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〔2〕 見知らぬ世界

 ラシャに言われたとおりに誠治が目を閉じると、ベッドを軋ませながら、ラシャが場所を移った。どうやら誠治の両脚の間にかがみ込んでいるらしい。両手がズボンの縁にかかった。 「下を脱がせますので、腰を上げて」 「は、い……」  こうなったら、彼に全てを任せるしかない。  誠治が言われた通りに腰を持ち上げると、するりと布が滑り、下半身が剥き出しになった。  その時、尻に違和感を覚えた。下腹部で脈打つ疼きとも、痛いほどの勃起とも違う。 「男のΩが交わる時には、この場所を使います」  ラシャの手が触れた瞬間、違和感の正体がわかった。尻の割れ目の奥から、ぬるぬるするものが溢れている。 「嘘だろ……これじゃ、まるで──」  なけなしの理性を保つために、自分が学んできたものと照らし合わせて、これがどれだけあり得ないことなのかを考えようとする。  だが、ラシャの指が孔の縁を()で……入り込んできた瞬間に、そんな抵抗は無意味だと思い知らされた。 「うあ、あ……!」  愛液を絡ませながら、ラシャの指が奥まで侵入してくる。  それは、今までに感じたことのない感覚だった。まるで、肌寒さにゾクゾクと震えるあの感じを、快感のベクトルに振り切ったようだ。 「あ、何だこれ、やばい……っ」  何か意味のある言葉を口にしていないと、恥ずかしい(あえ)ぎ声を垂れ流してしまいそうで怖ろしかった。  ラシャの指が、内部を探るように動き回る。一度指が抜かれたと思ったら、今度は二本に増えてもう一度中に入り込んできた。異物感が増すと同時に、刺激も強くなる。  砂鉄が磁石に引き寄せられるように、身体中の感覚が全て、ラシャの長い指がもたらすものに向いているような気がした。 「うわ……っ、あ……これ、何なんだ……普通じゃない……っ」  ぐちゅぐちゅと()れた音が大きくなる。自分が立てている音だと思うと、恥ずかしさに首筋が()けるような気分だ。だがそれ以上に、初めて知る快感が殺到してくるのが、ただただ怖ろしかった。  ゾクゾクする。じんじんする。頭がくらくらするほど気持ちがいい。 「あ……ン、待って、ちょっと待ってヤバい。こんなの変だ……」  苛立ちのこもったため息が聞こえてくる。 「少し、静かにしていただけませんか?」 「ご、ごめん……」  誠治は仕方なく、腕を口に押しつけて声を殺した。  身体の中を優しく、それでいて淫らな手つきで弄る動きに、恐怖はあっけなく溶けてゆく。 「ん、ん……っ」  理性だとか分別だとか、手放してはいけないはずのものが、ラシャの放つ甘い匂いにあっけなく溺れてゆく。  その時、ラシャの指がある一点をそっと押した。 「ん……ッ!?」  途端に、目から火花が散るような快感に全身を貫かれる。前立腺を刺激されたのだ。  これが世に聞く前立腺マッサージか……と感慨にひたる余裕は全くなかった。そこが弱点と見るや、ラシャは容赦なくその場所を攻めた。 「ふ……んン……あ!」 『慣れている』という言葉の通り、彼は強すぎず弱すぎもしない力加減で、リズミカルに力を加えてゆく。(しび)れが身体中を駆け抜け、愛液がさらに溢れる。  恍惚(こうこつ)という言葉の本当の意味を、初めて理解する。えも言われぬ官能が血管を駆け巡り、意識と感覚が際限なく(とろ)けてしまったような気がした。 「う、あ、あ……っ……」  口を押さえて声を殺したくても、身体に力が入らない。全身のありとあらゆるつなぎ目が解けてしまうかと思った。そうなってしまえばいいとさえ思った。  けれど、まだ全てを手放してしまうのは怖い。  誠治は閉じていた瞼をうっすら開けて、ラシャの姿を覗き見た。そして、次の瞬間には、後悔してまた目を(つむ)った。  