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〔3〕 君のことを、もっと知りたい-2

 ガイウスの書斎で、ラシャは誠治と向かい合って座っていた。 「うーん、興味深い」  椅子に座ったラシャの顔に、立ったままの誠治がかがみ込む。額に手を当て、瞼をめくり、瞳や耳、口の中を覗き込んではブツブツと呟いている。  その様子は、かつて魔導具の研究に没頭していた主を見ているようでもあり、まったく別人のようでもある。  ガイウスの死を受け入れなければならないときに、息をして動いている姿を見るのはつらいが……慣れてゆくしかない。  命の恩人にして魂の救い手、父とも慕っていた(あるじ)は死んで、その肉体の中に他人が入り込んだ。  悲しみを覚えるべきだ。二度とガイウス・アスカルダに会えず、彼に声をかけてもらえないことに絶望し、涙を流し、深く悼むべきだ。  けれど、一度膝をつけば、もう立ち上がれなくなる気がした。だから、悲しみや絶望は心の奥底にしまい込み、鍵をかけた。  考えるべきは復讐だ。それだけを考えていれば、前に進み続けることができる。  だから、ラシャは敢えて目をそらさずに、誠治の顔を見つめ返した。彼は相変わらず、魅せられたようにラシャの身体のあちこちを観察している。 「人の形をしていても、元の動物の特徴が出る部分があるんだな……瞳孔は動物に寄っていても、瞬膜はなし。なるほど……」  誠治の頼みというのは、ラシャの身体を調べてみたいということだった。そこに性的な含みがないのは明らかだった。  ラシャはガイウスに仕える前にも多くの主人に仕えた。彼らのほとんどはαだったが、ごく(まれ)に、身内にΩがいることもあった。そんな彼らが『お前のことを、もっと知りたい』と言えば、それは(ねや)での務めを果たせという命令だ。  ところが、誠治は文字通り、ラシャのことを知りたがった。  竜という生き物のこと、獣人という存在について。過ごし方や感じ方。何を食べ、いつ眠るか。夢を見るのか、それはどんな夢なのか。  獣の治療師である以前に、彼には無尽蔵の好奇心があるようだ。  理性は、こんな遊びに付き合っている暇はないと文句を言っている。けれど、心のそれ以外の部分はミュウラ・セージという男を──その存在を不快には思っていなかった。それどころか、面白い男だとさえ思っていた。例え、時には煩わしいと感じることがあったとしても。  紙に何かを書き付けながら、誠治がぽつりと言う。 「竜は、夜のうちに狩りをするのかな?」  ラシャは少し驚いて、まじまじと誠治を見た。 「どうしてご存じなのですか? あなたの世界に竜はいないと聞きましたが」  誠治はペンを置くと、にっこりと微笑んだ。 「その目だよ。縦長の目を持つ肉食獣のほとんどが夜行性だ。瞳孔のサイズを調節することで目に入る光の量を調節して、獲物の姿をとらえるんだ」  自分の身体の仕組みに思いを()せることなどなかったので、ラシャは素直に感心した。  その様子を見つめていた誠治は、わずかに躊躇ってから言った。 「その、もし嫌じゃなければ教えて欲しいんだけど、身体の方には何か特徴があるのかな? (うろこ)が生えてるとか、翼の痕跡があったりしないか? 尾てい骨が人間より長いとか?」 「身体、ですか」  ──ああ、やはりこうなるのだ。  ラシャは諦めに近い気持ちで納得した。  誘い文句が多少回りくどいだけで、この男も他の主人たちとそう変わらない。 「ご覧になりますか?」  尋ねると、誠治は顔を明るくした。 「え……いいの?」 「はい」  ラシャは立ち上がり、手早く服を脱いだ。下着に手を掛けたところで、誠治が慌てて声を上げる。 「ストップストップ! そこまでは脱がなくていいから!」  ラシャは眉を顰めた。 「しかし──わたしをお召しになりたいのでは?」 「お召し……?」  誠治はぽかんと口を開ける。回りくどい言い方をしない方がよさそうだ。 「肉体的に奉仕せよ、ということではないのですか?」  誠治の顔が、瞬く間に真っ赤に染まる。 「奉仕!? いやいやいや、気遣いはありがたいけど、そういうことじゃないよ!」  誠治は慌てふためいて、早口で畳みかける。ラシャは、少しばかり驚かずにはいられなかった。 