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〔3〕 君のことを、もっと知りたい-1

「ガイウス様は贅沢(ぜいたく)を好まぬお方でしたので」  ガイウスの邸宅を案内しながらラシャがそんなことを言うので、誠治はてっきり冗談だと思って笑ってしまった。  なにしろ、眺望のいい最高の立地に建つ、二階建ての豪邸だ。部屋の数は十一もあって、それぞれが広い。応接間が二つある理由も、執務室と書斎、私室と寝室がそれぞれ別にある理由も、ごく普通の家庭に生まれ育った誠治には想像がつかない。  おまけに地下にはスパ顔負けの浴場があり、温泉までひかれている。ラシャの介助を断って一人で入ると言い張った手前、誰にも言えないが、初日は危うく溺れかけた。  邸宅の床は全面、職人の手によるモザイク張り。壁は色鮮やかに彩色されている。天窓を備えた吹き抜けの玄関広間(アトリウム)には水盤があり、これもまた見事なモザイク画に彩られていた。  家具や調度品はどれも贅沢な造りで、一つ残らず彫刻や細工が施されている。  広い庭には色とりどりの花や樹木が植えられていて、眺めは最高。日当たりも良好だ。しかも、庭の一角には小さな神殿まで備え付けられていた。  日本なら、同じものを建てるのに数億円、下手したらもっとかかりそうだ。これが贅沢でないなら、庶民の誠治の暮らしなんて目も当てられない。  けれどラシャの表情から、彼が本気で主人を『清貧に生きる』タイプだと思っていることがわかったので、誠治は思わず出た笑いを(せき)払いで誤魔化した。  ガイウス・アスカルダ・ヴネイは、イヴニア国が誇る大魔術師だった。  ガイウスは名前、アスカルダが姓で、ヴネイは氏族の名前だ。ヴネイ氏族は現皇帝を輩出した氏族だが、もとは軍人の家系で、一族はこの街に二百人ほど暮らしているらしい。一族の全員が豪勢な暮らしを営んでいるわけでもないが、名家であることは確かだ。  ガイウスは、ヴネイ氏族が栄える前に魔術師としての才覚で身を立て、ここまでの地位を築いたそうだ。  聞いているだけでくらくらするほどもの凄い人物である。  ラシャは誠治が理解できるかどうかを推し量りながら、一つずつ説明してくれた。 「ガイウス様ほどの貴族なら、本来はこの五倍の広さの邸宅にお住まいでもおかしくありません。仕える奴隷の数も、百からが妥当なところです。実際にはわたしを含めて六人ほどですが」 「君以外、姿が見えないけど」  キョロキョロと周囲を見回すと、ラシャは言った。 「邸宅の使用人には、しばらく暇を与えています。主人が病に伏せっているという話を広めさせているところです。皆、明日には戻るでしょう」 「そうか……」  ガイウスが死んだことを知る者は限られている、とラシャは言った。  ガイウスは、人目につかない状況で殺されたそうだ。元老院の議場の傍の路地裏で、短剣を持った何者かに襲われたのだ。  最初に発見したのはラシャだった。ラシャは、ガイウスが刺された直後に、路地裏に駆けつけたそうだ。逃げる犯人の姿も目撃している。  フードを目深にかぶっていたため、犯人の顔は見ていない。だが、彼が持っていた短剣は目に焼き付いているらしい。それは、竜の翼を模した形の刃をしていたと言う。  ラシャは犯人を追わず、まだ辛うじて息のあるガイウスを治療師の元へ運ぼうとした。その時は、助かる見込みがあると思っていたのだ。だが、ガイウスは治療師の元に辿(たど)り着くことなく息を引き取った。  犯人も被害者も、騒ぎになる前に現場から消えた。だから、ガイウスが襲撃されたことを知るものはいない──ガイウス家の者たちと、犯人以外は。  ガイウスの(かたき)をあぶり出すための、ラシャの計画はシンプルだった。  誠治がガイウスの振りをして社交界に顔を出し、犯人の目に触れるようにする。自分がし損じたことがわかれば、犯人は今度こそガイウスを殺しに来る。そこで、ラシャが犯人への復讐を果たすという寸法だ。  誠治自身も、この計画は効果的だと思う。とはいえ、すでに計画が動き出しているのだと思い知って、腹の底が冷え込む。  二人がいるアトリウムの天井からは陽の光が燦々(さんさん)と降り注いでいた。中央にある水盆が光を照り返して、周囲の柱や壁に揺らめく波紋を浮かび上がらせている。  違う状況なら、異国情緒溢れる豪邸での暮らしに心が躍ったかもしれない。けれど、自分は豪華なねずみ取りに仕掛けられたチーズなのだと思うと、何かを楽しむ気分にはなれそうになかった。  、考えていることが顔に出ていたらしく、ラシャがそつなく言った。 