ラシャは相変わらず、頑なにこちらを見ようとはしていなかった。顔を背けた彼の遠くを見るような眼差し──そこには、はっきりと苦悩が浮かんでいた。  彼は鋭い牙で下唇を噛み、獣のように鼻に(しわ)を寄せていた。額は汗ばみ、首筋も紅潮している。身の内で暴れる衝動を必死で抑え込んでいるような荒い息。肩の輪郭は強ばっていた。触れなくても、そこに熱がこもっているのがわかる気がした。  ラシャのフェロモンが誠治に作用するように、誠治のフェロモンも彼に影響を与えているのだ。望もうと、望むまいと。  誠治とラシャのどちらにとっても、この行為を無駄に長引かせない方がいい。  誠治は、甘い匂いを深く吸い込み、頑固な抵抗感に力んでいた身体を、完全に緩めた。 「そう……お上手です」  ラシャは言い、もう一方の手で誠治のものを握った。 「あ……!?」  内部からの刺激だけでも強烈なのに、これ以上は耐えられる気がしない。反射的に腰を引きそうになったのを、ラシャは見逃してはくれなかった。 「駄目です。逃げてはなりません」  丁寧な口調に、どうすればこうも有無を言わさぬ迫力を込めることができるのだろうか。誠治は無意識につめていた息を吐き、小さく頷いた。 「もうすぐ終わりますから……わたしに身を委ねて」  彼の巧みな手つきと、雄っぽさを醸し出したかのような匂い。優しいのに、どこか断固とした声に、意識が(がん)()(がら)めになる。  ラシャに身を委ねる。それは難しいようでありながら、実際は、とても簡単だった。 「あ……ああ……っ」  先走りを絡ませ、手首をしならせながら上下に動かす左手と、それに呼応するように身体の中から快感の源泉を刺激する右手。ぐちゅぐちゅと濡れた音が重なり合って追い詰めてくる。 「あ、ああっ……は……」  実際に快感を覚えているのは下半身の一部だけのはずなのに、爪先から頭の先まで、官能にどっぷりと浸かっていた。人としての理性を失い、快感を享受するだけの生き物になった気がする。  この身体は、ラシャのなすがままだ。 「も、むり……いきそ……」 「いいですよ……どうぞ」  あやすような声とは裏腹に、手の動きは追い詰めるように早まる。 「ん、あ……ッ!」  帯電したみたいに肌がざわめき、ぞわぞわと総毛立つ。呼吸さえおぼつかなくなるほど、気持ちがいい。  身体の中で膨れ上がる絶頂の気配を感じる。誠治は降伏し、それを受け入れた。  駆け巡る戦慄に、全身がぎゅっと強ばる。 「ン、ふ……っ」  堪えきれずに溢れる声を抑えるために、誠治は前腕を噛んだ。その痛みが鈍るほど大きな快感が全身を洗う。 「は……あ、あ……っ」  絶頂に硬く締まった筋肉がふっと緩んだと思ったら、射精をしていた。熱い精液が腹に飛び散って、どろりと滴る。ラシャの手が、最後の一滴まで搾り取るようにゆっくり、強く扱いた後で、離れていった。 「あ……は……」  誠治は、息をするだけで(よみがえ)るオーガズムの余韻に、びくびくと震えながら目を開けた。  ラシャはすでにこちらに背を向けていて、布で両手を拭っていた。 「ラシャ……さん」  名前を呼ぶと、肩越しにわずかにふり返る。だが、やはりこちらを見ようとはしなかった。  絶頂の余波が収まってゆくほどに、自分の身体から、耐えがたい熱と疼きがひいていく。誠治は、虚脱感に目を閉じる前に、どうしても言わなければならないことを告げた。 「ごめん……ありがとう」  一瞬の沈黙の後で、ラシャは言った。 「礼には及びません」  そして、誠治は再び眠りに落ちた。      ・⁑ ・ ⁑・  それから、どれくらい眠っていたのだろう。  目が覚めると、あれほどしつこく居座っていた熱は()(れい)さっぱりなくなっていた。  試しに腕を持ち上げて、指を動かしてみる。感はだいぶ薄れたようだ。けれど、指先の感覚はまだ少しだけ鈍い。