6 / 20

第1章_消えた神の子_第5話_ハジノリ

「おかえり、野本。全然遅くないよ、休みだったのに大変だったね」  蒼は、ミチがカウンターの中から手渡すタオルを受け取ると野本の方へと歩み寄り、それを咲人の手にそっと握らせた。雨は降っているが風は吹いていなかったのだろうか、野本の胸元だけは乾いているようで、咲人はそこに顔を埋めたまま鼻を啜っている。  直接ものを見ずとも、近づく香りから手に収められたものが何であるかを理解したようで、俺たちに背を向けたまま黙って野本のスーツを拭き始めた。野本はそんな咲人に困惑しながらも、その感情を共有するようにと手を握る。そうする事で、彼が愛してやまない夫の心についた傷を埋めていった。  じっと動かないままでも、少しずつケアが始まる。  咲人の中に見えていた暗く濃いグレーのもやは薄れ始め、次第に橙色の光が揺らめき始めた。自身の口から出た言葉の棘に毒された心は、小さな傷をいくつか作り、そこからエネルギーがこぼれ落ちてしまっている。  その部分が周りよりも暗くグレーに見えるのだが、野本のさりげないケアによりその全てはゆっくりと癒されていった。 「いえ、こちらこそ急な話にお時間をいただきまして、ありがとうございます。……あの、咲人はどうしたんでしょうか。悲しいのは分かるんですけれど、結構心が乱れてるみたいで……」  野本は敢えて咲人の心を読まず、俺たちにそう尋ねて来た。  必要以上に心を読む事は、あまり推奨されるものじゃない。親しき仲にも礼儀あり。ボンディング済みであれば、本来それは簡単に出来る事だが、彼はとても人を大切にする男なので、その辺りをきちんとわきまえている。  普段ならば、きっと咲人が話せるようになるまで待つのだろう。でも、今みたいに精神感応(テレパス)でも話せないほど心が乱れているのなら、それにはかなりの時間が必要だ。  しかし、これは一応仕事上の集まりだ。話を進めるためにも、このままにしておくわけにもいかない。そう判断して、仕方なく俺たちに尋ねるしかないという顔をしている。  こういう時なら、無理に心を読んでもいいはずなのに、どこまでも優しい男だ。 「今までお前の昔の話を聞いてたんだ。話してる間にちょっと辛くなったんじゃねえかな。必死に強がってたけど、それが極まったタイミングでちょうどお前の顔を見てしまったから、もう堪えきれなくなったんだろう」  野本はそれを聞いて眉根を寄せた。自分の事が咲人を悲しませている。その事が気に入らないのだろう。そして、彼を泣かせるほどのことが自分の過去にあっただろうかと考え込んでいる。  あまりに忍耐に慣れてしまっているのか、野本家での酷い扱いすらなかなか思い出せないのだろう。その理由に行き着くまでの時間は、驚くほどに長かった。 「昔の話……。ああ、父の話ですかね」  まるで他人事のようにそう言った彼は、父と口に出しては見たものの、その言葉を使うことにひどく不慣れな感じがした。おれには、その響きが悲しく聞こえた。おそらく咲人もそうなのだろう。繋いでいる方の手に力を込めて、想いをそこに託しているように見えた。 「うん、そう。野本ってそういうのあんまり表に出さないから、俺たち何も知らなくてね。みんなびっくりしちゃった。色々大変だったんだな、お前も。もしかしたらこれまで色々と配慮不足があったかもしれないね。ごめんね」  蒼の言葉に、野本は 「いえ、私が話さないようにしていたのですから。どうか、お気遣いなく」  と言って、また俺たちの心が自然と解けてしまうような笑顔を見せた。  パートナーでなくとも頼りにしたくなるほどに、この男の懐は深い。許されて、甘えさせてもらえるような気持ちになる。  俺たちの方が能力や社会的地位では上だけれど、年齢も社会経験も包容力でも、俺が野本に勝てるものは無いのだと、こういう時にいつも気付かされる。 「咲人、あまり皆さんをお待たせするのも悪いから……。な、あまり遅くならないようにしよう。今は現場が立て込んでるから、皆疲れやすくなってるだろう? しばらく俺にもたれかかってていいから、ね? ゆっくり落ち着いてくれたらいいから。