「ご安心ください。家には新たに結界を施しましたし、お休みの時にも、家の者が寝ずの番をします」  結界がどれほど頼りになるのかはわからないが、自分の身の安全のために他人に睡眠不足を強いるのは気が引けた。 「寝ずの番より、ちゃんと交代で休んでほしいんだけど」  すると、ラシャはピシャリと(たしな)めた。 「奴隷のことに、あれこれ気を煩わせるのはおやめください」  本人にそう言われてしまっては、これ以上は何も言えない。だが、ラシャは口調を和らげてこう言い添えた。 「他の者が戻ってきたら、交代で番をします。ですが、わたしは元来あまり睡眠を必要としませんので」 「そんなわけ──」  言いかけて、誠治はハッとした。  竜という生き物を爬虫類の一種だと考えれば、人間のようにまとまった睡眠が必要ないのも頷ける。  魚類や両生類、爬虫類等、体温の熱源を外部環境に依存する外温性脊椎動物の眠りは中間睡眠と呼ばれる。恒温性──体温を一定に保てる脊椎動物とは異なり、彼らは睡眠時と覚醒時ではっきりとした脳波の区別がつけられないのだ。  とはいえ、竜が人間の形をとっている時点で、そんな理論は無意味かもしれないが……。  そこで、誠治はふと思い付いたままを口にした。 「あのさ、二人きりの時は敬語じゃなくてもいいよ」  誠治の提案に、ラシャは真面目な顔で首を横に振った。 「わたしは、あなたにもガイウス様と変わらずお仕えすると申し上げました。そのことに二言はありません。それに……普段から習慣づけなければ、思わぬところでボロが出ます」  あなたもお気を付けください、と言うラシャの横顔には隙がない。 「わかった」  もっと友人のように会話できたら、自分が奴隷を所有している罪悪感と違和感がマシになるかと思ったのだが、どうやら駄目そうだ。そう考えていると、ラシャが言いづらそうに言った。 「わたしは、その……あまり優しい言葉を知りません。敬語であれば、少しは硬さが和らぐでしょう?」  その気遣いと、どことなく後ろめたいような表情に、どういうわけか、心を擽られる。 「君がそれでいいなら、僕はかまわないけど」  一分の隙もない──と思っていたラシャの意外な一面に、誠治はなぜかどぎまぎして、ろくに周囲も見ずに家の中をうろついた。  屋敷を吹き抜ける風に、ローブがはためく。どこかから香の匂いが漂い、誠治の髪を()いた。この家が豪邸だろうとそうでなかろうと、居心地がいいのは確かだ。  ガイウスの肉体に入り込んでしまった理由はわからないけれど、彼が貴族の、それも魔術師だったおかげで、衣食住にも言葉にも苦労しないで済んでいるのはありがたい。  ラシャが誠治の代わりに選んでくれる服は、上等なものばかりだった。こちらで身分の別なく着られている薄い麻布のトゥニカ長衣はシンプルな生成り色だが、腰を締める幅広のベルトも、その上にはおるローブにも細かな装飾が施されている。重ね着しても、乾燥した気候なので暑く感じず、心地よく過ごせる。  目覚めてからの食事は、パンや果物などのシンプルなものが多かった。厨房(ちゅうぼう)の担当者が戻れば、もっとよいものを召し上がっていただけますとラシャは言うけれど、充分美味(おい)しかった。  他人(ガイウス)のふりをするのは簡単にはいかないだろうが、生活に適応する早さにはそれなりの自信がある。  学生時代から、誠治はよく旅をしていた。野生動物との出会いを求め、行き先はアフリカや南米、オセアニアの島々などさまざまだった。気候も文化も食べ物も違う場所で、仲間が腹痛や謎の発熱でダウンする中、誠治は持ち前の適応力を発揮して元気に動き回れる。現地の人と間違えられて声をかけられたことも、一度や二度ではなかった。  それが、こんな形で役に立つとは思わなかったけれど。  気付くと、誠治は庭に出ていた。  青々とした芝生に覆われた庭は、とても居心地の良い場所だ。  銀梅花に柘植(つげ)(げっ)(けい)(じゅ)夾竹桃(きょうちくとう)が茂り、花壇には(すみれ)菖蒲(しょうぶ)などが色とりどりの花を咲かせている。庭の隅に植えられた柑橘(かんきつ)やハーブは、食べるためのものだろう。  母は花が好きだったから、誠治も自然と、いろいろな花の名前を覚えた。亡くなった母がこの庭を見たら歓喜したはずだ。  気持ちのいい風と光を浴びながら庭を歩いていくと、海を一望できるところに設えられた、石製のベンチに辿り着いた。きっとガイウスもここに座って、美しい海を眺めていたのだろう。  ふと、何かの気配を感じて視線を巡らせる。すると、茂みの傍で横たわる中型犬がいるのに気付いた。 