体長五センチのアマガエルの胃から、誤飲したビー玉を摘出するような手術は、まだできそうにない。  ラシャが置いていった鏡をとって、まじまじと覗き込んでみる。やはり見覚えのない、綺麗すぎる顔が、怪訝そうにこちらを見かえしていた。  誠治は口を開け、頬を膨らませてみた。目を見開いて唇を突き出し、ひょっとこみたいな顔をしてから、頬を上げて微笑もうとしてみた。  やはり、笑顔はぎこちないし、表情筋も(ひきつ)りそうだ。  誠治はため息をついて、鏡を脇に置いた。  身を起こして、ベッドから立ち上がろうとしてみる。すると、右の脇腹に微かな引っかかりを覚えた。 「──っつ、何だ……?」  ローブの前をはだけて、鏡で覗いてみる。すると、昨日は気付かなかった傷跡が見えた。  ギザギザとした大きな瘢痕(はんこん)。外科手術では、こんな傷はつかない。腎臓を狙って刃物を突き刺したら、ちょうどこのあたりに傷跡が残るだろうか……? そう考えて、ゾッとした。そういえば、この身体の持ち主がどんな死に方をしたのかは聞かされていない。  ──いや、考えすぎるな。  すっかり治っているように見えるし、死ぬよりずっと昔に負った傷なのだろう。きっとそうだ。  気を取り直して、立ち上がることに集中する。 「よ、い……しょ」  指先以上に足の裏の感覚がおぼつかないが、ふらつきそうになる膝に力を込めると、なんとか立つことができた。  着慣れないローブはサラリと肌を撫でる。シルクのような生地で肌触りがよく、あれだけ長い間眠っていたのに、皺がほとんどついていない。薄着でも寒くないところを見ると、季節は夏──あるいは、暖かい地方なのだろう。  いろいろなところに掴まりながら、使い込まれた絨毯(じゅうたん)敷きの床の上を、よろよろと進む。まずは部屋の隅にある書き物机を目指す。  机は、開かれたままの本や巻物に埋め尽くされていた。ガイウスは整頓が苦手だったのだろうか。どことなく親近感が湧く。  確かラシャは、魔術師の血のおかげで外国語の本もすぐさま解読できると言っていた気がする。誠治は、見覚えのない文字に目を凝らして文字列を追ってみた。 「『獣』、『解放』、『奴隷』……?」  断片的な単語は理解できるのだが、文脈までは読み取りきれない。頭が痛くなってきたので、諦めて他の場所を調べることにした。  棚の上には、金属と宝石で構成された小さな装置がいくつも並んでいる。ガラスのドームに入った太陽系儀のようなものから、視力検査の時に使う眼鏡そっくりな装置、小型のエンジンのようなものまである。  その中の一つに触れてみようと手を伸ばすと、背後から声がした。 「そこにあるものは全て、ガイウス様の発明品です」  暗に『勝手に触るな』と言われている気がして、誠治は手を引っ込めた。 「発明品? 確か、魔術師なんじゃなかったっけ?」  振り向きながら尋ねると、ラシャは一瞬虚を突かれたような顔をした。死んだ主人が別人の口調で話しかけてくることに、まだ慣れていないのだろう。気の毒だが、どうすることもできない。 「ええと……僕の世界で魔術師と言えば、(つえ)を振ったら魔法の力で何でもできる人のことだから。もちろん、空想の話だけど」 「そうでしたか」とラシャは言った。 「こちらの世界では、魔法を扱うものは魔術師と総称されます」  ラシャの手には、水を張った(たらい)と、布があった。誠治のために持ってきてくれたのだろう。彼はそれを、ベッド脇のキャビネットに置いた。  ラシャとベッドが一度に目に入ったせいで、昨晩、まさにその場所で、あられもない姿を見せてしまったことを思い出す。申し訳なさと恥ずかしさで、首の後ろがかっと熱くなる。  だが、ラシャの方は少しも気にしていないようだった。彼はテキパキと部屋を片付け、カーテンを開けた。途端に(まぶ)しい光が注ぎ込んできて、部屋の中が見違えたように明るくなる。 