23 / 24
第23話 傷
「…え?」
尚之の、不思議そうな声。
「コンクールの前の日の晩、おまえが苦しそうにしてたの知ってたんだよ。なのに知らないふりして、苦しんでるおまえを放っておいたんだ。」
「…そうなの?」
「俺がもっと早く父さんや母さんに知らせていたら、おまえは一晩中苦しむようなことはなかったのに。本当にごめん。」
「そうだったの?僕があんなに苦しんでたの、兄さん知ってたの?」
固い声で話す尚之。
だが、一瞬の間を置いて明るい声が聞こえた。
「…って言っても、僕もよく覚えてないんだよね。一刻を争う命の危険があったわけでもないし。そんなに気にしないでよ。」
尚之がケラケラと笑った。
「兄さんのことだから、きっとすごく気にしてたんでしょう?でも大丈夫だから、もう気にしないでね。…さてと、じゃ、そろそろ切るね。今日はお疲れ様。じゃね。」
電話が切られる。
山野辺は呆然としていた。
こんなにあっさり尚之に許されるとは思っていなかった。
だが、何かが引っかかっている。
尚之は笑っていたが、あれは本当に本心だったのだろうか。
病気のせいか、人一倍人に気を遣う尚之。明るい声で話していたけれど、本当に心の底からの言葉なのかどうか、山野辺には分からなかった。
*****
部屋に帰ると、まず、鍵がかかっていることに違和感を覚えた。
「…かどや?いない?」
山野辺はカバンから鍵を出し、玄関のドアを開ける。
中を見ると、部屋の電気もエアコンもついている。
「…かどや?いないのか?」
返事がない。
そんなに広い部屋ではない。隠れる場所もない。
早く帰ってこい、ってさっきLINEで…。
山野辺の脳裏に、高校の卒業式が蘇る。
式の前日、「また明日な」と言って別れた山野辺と角谷。だが翌日、角谷は学校に来なかった。
あとで田代から、その日イタリアに発ったのだと聞かされた。
「…またかよ。」
あの時、角谷がいなくなってから、話したいことが、聞いて欲しいことがたくさんあったのだと気づいた。いつでも話せると思っていた。そこにいるのが当たり前だと思っていた。
けれど、当たり前ではなかった。
今だって話したいことがたくさんある。聞きたいこともたくさんある。
「2回も黙って消えるんじゃねーよ…。」
丸くなってソファに座り込む。
何があったんだろう?どうしてなんだろう?どうすれば良かったんだろう…?
しばらく茫然としていたら、玄関でドアを開ける音が響いた。
「やまのべー?帰ってるー?」
玄関からのんびりした角谷の声が聞こえてくる。
「えっ?角谷⁈」
「遅くなってごめん、ちょっと冷えたビールを買いに…」
勢いよく立ち上がり、そのまま玄関に走りこむ。
「かどやっ!」
山野辺があまりに勢いよく走ってきたので、角谷が驚いた顔をしている。
「え、なに⁈」
「かどやっ!!!」
その勢いのまま、角谷に抱きついた。
「…またいなくなったのかと思った。」
「…山野辺。」
山野辺がぎゅっと抱きついてくる。
「もう、黙っていなくならないでくれ。」
「山野辺、…ごめん。」
角谷が、山野辺の頭をぽんぽんと叩いた。
「えっと、そろそろ中に入ってもいい?」
しばらくそうして抱き合っていたが、角谷が山野辺に声をかけた。
「…うん。」
身体を離した角谷が、山野辺の手を引いて歩く。
「飯にしよう。手洗って着替えてこい。」
と、山野辺を洗面所に連れて行く。
「昨日の肉だけどな。ステーキ肉でマリネしてみた。」
部屋着に着替えリビングに戻ってきた山野辺は、照れ臭そうに気まずそうにしていたが、ローテーブルの端にさっきは気づかなかったスケッチ数枚を見つけ、手に取った。
「角谷、これ…?」
振り向くと、キッチンで手早く料理を仕上げながら角谷が苦笑していた。