「では、本当にわたしの身体が見たいだけなのですか」 「そうだよ!」  ラシャは下着に掛けた手を放した。それを見て、誠治がホッとした表情を浮かべる。そしておずおずと、こう付け加えた。 「その……気を悪くして欲しくないんだけど、君とするのが嫌だってわけじゃないんだよ」  気恥ずかしさを誤魔化すように、ゴホンと咳払いをする。 「でも、今はその必要はないんだ。わかってもらえる?」 「ええ、よくわかりました」  慣れない気遣いを受けて、逆に居心地が悪い。普通人間は、獣人奴隷の気分を害さないかどうかなど心配しないものだ。  誠治はホッとため息をついて、ラシャの身体を見つめた。鱗や尾や、翼の名残を探していたのだとしたら、きっと失望しただろう。目や口元に獣の面影があっても、肉体は人間とほとんど変わりがない。  ラシャの身体に残っているのは、無数の傷跡だけだった。 「この、傷は……」 「獣闘士としての試合中に負ったものです」  少なくとも、身体の前面にある傷は。  だが、ラシャが敢えて口にしなかったことを、誠治は見抜いた。 「背中にある傷は……戦いで負ったものじゃないように見えるんだけど」 「それは……」  自分で見たことはないが、背中は無数のみみず腫れに覆われているはずだ。 「(むち)打たれた跡です」  努めてさりげなく口にする。だが、誠治は小さく息を呑んだ。それからおずおずと、傷跡に手を触れた。 「ガイウスが、これを?」 「いいえ。それよりも前の主人たちです」  ガイウスは決してラシャに手をあげなかった。けれど、それ以外の主人たちはラシャに一切の容赦をしなかった。意に染まぬことをした時や、単に虫の居所が悪かった時、彼らはラシャを打った。  長い隷属の日々と、その苦痛を思い出しそうになって、身体が勝手に強ばる。  誠治が静かに、長い息をついた。 「痛かったろうね」  その声に宿っていたのが(あわ)れみではないことに、ラシャは驚いた。  彼が呟いた言葉に、憐憫(れんびん)や好奇の念は含まれていない。だが、ひどく悔しそうだった。まるで、その傷を──痛みを癒やせなかったことを情けなく感じているかのような口ぶりだった。 「あなたがそのように……悔やむような顔をなさることはないでしょう」  単刀直入に言うと、誠治は苦い思い出を噛みしめるような顔をした。 「そうだね。でも……」  小さく笑ってから、彼は語った。 「僕は動物愛護団体でボランティアしてたから、ひどい扱いを受けていた動物を診ることもあったんだ」  ラシャにはボランティアという言葉の意味はよくわからなかったけれど、黙って話を聞いた。 「仔犬工場(パピーミル)から保護された繁殖用の犬だとか、飼育崩壊をおこした家庭から引き取られた猫とかね。虐待されていた子も……」  誠治はため息をついて首を横に振った。 「愛されている動物は、見ればわかる。虐げられた動物も同じなんだ。彼らの目の中に、諦めが刻み込まれているから」  誠治がちらりと、ラシャを見る。その目には、居心地が悪くなりそうなほどの優しさがあった。 「わたしの目の中にも、同じものがあると仰りたいのですか」  尋ねると、誠治は少し迷ってから、言った。 「ほんの少し」  ラシャが誠治から自分は『動物を診る』治療師だと言う話を聞いた時には、おかしな生業もあるものだと思っただけだった。  だが、彼はきっと腕のいい治療師なのだろう。そう思わせる何かが、彼の声に滲んでいた。 「動物は、自ら進んで病院にやって来たりしないんだ。人間が不調に気付いた時に、はじめて獣医師の出番が来る。後からできることを精一杯やるけど、時には……遅すぎることもある」  誠治がもう一度、今度はさっきよりもしっかりと、ラシャの背中に触れた。 「この傷、僕が治してあげられたらよかった」  誠治の手の温もりが背中に染みこむ。ラシャは、その温度を心地よいと思ってしまう前に、ため息をついて言った。 「昔の話です」  誠治はそれ以上ラシャを『観察』したいとは言わなかった。ラシャが服を着直していると、しばらく物思いに(ふけ)っていた誠治が言った。 「聞いてもいいかな……どうして奴隷になったのか」  奴隷に面と向かってこういう質問をする人間は珍しい。ラシャは少し考えてから、簡潔に言った。 