「おや」  犬種はわからないが、おそらく雑種だ。イタリア原産のスピノーネ・イタリアーノに少し似ている。元は茶色い毛をしていたのだろうが、歳をとって白髪が目立っていた。横腹を規則正しく膨らませて、ぐっすり眠っている。 「こんにちは」  少し高めの声で、ゆっくりと声をかける。犬は瞼を開けて、誠治を見た。テリアは概して警戒心が高めだ。(おび)えさせないように、少し離れたところにしゃがんでみる。すると、犬はパタパタと尾を振った。そっと拳を差し出して匂いを嗅がせると、躊躇いなく誠治の手を()めた。 「君、名前は?」 「アイオンです」  ラシャが、代わりに教えてくれる。 「かつてガイウス様にお仕えした奴隷でした。解放奴隷となって獣の姿に戻り、屋敷で暮らしております」 「そうだったのか……」  この犬──アイオンが、自分のことを愛おしそうに見つめているのはそのせいか。 「ずいぶん歳をとっているね」 「人間の姿で六十年ほど主人にお仕えしました。死ぬ時は本来の姿で、と獣に戻ったのです。あれからまだ二年ですが……犬は老いるのが早いですから」 「うん……」  誠治は言い、アイオンの柔らかな毛並みを撫でた。アイオンは気持ちよさそうに手足を伸ばし、口をモチャモチャと動かしながらお腹を見せた。 「ああ、いい子だ。いい子だね」  誠治が彼の腹を撫でてやると、アイオンは満足げなため息をついてから、また眠りについた。  ガイウスはきっと、犬に戻ってからの彼のことも、大切に慈しんだのだろう。毛艶は良く、目も生き生きして、足腰もしっかりしている。獣医師の癖でつい、身体に異常なしこりや腫れがないかを触診してしまったが、健康体のようでホッとする。  動物への接し方は、他人の人となりを判断するこの上ない指標になる。ガイウスという人物について知っていることはまだ少ないけれど、ラシャの言葉の通り、尊敬すべき主人だったのは間違いないようだ。  そんな彼に、なりきることができるのだろうか。 「何だか、なりすましてるみたいで申し訳ないな」  ぽつりと呟くと、ラシャが言った。 「彼もきちんと理解していますよ。あなたの匂いは……以前とは変わっていますので」 「匂い?」  デリケートな質問だったのだろうか。ラシャはうっすらと口を開けたまま硬直し、少しの間言葉を探した後で、こう言った。 「ガイウス様はαでした。しかしあなたの魂が入って、肉体ごとΩに変わった。他人なら気付かないでしょうが、お近くに仕えていた我々にとって、その違いは歴然です」 「そう、なのか……」  もう何を言われても驚かないと思っていたけれど、やはり驚いた。だが、以前のように狼狽(うろた)えるほどではない。 「主人が世を去り、あなたがその身体の中にいるということは、この家の全員が理解しています。その上で──」  ラシャがそっと手を差し出してきた。 「あなたのご決断に、皆感謝しています」 「それは……どういたしまして」  その手にも、感謝の言葉にも、彼なりの優しさを感じた。不器用だけれど、冷たくは感じない。  誠治は小さく微笑み、ラシャの手を取って立ち上がった。  ラシャからまっすぐに向けられる琥珀色の視線。それにドキッとするのは、こちらを見定めるような眼差しのせいか、それとも、別の理由か……。  日光の下では、ラシャの縦長の瞳孔は、目に入る光量を調整するために細くなる。夜行性の獣の特徴だ。  子供の頃、昼と夜とで瞳孔の形が変わる猫の目に興味を()かれて、何時間でも観察を続けたことを思い出す。  物心ついたときから、誠治は動物に魅せられてきた。彼らの生き方を知り、考えていることを知り、痛みを、それを除く方法を知るために、人生のほとんどを費やしてきたのだ。  それが、獣人が存在する世界に転がり込むことになるなんて……。  ──いや、待てよ。  誠治はふと、自分が今、ずっと望んでいた状況に身を置いていることに気付いた。  彼らの生き方を知り、考えていることを知り、彼らの痛みを知りたいなら、本人に直接聞けばいい。この世界でなら、それができるのだ。  こんなチャンスが目の前にあるのに逃す手はない。きっと、獣医師なら誰だって同じことを考える。しかも、相手は空想上にしか存在していなかったはずの動物だ。 「よかったら、少し頼みたいことがあるんだけど……」  ラシャは何度か瞬きをしてから、注意深く言った。 「……わたしにできることでしたら」  胸の鼓動が高鳴る。ラシャの手を握っていた手に、思わず力がこもった。 「君のことを、もっと知りたいんだ」

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