「イヴニアにはさまざまな魔術師がいます。ガイウス様のように魔導具を発明する魔法技術士はもちろん、生死にまつわる混沌(こんとん)の魔術を扱うバシルのような秘術師や、人間の病を癒やす治療師も」 「魔法で病気が治る? それはいいな」  ラシャは怪訝そうな顔で誠治を見た。 「僕も医者なんだ。動物専門だけど」  すると、ラシャは心底驚いたように目を丸くして、誠治を凝視した。 「獣を癒やす医者がいるのですか? なぜです?」 「なぜって……こっちの世界でも、動物をペットとして飼ったり、家畜にしたりするんじゃないか? そういう動物が病気や怪我をした時には医者が必要だろ?」 「ペット。それは奴隷のようなものですか」 「奴隷とは違うよ。ペットは、家族のように大事にするものだ。少なくとも、それが理想」  ラシャは、全てに納得がいったわけではないけれど、理屈はわかるというような顔で頷いた。こっちの世界では、動物を愛玩する習慣がないのかもしれない。 「魔法がないのなら、そちらの世界ではどのように病を治すんです」 「薬を使ったり、外科手術をしたり、かな」  外科手術が何を意味するのか伝わっていないようだったので、誠治は説明を続けた。 「例えば……薬ではどうにもできない悪性の腫瘍があれば、痛みを感じないように麻酔をかけて、身体を切り開いて、患部を切除する」  ラシャは自分の意見を口にしなかったけれど、微かに浮かんだ表情から『野蛮だ』というようなことを感じているらしいのはわかった。  微妙な空気を誤魔化したくて、誠治はガイウスの遺品──と呼んでいいのだろうか──から離れた。  差し込んでくる光に吸い寄せられるように、カーテンを開いた窓へ向かう。窓は大きなフランス窓(こちらではどう言い表すのか知らないが)で、バルコニーへと続いていた。窓を開けて、誠治は恐る恐る外へ出た。  真正面から吹いてきた風の洗礼を受けて、一瞬、息が止まる。  眩しい光に目を瞬きながら、バルコニーの縁まで歩いて、()()りにしがみついた。 「うわ……」  今の今まで、『異世界』に居ることに納得がいっていなかったとしても、この瞬間、誠治は全てを受け入れた。  ガイウスの邸宅は小高い丘の上に建っていた。邸宅のある場所からは、オリーブやレモンの木立が散らばるなだらかな傾斜が続いている。遠くに町の景色が広がり、その向こうにはマリンブルーの海が開けていた。  空を見上げれば、有明の月が、浮かんでいる。 「は……」  月は一つしかないものだと思って三十年以上生きてきたせいで、大きさの違う月が寄り添っている光景に、思わず身震いしてしまう。 「本当に、ここは僕の住んでいた世界じゃないんだな……」  ──もう一度、戻ることができるのだろうか?  その時、大事なことを考えていなかったのを思い出した。  いつの間にか後ろに控えていたラシャを振り返って、誠治は尋ねた。 「他人の肉体に魂が乗り移ってしまった……ってことは、元の世界の僕はどうなったんだ……?」 「それは、わかりません。記憶がないのですか?」 「ああ……」  身体は回復しても、記憶はやはり戻っていない。誠治は自分を落ち着かせるために、首の後ろに手を当てた。 「肉体から魂が抜けてしまったということは、死に(ひん)した状況であることは間違いないでしょう」  ラシャは、誠治が聞きたくない話を冷静に説明してくる。 「バシルの話では、夢を見ている間にこちらに旅して、また戻ってゆく魂もあるそうです。二つの世界で時の流れが違うこともあるのだとか。あなたの世界での一秒が、こちらの百年に相当することもあり得ます」 「じゃあ、元の世界に戻れたら──」 「今まで通りの暮らしを続けられる可能性もあります」 『あり得る』だとか『可能性』なんて言葉に、大した信憑性(しんぴょうせい)がないのはわかっている。