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第1章_消えた神の子_第6話_神の子、野本漱
「お、着いたみたいだぞ」
雨が止み数時間ほど経った店の裏の駐車場に、四人分の足音が聞こえ始める。水気を含んだ砂がアスファルトの上を擦る音が聞こえ始めた。それとともに聞こえる二人分の靴音は、聞き覚えのある鉄平と翔平 の革靴のものだ。
残りの二人分は俺が知らない人物のもの。一つは、ヒールの高いブーツを履いて軽快に足を運ぶ小柄な男性のもの、もう一つは、足を引き摺るようにして歩く癖があるのか、砂を引き摺ってアスファルトと靴底のラバーが少しずつ摩耗していく、気だるそうな響きを持つものだった。こちらは、おそらく背の高い鉄平よりも大柄な男性のものだろう。歩幅が大きく、リズムもゆったりとしている。
「……ミチ、祈里にはパートナーがいるのか? 足音が四人分聞こえるぞ」
俺が尋ねると、カウンターでスマホを見ていたミチがぱっと顔を上げる。そして、何度も頷いた。
「うん、いるよ。確か恋人とボンドしてて、今は同棲してるんじゃなかったかな」
それなら、引き摺るような足音の方はその恋人のものだろう。そう思っていると、他の足音に近づこうとしているのか、バタバタと走り寄る革靴の音が、もう一つ追加された。
その足音は、やや遠くからやってくる。近づいてくる呼吸の音には、鬼気迫るものがあった。その音がやたらと耳につく。
『肇 ! 待って!』
その音の持ち主は、四人のうちの誰かを呼び止める。肇というのが名前であれば、それは祈里の恋人に違いない。他の三人はすでに氏名が分かっている。不明なのは、祈里の恋人だけだからだ。そう思っていると、鉄平と翔平 の足音とヒールの音だけは止まらず、引き摺るような足音だけが止まった。
『……誰?』
肇と呼ばれた男は寝ぼけているのか、自分を追いかけて来たであろう人物に、ぼんやりとした声でそう応えた。その声には、悪意の類は一切含まれていない。本当に相手に思い当たる人物がいないらしく、困惑しているようだった。
しかし、どうやらその相手は、肇のその態度に傷ついたらしい。自分を忘れて欲しく無かったのだろう、途端に彼が纏う空気が変化していく。壁越しにも伝わって来るほどに、禍々しいモノが俺の肌に触れるようになった。
「……痴話喧嘩になりそうだな」
咲人がグラスを傾けながら、呆れたような表情でそう呟く。こいつも壁越しの会話を聞いていたのだろう。二人で視線を合わせて苦笑いをした。
『誰って……。え、嘘でしょ? やだ、もしかして俺のこと忘れたの?』
その言葉を聞いて、肇が何かに思い当たるように息を呑んだ。
『あ、もしかして、昔の……』
その声は、明らかに困惑の音を含んでいる。それから判断するに、おそらくこの揉め事は色恋沙汰だ。しかも、肇には相手の記憶すら無いらしい。付き合っていた相手を記憶していないなんて、俺には想像もつかないことだ。相当な遊び人だったのだろう。
祈里の恋人が遊び人なのかと思うと、義兄である野本はそれをどう思うのだろうか。まだ野本にはあの会話は聞こえていない。俺たちの目の前であいつがそれを知り、心を乱されていくのであれば、出来ればそれを見たくはない。
「なあ、ミチ。野本祈里の恋人は遊び人なのか? 誰か追っかけて来てるぞ」
俺が笑いながらそう言うと、ミチは困ったように眉を下げる。
「ああ、そうなのよ。結構遊んでた。彼、この辺じゃちょっと有名だったのよね。見た目は誠実そうな王子様っぽい人なんだけど、ミュートの子を取っ替え引っ替えしてたらしいわ。一度関わった人からは、高月肇はろくでなしだってよく言われてるよ」
そう言って眉根を寄せる。
「鉄平と翔平 がいるから俺たちが行く必要は無いだろうけれど、もし騒ぎになるようなら、悪いがお前に任せてもいいか?」
元々があまり褒められたような店では無かったとあって、ここはあまり治安が良くない。長時間店の外で揉めていると、それを面白がった輩が湧いてくる可能性がある。
