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第23話 傷

「…え?」  尚之の、不思議そうな声。 「コンクールの前の日の晩、おまえが苦しそうにしてたの知ってたんだよ。なのに知らないふりして、苦しんでるおまえを放っておいたんだ。」 「…そうなの?」 「俺がもっと早く父さんや母さんに知らせていたら、おまえは一晩中苦しむようなことはなかったのに。本当にごめん。」 「そうだったの?僕があんなに苦しんでたの、兄さん知ってたの?」  固い声で話す尚之。  だが、一瞬の間を置いて明るい声が聞こえた。 「…って言っても、僕もよく覚えてないんだよね。一刻を争う命の危険があったわけでもないし。そんなに気にしないでよ。」  尚之がケラケラと笑った。 「兄さんのことだから、きっとすごく気にしてたんでしょう?でも大丈夫だから、もう気にしないでね。…さてと、じゃ、そろそろ切るね。今日はお疲れ様。じゃね。」  電話が切られる。    山野辺は呆然としていた。  こんなにあっさり尚之に許されるとは思っていなかった。  だが、何かが引っかかっている。  尚之は笑っていたが、あれは本当に本心だったのだろうか。  病気のせいか、人一倍人に気を遣う尚之。明るい声で話していたけれど、本当に心の底からの言葉なのかどうか、山野辺には分からなかった。  *****  部屋に帰ると、まず、鍵がかかっていることに違和感を覚えた。 「…かどや?いない?」  山野辺はカバンから鍵を出し、玄関のドアを開ける。  中を見ると、部屋の電気もエアコンもついている。 「…かどや?いないのか?」  返事がない。  そんなに広い部屋ではない。隠れる場所もない。  早く帰ってこい、ってさっきLINEで…。  山野辺の脳裏に、高校の卒業式が蘇る。  式の前日、「また明日な」と言って別れた山野辺と角谷。だが翌日、角谷は学校に来なかった。  あとで田代から、その日イタリアに発ったのだと聞かされた。 「…またかよ。」  あの時、角谷がいなくなってから、話したいことが、聞いて欲しいことがたくさんあったのだと気づいた。いつでも話せると思っていた。そこにいるのが当たり前だと思っていた。  けれど、当たり前ではなかった。  今だって話したいことがたくさんある。聞きたいこともたくさんある。 「2回も黙って消えるんじゃねーよ…。」  丸くなってソファに座り込む。  何があったんだろう?どうしてなんだろう?どうすれば良かったんだろう…?  しばらく茫然としていたら、玄関でドアを開ける音が響いた。 「やまのべー?帰ってるー?」  玄関からのんびりした角谷の声が聞こえてくる。 「えっ?角谷⁈」 「遅くなってごめん、ちょっと冷えたビールを買いに…」  勢いよく立ち上がり、そのまま玄関に走りこむ。 「かどやっ!」  山野辺があまりに勢いよく走ってきたので、角谷が驚いた顔をしている。 「え、なに⁈」 「かどやっ!!!」  その勢いのまま、角谷に抱きついた。 「…またいなくなったのかと思った。」 「…山野辺。」  山野辺がぎゅっと抱きついてくる。 「もう、黙っていなくならないでくれ。」 「山野辺、…ごめん。」  角谷が、山野辺の頭をぽんぽんと叩いた。 「えっと、そろそろ中に入ってもいい?」  しばらくそうして抱き合っていたが、角谷が山野辺に声をかけた。 「…うん。」  身体を離した角谷が、山野辺の手を引いて歩く。 「飯にしよう。手洗って着替えてこい。」 と、山野辺を洗面所に連れて行く。 「昨日の肉だけどな。ステーキ肉でマリネしてみた。」  部屋着に着替えリビングに戻ってきた山野辺は、照れ臭そうに気まずそうにしていたが、ローテーブルの端にさっきは気づかなかったスケッチ数枚を見つけ、手に取った。 「角谷、これ…?」  