「おまえらの演奏聴いてたら無性に描きたくなった。結果聞くまでは我慢してたけど、ここに戻ってきてからずっと描いてた。…そしたら、ビール冷やすの忘れてた。飯の用意はしたんだけどね。」
パラパラとスケッチをめくる。そこに広がる鮮やかな『海』。嵐の海。穏やかな海。冷たく恐ろしい海。光溢れる温かい海。様々な表情を見せる海。
「…俺たちの演奏で?」
「うん。」
「なんか…、うまく言えないけど嬉しいよ。本当にすごく嬉しい…。」
スケッチを抱きしめ「精一杯演奏した甲斐があったよ…。」と呟く山野辺のもとに、角谷が、冷蔵庫に残っていたであろう野菜を使ったステーキマリネと、フリッタータと呼ばれる具だくさんのイタリア風オムレツを運んできた。
「ほら、飯にしよう。」
「うん。」
角谷が用意してくれた夕飯を肴に、まずは缶ビールで乾杯する。
「今日はお疲れ。代表おめでとう。」
「ありがとな、本当に。角谷のおかげで本当に助かった。」
ビール缶を置いて、改めて角谷に報告する。
「それと、俺、これからも練習で指揮することになった。」
「え、そうなのか?」
「うん。江田先生の負担を軽くするためにね。下振りすることになった。生徒たちも歓迎してくれた。田井も認めてくれた。…と思うんだ。」
「そうか。よかったな。」
「うん。」
ゆっくり食事しながら、2人でいろんな話をした。
今までお互いに足りなかった言葉を取り戻すかのように。
「冷静に考えたら電気もエアコンもついてるし、すぐ帰ってくるってわかるのになー。なんであんなにパニクったんだか…」
落ち着いた山野辺が、恥ずかしそうに言う。
「…俺がおまえに黙ったままイタリアに行ったことが、相当こたえてるってことだよな?」
正座して、角谷が頭を下げる。
「申し訳ない。」
山野辺は、そんな角谷をじっと見つめ、意を決して聞く。
「…なあ、なんで黙っていなくなったんだ?」
戸惑うように躊躇うように、けれどもはっきりと角谷が答える。
「…溢れそうだったんだ。おまえへの想いが。だから逃げた。」
角谷の瞳が、まっすぐ山野辺をとらえた。
「…じゃ、なんで帰って来た?」
角谷の視線を受け止めながら、山野辺がさらに問う。
「いろんなタイミングが重なったんだと思う。
入賞したこと。師匠に日本に帰れと言われたこと。
決定的な理由は、地震かもしれない。
今までにないような群発地震があちこちで何度も来ていただろう。南海トラフだっていつ起こるかわからない。
おまえに何かあったとしても、赤の他人の俺には知る由もないんだって思ったら、いてもたってもいられなくなった。せめて、近くで見守っていたいと思って。気持ちを伝えるつもりはなかったから、ただ、近くにいたいとだけ思って。
すごく自分勝手な事してお前を振り回してる、ってわかってる。本当にごめん。あと、しつこくてごめん。」
2人ともが黙り込むと、食事の音だけが辺りに響く。
「…角谷は本当に描きたいものを見つけたのか?」
少し躊躇いがちに、だがはっきりと山野辺が角谷に問うた。
「だから日本に帰ってきたんだよな?神崎さんが、角谷の描きたいものは日本にある、っておっしゃってた。」
…だったら、これからはもうずっと日本にいるよな?
後半の言葉は飲み込んだが、縋るような目になっていたかもしれない。
角谷は苦笑していた。
「だいたい予想はしてたけど。あのおっさん、いらんことをベラベラと。」
そして、とても優しい笑みを見せた。
「描きたいもの見つけたよ。ここに。だから、ずっとここにいる。」
昔からここにあったのを知っていたんだ。ただ、気づかないふりをしていただけで。
角谷も、すべては語らなかった。
ともだちにシェアしよう!