「獣狩りの一団が故郷にやって来て、わたしや一族の者を捕らえました」  平和な暮らしを営んでいた竜たちの元に、ある日いきなりやって来た災厄。それが人間の狩人たちだった。  ──この(ケダモノ)めが……!  狩人のひとりが、そう叫んだのを覚えている。その時はじめて、ラシャは自分が(ケダモノ)なのだと──人間から蔑まれる存在なのだと知った。  誠治は話の続きを待っている顔で、ラシャをじっと見つめている。ラシャは観念して、説明を付け加えた。 「希少種の獣人は価値が高いので、昔から容赦なく人に狩られてきました。わたしは最後に残った群れの一員でしたが、生き延びたのはわたし一人でした」 「じゃあ君は、最後の竜ってこと?」 「ええ」とラシャは頷いた。  誠治の目に強い悲しみが過るのが見えて、ラシャは視線を逸らした。  同情を求めたわけではない。ただ、竜人の主を装うなら知っておくべきだと思っただけだ。こうも心痛を露わにされては話を先に進めづらくなる。 「先ほども言いましたが、昔のことです。あなたが心を煩わせるまでもありません」  ラシャが言うと、誠治は何か言いたげに口を開いた。だが、結局は諦め、黙って頷いた。 「捕らえられた獣は、獣の姿を奪われる代わりに人の姿を与えられ、獣人になります」 「奪われる? じゃあ、君たちは自由に元の姿に戻れないのか」  ラシャは頷いた。 「個々の素質によって半獣までは姿を変えられますが、完全な獣には戻れません。獣としての姿は瓶の中に封じ込められ、奴隷管理庁で保管されます」 「なるほど……」  治療師という生業をしていただけあって、誠治は頭の回転が速い。 「他にお知りになりたいことは?」 「君は……獣闘士だと言ってたけど、奴隷はみんな戦わされるのか?」  いいえ、とラシャは首を横に振った。 「奴隷の中でも戦う素質を持つ者だけが、獣闘士として闘技大会に出場します」  ラシャも、早くからその素質を見込まれていた。  ラシャを最初に買った主人は獣闘士の訓練所を経営する男だった。ラシャはそこで、他の獣人たちと共同生活を送りながら、奴隷としての振る舞いや戦い方、何より主人への恭順を、文字通り(たた)き込まれた。  いくつかの小さな試合で勝利を手にし、ちまたに名前が知られ始めた頃、新しい主人がラシャを買い取った。だが長命な竜獣人と比べて、人間の命は(はかな)い。主人が死ねば遺産の整理が行われ、ラシャの身柄も人の手に渡った。  そうして、何人かの主人の元を転々としていったラシャが最後に出会ったのが、ガイウスだった。  獣闘士としてさまざまな家名の元に勝利を収めてきたラシャだったが、心からそれを望んだことは一度たりともなかった。  だが、ガイウスはそれまでの主人とは違った。  彼だけが、ラシャをケダモノではなく、一人の男として扱ってくれた。彼だけがラシャに思いやりを示し、庇護(ひご)下においてくれた。彼だけが、ラシャに文字を教え、仕事を教え、誇りを教えてくれた。  だから、ラシャはガイウスのためにだけは、自ら闘技場での戦いに身を投じ、そのたびに勝利を掴んできた。 「獣闘士として名を上げれば主人の家名を高めることになります。賞金を得れば、自由を買い戻す近道にもなります」  誠治は表情を明るくした。 「じゃあ、君もいつかは自由になるんだな」  この男は、自分とは全く無関係なはずの奴隷の処遇にまで、なぜこうもこだわるのだろうと思いながら、ラシャは頷いた。 「ええ」  誠治はホッとしたように表情を緩める。 「それなら──」 「ただし、自由になった獣人奴隷は、獣の姿を取り戻す代わりに人間の姿を失います。人間と同じ暮らしに慣れた奴隷にとっては、それも酷な話です」  すると、誠治はまた眉を顰める。 「人間の姿のままでは自由になれない?」 「不可能ではありませんが、人間の姿を買い取るためには、莫大(ばくだい)な金が必要です。平均的な寿命の獣人には、一生働いても稼げる額ではありません。そんな大金を奴隷のために支払う主人も……普通はいません」  誠治は、沈んだ声で言った。 「人の姿を失うのが嫌なら、死ぬまで奴隷で居続けるしかないのか……」 「その通りです」  ラシャは頷いて、先を続けた。 「しかし、ガイウス様は元老議員として、そうした制度を是正しようとなさっておいででした。