振り向くと、キッチンで手早く料理を仕上げながら角谷が苦笑していた。 「おまえらの演奏聴いてたら無性に描きたくなった。結果聞くまでは我慢してたけど、ここに戻ってきてからずっと描いてた。…そしたら、ビール冷やすの忘れてた。飯の用意はしたんだけどね。」  パラパラとスケッチをめくる。そこに広がる鮮やかな『海』。嵐の海。穏やかな海。冷たく恐ろしい海。光溢れる温かい海。様々な表情を見せる海。 「…俺たちの演奏で?」 「うん。」 「なんか…、うまく言えないけど嬉しいよ。本当にすごく嬉しい…。」  スケッチを抱きしめ「精一杯演奏した甲斐があったよ…。」と呟く山野辺のもとに、角谷が、冷蔵庫に残っていたであろう野菜を使ったステーキマリネと、フリッタータと呼ばれる具だくさんのイタリア風オムレツを運んできた。 「ほら、飯にしよう。」 「うん。」  角谷が用意してくれた夕飯を肴に、まずは缶ビールで乾杯する。 「今日はお疲れ。代表おめでとう。」 「ありがとな、本当に。角谷のおかげで本当に助かった。」  ビール缶を置いて、改めて角谷に報告する。 「それと、俺、これからも練習で指揮することになった。」 「え、そうなのか?」 「うん。江田先生の負担を軽くするためにね。下振りすることになった。生徒たちも歓迎してくれた。田井も認めてくれた。…と思うんだ。」 「そうか。よかったな。」 「うん。」  ゆっくり食事しながら、2人でいろんな話をした。  今までお互いに足りなかった言葉を取り戻すかのように。 「冷静に考えたら電気もエアコンもついてるし、すぐ帰ってくるってわかるのになー。なんであんなにパニクったんだか…」  落ち着いた山野辺が、恥ずかしそうに言う。 「…俺がおまえに黙ったままイタリアに行ったことが、相当こたえてるってことだよな?」  正座して、角谷が頭を下げる。 「申し訳ない。」  山野辺は、そんな角谷をじっと見つめ、意を決して聞く。 「…なあ、なんで黙っていなくなったんだ?」  戸惑うように躊躇うように、けれどもはっきりと角谷が答える。 「…溢れそうだったんだ。おまえへの想いが。だから逃げた。」  角谷の瞳が、まっすぐ山野辺をとらえた。 「…じゃ、なんで帰って来た?」  角谷の視線を受け止めながら、山野辺がさらに問う。 「いろんなタイミングが重なったんだと思う。  入賞したこと。師匠に日本に帰れと言われたこと。  決定的な理由は、地震かもしれない。  今までにないような群発地震があちこちで何度も来ていただろう。南海トラフだっていつ起こるかわからない。  おまえに何かあったとしても、赤の他人の俺には知る由もないんだって思ったら、いてもたってもいられなくなった。せめて、近くで見守っていたいと思って。気持ちを伝えるつもりはなかったから、ただ、近くにいたいとだけ思って。  すごく自分勝手な事してお前を振り回してる、ってわかってる。本当にごめん。あと、しつこくてごめん。」  2人ともが黙り込むと、食事の音だけが辺りに響く。 「…角谷は本当に描きたいものを見つけたのか?」  少し躊躇いがちに、だがはっきりと山野辺が角谷に問うた。 「だから日本に帰ってきたんだよな?神崎さんが、角谷の描きたいものは日本にある、っておっしゃってた。」  …だったら、これからはもうずっと日本にいるよな?  後半の言葉は飲み込んだが、縋るような目になっていたかもしれない。  角谷は苦笑していた。 「だいたい予想はしてたけど。あのおっさん、いらんことをベラベラと。」  そして、とても優しい笑みを見せた。 「描きたいもの見つけたよ。ここに。だから、ずっとここにいる。」  昔からここにあったのを知っていたんだ。ただ、気づかないふりをしていただけで。  角谷も、すべては語らなかった。

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