏や、福祉施設での演奏をこなした。並行してコンクール本番に向けて、学校のイベントホールを使ってのホール練習などを積み重ねていく。  毎日朝から夕方まで、熱心に練習を続けた。  退院した江田が、一度練習を見にやって来た。  手術の跡を隠すニット帽さえかぶっていなければ、ほぼ以前と同じように元気に見えた。  部員たちには、 「県大会で待ってる。絶対に勝ち上がってこい。」 と、檄を飛ばす。  山野辺には、 「順調なようで安心した。思うように振ってくれ。」 と笑った。  そして。7月最後の金曜日。  いよいよ吹奏楽コンクール地区大会の日がやってくる。  山野辺と角谷、2人での食事は相変わらずのペースで続けていた。  夏休みに入ったこともあり、この頃には角谷に合鍵を渡し、山野辺が学校から帰ってくる頃、角谷が夕飯の支度をして待っていることが多くなっていた。  翌日にコンクール本番を控えた木曜日。  部員たちは明日に備えて早めに解散させたが、顧問2人は雑事に追われ、帰宅はずいぶん遅くになった。 『今日は遅くなるから俺を待たなくていいよ。』  角谷には、そう連絡しておいたが、 『どうせやることないし、待ってるよ。』 という返事が来ていた。  ようやく帰宅した山野辺を出迎えて、 「今日は奮発した。」 角谷が笑った。 「え?なに?」 「いい肉買って来た。俺のおごり。」 「え?」 「ステーキにする。早く食おうぜ。」 「あ、うん。」  角谷に急かされ、山野辺は手を洗いに洗面所に向かう。  だが、正直、ステーキを食べる元気はなかった。  鏡に映った自分の情けない顔を眺める。  やれることは全てやった。もうなにもやり残したことはないはずだ。  けれど、やはり不安が残る。怖い。明日が来なければいいのに。  今日も江田が来てくれた。最後の合奏を聴いて、 「完璧だ。俺のやりたかった以上の『海』だ。」 と、絶賛してくれた。  部員たちの気持ちは高まっている。自信を持って明日に臨めるだろう。…本当は、自分がそれをやらなければならないのに。  顔を洗って洗面所を出る。  こんな情けない顔、誰にも見せられない。

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