そうなると、どうしても力で解決しなくてはならなくなるだろう。社長としては、それは未然に防ぎたい。無駄な騒ぎに巻き込まれてしまうことで、大事な社員の疲労回復を遅らせてはならない。
明日以降の俺たちは、現場が今日よりも立て込んでいる。センチネルには、ケアをする時間が必要だ。力を安定して使うためには、良質な食事と睡眠、それにパートナーにしてもらう『ケア』の時間が何よりも効果を発揮する。それは、どんな薬物療法よりも深い回復を得られるものだ。
俺は部下たちにその時間を与える義務がある。ミチはその点を良く分かってくれている。
「はいはい、了解。私に出来る事なら、何でも任せてねー」
彼女はそう言うと、跳ねるように外へと向かう。役に立てる仕事をもらった勤勉なミュートは、喜びに顔を綻ばせながら駐車場の方へと向かってくれた。
◇
「お待たせしましたあ。はいはい、お二人さんはそこのテーブル席に座ってね。ほら、あの長髪のお兄さんたちがいるところ」
ミチは鉄平と翔平 とともに祈里と肇を連れて戻ってくると、またすぐに外へと向かった。おそらくさっき肇を訪ねてきた男の話を聞いてあげるのだろう。どこまでも人の良いヤツだ。
「ミチは優しいねえ」
蒼もそう言ってふわりと笑う。田崎はまた親の顔をしてニヤけていた。
「すみません、遅くなりました。あの二人の家からこちらに来るまでに渋滞に引っかかりまして……」
全員が座ると、鉄平がそう言って会釈をする。一方翔平は、カウンターに入って自分たちの飲み物を用意し始めていた。
翔平とミチは仲が良く、彼は時折ブンジャガの手伝いをしに来ている。勝手知ったる我が家のように店内を動き回り、全員が飲むものをあっという間に用意してくれていた。そして、大きなテーブルの端に鉄平と並んで座り、いつでも動けるようにしている。
確かに年齢で言えば彼は下っ端ではあるものの、社内では俺に次ぐレベルのセンチネルであり、地位はそれなりに高い。それでも染みついたおもてなしの性質がそうさせるのだろうか、飲み会の時はいつも忙しなく動き回ってくれている。
一方の鉄平も、今やガイドとしては蒼に次ぐレベルにまで到達していた。そうでないと翔平を守ることが出来ないからだ。普段は二人で現場に出ているものの、今の彼は時に事務所で他のセンチネルに軽微なケアを施す余裕さえ出て来ている。入社した時の初々しさはどこへやら、いつの間にか頼り甲斐のあるガイドへと成長していた。
「皆さん、こちらが野本祈里くんです。そして、隣のイケメンは高月肇くんです。さっきの騒ぎは、高月くんが昔ヤンチャだった頃の遊び相手だったそうです」
「え、ちょ、ちょっと。……いえ、なんかすみません。あの、俺はついて来ただけなのに……。お騒がせしてしまいました」
高月肇という男は、そう言うと立ち上がって丁寧に頭を下げた。その姿からは、腹黒いという評判は全く透けて見えない。俺の目にも、俺たちを騙してやろうという思惑があるようには見えなかった。もしそれがあるのであれば、彼の目の周りが熱を帯び、それが真っ赤な帯のように見えるだろう。彼にはそれが見えない。
「ああ、そうか。あのですね、この人たちには壁一枚向こうぐらいしか離れて無いところで起きてる事は、どれだけ隠しても無駄なんですよ。全部聞こえてますからね」
「えっ? あ、そうか、レベルが高いとこれくらいの壁なんて関係ないんでしたっけ」
そう言って驚く肇の背後に、不機嫌な声が飛んでくる。
「ちょっと肇ちゃん、人にトラブル解決してもらっておいて、壁が薄いなんて悪口やめてくれる? しかもあの人たちはここのオーナー企業の人たちよ。ひいてはあの人たちへの悪口でもあるんだからね」
肇に振られたと言って外で泣いている男を慰めているミチが、その元凶がこぼした失言を諌めるために頭を叩く。祈里はそれを隣で聞きながら穏やかに笑っていた。どうやらこういった騒ぎにも慣れているらしい。
「はい、じゃあみんな座りましょう。紹介はしてもらったんですよね? じゃあ、もうさっさと祈里くんの弟さんの話をしましょう」
ミチがそう言うと、全員が頷く。そこへ野本がすっと手を挙げた。そして、