それでも、誠治はそれに縋るしかなかった。 「なら、すぐに帰らないと……!」  誠治の言葉を遮って、ラシャは言った。 「あなたを元の世界に戻すのは簡単ではありません。とても大がかりな儀式が必要になるでしょうし……秘密裏に行わねばなりません」  誠治はギクリとして尋ねた。 「秘密にしなきゃいけない理由があるのか?」  ラシャは頷いた。 「故意に召喚されたものであれ、今回のような不幸な事故であれ、本来の肉体の持ち主と異なる魂を生き返らせるのは、神の(おきて)に背く重罪です。発覚した場合は、その家の全員が死罪となります」 『その家の全員が死罪』という言葉に、誠治はギョッとした。 「ずいぶん厳しいんだな……」 「かつて秘術師たちが掟を破り、多くの死者を蘇生させました。中には異世界の魂も紛れ込んでいた。彼らのせいで世界は混沌に陥り、崩壊の危機に瀕したのです」  心なしか、誠治を見つめるラシャの目にも警戒が滲んでいるような気がする。 「以来、違法な蘇生には最も厳しい罰が与えられています。あなたを元の世界に返す前例がないのも、そのためです」  万事休す、ということか。人違いで異世界に呼ばれて、それがとんでもない罪だと言われて、誠治は途方に暮れるしかなかった。 「僕は、どうすれば……」  その時、ラシャの目が妙な輝きを放ったように思えた。だがそれは一瞬のことで、誠治は深く考えようともしなかった。 「そこで、あなたに提案があるのです」  ラシャは言い、まっすぐに誠治の顔を見た。 「わたしの主人は、何者かによって殺されました」  その言葉に反応したのか、右脇腹の大きな傷跡がひくっと引き()れた。 「ガイウス様を救いたい一心で蘇生の術を行いましたが……身体に入ったのはあなたの魂だった」  誠治は、淡々と語るラシャの声に、制御しきれていない悲しみが滲んでいるのを聞いた。事故とはいえ、大事な主人の肉体に間借りしているのを後ろめたく思ってしまう。  ラシャは、そんな誠治の気後れを知ってか知らずか、こう切り出した。 「しかし、まだ復讐する手立ては残っています。死んだはずのガイウス様が生きているとなれば、犯人はもう一度命を狙ってくるでしょう」  誠治はごくりと生唾を飲んだ。  ──僕は今、とんでもない提案をされている。 「僕を(おとり)にして、犯人をおびき寄せるって言ってるのか……?」  すると、ラシャの視線が鋭くなった。 「いけませんか?」  真正面からそう尋ねられて、言葉に窮する。捕食者のような目で誠治の顔を見据えたまま、ラシャは言葉を続けた。 「協力してくだされば、あなたを元の世界に帰せるよう、最善を尽くします」  誠治は言った。 「もしかして、この身体に残ってる傷跡は、その時の──?」  ラシャは頷いたが、顔は悲しみの記憶に(かげ)った。 「ええ。何者かに刺されたのです。蘇生の前に魔法で治癒しましたが、まだ痛みますか?」 「いや……」  痛みはないけれど、体温が五度ほど下がったような気がした。あんな巨大な傷を残すほど大きな殺意を、他人から向けられたことなんかない。囮になるということは、その殺意に(さら)されるということだ。 「危険すぎる……」  ラシャがそっと手を伸ばしてきて、誠治の手を取った。 「あなたに真実を隠したまま泳がせて、事を進めることもできたのですよ。その方がずっと容易かった」  オレンジがかった琥珀色の目に見つめられて、反論を封じられてしまう。  ラシャはさらに続けた。 「正直にお話したのは、わたしを信用していただきたいからです。あなたを守り、復讐を果たす。やり遂げる覚悟がなければ、こんな提案はしません」  強固な意志が、彼の四肢に満ちているのを感じる。  怖ろしい提案を突きつけられているにもかかわらず、誠治は、ラシャを復讐に駆り立てた感情について考えずにはいられなかった。  