自由になった奴隷が人間の姿を持ち続けられるような法案の成立を目指してこられたのです」  誠治の目に、微かな光が戻ってくる。彼は感心したように言った。 「なるほど……君がご主人様のことを尊敬している理由がわかったよ」  主人の顔をした男が、主人の声で、そんな風に話すのを聞くと、胸が痛む。  ラシャはただ「偉大な方でした」と返すに留めた。  もっとも、イヴニアの本物の貴族に同じ説明をすれば、『偉大』どころか『愚か者』と罵るだろう。奴隷の(くびき)を緩める法など、百害あって一利無しというのが大多数の意見だ。  実は、ガイウスは早いうちから、ラシャに自由を与えたいと申し出てくれていた。だが、ラシャは固辞して、自らの手で自由を買い戻すことにこだわった。  晴れて解放奴隷となれば、主人の姓を賜り、その庇護下に入ることを選択できる。だからなおさら、主人の慈悲に縋るのではなく、自分自身の手で成し遂げたかった。 「わたしは多くの闘技大会に出場しました。全戦全勝というわけではありませんでしたが……それでも、それなりの戦績は残してきました」  自分でも『それなり』は謙遜だと思う。  獣闘士の中でも、人間の姿のまま自由になる権利を買い戻せるだけの賞金を貯めた奴隷は、数えるほどしかいない。だが、ラシャはそれを成し遂げた数少ない者の一人だ。  これでまた、主の役に立つことができる──そう思っていた矢先に、ガイウスが殺されたのだ。  ガイウスを蘇生させるため、貯めた金は全て、秘術師に支払った。  そして、主人の代わりにこの、異世界から来た男が蘇った。  だが、後悔はしていない。どんな結果になろうとも、なすべきことをなすのみだ。  ラシャは小さくため息をついた。 「あなたの協力には感謝していますが、ガイウス様の身体に間借りしている以上は、彼の評判を落とさないように努めていただかねばなりません」  誠治に告げると、彼は思い出したように表情を繕った。すると、いかにもガイウスらしい、少し近寄りがたい高貴な表情が蘇る。  ラシャは懐古の情を振り切り、これからの二人を待ち受ける問題に意識を向けた。 「夏になれば、また闘技大会が開催されるでしょう。わたしの主として他人と顔を合わせる機会も増えます。その時までに、あなたをなんとか形にしなくては」  誠治は真剣な顔で頷き、「はい」と口にしかけてから「わかった」と言い直した。 「ちゃんとなりきれるように、がんばるよ」  二百年間他人に仕えていたから、従順な奴隷としての振る舞いは染みついている。世辞や追従など、息をするのと同じくらい容易く口から取り出せる。  だが……。  ラシャは声色を和らげて言った。 「あなたなら、きっとやり遂げられます」  この言葉だけは、あながち嘘というわけでもなかった。  それが伝わったのだろうか。不意に、誠治の背筋が、すっと伸びた。 「君の……君たちのことについて、もっと教えて欲しい。この世界のことも」  ラシャが見つめると、彼の表情に、これまでにはなかった何かが宿っているのが見えた。  獣を診る医者が獣に向ける好奇心よりも、もっと真摯で、重い感情。  それは『決意』だったのかもしれない。あるいは『使命感』だったのかもしれない。いずれにせよ、不運に巻き込まれただけの男の中に見出すとは思っても見なかったものだ。  誠治はラシャに「君のことを、もっと知りたい」と言った。  だがラシャにしてみれば、誠治の方こそ興味深い。  この男を、単なる囮にするのは惜しい──そう思いかけてから、慌てて否定する。  父とも慕っていた(あるじ)の復讐を果たすため、必要とあればどんなものでも犠牲にすると、そう決めたはずだ。  今さら、他人に心を動かされている場合ではない。  ラシャは小さくため息をついて、言った。 「わたしのことも、この世界のことも、これから少しずつお伝えしていきます」  誠治は神妙な面持ちで頷いた。 「うん。よろしくお願いしま──いや、よろしく頼む」  ラシャの窘めるような視線に、誠治が慌てて言い直す。その様子が可笑しくて、ラシャは我知らず、口角を緩めてしまった。 「お任せください。ご主人様」

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