ほら、座って」  そう言って小さな子供を宥めるような野本の視線は、それとは対照的に、相手から愛されている実感を得て、じわりと熱を帯びていた。 ◇ 「義母の英子がこの件を大事にしないでほしいと言ったのは、漱が自分の意思で出て行ったかもしれないからだそうです。成人が自分の意思で出て行ったのなら、事件として扱われるには情報が不足し過ぎているんです。あまり騒いでしまったら後で漱自身が恥をかくかもしれないから、出来れば騒ぎ立てずに探したいのだと言っていました」  英子さんが言うには、漱は時折ふらっといなくなることがあったそうだ。双子の兄である祈里が家を出て以来、寂しくなると外泊をすることが増えたのだという。特に最近はそれが増えていたのだが、もう大学生なのだからとあまり構わずにいたらしい。  それでも、あまりに家の中で顔を見なくなったため、息子の崇に漱はどうしているのかと訊いてみると、なんともう一年ほど家に戻っていないと言われたのだそうだ。  離れに住んでいる彼女には、母屋に住む崇の家族の生活ぶりはあまり伝わってこない。息子が我が子を蔑ろにしている事は分かっていたけれど、これほどまでとは思わなかったそうで、不安になり野本に相談したようだ。 「行方不明であることに間違いはないんだろう? それも一年間も。それでも、警察には言わないのか? そんな状態で平然とされてしまうほどに素行の悪い子なのか、その漱って子は」  真面目で頭の堅い田崎には、一年も行方のわからない状態の子供がいる事も、それに疑問を持たない親も理解に苦しむらしい。呆れた表情を見せ、首を振りながらジョッキを煽っている。 「どうでしょう。私は会ったことがありませんのでなんとも言えないのですが、義母の話を聞く限りでは、真面目で愛想も良く、ひたすらに農業を愛する子だという印象を受けました。花も大好きで、今野本の家の周りにはセージの花が咲いているんですが、それは漱が植えたものだそうです」 「……お前にもその匂いがついてるよな。少し甘くて、なんて言うか、妖艶な香り? 言葉で表現するのって難しいな、でも良くある香りだと思うんだけど……」  野本のジャケットに鼻を近づけながら俺がそう言うと、咲人も同じようにすんすんと鼻を鳴らす。そして、何度か頷いた。 「私はこれ、都会の女! って感じがする」  その俺たちの間に首を突っ込み、ミチが野本の分のビールを出しながらそう言う。それに、俺と咲人は 「ああ、そういえばこれ、お前の匂いに近いな。ふーん……都会の女、ねえ」  と呟き、顔を見合わせた。そして、揶揄うような視線をミチに向ける。どうやらミチにとって、この香りは憧れの象徴らしい。それを見抜かれたからか、彼女の顔が見る間に赤く染まっていった。 「あ、ね、ねえ、そうだ! 野本姓のガイドの話を聞きたいんでしょ? それなら、祈里っていう子がダンサーでうちの系列店に出入りしてるよ。その子って関係あるのかな?」  ミチが照れを隠すために口走ったその情報が、俺たちの笑顔を一瞬で消した。 「祈里がブンジャガに?」  驚く野本の顔を見て、ミチも驚いている。野本にしては、珍しく直情的な顔をしていた。 「あ、ええと、違う違う。ここじゃないの。ビムって言って、地上一階と地下一階に分かれてるクラブがあるんだけど、そっちに良く出てるの。黒い巻き毛に褐色の肌で、即興のアフリカンミュージックで踊る、即興のダンサー。すっごくキレイな顔立ちで衣装も素敵な子だよ。ダンスも見てるとドキドキしたり、逆にスーって落ち着いたりする不思議な魅力があるのよ! やっぱり何か関係あるのかな。結構若いのよ、祈里くん」 「……そりゃ兄貴の可能性が高いな。野本祈里って名前でガイドでダンサー。そういないだろう」  思いがけず漱を知っている者に出会えるかもしれないと思い、俺たちは思わずミチの手を握った。野本はポケットからスマホを取り出すと、漱の写真をミチに見せる。 「……年齢は二十歳です。見た目については、この写真しか手に入りませんでしたから、正直今の顔と比べるには情報が足りないかもしれません。