忠誠心。復讐心。そして、目を背けられないほど強烈な悲しみ。 「もし、断ったら?」 「そうなれば、ガイウス様のお身体をあなたに使わせておく理由もありません。あなたを殺して、その肉体から出て行っていただく」  つまり、元の世界に戻る方法もわからないまま、今度こそ死ぬということだ。  情け容赦ない──だが、当然の成り行きだとも思う。本音では、ラシャは今すぐにでも誠治に、主人の身体から退去してほしいはずだ。  ふと、こちらの世界で目を覚ます前に、ほんの一瞬垣間見た他人の記憶を思い出す。あれはおそらく、ガイウスのものだったのだろう。  ガイウスを必死で救おうとしていたラシャの声が脳裏に響く。 『俺を置いていかないで』  その悲痛な声に、大丈夫だと答えてやりたかった。僕がなんとかする。全力を尽くすからと、約束してやりたかった。  しばらく考え込んだ後で、誠治はぽつりと言った。 「わかった……協力する」 「本当ですか?」  ラシャの言葉に、こくりと頷く。  まるで、途方もない額の借金をしてしまったみたいな気分だった。自分の動物病院を開業する時にも、機材やら何やらを(そろ)えるために四桁の借金を作ったけれど、あれよりひどい。  立ち直ったはずの膝が、また微かに震えた。 「そのかわり、約束は守ってくれ」  ラシャは両手で、誠治の手を包み込んだ。 「もちろんです、ミューラセージ様」 「ミューラ……?」  誠治は聞き慣れない名前で呼ばれて首を傾げてから、ラシャの勘違いに気付いた。  あはは、と声を上げて笑うと、ラシャは目を丸くして誠治を見つめた。どうやらこれが、彼の驚いた時の癖らしい。 「僕の名前はミューラセージじゃなくて、深浦、誠治。深浦が姓で、誠治が名前だ」 「ミュウラ、セージ様……ですね」  異国風の発音が抜けきれていないけれど、どういうわけか、誠治はラシャに名前を呼ばれるのがすでに気に入り始めていた。 「君は?」  自己紹介を促したつもりだったのだが、何のことかわからないという目で見つめ返される。 「えーと……名前は『ラシャ』だけ?」 「ええ、そうです。この国では、わたしに姓はありません。奴隷ですから」  誠治はギョッとした。思わず顔に出た驚きを取り繕えないまま尋ねる。 「君が、奴隷? この国には奴隷がいるのか?」 「ええ。これが奴隷の印です」  ラシャは自分の首から下がったネックレスを誠治に見せた。平たく潰した鉛に、×印を刻んだだけの簡素なものだ。 「あなたの国に、奴隷はいないのですか?」  さも当たり前のように肯定されてしまったことに、どう反応すればいいのかわからないまま、誠治は答えた。 「僕の国だけじゃなくて、どこの国でも、人間を売り買いするのは犯罪だよ」 「それは、こちらでも同じです。人間の売買は法によって固く禁じられています」 「え? でも、君は奴隷だって……」  誠治の頭の上に、無数の『?』が並ぶ。ラシャはあくまでも冷静に、子供に言い聞かせるような調子で説明した。 「わたしは人間ではありません。今は人間のような肉体を持っていますが、かつては野生の獣でした。イヴニアや近隣の国では、獣を捕まえて、魔法で人の姿を与えて奴隷にする習わしがあります」  開いた口が塞がらないとはこのことだ。  でも、それなら、彼の鋭い牙や縦長の瞳孔にも説明がつく。今も、目映い陽の光を浴びる彼の瞳孔は細い。夜行性の獣の特徴だ。  異世界だの魔法だのという話にはとてもついて行けないと思うのが普通だ。。けれど、これも生存本能の一つの形なのだろうか。受け入れてしまった方が頭と心に負担がないと思える時には、突拍子もない話でも『そういうもの』と納得できてしまうらしい。  獣医師の(さが)と好奇心に抗えず、誠治は思い切って尋ねた。 「じゃあ君は……どういう動物だったんだ?」  すると、ラシャは瞬きをして誠治を見つめた。  