「あの、その前に……。私のことを祈里に知らせておきましょう。知ってもらわなければ、話がしにくいですから」
と言った。
その手は震えてはいなかったけれど、いつも真っ直ぐ前を向いている視線が、今は珍しく下に落ちている。何かを恐れているようなその姿に、野本にとって祈里とは一体どういう存在なのだろうかという疑問が湧いた。
自分の存在を認めてくれない父親が溺愛しているという、野本家の正式な後取り。その姿を見ていては、平静ではいられないのだろう。明らかな動揺が見て取れる。
そんな野本を見て、祈里も思うところがあるのだろうか。じっと彼の姿を見つめると、怪訝そうな顔をして首を傾げている。
「どうかした、祈里」
肇がそう尋ねると、祈里は考え込む。考えていることは、大体想像がついている。彼がそれに答えを出すのを待っていても仕方がないと思い、俺が口火を切ることにした。
「野本祈里くん、あの俯いている大男はね、君の叔父さんだよ。野本英子さんの養子の慎弥だ。そして、血縁では君の義兄にあたるんだ。君の父、野本家当主の崇さんの息子だよ」
俺は失礼を承知で、野本本人よりも先に複雑な彼の出生を彼に明かした。そのことで時間をとっているわけにはいかないと思ったからだ。野本もそれを分かってくれているのだろう。嫌そうな表情ひとつ見せず、いや、その感情すら抱かず、俺の話を聞いてくれている。
「あの、僕も確かに叔父さんがいるって聞いたことがあります。それに、言われなくても本当は兄なんだろうなってすぐ分かりますよ。だって……。若い頃の父にそっくりなんです。写真で見た昔の父にすごく良く似ています。上手く言えないですけれど、他所から貰われてきた養子というには無理があります。それくらい似てます」
そう言って、ぱっと花が咲くような笑顔を見せた。
彼はどうやら野本の存在を好意的に受け止めているようだ。困惑する野本の姿を見ても、変わらずにこにこと笑顔を向けている。そして、その表情には嘘がない。どこにも暗いもやは見えていなかった。
「俺の存在を知っていたんですか?」
驚く野本の方は、どうしても他人行儀にしか話せない。それでも、祈里は輝くような笑顔を彼に向け続けている。精神が強いのだろう。多少の事では動揺しないようだ。
「はい。聞いていたのはお祖母様からですけれど、いつか会いたいと思ってました。だから会えて嬉しいです。……慎弥兄さん」
祈里は真っ直ぐに野本を見つめると、そう言って照れくさそうにはにかんだ。
彼が野本に会いたかったのは、英子さんが彼を褒め続けていたからだそうだ。普段厳しい英子さんが褒めるような人が兄にいるのだと思うと、どうしても会ってみたくなったのだという。そして、野本が咲人という最愛のパートナーと出会い結婚をしたという話も、英子さんから聞いていた。能力者同士の夫夫という同じ状況になった義兄に、色々と訊いてみたかったのだそうだ。
「そうか、それならゆっくり話すといい。でもな、悪いんだけど今日はその話は出来ない。お前の弟の漱 が誘拐されたのは聞いただろう? その弟を探すにあたって、教えて欲しいことがあるんだ。協力してくれるか?」
すると、祈里は突然すっと表情を無くした。あまりに突然の大きな変化に、俺たちは驚いて言葉を失う。
「あの、僕が知っていることは全てお伝えしようと思います。でも、俺も漱とは四年くらい会っていません。だから、あまりお役に立てるかどうかは分かりませんが……」
そういうと、ダンサーとして働く自分の事、肇との関係、高校入学と同時に家を追い出され、漱には会っていないという話を聞かせてくれた。
その中で、全員が聞き逃せなかった話があった。それは、漱が野本家で任されているという仕事の内容だ。
「漱はミュートなんですけれど、村に必要なセンチネルの手配をしていました。そのセンチネルが村を救うので、センチネルは神と呼ばれ、その神を連れてくる子供という意味で、漱自身は『神の子』と呼ばれていたんです」
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