俺も会ったことがないので、詳しい事は……」  そう言って彼が見せる画面には、小学生くらいの男の子が二人、楽しげに笑い合う様子が映されていた。真っ白な肌にピンク色の頬、そして、お揃いのサラサラの銀髪マッシュルームヘア。お互いを大好きだと言わんばかりの笑顔を向け合い、手を握り合っている。  まるでコピーのようにそっくりな二人だが、一人の右目が僅かに色味が違う事に俺は気づいた。僅かな色味の差だが、これもオッドアイの一種だろうか。 「きゃあ、かわいいっ! そう、こんな風に真っ黒な巻き毛で褐色肌の子だよ! あー、どっちかが祈里くんだと思うよ。この二人の顔、面影があるもん! ……んーと、あの子の目はどっちも同じ色だから、こっちの子がそうなのかな。ほんっとうにお人形さんみたいだねー」  カワイイと騒ぐミチを尻目に、俺たちはその写真を確認した。野本はすぐにそれを共有する。 「オッドアイだなんて分かりやすい事を、義母はなぜ教えなかったんでしょうか」  そう呟くと、悲しげに目を伏せた。孫の行方不明を隠そうとしたり、分かりやすいはずの情報を隠したり。今回の英子さんのする事には、少なからず何かを隠そうとしている意図が見える。それが辛いのだろう、野本の表情が僅かに曇る。  その肩を、田崎がポンと軽快に叩いた。 「まだ何も分かってない状態だ。無駄に神経すり減らすな、野本。それより、ミチ。ビムの出演者って事は、連絡先もわかるだろう? 可能ならここに呼んでくれないか? 弟が行方不明って言ったら、心配で来てくれるだろう?」 「あ、うん。そうだね、分かった! すぐ呼ぶね」  そう言って連絡を取ろうとするミチを、蒼が止めに入る。 「待って。連絡して来てくれるって言うなら、俺が迎えに行くよ。彼、夜道を歩くの危険でしょ?」  それを聞いて、それもそうだなと俺も思った。  野本祈里はダンサーとして知られている。そして、彼が持つ特殊なガイディング能力については、今や世界中が注目しているのだ。だから俺も彼を知っていた。 「誰にも触れずにガイディングする、ガイドのレアタイプだよな。確かに、誘拐の危険があるのは兄も同じだ。あの子を攫って研究したい輩は居るだろう。迎えに行く必要があるな。でも、蒼。お前酒飲んだだろう? 運転出来ないじゃないか」 「あ、そうだった。もう帰るだけだと思ってたから……タクシー回す?」 「いや、鉄平に頼もう。あいつは現場が続くと翔平の疲労を回復させるために、自分は飲まずに運転するだろう? 今日も飲まねーと思うんだ。ミチ、先に鉄平と翔平(てっしょー)に連絡入れてくれ。その後に野本祈里に連絡頼む」  俺の声に、ミチは 「はあーい、承知いたしましたあー」  と答えた。その間の抜けた声に、田崎が苦笑する。 「普段は全く敬語使わないくせに、翠に頼まれると事務所にいるような態度になるんだな。いい事だ」 「そうだね。しっかり頑張って働いてくれてるもんね。少しずつ変わってくれて嬉しいよ」  優しい顔でそう言う二人は、まるで更生していくミチを見守る親のようだ。実親に見捨てられ、孤独に喘いでいたミチを救った田崎にとって、彼女は誰よりも特別な存在だ。こうして前向きに生活してくれている姿を見ることで、なんとも言えない気持ちになるのだと言う。  ミュートが能力の開花を夢見て巻き起こった、偽のセンチネルを作り上げるsE(シー)という薬物による騒動。その加害側の人物であった彼女は、解毒のために一度だけ田崎に抱かれている。偽物のセンチネルになったミュートは、イプシロンという解毒薬を飲んだミュートに抱かれることでしかケアが出来なかったのだ。  つまり、田崎はミチの命の恩人だ。それ以来ミチは田崎を慕っている。そして、田崎とともに生きる全ての人を大事にしている。俺たちのためなら、何でもしてくれるようになっていた。 「また能力の有無や、その強弱で振り回されるような事件じゃないといいけどな」  そう呟いた田崎に、ミチの笑顔が重なる。出来ればそういう問題でなければいいなと思い、皆が静かに頷いた。

ともだちにシェアしよう!