特徴のある目。無駄のない身のこなしに、悠然とした雰囲気──きっと夜行性の肉食獣だろうと誠治は思った。もし生態系が元の世界と一緒なら、キツネか、ワニか── 「竜です」 「うん?」 「ですから、竜です」  誠治は言葉を失って、何度も瞬きをした。 「竜って、あの『竜』?」  予想の(はる)か斜め上の答えに、オウム返しするしかない。ラシャは困惑したように言った。 「他にどのような竜がいるのか、わたしにはわかりかねますが──」 「いや、いいんだ。わかった。そうだよな。魔法があるなら竜ぐらいいて当然だ……」  まがりなりにも納得したものと判断したのか、ラシャは口を開いた。 「結構です。これから、あなたにはわたしの主人であるふりをしてもらわなければなりません。細かいことは追ってご説明いたしますが」  慎重に前置きをして、ラシャは説明を続けた。 「わたしは竜獣人で、ガイウス様が所有する奴隷です。闘技大会が開催されれば、ガイウス様の名誉を高めるべく戦う獣闘士でもあります」  ──また、目眩がしかけてきた。  なけなしの精神力で混乱を抑えつけながら、誠治はラシャの説明に食らいついた。 「あなたはわたしの主人、ガイウス・アスカルダ・ヴネイとして、生前の彼と同じ生活を送っていただきます」  誠治はつい、ゴクリと生唾を飲む。 「ガイウス様は四百年の時を生きた大変偉大な魔術師で、元老院議員でもありましたが、社交好きではありませんでした。近しいご友人は少なく、ここ百年ほどは魔導具の研究からも遠のいておいででしたので、周りの目を欺くのもそれほど困難ではないでしょう」  この世界の事情を全て飲み込めていなくても、四百歳の大魔術師になりきるのが『それほど困難ではない』わけがないのはわかる。それでも、誠治はどうにか頷いた。 「そう思い詰めた顔をなさらないでください。きちんとよう、わたしが責任を持ってお世話いたします」  それから、ラシャは誠治の顔をまじまじと見下ろした。  ゾクッとするほど美しいのを別にしても、この迫力だけで、竜の獣人であるという彼の言葉を真に受けるには充分だ。迫力のある目に見つめられて、抗う気力がなくなってしまう。 「まずは、振る舞いを矯正していくところから始めましょう。あなたは何もかもを顔に出しすぎる。声を上げて笑うのも厳禁です」 「はい……」  誠治は力なく返事をした。 「『はい』ではなく『わかった』と。主人は奴隷に敬語を使いません」 「は──じゃなくて、わかった」  ラシャはこくりと頷き、誠治の前に片膝をついた。 「ガイウス様にお仕えしたように、あなたにもお仕えします。何なりとお申し付けを」  彼はその姿勢のまま、何かを待っていた。誠治がぽかんと見つめるばかりなのに業を煮やしたのか、彼は誠治の右手をそっととり、手の甲に口づけをした。 「あ……」  柔らかい唇の感触。震えがさざ波のように、誠治の肌を駆け抜けた。  どうやら、これで宣誓がなされたようだ。  ラシャはすっと立ち上がると、「今日はもうお休みください」と言い置いて部屋を出て行った。 「……っ」  ドアが閉まった音を耳にした瞬間に緊張の糸が切れて、誠治はその場にへたり込んだ。これまでに教わったいろいろなことが殺到して、今度こそ目眩がし始める。 「これは……大変なことになったぞ」  囮として殺されるのを心配する前に、ラシャを失望させて用済みだと言われる方が早い気がする。現に、彼の提案を呑まなければ『あなたを殺して、その肉体から出て行っていただく』と告げられたばかりだ。 「生きて帰れるかな……」  そんな誠治の姿を、二つの月がのほほんと眺めていた。  こうして、異世界での花嫁修業ならぬ、ご主人様修行が幕を開けたのだった。 

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